『魔法使いの嫁 × ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 ――魔法使いと魔術師、その隣人たち――』   作:丹波りん

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第20話 善き鍵

 智世は立方体から離れ、部屋の隅へ歩いていった。

 そこには、いつも持ち歩いている鞄と、その横に立てかけられた杖がある。

「なぁ、兄上」

 その間に、ライネスがⅡ世へ声を掛けた。

「なんだ」

「せっかくだから、賭けをしないかい?」

 Ⅱ世が眉を寄せる。

「何のだ」

「智世が、あれを開けるまでにどれくらい時間がかかるか」

「……君は、何を言っているんだ」

 Ⅱ世は露骨に嫌そうな顔をした。

「だって、気になるじゃないか」

 ライネスは立方体を見る。

「一分か。五分か。それとも、もっと掛かるか」

「時間以前の問題だ」

 Ⅱ世は腕を組んだ。

「そもそも、あれを開けられるかどうかすら、今の段階では判断できない」

 立方体には、三人分の術式が重なっている。

 しかも最後にフラットが、先に施された二つの術式を利用して構造そのものを組み替えた。

 単純に一つずつ解除すれば済む状態ではない。

 どこから手をつけるべきか。その判断自体に時間が必要だった。

「なるほど」

 ライネスは立方体を眺めた。

「では、賭けはなしにしておこうか」

「最初からそうしてくれ」

 Ⅱ世が呆れたように言った。

 その横で、フラットは立方体を見つめていた。

 しばらくして、ぽつりと呟く。

「……あれ?」

「どうした?」

 Ⅱ世が振り向く。

「ここから……どうするんだっけ?」

「……」

 Ⅱ世の表情が止まった。

「お前が掛けた術式だろう」

「そうなんですけど」

 フラットは首を傾げた。

「途中で、僕がちょっと変えたから」

「自分で変えたものを忘れたのか?」

「忘れたというか……」

 フラットはもう一度、立方体を見る。

「こっちを解除すると、たぶんあっちが変わって…

 …でも、あっちを先に触ると、こっちが戻って……」

「…………」

 Ⅱ世は額へ手を当てた。

「お前は何をやっているんだ」

「ちゃんと開くようにはしたつもりなんですけど」

「それを今考え直している時点で信用できん」

 ライネスが小さく笑った。

「自分で作った迷路に、自分で迷っているわけだね」

「そういうわけじゃ……」

 フラットは少し考えた。

「……そうかもしれません」

 Ⅱ世は深いため息を吐いた。

 その間にも、智世は杖を手に取っていた。

 細身の杖を片手に持ち、こちらへ戻ってくる。

「お待たせしました」

 智世が戻ってきた。

 Ⅱ世たちが一斉に智世を見る。

「それが、君の杖か」

「はい」

 智世は頷いた。

「使ったほうが、やりやすいので」

 そう言って、立方体の前へ立つ。

 杖を軽く持ち直した。

 それから、隣にいるルツへ目を向ける。

「ルツ」

「ん?」

「ちょっと力を貸してね」

「ああ」

 ルツは短く答えた。

 智世は立方体へ目を向ける。

 それから、特に何かを確かめるでもなく、いつもの調子で口を開いた。

「それじゃ、開けますね」

 あまりにも気軽な言い方だった。

 Ⅱ世は思わず眉を寄せる。

 ライネスも、フラットも黙った。

 三人が時間を掛けて組み上げた封印を前にして、

 智世は術式を読み取ろうともしない。

 どこから解除するべきかを探る様子もない。

 ただ、開けるための準備をしている。

 それだけだった。

「智世さん……?」

 グレイが思わず声を掛ける。

「はい?」

「その……何も見ないのですか?」

 智世は少し首を傾げた。

「見ても、よく分からないので」

 それは、智世にとってはごく当たり前の答えだった。

 Ⅱ世は一瞬、言葉を失った。

 魔術師なら、まず術式を見る。

 どこに何が仕込まれているのかを確認し、構造を理解してから手を加える。

 それが当然だ。

 だが、智世は違った。

 彼女は杖を立方体へ向ける。

「【おまえは善き錠、古い錠】」

 静かな声だった。

 力んでもいない。

 ただ、立方体へ語りかけるように言葉を置く。

 その瞬間、表面に刻まれていた術式が淡く揺れた。

 Ⅱ世の目が細くなる。

「【わたしは、おまえの善き油】」

 中心の球体が、かすかに光った。

 複雑に絡み合っていた術式の線が、ほどけるように動き始める。

 Ⅱ世は、その変化を追った。

 術式を一つずつ解除しているわけではない。

 少なくとも、彼の知る魔術の手順とは違う。

 智世はどこが起点なのかを探していない。

 術式の隙間へ魔力を通しているわけでもない。

 ただ、言葉を重ねている。

「【わたしは、おまえの、金の鍵】」

 最後の言葉が落ちた。

 カチリ。

 小さな音が響く。

 立方体の表面から、術式が一斉に消えた。

 中心の球体が淡い光を放つ。

 そして、一面が静かに開いた。

 中から、小さな包みがいくつか転がり出る。

「……」

 誰も声を出さなかった。

