『魔法使いの嫁 × ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 ――魔法使いと魔術師、その隣人たち――』   作:丹波りん

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第3話 帰らない二人

 智世たちが眠りについた頃。

 Ⅱ世は、自室の机に置かれた鞄を前にしていた。

 先ほどまで智世が肩に掛けていたものだ。

 今は持ち主から離れ、机の上で静かにその形を保っている。

 何の変哲もない鞄に見える。

 しかし、今のⅡ世にとっては、そこにあるというだけで無視できない存在だった。

 中に何が入っているのか。それを確認すれば、

 智世がどこから来たのかを知る手掛かりが得られるかもしれない。

 もっとも――。

 Ⅱ世は鞄へ伸ばしかけた視線を外した。

 本人の許可なく開けるつもりはない。

 今夜の時点で、智世は自分たちに対して敵意を示していない。

 それどころか、突然見知らぬ場所へ放り出されたにもかかわらず、

 こちらの問い掛けには素直に答えていた。

 ならば、こちらも最低限の礼節は守るべきだろう。

 Ⅱ世がそんなことを考えていると、

 向かいの椅子に腰掛けていたライネスが、鞄へ視線を向けた。

 「さて」

 静かな部屋に、彼女の声が落ちる。

 「随分と面白いことになったね、兄上」

 Ⅱ世は小さく息を吐いた。

 「面白がっている場合ではない」

 「そうかな?」

 ライネスは悪びれる様子もなく、楽しげに口元を緩める。

 「突然、どこからともなく少女が現れて、その傍らには喋る犬。

  しかも本人は自分を魔法使いだと言うではないか」

 「……確かに、状況だけを並べれば異常だな」

 認めざるを得ない。

 Ⅱ世自身、今日一日の出来事を頭の中で整理するたびに、いくつもの疑問が浮かんでくる。

 智世は嘘をついているようには見えなかった。

 しかし、彼女の話を事実として受け止めれば受け止めるほど、今度は別の問題が生じる。

 時計塔の魔術体系では説明しきれない現象が、いくつも残るのだ。

 その隣では、グレイもまた黙って考え込んでいた。

 やがて、意を決したように顔を上げる。

 「師匠」

 「何だ」

 「拙は、智世さんが嘘をついているようには思えません」

 その言葉に、Ⅱ世はすぐ頷いた。

 「私も同じだ」

 それは、今日の短いやり取りから得た率直な判断だった。

 智世の受け答えには、少なくとも意図的にこちらを欺こうとしているような不自然さはない。

 むしろ彼女自身が、自分の置かれた状況を理解できずにいるように見えた。

 「だからこそ、分からない」

 Ⅱ世の声が低くなる。

 ライネスが興味深そうに眉を上げた。

 「分からない?」

 「ああ」

 Ⅱ世は椅子の背に身体を預けた。

 「彼女が意図してここへ来たのでないとすれば、あの現象は何だったのか。

  そして、彼女が語った『裏道』とは何なのか」

 思い返すのは、智世が話した奇妙な出来事だった。

 普段から通っている道。

 そこにいる、人ではない番人たち。

 そして、その様子がおかしいと感じた直後に起きたという異変。

 地面が沈むような感覚。

 その直後には、この部屋にいたという。

 Ⅱ世は指先で机を軽く叩いた。

 「結果だけを見れば転移に近い。

  だが、時計塔で知られている空間移動の魔術として説明するには、不可解な点が多すぎる」

 「そして、エリアス・エインズワース」

