『魔法使いの嫁 × ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 ――魔法使いと魔術師、その隣人たち――』 作:丹波りん
「……おや?」
不意に聞こえた声に、智世は顔を上げた。
視界の先に、三人の姿がある。
黒い長髪に眼鏡を掛けた男。その隣には、淡い金髪の少女。
そして、少し離れたところには灰色の髪をした少女が立っていた。
三人とも、こちらを見ている。
当然なのだろう。彼らからすれば、
自分たちのいる部屋へ、見知らぬ少女と黒い犬が突然現れたのだから。
智世自身も、目の前にいる三人が誰なのか分からない。
先ほどまで歩いていたのは、いつもの帰り道だった。
そこから先の記憶が途切れ、気づいた時には見知らぬ部屋の中にいる。
状況を理解しようとする間にも、淡い金髪の少女が智世を興味深そうに眺めていた。
「これはまた……随分と風変わりな登場だね」
「ライネス」
男が静かに制する。
「何だい、兄上。事実だろう?」
ライネスと呼ばれた少女は、悪びれた様子もなく微笑んだ。
その声に含まれた余裕とは対照的に、灰色の髪の少女は一歩前へ出る。
「……動かないでください」
静かな声とともに、その手にある武器が智世へ向けられた。
反射的に、智世の身体が強張る。
見たことのない形をしている。それでも、それが普通の武器ではないことだけは分かった。
魔力を感じるというより、もっと別のところへ働きかけるような気配がある。
その瞬間、足元にいたルツが立ち上がった。
黒い毛並みが智世の前を覆う。
赤い瞳は灰色の髪の少女――グレイから離れない。
低い唸りが、静かな室内へ広がった。
「ルツ、待って」
智世がすぐに声を掛ける。
『しかし』
「大丈夫だから」
短い言葉だったが、ルツにはそれで十分だったらしい。
しばらくグレイを見据えたまま動かなかったものの、やがて小さく息を吐く。
『……分かった』
唸り声が消えた。
それでも、智世の前から退こうとはしない。
警戒を解いたわけではなく、何かあればすぐに動けるようにしているのだろう。
グレイもまた、そんなルツの様子をじっと見ていた。
互いに相手の出方を窺うような沈黙が、ほんのわずか続く。
その緊張に反応したのか、部屋の一角にいた銀色の髪と衣装を纏った礼装
――トリムマウが静かに動いた。
主人であるライネスを庇う位置へ回り込む。
誰も攻撃を仕掛けてはいない。
けれど、一触即発という言葉が似合う空気だった。
その様子を、黒髪の男は黙って見ている。
眼鏡の奥の目が、少女と犬を交互に捉えていた。
特に、犬から視線を外さない。
犬の姿をしている。
しかし、普通の動物ではないことは明らかだった。
人間の言葉を理解し、状況を判断し、少女の指示に従っている。
しかも、その少女を守るためなら迷いなく前へ出るだけの意志まで備えている。
男はわずかに目を細めた。
「……君の使い魔か?」
智世はルツの背中越しに男を見る。
「はい。ルツです」
「そうか」
男はそれ以上、その犬を追及しなかった。
まずは目の前の少女が何者なのか。
そして、何故ここにいるのか。
確認すべきことはそちらだ。
「君は怪我をしていないか?」
「え?」
唐突な問いに、智世は自分の身体へ目を落とした。
肩に触れる。腕を動かす。足元も確かめる。
痛みはない。
服にも目立った傷は見当たらなかった。
「……はい。大丈夫です」
「そうか」
男が短く頷く。
その一言に、智世は少しだけ肩の力を抜いた。
敵意を向けられているわけではない。
少なくとも、今のところは。
「ここは……どこなんですか?」
智世が尋ねると、淡い金髪の少女が先に答えた。
「それはこちらも知りたいところだね」
「ライネス」
「分かっているとも、兄上」
ライネスは楽しげに笑う。
男――兄上と呼ばれた人物は、小さく息を吐いた。
その間に、トリムマウが扉のそばから戻ってくる。
「周囲に異常は確認されませんでした」
「誰かが近づいている様子は?」
「ありません」
ライネスが答えを引き取る。
