『魔法使いの嫁 × ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 ――魔法使いと魔術師、その隣人たち――』   作:丹波りん

26 / 28
第26話 学院という場所

 ほんの一瞬だった。

 気がつけば、彼らは見知らぬ場所に立っていた。

 足元には石造りの広い床が続き、その周囲を古い建物が取り囲んでいる。

 建物の間には木々や植え込みが整えられ、いくつかのベンチも置かれていた。

 中庭なのだろう。

 遠くでは学生らしき者たちが行き交い、話し声も聞こえてくる。

 先ほどまでいたエインズワース邸の庭とは、あまりにも雰囲気が違っていた。

「……学院か」

 Ⅱ世は周囲を見渡した。

 古い建物に囲まれた中庭。

 そこを行き交うのは、魔術を学ぶ者たちなのだろう。

 学院という名から想像していたよりも、ずっと普通の学校に近い。

 ただし――。

 Ⅱ世はふと、頭上へ視線を向けた。

 高い。

 中庭の上には、遥か彼方まで空が広がっている。

 青空には薄い雲が浮かび、差し込む光も自然そのものに見えた。

「……」

 Ⅱ世は目を細める。

 一見しただけでは、本物の空と変わらない。

 だが、魔術師としての感覚が告げていた。

 あれは自然の空ではない。

 空そのものを再現したものか、それともこの場所に合わせて作られた幻影か。

 少なくとも、ただ空が見えているわけではなかった。

「兄上、どうしたんだい?」

 ライネスの声に、Ⅱ世は視線を下ろした。

「いや。少し気になるものがあっただけだ」

 その時だった。

「――時間通りですね」

 背後から声がかかった。

 一行が振り返る。

 そこに、一人の老婦人が立っていた。

 白い髪を長く伸ばし、肩には布を掛けている。

 穏やかな表情の奥に、長い年月を生きてきた者だけが持つような静けさがあった。

 そして、その首元。

 まるで身体から生えているかのように、薔薇の花が覗いている。

「ライザ」

 エリアスが声をかけた。

「約束は果たしたよ。時間通りに連れてきた」

「ええ。ありがとうございます、エリアス」

 ライザは小さく頷く。

 それから一行へ視線を向けた。

「ようこそ、学院へ」

 柔らかな声音だった。

「お招きいただき、ありがとうございます」

 Ⅱ世が一歩前へ出る。

 ライザは彼を見て、静かに微笑んだ。

「こちらこそ。遠いところをありがとうございます」

 そして、智世へ視線を移す。

「ですが、その前に――」

 ライザは一行を見渡した。

「智世さんをここまで連れてきてくださったこと。

 そして、これまで彼女の面倒を見てくださったことに、学院を代表してお礼を申し上げます」

「……」

 Ⅱ世はわずかに目を見開いた。

 ライザは続ける。

「学院に戻ってくるまでの間、

 智世さんが無事に過ごせたのは、皆さんのおかげでもあるのでしょう」

「礼を言われるほどのことではありません」

 Ⅱ世はそう返した。

「こちらも、智世には随分と世話になりました。……興味深い話も聞かせてもらいましたしね」

「そう言っていただけるなら何よりです」

 ライザは微笑んだ。

 そして、今度は智世の方へ身体を向ける。

「智世さん」

「はい」

「あなたは、先に定期健診を受けてください」

「定期健診……?」

 Ⅱ世が反応する。

 ライザはそれに気づいた様子だったが、まず智世へ話を続けた。

「アレクサンドラが待っています。

 戻ってきたことを伝えてありますから、先に診てもらいなさい」

「……わかりました」

 智世が頷く。

「じゃあ、ボクも一緒に行くよ」

 エリアスが自然に続いた。

「オレも行く」

 ルツも智世の隣へ並ぶ。

「そうしてください」

 ライザが頷く。

「では、Ⅱ世さんたちには――」

「すみません」

 智世が申し訳なさそうにⅡ世たちを見る。

「先に健診へ行ってきます」

