『魔法使いの嫁 × ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 ――魔法使いと魔術師、その隣人たち――』 作:丹波りん
学院へ向かう日が決まってから、数日が過ぎた。
その日の午後。Ⅱ世の私室には、いくつかの書類が広げられていた。
Ⅱ世は最後の一枚へ目を通すと、ペンを置いた。
「……ようやく終わった」
向かいに座っていたライネスが、書類へ目を向ける。
「講義の予定かい?」
「ああ。数日分を動かしたうえで、留守の間の仕事も回しておく必要があったからな」
「ご苦労様」
「君も他人事ではないだろう」
ライネスは肩をすくめた。
「私のほうは、別の意味で面倒だったよ」
「他派閥の干渉か」
「そういうことさ」
ライネスは机の上の書類を指先で軽く叩く。
「兄上と一緒に時計塔を離れるとなれば、
余計な勘繰りをされないようにしておく必要があるからね」
「理由を聞かれれば困る、と」
「隠しすぎても怪しまれる。だから、それらしく予定を整えておいた」
「なるほど」
Ⅱ世は頷いた。
これで、学院へ向かうための準備は整っている。
あとは当日を待つだけだった。
Ⅱ世はそう思いながら、机の端に置いてあった別の紙へ手を伸ばした。
「……それとは別に、少し調べていたことがある」
「何をだい?」
「智世の家と、学院についてだ」
ライネスが興味深そうに眉を上げる。
「例の学院かい?」
「ああ」
Ⅱ世は資料へ目を落とした。
智世から聞いた話と、時計塔に残されている記録を照らし合わせる。
学院の所在地については、具体的な情報を得られなかった。
智世が詳しい場所について言葉を濁していたためだ。
だが、それ自体はⅡ世にとって不自然なことではなかった。
魔術師の世界では、拠点の所在地や活動範囲を外部へ詳しく知らせないことは珍しくない。
学院側の方針かもしれないし、何らかの制約がある可能性もある。
その程度なら、無理に聞き出す必要はない。
むしろ気になったのは、別のことだった。
Ⅱ世は一枚の資料を指先でなぞる。
「智世が暮らしているという地域までは、最近になってようやく絞り込めた」
「イングランドの郊外だね」
「ああ。そこまでは資料とも大きく矛盾しない」
Ⅱ世は別の資料をめくる。
「問題は、その先だ」
「先?」
「智世の家があるという場所が、見つからない」
ライネスが目を細める。
「妖精や精霊が、日常のすぐそばにいる村?」
「ああ」
Ⅱ世は資料へ目を落とした。
「彼女の話では、魔法使いが村人と普通に関わり、薬を作り、
妖精が家の中で暮らしている。そういう場所だ」
「それに該当する記録がない、と」
「少なくとも、私が確認できる範囲ではな」
Ⅱ世は椅子の背へ身体を預けた。
「だが、これだけで何かがおかしいとは言えない」
「時計塔が把握していないだけかもしれないしね」
「その可能性もある」
Ⅱ世は淡々と答えた。
「小さな共同体なら、時計塔の記録に残っていなくても不思議ではない。
まして、神秘に関わる地域なら、意図的に情報を残していない可能性もある」
「学院が情報を管理している可能性もあるね」
「そうだ」
Ⅱ世は頷いた。
「ただ……一つ、気になることがある」
「何だい?」
Ⅱ世は地図へ目を向ける。
「イングランドの郊外まで絞り込めた以上、距離についてはある程度分かる」
Ⅱ世は地図上の一点を指で示す。
「ロンドンから、数時間もあれば辿り着ける距離だ」
ライネスが地図へ目を向ける。
「それなら、以前から考えていたような『遠すぎて帰れない』という話ではない、と」
「そういうことだ」
Ⅱ世は頷いた。
「智世を帰す方法については、これまでにも考えていた。
だが、彼女の住んでいる場所がどこなのか分からなかったからな」
「国外や、辺境の地という可能性も考えていたわけだね」
「ああ」
Ⅱ世は資料へ目を落とす。
「だから、あの裏道を使う以外に帰還する方法がないのだろうと考えていた」
「なるほど」
ライネスが少し考える。
「けれど、実際にはイングランドの郊外だった」
「そうだ」
Ⅱ世の視線が地図へ戻る。
「普通の道を使っても、数時間程度で到着できる距離だ。
それなら、なぜあの時、帰ることができなかったのか」
「……裏道そのものに理由がある?」
「その可能性はある」
Ⅱ世は静かに答えた。
「智世の家がある村は、普通の道からは入れないのかもしれない」
「普通の道から?」
「ああ」