「防音も済ませてあるよ」
「ならいい」
男はそれだけ確認すると、ようやく椅子へ目を向けた。
「ここで話を続けるより、座った方がいいだろう。君も落ち着かないはずだ」
「あ……はい」
智世は促されるまま椅子へ腰を下ろした。
ルツもすぐ隣へ伏せる。
グレイは少し離れた位置を保ったままだった。
武器を完全に収めることはないものの、先ほどほどの緊張は感じられない。
男も向かいの椅子へ腰を下ろした。
部屋を見回せば、机の上には書類や本が積まれ、
壁際にもいくつもの本が並んでいる。窓の外には、見慣れない街の灯りが見えた。
智世はそこで初めて、自分が本当に知らない場所へ来てしまったのだという実感を覚えた。
男が口を開く。
「改めて自己紹介をしよう。私はロード・エルメロイⅡ世だ」
「羽鳥智世です」
智世も姿勢を正し、頭を下げる。
「拙はグレイといいます」
「私はライネス・エルメロイ・アーチゾルテだ」
「よろしくお願いします」
智世は二人にも頭を下げた。
簡単な挨拶が済むと、Ⅱ世はすぐに話を本題へ戻した。
「では、智世。君はここへ来る直前まで、何をしていた?」
「カレッジから帰るところでした」
「カレッジ……学校か」
「はい」
Ⅱ世は一度頷いた。
「帰宅途中だったということだな」
「そうです」
「ならば、どこを通っていた?」
智世は少し考えてから答えた。
「いつも使っている裏道です」
「裏道?」
「はい。普段から通っている道で……」
言葉を探すように、智世の視線が床へ落ちる。
思い出せないわけではない。
ただ、あの時に見たものをどう説明すればいいのか分からなかった。
「その日は、少し変だったんです」
Ⅱ世の目が智世へ向く。
「何が?」
「番人たちの様子が」
「番人?」
「はい」
智世は頷いた。
「いつも、その道にいるんです。道を見ているというか…番をしている存在で」
「人間なのか?」
「……いいえ」
智世は小さく首を振った。
「人ではありません」
Ⅱ世はそれを聞き、わずかに眉を動かした。
だが、話の途中で結論を急ぐことはしない。
「続けてくれ」
「はい」
智世は記憶を辿る。
「その番人たちの様子がおかしくて、少し気になって見ていました。
そうしたら……急に周りが揺れたんです」
手のひらを膝の上で握る。
「地面が沈むみたいな感じでした。立っている場所そのものが、下へ引っ張られるような……」
そこで一度、言葉が途切れる。
あの感覚は、今思い出しても奇妙だった。
「それから、どうなった?」
「分かりません」
智世は首を振った。
「気がついたら、ここにいました」
Ⅱ世は何も言わず、しばらく智世を見ていた。
本人の話だけを聞く限り、意図的にここへ侵入したとは考えにくい。
そもそも彼女自身が、この場所を知らないように見える。
問題は、その直前にいたという裏道だ。
「その道を知っているのは、君だけか?」
「いいえ」
「他には?」
「エリアスたちも知っています」
「エリアス?」
初めて聞く名前に、Ⅱ世の視線がわずかに鋭くなる。
「君の知人か?」
「はい」
智世は頷いた。
「私に魔法を教えてくれている人です」
その一言に、Ⅱ世の表情が変わった。
「……魔法を?」
「はい」
「君自身も魔法を使うのか?」
「はい」
返事に迷いはない。
智世にとって、それは特別なことを説明しているという感覚ではなかった。
「エリアスから、私は魔法使いだと教わっています」
Ⅱ世は眼鏡の位置を指先で直した。
「君は、自分を魔法使いだと認識しているわけか」
「はい」
「その言葉の意味についても、エリアスから教わっている?」
「はい。魔法と魔術の違いも教えてもらいました」
Ⅱ世は黙り込んだ。
少なくとも、目の前の少女は「魔法」と「魔術」を同じものとして理解しているわけではない。
それならば、彼女のいう魔法使いが何を意味するのかも、いずれ確認する必要がある。
しかし、ここで言葉だけを掘り下げても仕方がない。
「その話は、改めて聞かせてもらおう」
「分かりました」
「互いの言葉が同じ意味で使われているとは限らないからな」