「気にするな。学院に着いたばかりだ。こちらのことは心配しなくていい」

 Ⅱ世が答える。

 智世は小さく頷いた。

「……ありがとうございます」

「また後でね」

 エリアスが手を振る。

 智世とルツを伴い、エリアスが歩き出す。

 三人の姿が中庭の向こうへ消えていく。

 それを見送ってから、Ⅱ世は小さく息を吐いた。

「……定期健診、か」

「気になるのかい?」

 ライネスが尋ねる。

「少しな」

 Ⅱ世は答えた。

「学院に通う学生が定期的に健診を受けること自体は、不思議ではない。

 ただ、智世の場合は少し事情が違うように思えてね」

「私も少し気になります」

 グレイも静かに頷く。

 ライザは二人の様子を見て、穏やかに微笑んだ。

「ええ。智世さんには、少し特殊な事情がありますから」

「もし差し支えなければ、そのあたりも伺ってよろしいでしょうか」

 Ⅱ世が丁寧に尋ねる。

「もちろんです」

 ライザは頷いた。

「まず、智世さんはこの学院では聴講生という立場です。そしてエリアスは――」

「教師として、学院に?」

 Ⅱ世が尋ねる。

「はい。魔法に関する講義を受け持っています」

「なるほど……」

 Ⅱ世は静かに頷いた。

 これまで智世から聞いてきた話。

 智世の師であるエリアスが使う魔法。

 そして、この学院という場所。

 それらが少しずつ繋がり始めていた。

「それでしたら、よろしければもう少し詳しく教えていただけますか」

 Ⅱ世はライザへ向き直った。

「智世とエリアスが、この学院でどのような立場にあるのか。

 そして、定期健診を受けている理由についても」

「ええ。では、歩きながらお話ししましょう」

 ライザはそう言って、廊下へ続く建物を示した。

「学院の中もご案内します」

「ありがとうございます」

 Ⅱ世が頭を下げる。

「それは楽しみだね」

 ライネスが笑う。

 グレイやフラットも二人に続いた。

 ライザの案内で、一行は中庭を後にした。

 建物の中へ入ると、先ほどまでとは違った空気が流れていた。

 石造りの壁と木材を組み合わせた古い造り。

 廊下は思っていたよりも広く、いくつもの扉が並んでいる。

 その間を、生徒たちが行き交っていた。

「こちらが主な教室のある区画です」

 ライザが歩きながら説明する。

「講義の内容によって使う場所が変わりますので、教室は一つではありません」

 Ⅱ世は廊下の先へ目を向けた。

 開かれた扉の向こうから、教師らしき声が聞こえる。

 別の場所では、生徒たちが何冊もの本を抱えて歩いていた。

「図書館も、この先にあります」

「図書館ですか」

 ライネスが興味を示す。

「ええ。学院には魔術に関する資料が多く収められています。

 一般には公開されていないものもありますが」

「それは興味深いね」

 ライネスが楽しそうに笑う。

「兄上、ここに何日くらい滞在する予定なんだい?」

「まだ決まっていない」

 Ⅱ世は答えながら、周囲を見渡していた。

 学院という名前から想像していたよりも、ずっと生活の気配が濃い。

 研究施設というより、学校そのものに近い。

 生徒たちが学び、教師が教え、廊下には人の往来がある。

 ただ、その一つ一つが時計塔とは違っていた。

 魔術師だけではない。

 人間とは思えない姿をした者も、何の変哲もない顔で廊下を歩いている。

 それを誰も気に留めていない。

「……随分と開かれた雰囲気ですね」

 グレイが呟いた。

「学院は魔術師同士が助け合うための場所でもありますから」

 ライザが答える。

「それに、魔術師だけでなく、様々な事情を持つ者がいます。

 姿や生まれだけで判断する必要はありません」

「なるほど」

 Ⅱ世が頷いた。

 その時だった。

「あの――」

 横を通り過ぎようとしていた一人の生徒が足を止めた。

 少年だった。

 生徒はⅡ世たちを見回し、それからライザへ視線を向ける。

「学長。この方たちは……」