 智世だけが、開いた立方体を見て小さく笑う。

「開きました」

 その声音には、達成感らしいものすらほとんどなかった。

 最初から、それが当然だと思っていたような言い方だった。

 智世は転がり出た菓子を一つ拾い上げる。

「ルツ、これ食べる?」

「肉のほうがいい」

「……お菓子だよ?」

「肉がいい」

「もう」

 智世は苦笑して、自分の手元へ菓子を戻した。

 そのやり取りを、Ⅱ世たちは黙って見ていた。

 やがて智世は、三人がまだ立方体を見ていることに気づく。

「……どうしました?」

 返事はなかった。

 Ⅱ世は立方体を見たまま考えている。

 ライネスも口を挟まない。

 フラットは、消えた術式の痕跡を追うように目を細めていた。

 智世は少し考え、それから椅子へ腰を下ろした。

「何か考えているみたいなので、少し待っていますね」

 そう言って、菓子を一つ口へ運ぶ。

 ルツにも一つ渡した。

「ほら」

「……肉じゃない」

「お菓子だからね」

 ルツは文句を言いながらも受け取った。

 その間も、Ⅱ世の思考は止まっていなかった。

 魔術でも、封印を解除すること自体はできる。

 今回のような術式でも、時間と技量さえあれば解除は可能だろう。

 だが、そのためにはまず封印を理解しなければならない。

 術式の構造を読み、条件を確認し、干渉する場所を選ぶ。

 一つ解除すれば、次の術式へ進む。

 複数の術式が絡んでいるなら、その関係まで考慮して順番を組み立てる。

 結果に至るまでには、必ず過程がある。

 それが、魔術だった。

 しかし、智世は違う。

 彼女は術式を解析していない。

 どこから解除するべきかも探していない。

 それでも、最後には「開いた」という結果だけが残った。

 まるで、開錠という結果が先にあり、その結果へ向かって魔力が働いたように見える。

 Ⅱ世は、そこで初めて自分が見ているものの意味を考え直した。

 魔術は、術式を組み上げることで現象を成立させる。

 ならば、智世の魔法は必ずしも同じ順序を必要としないのではないか。

 結果を起点として、その結果に必要な形へ世界へ働きかけている。

 そう考えれば、先ほどの言葉も理解しやすい。

 ――「開けますね」。

 あれは願望でも命令でもない。

 智世にとっては、これから起こすことをそのまま言葉にしただけなのかもしれない。

「……つまり」

 ライネスが、立方体へ視線を向けたまま口を開いた。

「兄上が言いたいのは、魔術が『どうやって開けるか』を積み上げるものだとすれば、

  智世の魔法は『開く』という結果そのものに働きかけているように見える、ということかい?」

 Ⅱ世は少しだけ目を細めた。

「そうだ。少なくとも、今の現象だけを見るならな」

「随分と違うね」

「ああ」

 Ⅱ世は短く答えた。

「だが、それが本当に魔法の原理なのか、

 それとも今回の術だけに見られる特徴なのかは分からない」

 ライネスは頷いた。

「なるほど。なら、まだ結論にはできないわけだ」

「そういうことだ」

 それ以上、ライネスは口を挟まなかった。

 けれど、その短いやり取りによって、Ⅱ世自身の考えも整理された。

 今の現象を、単純に「魔術ではない」と片付けることはできない。

 魔術でも同じ結果へ到達することはできる。

 違うのは、そこへ至るための考え方だ。

 魔術師は、術式を理解し、条件を読み、必要な箇所へ干渉する。

 対して智世は、術式そのものを理解していないにもかかわらず、結果だけを成立させた。

 もちろん、本当に「結果を起点としている」のかはまだ分からない。

 別の原理によって封印そのものへ作用した可能性もある。

 あるいは、魔術師が認識している「術式」とは異なる形で、

 同じ世界の理へ触れているのかもしれない。

 今の一度だけで、それを判断することはできない。

 隣では、フラットもまた立方体を見つめていた。

 彼は封印の構造を理解している。

 自分が組み込んだ複雑な術式についても、時間を掛ければ再構成できるだろう。

 だからこそ、智世のやり方が気になっていた。

 術式を壊していない。

 術式を一つずつ解いてもいない。

 それなのに、結果だけが成立した。

「……面白い」

 フラットが小さく呟いた。

 その声には、子供じみた興奮はなかった。

 ただ、自分の知っている魔術の手順から外れた現象を前にして、

 その違いを正確に捉えようとする知的な関心があった。

 Ⅱ世も、その言葉を否定しなかった。

 まだ分からない。

 智世の魔法が、本当に結果を先に定義しているのか。

 別の原理で術式そのものへ干渉しているだけなのか。

 あるいは、魔術師が認識している「術式」とは違う形で、同じ世界の理へ触れているのか。

 ただ、少なくとも一つだけ確かなことがある。

 智世の魔法を理解するためには、時計塔の魔術をそのまま当てはめるだけでは足りない。

 Ⅱ世は、そう認めざるを得なかった。

 その横で、智世はルツと菓子を分けながら、三人の考察が終わるのを静かに待っていた。

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