智世が素直に頷く。
Ⅱ世はそこで一度話を区切り、隣にいるルツへ目を向けた。
黒い身体は静かに伏せられている。
だが、その耳は周囲の会話を聞き逃していない。
「次に、君の使い魔について確認したい」
智世がルツを見る。
「ルツですか?」
「ああ。君とは契約によって繋がっているのか?」
「はい」
「君自身が契約した?」
「はい」
「いつ頃からだ?」
「もう、随分前です」
「なるほど」
Ⅱ世はルツを観察する。
契約の詳細までは分からない。
ただ、普通の使い魔ではないことだけは確かだった。
その時、ライネスが少し身を乗り出す。
「ところで、その子はどこまで話せるのかな?」
問い掛けに応じるように、ルツが顔を上げた。
『必要なことなら話す』
「……やはり喋るのか」
ライネスの目が楽しそうに細められる。
「ずいぶん珍しい使い魔だね」
興味を抑えきれないらしい。
ライネスが一歩近づく。
すると、ルツの耳がぴくりと動いた。
『不用意に近づくな』
ライネスの足が止まる。
「おや」
口元に笑みを浮かべたまま、素直に立ち止まった。
「警戒されてしまったようだ」
「ライネス、余計な刺激をするな」
Ⅱ世が言う。
「分かっているとも、兄上」
ライネスは元の位置へ戻った。
その様子を見ていたグレイが、ぽつりと口を開く。
「……とても賢いのですね」
『そうでもない』
「いえ……」
グレイは少し迷うようにルツを見た。
「智世さんのことを、とても気にかけているように見えます」
ルツは答えなかった。
代わりに、隣の智世へ視線を向ける。
その目を見て、智世は小さく微笑んだ。
「ルツは、家族みたいなものだから」
「……そうですか」
グレイの表情がわずかに和らぐ。
Ⅱ世はそんな二人を眺めながら、頭の中で情報を整理していた。
目の前の少女は、時計塔とは無関係らしい。
魔術師の家系に属しているわけでもない。
それでも魔法を学び、自分を魔法使いと認識している。
その師はエリアスという人物。
さらに、彼女の傍らには人間と変わらぬ知性を備えた使い魔がいる。
そして、その少女は意図せずしてこの場所へ現れた。
確認しなければならないことは、まだ山ほどある。
だが、今夜のうちに全てを聞き出す必要もないだろう。
智世の表情には、疲労が滲んでいる。
突然、自分の知らない場所へ放り出されたのだ。平静を保っているだけでも十分だろう。
「……ひとまず、今日はここまでにしよう」
Ⅱ世の言葉に、智世が顔を上げた。
「まだ確認したいことはある。だが、今の君に無理をさせても仕方がない」
「はい」
「帰る方法も分からないのだろう?」
「……はい」
智世は少しだけ俯いた。
Ⅱ世はその様子を見てから、静かに続ける。
「ならば、今夜はここで休んでもらう」
「ここで……?」
「そうだ。この状況で外へ出すわけにはいかない。
少なくとも、帰る方法が分かるまではな」
智世は戸惑ったようにⅡ世を見る。
「でも……」
「心配することはない。拘束するつもりはない」
Ⅱ世は一度言葉を切った。
「ただし、部屋の外へ出るのは控えてくれ。
ここがどういう場所なのか、まだ君には分からないだろう」
しばらく考えた末、智世は頷いた。
「分かりました」
「それと、君の荷物を預かる」
智世が肩に掛けていた鞄へ目を向ける。
「明日、改めて確認しよう。勝手に中身を調べるつもりはない。
必要なものがあれば、その時に言ってくれ」
「はい」
智世は鞄を外し、Ⅱ世へ差し出した。
受け取ったⅡ世は、それを机の脇へ置く。
「食事も必要だな。着替えも用意させよう」
「着替えまで……」
「突然こんな場所へ来たんだ。せめて今夜くらいは、
まともに休めるようにしておくべきだろう」
「ありがとうございます」
智世が深く頭を下げる。
Ⅱ世は少し困ったように眉を寄せた。
礼を言われるほどのことでもない。
ただ、この状況に置かれた少女を最低限困らせないようにする。それだけの話だった。
「グレイ」
「はい、師匠」
「食事と、彼女が着られるものを用意してくれるか?」
「はい。拙が用意します」