「今日のお客様ですよ」

 ライザが答える。

「もしかして、新しい先生ですか?」

 生徒がⅡ世たちを見る。

「いえ」

 ライザは穏やかに首を振った。

「学院へ招いているお客様です。失礼のないようにしてくださいね」

「あ、はい」

 生徒は素直に頷いた。

「すみません。失礼しました」

「気にしなくていい」

 Ⅱ世が答える。

 生徒は一礼すると、そのまま廊下の先へ走っていった。

「……新しい先生か」

 ライネスがくすりと笑う。

「兄上も随分とそれらしく見えたようだね」

「余計なことを言うな」

 Ⅱ世は小さく眉を寄せた。

 グレイがその様子を見て、少しだけ笑う。

 そのまま一行は廊下を進んでいく。

 しばらくすると、前方から妙な音が聞こえてきた。

 四つの足が、一定の間隔で床を踏む音。

 ライザが足を止めた。

「おや」

 廊下の向こうから、一人の男が歩いてくる。

 上半身は人間のものだった。

 落ち着いた服装に身を包み、眼鏡の奥からこちらを見ている。

 しかし、その下半身は人間のものではなかった。

 腰から下が四本の脚を持つ獣のような形へと変わっている。

「学長」

 男が声をかける。

「シメオン」

 シメオンは一行へ目を向けた。

「お客様ですか?」

「ええ。今日、学院へお招きした方々です」

 ライザが紹介する。

「こちらはロード・エルメロイⅡ世さま。妹君のライネスさん、

 そしてグレイさんとフラットさんです」

「初めまして」

 Ⅱ世が軽く頭を下げた。

「シメオン・パラディールです。こちらこそ、初めまして」

 シメオンも穏やかに挨拶を返す。

 その声音には、どこか柔らかな響きがあった。

「学院では音について研究しています。それと、教師もしています」

「音の研究ですか」

 Ⅱ世が興味を示す。

「はい。音というものは、魔術とも深く関わっていますから」

 シメオンはそう答えた。

 その時、フラットがじっとシメオンを見ていることに気づく。

「……何かな?」

 シメオンが尋ねる。

「あの……」

 フラットは少し迷った。

 興味があるのは明らかだったが、先ほどⅡ世に注意されたことも覚えているらしい。

「もし差し支えなければ、お聞きしてもいいですか?」

「ええ。何でしょう」

「シメオン先生は……どうして、そのようなお身体になられたんですか?」

「フラット」

 Ⅱ世がすぐに窘める。

「興味があるのは分かるが、初対面の相手に身体のことを尋ねるのは――」

「すみません」

 フラットは素直に頭を下げた。

「どうしても気になってしまって……」

 だが、シメオンは気にした様子もなく微笑んでいた。

「いえ、構いませんよ」

「シメオン」

 ライザが少しだけ困ったように声をかける。

「せっかく興味を持ってくれたようですから」

 シメオンはフラットへ目を向けた。

「私が転変者になった経緯に興味があるのでしょう?」

「はい」

 フラットは頷いた。

「それなら、少しお話ししましょうか」

「いいんですか?」

「ええ」

 シメオンは自分の四本の脚へ視線を落とした。

「私も、最初からこうだったわけではありません」

 フラットの表情が変わる。

「転変したばかりの頃は、今のように歩くこともできませんでした」

 シメオンは淡々と続けた。

「身体の使い方が、それまでとはまったく違ってしまいましたからね。

 立つことも、移動することも簡単ではなかった」

「大変だったんですね」

「ええ。それなりには」

 深刻になりすぎない声音だった。

「ですが、身体が変わったからといって、

 魔術師として生きることまで諦める必要はありませんでした」

 シメオンは廊下を見渡した。

「ここには、私のように身体や生まれに事情を抱えている者もいます。

 学院では、そうした違いだけで居場所を失うことはありません」

 Ⅱ世は周囲へ目を向けた。

 先ほどまでにも、普通とは少し違った姿の者を何人か見かけている。