Ⅱ世は地図上の地域を指先でなぞる。
「別の入口がある。あるいは、特定の場所を経由しなければ辿り着けない」
ライネスの目が細くなる。
「つまり、あの裏道を通らなければならない」
「そう考えると、村そのものが記録に見つからないことにも説明がつく」
Ⅱ世は資料を指先で軽く叩いた。
「地図上の地域までは特定できても、
そこへ至る道が通常のものではないなら、外から村を確認するのは難しい」
「学院が情報を管理している可能性も残るけれどね」
「ああ。まだ推測の域を出ない」
Ⅱ世は資料を閉じた。
「だが、少なくとも距離の問題ではなかった。
それが分かっただけでも、考えるべきことは変わってくる」
短い沈黙が落ちた。
Ⅱ世はもう一度、閉じた資料へ目を向ける。
「まあ、実際に行けば分かるだろう」
ライネスが窓の外へ目を向ける。
「そうだな」
Ⅱ世は資料を閉じた。
「今は、これ以上資料を見ても仕方がない」
「兄上にしては珍しいね」
「何がだ」
「分からないことを、そのままにしておくなんて」
「分からないものを、分かったことにするよりはいい」
Ⅱ世はそう言って、資料を机の端へ置いた。
「続きは、向こうで確かめればいい」
「なるほど」
ライネスが小さく笑う。
「では、あとは出発を待つだけだね」
「ああ」
Ⅱ世も頷いた。
そして――。
出発の日が来た。
※
「……色々、お世話になりました」
智世がⅡ世へ頭を下げる。
ルツも、その隣で小さく頭を下げた。
「オレからも礼を言う」
「気にするな」
Ⅱ世は答えた。
「こちらも、色々と興味深い話を聞かせてもらった」
ライネスが微笑む。
「それに、今度はこちらがお世話になる番だろう?」
「はい」
智世が頷く。
「学院でも、皆さんを歓迎してくれると思います」
「それは楽しみだね」
ライネスが笑った。
出発の準備は、すでに整っていた。
荷物も必要なものはすべて揃っている。
あとは、裏道を通って向かうだけだった。
智世が部屋の中を見回す。
時計塔へ来てから、しばらく過ごした部屋だった。
ここでⅡ世たちと話をした。
グレイに時計塔を案内してもらった。
ライネスやフラットとも、色々な話をした。
短い時間だったが、思い返せば随分と多くのことがあった。
「……行こうか」
Ⅱ世が言った。
「はい」
智世が頷く。
その瞬間だった。
部屋の中央で、空気が僅かに揺らいだ。
「……?」
グレイが足を止める。
ルツも顔を上げた。
Ⅱ世の表情が変わる。
何もないはずの空間が、水面のように波打っている。
「これは……」
フラットが目を見開く。
智世には、その感覚に覚えがあった。
裏道へ繋がるときの気配だ。
「裏道です」
智世が言った。
揺らぎは次第に大きくなっていく。
部屋の中央に、薄暗い裂け目のようなものが浮かび上がった。
その向こうには、部屋とはまったく違う暗闇が見えている。
「ここに入口ができるのか」
Ⅱ世が呟く。
「はい」
智世は頷いた。
「いつも使っている入口とは少し違いますけど……裏道に繋がっています」
Ⅱ世は周囲を確認した。
時計塔の部屋の中に、明らかに異質な空間が開いている。
それでも、智世が迷う様子はない。
「エリアスから聞いている通りなら、ここを通ればいいんだな?」
「はい」
智世が答える。
「エリアスも、向こうで待っていると思います」
Ⅱ世は一度だけ頷いた。
「分かった。では、行こう」
一行は、部屋の中に現れた裏道の入口へ向かった。
智世とルツが先に入る。
その後をⅡ世、ライネス、グレイ、フラットが続いた。
境界を越えた瞬間、周囲の景色が変わった。
部屋の明るさが消える。
外の空気も消える。
代わりに、湿った土の匂いが広がった。
暗い。
壁のように見えるものが左右に続いている。
けれど、その先がどこまで続いているのかは分からない。
足元には土や石があるように見える。
しかし、踏みしめた感触はどこか曖昧だった。
「……これが裏道か」
Ⅱ世が周囲を見回す。
「はい」
智世が答えた。
「エリアスと一緒に、何度も通っていました」
フラットも周囲を見ている。
「本当に、普通の道とは全然違いますね」
「ああ」
Ⅱ世は短く答えた。
「話に聞いていたよりも、ずっと特殊だ」
そのときだった。
暗闇の奥から、気配が近づいてきた。
足音はしない。
ただ、何かがこちらへ向かってくることだけが分かる。
智世が足を止めた。
「来ました」
前方の暗闇から、一体の影が現れた。
顔のない犬。
裏道の番人。
猟犬だった。