 ライネスが、その名前を口にする。

 先ほど智世から聞いたばかりの人物だ。

 「聞いたことがない人物だね」

 「私もだ」

 Ⅱ世は眼鏡の奥で目を細めた。

 魔術師の世界は広い。

 それでも、智世が語った人物がどのような魔術師なのか、現時点では何一つ分からない。

 ましてや、彼女はその人物から魔法を教わっているという。

 「それなのに、彼女は魔法の師匠だと言った」

 「そうだ」

 ライネスは鞄へ視線を落とした。

 「中には何が入っているのかな?」

 「勝手に開けるな」

 Ⅱ世は即座に釘を刺した。

 「分かっているよ」

 ライネスは肩を竦める。

 「ただ、彼女の身元を考える材料にはなるだろう?」

 「明日、本人の許可を取ったうえで確認する」

 短い返答だった。

 ライネスも、それ以上は言わなかった。

 Ⅱ世が慎重なのは、何も鞄に限った話ではない。

 少女について、まだ何一つ確かなことがないからだ。

 「彼女が危険人物だと決まったわけではない。しかし、安全だと決まったわけでもない」

 「……はい」

 グレイが静かに頷いた。

 Ⅱ世は再び鞄へ目を向ける。

 今は開けない。

 知るべきことは、本人から聞けばいい。

 それよりも、今夜のうちに整理しておくべきなのは、別の問題だった。

 「それに、あの犬も気になる」

 「ルツですか?」

 「そうだ」

 昼間、智世の前へ出た黒い犬の姿が脳裏に浮かぶ。

 ただ主人に従うだけの使い魔ではなかった。

 智世が危険に晒されると判断すれば、自分の意思で前へ出る。

 こちらの言葉を理解するだけでなく、自ら言葉を返すだけの知性も備えていた。

 それでも、智世が制すると無理に動こうとはしなかった。

 その一連の行動には、単純な命令への服従とは違うものが感じられた。

 「普通の使い魔ではない」

 「でも、智世さんを守っていました」

 グレイの声には、わずかな温かさがあった。

 「ああ」

 Ⅱ世は彼女を見る。

 「だからこそ、彼女にとっては信頼できる存在なのだろう」

 ライネスが微笑む。

 「ずいぶんと仲が良さそうだったね」

 「家族だと言っていました」

 「なるほど」

 ライネスは少しだけ目を細めた。

 その言葉を面白がるというより、何かを確かめるような表情だった。

 「では、明日はそのあたりも含めて、もう少し詳しく話を聞こうじゃないか」

 「そうする」

 Ⅱ世は頷いた。

 今夜のところは、これ以上考えても答えは出ない。

 情報が足りなすぎるのだ。

 明日になれば、智世本人からさらに話を聞くことができる。

 鞄についても、その時に確認すればいい。

 それまでは、憶測だけで結論を出すべきではない。

 「では、今日はもう休もう」

 Ⅱ世がそう告げると、グレイが立ち上がった。

 「はい、師匠」

 ライネスも続いて席を立つ。

 「おやすみ、兄上」

 「……ああ」

 二人が部屋を出ていく。

 扉が閉まると、部屋には再び静けさが戻った。

 Ⅱ世はしばらくその場を動かなかった。

 窓の外には、夜のロンドンが広がっている。

 普段なら見慣れたはずの街並みも、今夜ばかりはどこか遠く感じられた。

 やがてⅡ世は、もう一度だけ机の上へ目を向ける。

 羽鳥智世。

 エリアス・エインズワース。

 そして、魔法使い。

 どれも、今の彼には簡単には結びつかない言葉だった。

 だが、明日になれば何かが見えてくるかもしれない。

 そう考え、Ⅱ世もまた灯りを落とした。

 

 *

 