 それでも誰も、それを特別なものとして扱ってはいなかった。

「もちろん、最初から何もかも問題なく受け入れられたわけではありません」

 シメオンは続ける。

「私自身が、この身体でどう生活していくのかを覚える必要がありました。

 ですが、今ではこうして教師として授業をしています」

「それでは、今はもう困ることは少ないんですか?」

「困ることはありますよ」

 シメオンは笑った。

「身体が変わった以上、以前と同じようにはいきませんからね。

 ですが、それも含めて今の私です」

「なるほど」

 フラットは頷いた。

「それで、音の研究をしているんですよね?」

「ええ。音は面白いですよ」

 シメオンの表情が少しだけ明るくなる。

「聞こえる音だけではありません。音がどのように伝わるのか。

 どのような作用を生むのか。魔術と結びついた時に何が起こるのか

 ――調べ始めると、なかなか奥が深い」

「それは……もっとお聞きしたいです」

 フラットの目が輝く。

「フラット」

 Ⅱ世が再び制する。

「学院へ来たばかりだぞ。シメオン先生にも仕事がある」

「まあまあ」

 ライザが微笑む。

「魔術師の子らしい好奇心ですね」

「しかし――」

「せっかくですから」

 ライザはシメオンへ視線を向けた。

「シメオン、お願いできますか?」

「もちろんです、学長」

 シメオンは頷いた。

「私も、こういう話をするのは嫌いではありません」

「ありがとうございます!」

 フラットが嬉しそうに笑う。

「兄上」

 ライネスが横から声をかける。

「諦めたまえ。ああなったフラットを止めるのは、なかなか難しいよ」

「……それは分かっている」

 Ⅱ世は小さく息を吐いた。

 フラットはもう、シメオンの隣に並んでいる。

「それでは、どちらへ伺えばいいでしょうか?」

「私の研究室へ行きましょうか。音についての資料もありますから」

「ぜひお願いします」

 フラットが頭を下げる。

 シメオンが歩き出そうとしたところで、Ⅱ世が呼び止めた。

「待て、フラット」

「はい?」

「グレイも一緒に行ってくれ」

「え?」

 グレイが目を瞬く。

「フラットが失礼な真似をしないよう、見ていてくれ」

「はい」

 グレイはすぐに頷いた。

「承知しました」

「ありがとうございます、グレイ」

 フラットが笑う。

 ライザはその様子を見て、穏やかに微笑んだ。

「では、シメオン。よろしくお願いします」

「お任せください、学長」

 シメオンは頷く。

「それでは、行きましょうか」

 フラットとグレイを伴い、シメオンが廊下の先へ歩いていく。

 四本の脚が、規則正しく床を踏んでいく。

 その後ろ姿を見送ってから、Ⅱ世は小さく息を吐いた。

「……まったく」

「いいじゃないか」

 ライネスが笑う。

「フラットにとっては、良い勉強になるだろう?」

「そうかもしれないが……」

 Ⅱ世は肩をすくめる。

「初対面であれほど遠慮なく興味を示すとは思わなかった」

「それも魔術師の性分でしょう」

 ライザが楽しそうに言った。

「知りたいと思ったものを、そのままにしておけない。そういう子は少なくありませんから」

「……否定はできませんね」

 Ⅱ世は苦笑した。

「では、私たちも行きましょうか」

 ライザがⅡ世たちへ声をかける。

「来客室へご案内します」

「ありがとうございます」

 Ⅱ世が頭を下げる。

 ライネスもその隣へ並ぶ。

「さて、兄上。学院の来客室というのも楽しみだね」

「お前は何でも楽しむな」

「せっかく招かれたんだ。楽しまない方が損じゃないか」

 そんな二人のやり取りを聞きながら、ライザは静かに笑っていた。

 三人はそのまま、来客室へ向かって歩き始めた。

 残された廊下には、先ほどまで聞こえていた四本の足音も、もう届かなくなっていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。