その後ろから、さらに一体。
また一体。
気がつけば、一行の前後を囲むように何体もの猟犬が立っていた。
フラットが思わず息を呑む。
「……これが、猟犬」
「普段は、こんなに集まってこないんですけど」
Ⅱ世は猟犬たちを見つめた。
前に聞いた話通りなら、彼らは裏道の規則を守るために存在している。
そして、利用者から対価を受け取る。
そのとき、最初の猟犬がⅡ世の前まで近づいてきた。
顔のない頭部を僅かに傾ける。
そして、長い舌を伸ばした。
舌先が自らの皮膚へ触れる。
次の瞬間、黒い皮膚の表面から、小さな欠片が剥がれた。
猟犬はそれを舌先に乗せたまま、Ⅱ世へ差し出した。
「……?」
Ⅱ世が眉を寄せる。
同時に、他の猟犬たちも動き始めた。
ライネスの前へ。
グレイの前へ。
そして、フラットの前へ。
それぞれが自らの皮膚から同じような欠片を取り出し、長い舌先で差し出している。
Ⅱ世は目の前の欠片を見つめた。
ほんの小さなものだった。
それ自体に、目立った魔力があるようには見えない。
だが、それを差し出している猟犬の存在そのものが、Ⅱ世には気になった。
魔術で生み出された生物なのか、使い魔なのか。
Ⅱ世の知る分類に当てはめようとしても、どれもしっくりこない。
彼らはただ、裏道の中に存在し、何らかの規則に従って動いている。
「それを飲み込んで下さい」
智世が苦笑しながら言った。
「……これを?」
Ⅱ世が欠片を見る。
「はい」
智世は頷いた。
「それで、皆さんが裏道を通っていい人かどうか、猟犬たちが認識するみたいです」
Ⅱ世は答えなかった。
ライネスも、グレイも同じだった。
三人とも、すぐには手を伸ばさない。
「……随分と、変わった確認方法だね」
ライネスが苦笑する。
だが、その声にはいつもの余裕が僅かに薄れていた。
「そうですね……」
グレイも困ったように欠片を見つめる。
未知のものを口にすることへの抵抗は当然だった。
まして、それを差し出しているのが、魔術師の常識では分類しきれない存在なのだから。
Ⅱ世は何も言わない。
ただ、欠片と猟犬を交互に見ていた。
その一方で、フラットだけが躊躇しなかった。
「分かりました」
フラットは猟犬から欠片を受け取った。
そして、そのまま口へ入れる。
「フラット」
Ⅱ世が止めるより早かった。
フラットは欠片を飲み込む。
「…………」
数秒後。
その顔が露骨に歪んだ。
「……ひどい味ですね」
フラットが顔を顰める。
「味がするのか?」
Ⅱ世が尋ねた。
「味もですけど……匂いもかなりひどいです」
フラットは少しだけ眉を寄せたまま答える。
「でも、身体には特に異常はありません」
「そういう問題じゃない」
Ⅱ世が呆れたように言った。
「必要な確認だったので」
「君は本当に……」
Ⅱ世はそれ以上言わなかった。
フラットが平然としていることより、
その欠片を何の躊躇もなく受け入れられることのほうが、今は気になっていた。
そして、その様子を見たことで、Ⅱ世たちの躊躇はむしろ強くなった。
「……ますます飲みたくなくなったね」
ライネスが苦笑する。
グレイも欠片を見つめたまま、小さく息を吐いた。
誰もすぐには動かない。
猟犬たちも、急かさなかった。
ただ、そこにいる。
それだけだった。
やがてライネスが、困ったように口を開く。
「しかし、他に方法は―『従わないのか』――っ⁉」
言葉の途中に、別の声が割り込んだ。
それはライネスの口から出たものだ。
けれど、ライネス自身の声ではない。
正確には、声そのものは彼女のものだった。
だからこそ、余計に異様だった。
自分の口が、自分の意思とは無関係に動いた。
自分の声帯が、自分の意志とは無関係の言葉を発した。
その瞬間まで、ライネスには何の前触れもなかった。
目が大きく見開かれる。
表情から、さっきまでの笑みが完全に消えた。
ライネスは反射的に口元へ手を当てる。
しかし、その手も僅かに震えていた。
「……今の」
声が低くなる。
Ⅱ世がすぐに彼女を見る。
「ライネス」
「分かっている」
ライネスは答えながらも、視線を猟犬から外さない。
驚愕。
そして、それ以上に強い警戒。
魔術師として、自分の身体に干渉された。
それなのに、察知できなかった。
侵入された瞬間も。
制御を奪われた瞬間も。
そのどちらにも気づけなかった。
「私の口を……使ったのかい?」
問いかけても、猟犬は答えない。
ただ、顔のない頭部を僅かに傾けている。