 その頃。

 智世たちが帰るはずだった家では、エリアスが窓辺に立っていた。

 夜はすでに深い。

 窓の向こうに広がる街も、昼間とは違う静けさに包まれている。

 いつもなら、とっくにチセが帰ってきている時間だった。

 最初のうちは、エリアスもそれほど気にしていなかった。

 カレッジで誰かと話し込んでいるのかもしれない。

 あるいは、帰り道で何か用事ができたのだろう。

 チセが少し帰るのが遅くなることくらい、珍しいことではない。

 そう思っていた。

 けれど、時計の針が進んでも玄関の扉は開かなかった。

 エリアスは窓から離れ、部屋の中へ目を向ける。

 静かな家だった。

 あまりにも静かで、普段なら気にも留めない小さな物音まで耳に届く。

 食器の触れ合う音。

 床を掃く音。

 そして、玄関の方から聞こえるはずの足音はない。

 「……遅いね」

 呟きは、誰に向けたものでもなかった。

 返事はない。

 少し離れたところでは、シルキーがいつものように家の中を整えている。

 食事の支度を終え、使われた食器を片付ける。その手つきに乱れはない。

 けれど、時折その動きが止まった。

 シルキーが玄関の方へ顔を向ける。

 扉は閉じたままだ。

 しばらくすると、また静かに片付けへ戻る。

 それでも、少し経てば再び玄関へ視線が向いた。

 何度目かのその動きを、エリアスは見ていた。

 「チセ、まだ帰ってこないね」

 シルキーは答えない。

 ただ、小さな身体がほんの僅かに揺れる。

 エリアスには、それだけで十分だった。

 シルキーも待っている。

 いつもなら、もう帰っているはずのチセを。

 エリアスは窓辺へ戻った。

 外の暗闇を眺めながら、今日のチセの姿を思い返す。

 カレッジを出る頃には、いつも通りだったはずだ。

 帰り道も、いつも使っている道を通ると言っていた。

 ならば、どうして帰ってこないのだろう。

 エリアスは視線を落とした。

 チセだけなら、まだ理由を考えられる。

 しかし、今日はルツも一緒のはずだった。

 ルツはチセを放っておくようなことはしない。

 何かあれば、必ず傍にいる。

 だからこそ、二人とも帰ってこないという事実が、

 エリアスの中に小さな引っ掛かりを残していた。

 「……ルツも一緒なのに」

 口に出した途端、その違和感がはっきりした。

 何かが起きた。

 そう考える方が自然だった。

 エリアスはしばらく黙り込んだ。

 いつもならば感じるはずの、チセの気配がない。

 家の中にいるわけではない。

 近くを歩いているわけでもない。

 もちろん、少し遠くにいるだけなら分からないこともある。

 それでも、胸の奥に残る妙な空白を無視することはできなかった。

 「何があったのかな」

 エリアスは小さく呟いた。

 シルキーが顔を上げる。

 その目が、エリアスを見る。

 エリアスは一瞬だけ考え、それから静かに頷いた。

 「少し、見てくるよ」

 シルキーは動かなかった。

 けれど、その視線だけはエリアスから離れない。

 「大丈夫」

 エリアスは穏やかに続ける。

 「チセとルツを連れて帰ってくる」

 その言葉を聞いて、シルキーは小さく頭を下げた。

 エリアスは外套を手に取る。

 玄関へ向かいながら、チセが普段使っている帰り道を思い浮かべた。

 いくつかの道がある。

 その中でも、チセがよく使っているのは、あの裏道だった。

 表通りから少し外れた、細い道。

 チセが普段から通っていることもあって、エリアスにとっても特別な場所ではない。

 ただ、そこには以前から番をしているような存在がいた。

 チセがそれを気に留めることもあったが、これまで特に問題が起きたことはない。

 だからこそ、今日に限って帰ってこないという事実が気に掛かった。

 エリアスは扉を開けた。

 冷たい夜気が家の中へ流れ込む。

 その向こうには、暗い街並みが広がっていた。

 「探しに行こう」

 誰に言うでもなく、エリアスはそう呟く。

 扉が閉まる。

 その向こう側で、シルキーはしばらくその場に佇んでいた。

 やがて静かになった家の中には、エリアスが出ていく前と同じ夜の気配が戻ってくる。

 けれど、玄関だけはいつもと違って見えた。

 帰ってくるはずの二人を待つように、シルキーはそこから動かなかった。

 *

 エリアスは、いつもの道を歩いていた。

 夜の街には人の姿もある。

 遠くから聞こえる話し声や、車の音。

 窓から漏れる明かり。

 普段と変わらない夜の景色が続いている。

 それでも、エリアスの意識は周囲のすべてを拾っていた。

 チセの気配。

 ルツの気配。

 何か変わったものがないか。

 歩く速度はいつもより僅かに速かった。

 やがて、いつもの道から外れる。

 裏道へ近づいたところで、エリアスの足が止まった。

 「……あれ?」

 ほんの僅かな違和感だった。

 何かが見えるわけではない。

 音がするわけでもない。

 それでも、空気の流れがいつもと違っていた。

 エリアスは黙って周囲を見回す。

 夜の匂い。

 湿った石の匂い。

 風に混じる街の気配。

 そのどれもが、確かにここにある。

 けれど、その奥に、説明しにくい何かが混じっている。

 魔力の流れも、僅かに乱れていた。

 大きな力が残っているわけではない。

 むしろ、何かが通り過ぎた後のような、ごく薄い痕跡だった。

 エリアスは目を細める。

 指先を伸ばすこともなく、ただその場に立ったまま周囲を感じ取ろうとする。

 「……チセ?」

 呼び掛ける。

 返事はない。

 ルツの声も聞こえなかった。

 いつもなら何かしら感じ取れるはずなのに、

 二人の存在だけが、この場所から綺麗に抜け落ちている。

 エリアスは裏道の奥へ目を向けた。

 そこにある景色は、昨日までと変わらないように見える。

 けれど、何かが違う。

 言葉にするなら、それは「残っている」という感覚だった。

 誰かがここにいた。

 何かがここで起きた。

 そんな、ごく僅かな痕跡だけが夜の中に沈んでいる。

 エリアスはゆっくりと歩を進めた。

 足元を確かめる。

 周囲の気配を探る。

 それでも、チセの姿は見えない。

 「どこにいるのかな」

 返事の代わりに、夜風が裏道を抜けていく。

 エリアスはその風を感じながら、さらに奥へ進んだ。

 何が起きたのかは、まだ分からない。

 どうしてチセとルツが帰ってこないのかも分からない。

 ただ、この場所に何かが起きたということだけは感じ取れる。

 エリアスは足を止めなかった。

 その異変の先へ、静かに足を踏み入れていった。

 

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