「助かる」
「いえ」
二人のやり取りを聞きながら、智世はほんの少しだけ息を吐いた。
まだ不安は消えていない。
ここがどこなのかも、どうすれば帰れるのかも分からない。
それでも、少なくとも今すぐ何か危険なことが起こるわけではなさそうだった。
しばらくして、グレイが食事と着替えを用意して戻ってきた。
料理から立ち上る湯気と温かな匂いが、静かな部屋へ広がる。
その香りを感じた途端、智世は自分が思っていた以上に空腹だったことに気づいた。
「いただきます」
小さく手を合わせ、食事へ箸を伸ばす。
一口、口に運ぶ。
温かさが身体へ染みていくようだった。
「……おいしい」
思わず漏れた声に、グレイがほっとしたような表情を浮かべる。
「よかったです」
「ありがとうございます」
智世は改めて頭を下げた。
その向かいでは、ライネスがルツへ話しかけている。
「君は何を食べるんだい?」
『普段と同じものでいい』
「それでは分からないな」
『肉だ』
「なるほど。分かりやすい」
ライネスは楽しそうに笑った。
ルツはそれ以上話を広げるつもりもないらしく、再び智世のそばへ伏せている。
グレイはそんな二人を眺め、
Ⅱ世は食事をする智世の様子を時折確認しながら、今後のことを考えていた。
会話は途切れたり、また何気なく始まったりした。
最初に部屋を満たしていた緊張は、いつの間にか薄れている。
それでも、智世の胸の奥には一つだけ消えないものがあった。
帰りたい。
その気持ちは、食事を終えても変わらなかった。
夜が深くなるにつれ、一人、また一人と部屋を出ていく。
「では、そろそろ失礼するよ」
ライネスが立ち上がる。
トリムマウもその後に続いた。
「また明日」
「はい」
智世が頭を下げる。
グレイも続いて席を立った。
「それでは、智世さん。おやすみなさい」
「おやすみなさい、グレイさん」
最後にⅡ世が扉へ向かう。
その手が取っ手に掛かったところで、ふと思い出したように振り返った。
「何かあれば、すぐに呼んでくれ」
「はい。ありがとうございます」
扉が静かに閉じる。
足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。
静まり返った部屋に残ったのは、智世とルツだけだった。
智世はベッドの端へ腰を下ろす。
窓の外へ目を向けると、夜のロンドンが見えた。
見慣れない街の灯りが、暗闇の向こうで静かに瞬いている。
今日一日の出来事を思い返す。
カレッジからの帰り道。
いつもの裏道。
そこにいた番人たち。
普段とは違っていた、その様子。
突然の振動。
地面が沈んでいくような感覚。
そして、気がついた時には知らない部屋にいた。
「……エリアス、大丈夫かな」
ぽつりと呟く。
隣に伏せていたルツが顔を上げた。
『心配しているだろうな』
「うん」
智世は膝の上で手を組んだ。
「帰ってこなかったら、きっと心配するよね」
『ああ』
「……怒るかな」
ルツは少し考えるように黙った。
『怒るかもしれない』
「やっぱり?」
『だが、それ以上に心配するだろう』
智世は返事をせず、窓の外へ視線を戻した。
エリアスの顔が浮かぶ。
普段は何を考えているのか分からないところもある。
けれど、自分が帰ってこなければ、きっと家の中を何度も探すだろう。
今も、待っているかもしれない。
「……早く帰りたいな」
『帰れる』
ルツの声は静かだった。
『必ず帰れるさ』
「……うん」
その言葉を聞いて、智世は小さく頷いた。
ルツが身体を寄せてくる。
手を伸ばすと、黒い毛並みの柔らかな感触と、いつもの温もりが掌へ伝わってきた。
「ルツがいてくれてよかった」
『俺もだ』
「……ありがとう」
それだけ言うと、智世はベッドへ横になった。
ルツはいつものように、その傍らへ身体を伏せる。
知らない場所。
知らない夜。
けれど、隣にはいつもの存在がいる。
それだけで、張り詰めていた心が少しずつほどけていく。
智世はゆっくりと目を閉じた。
「おやすみ、ルツ」
『ああ。おやすみ』
静かな夜が、二人を包んでいった。