その仕草には、こちらの困惑を理解しているのかどうかすら分からない。
「……」
Ⅱ世はライネスの横へ僅かに移動した。
猟犬との距離を意識して取る。
グレイも無意識に姿勢を低くした。
フラットでさえ、今度ばかりは何も言わない。
この現象を、単純な精神干渉として片づけることはできない。
少なくとも、Ⅱ世の知る魔術なら、何らかの兆候があって然るべきだった。
それがなかった。
猟犬が何をしたのか。
どうやってライネスの身体へ干渉したのか。
そもそも、干渉という言葉で正しいのか。
判断する材料がない。
だからこそ、Ⅱ世は動かなかった。
不用意に刺激することだけは避ける。
それが今できる最善だった。
ライネスはしばらく自分の口元へ触れていた。
やがて、ゆっくりと手を下ろす。
「……気づかなかった」
小さく呟いた。
その言葉には、普段の彼女からは滅多に聞かれない種類の動揺があった。
「私が気づかないまま、私の身体を使われた」
Ⅱ世は何も答えない。
否定できなかった。
ライネス自身がそう認識している以上、軽く扱うべきではない。
しばらくして、ライネスが小さく息を吐いた。
そして、ようやくいつもの笑みを僅かに戻す。
「……やれやれ」
苦笑だった。
ただし、先ほどまでの軽さはない。
「分かったよ。従おうとも」
そう言って、猟犬から差し出されていた欠片を受け取る。
一瞬だけ、それを見つめる。
それから覚悟を決めるように口へ入れ、飲み込んだ。
グレイが静かにライネスを見る。
「ライネスさん……」
「大丈夫だよ」
ライネスは答えた。
「少なくとも、今すぐどうこうなるわけではなさそうだ」
そう言いながらも、視線は猟犬から離さない。
「……拙も」
グレイが続いた。
差し出された欠片を受け取り、静かに飲み込む。
最後に、Ⅱ世の前へも猟犬が欠片を差し出した。
Ⅱ世はそれを見つめた。
先ほどのライネスへの干渉が、頭から離れない。
それでも、ここで拒めばどうなるのかは分からない。
裏道を使うということは、この存在たちの定めた規則の中へ入るということなのだ。
「……まったく」
Ⅱ世は小さく息を吐いた。
「随分と念入りな確認方法だな」
それだけ言って、欠片を受け取る。
そして、意を決して飲み込んだ。
猟犬たちは、それを確認してからようやく動き始めた。
一行の前後へ回り込み、左右にも散らばる。
道の両脇に沿うようにして、猟犬たちが歩いていく。
近すぎるわけではない。
だが、離れてもいない。
誰かが道を外れようとすれば、すぐに分かる位置だった。
まるで、道そのものから外れることを許さないために配置されているようだった。
それ以上、誰も余計なことをしなかった。
ライネスも、先ほどのことについては何も言わない。
ただ、時折自分の口元へ触れる。
自分の身体が、自分の知らないところで使われた。
その事実は、まだ消えていない。
Ⅱ世もそれを理解していた。
だが、今は問い詰めるべき時ではない。
一行は、猟犬たちに囲まれながら裏道を進んでいった。
暗い道が続く。
壁のように見えるものが、近づけば近づくほど曖昧になる。
足音だけが、妙に長く残る。
誰も口を開かなかった。
やがて、前方に僅かな光が見えた。
「あそこです」
智世が言う。
暗闇の向こうに、外の光が見え、それが少しずつ大きくなる。
一行は、その光へ向かって歩いた。
そして、境界を越える。
冷たい空気が消えた。
湿った匂いも遠ざかり、代わりに、外の風が頬を撫でた。
Ⅱ世は足を止め、振り返った。
そこには古い門があるだけだった。
先ほどまで続いていたはずの裏道は、どこにもない。
猟犬たちの姿も消えている。
気配すら残っていなかった。
「……もう、いない」
グレイが呟く。
「ああ」
Ⅱ世は門を見つめた。
ほんの少し前まで、確かにその向こうには別の道があった。
猟犬たちもいた。
そして、自分たちはその規則に従ってそこを通った。
それなのに、今は何もない。
「完全に消えてますね」
フラットも振り返る。
「そういうものなんです」
智世が答えた。
Ⅱ世はしばらく門を見つめていた。
だが、今はそれ以上考えるべきではない。
ここまで来た。
それだけで十分だった。
そのときだった。
少し離れた場所から、声が聞こえた。
「チセ」
智世が顔を上げる。
その声を聞いた瞬間、表情が変わった。
ほんの僅かな驚き。
それから、安堵。
「……エリアス」
聞き慣れた声だった。
智世は、声のした方へ振り向いた。
その視線の先に――。