『魔法使いの嫁 × ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 ――魔法使いと魔術師、その隣人たち――』 作:丹波りん
教室棟を出たⅡ世たちは、防衛術の講義が行われる鍛錬棟へと向かっていた。
地下に造られた学院は、地上の施設とは比べものにならないほど広い。
いくつもの棟が階層ごとに配置され、授業だけでなく、
研究や生活、実習に至るまで、それぞれの目的に合わせて区分されている。
エントランスフロアや、エリザ学長と話をした来客室などがある【管理棟】
生徒たちが住まう【宿舎棟】
授業や実験を行う【教室棟】
貴重な本を管理する【図書管理棟】
学生ではない魔術師たちの研究室が集まる【実験棟】
運動や実習のための【鍛錬棟】
そして、危険物の取扱所でもある【廃棄棟】
七つの棟を思い浮かべながら歩いていると、Ⅱ世は改めてこの学院の規模を実感した。
大英図書館の地下に、これほどの施設が存在している。地上から見れば、
そこに魔術師たちのための巨大な学院が広がっているなど想像すらできないだろう。
やがて一行は、目的地である鍛錬棟へと辿り着いた。
扉を抜けた先には、広々とした空間が広がっている。
すでに何人もの生徒が身体を動かしており、
走る者、器具を使って鍛える者、その周囲で声を掛け合う者までいる。
頭上には、青空が投影されていた。
地下にいるという事実を忘れさせるほど自然な空だった。
「随分と運動のための設備が整っているね。ボルダリング設備まであるなんて」
ライネスが周囲を見渡す。
その視線を追えば、壁面には大小様々な突起が取り付けられ、
学生たちがそれを使って身体を鍛えている。
魔術師の学院という言葉から想像する光景とは、ずいぶん違っていた。
「ウーピー先生の趣味らしいですよ」
智世が答える。
「体育教育の必要性はわからないでもないが、魔術師の学院とは思えないな」
Ⅱ世は小さく息を吐いた。
時計塔であれば、魔術の研究や講義が行われる場所に、
これほど本格的な運動設備が置かれることはまずない。
魔術師にとって肉体は、魔術を扱うための器ではあっても、
鍛錬そのものを目的とする対象ではない場合が多い。
そんなⅡ世の考えを見透かしたように、背後から声がした。
「あら、魔術師であっても体力は必要よ」
振り返った先に立っていたのは、一人の女性だった。
いや、人間の女性と呼ぶには、その姿は少しばかり異なっている。
頭部がスライムのような形状をしている、学院の体育教師――ウーピーだった。
突然現れた彼女を前に、フラットとグレイの視線が自然とその頭部へ向かう。
好奇心を抑えようとしているのが、かえって分かりやすい。
「あら。変転者は、そちらではやはり珍しいかしら?」
その言葉に、グレイが慌てて視線を戻した。
「すっ、すいません。不躾に見てしまって」
「気にしないでいいのよ。初めて見る人は気になるでしょうしね」
ウーピーは気にした様子もなく笑った。
学院に来てから、Ⅱ世たちは人とは異なる姿をした変転者に何度か遭遇している。
音の魔術を担当するシメオン教授。
救護教員でもあるアレクサンドラ。
そして、目の前にいる体育教師のウーピー。
姿形はそれぞれ異なっているが、共通しているのは、
誰もが学院の中で一人の教員として自然に受け入れられていることだった。
Ⅱ世は、そのことを以前から気にしていた。
魔術師の世界は、血統や能力、所属する家系によって人間を分類することが珍しくない。
まして、人間とは異なる姿になった者が、どのように扱われるのか。
聞いておく価値はある。
「差し支えなければ、あなた方のような変転者は、
学院ではどのように扱われているのでしょうか?」
問いかけに、ウーピーは少しだけ考えるような間を置いた。
「そうねぇ……昔は嗤われもしたわ」
先ほどまでの明るい調子から、ほんの少しだけ声の温度が変わる。
「自分の技量すら見切れない、人間の形すら失った、と差別もされたものよ」
Ⅱ世は口を挟まず、その言葉を聞いていた。
「今でこそ、部分変異や変転、欠損や負傷は、ある意味では名誉なことになっているわ。
それだけ危険な実験なんかを臆さず実行した者だってね」
「なるほど」
短い返事を返しながらも、Ⅱ世は学院の中を改めて見渡した。
ここまで見てきた限り、姿形の違いを理由に排除するような様子はない。
それどころか、誰もがそれぞれの知識や技術を持った人間として扱われている。
「ただ、不便もあるわ。この姿になってから外には行けないし…
…若い子がこうなるのは、個人的にはちょっとね」
その言葉には、教師としての立場とは別の、個人的な感情が滲んでいた。
Ⅱ世はそれ以上を尋ねなかった。
変転というものが、単なる外見の変化ではないことくらいは理解できる。
魔術師が自らの研究を追い求めた結果、その身体そのものを変えてしまうこともある。
それを学院では一つの成果として受け止める一方で、当人にとっては失うものもあるのだろう。
「あの……触ってみてもいいですか?」
しんみりしかけた空気を、フラットの声があっさりと壊した。
Ⅱ世が振り返る。
見ると、フラットは目を輝かせたままウーピーを見上げていた。
「おい、フラット」
反射的に制止する。
だが、ウーピーは怒るどころか楽しそうに笑った。
「あらあら、本当に好奇心旺盛ね」
「申し訳ない。弟子が失礼を」
「気にしないで下さいな。好奇心旺盛なのは、魔術師の子にはいいことですから」
許可が出ると、フラットは嬉しそうに一歩近づいた。
そして、おそるおそる手を伸ばす。
指先が頭部に触れた瞬間、その顔がさらに明るくなった。
「ぷにぷにしています!」
「……まったく」
Ⅱ世は額を押さえる。
注意しても、こういうところだけは遠慮がない。
しかしウーピーは気を悪くした様子もなく笑っている。
その様子を見ていたライネスも、口元をわずかに緩めていた。
***
鍛錬棟の一角では、ボルダリング設備を使った訓練が続いていた。
壁に取り付けられた突起を、生徒たちがそれぞれの速度で登っていく。
その様子を眺めていたジャスミンが、ふとライネスへ視線を向けた。
「君もやってみるかい? 意外と面白いよ」
誘われたライネスは、壁を見上げた。
しばらく眺めた後、興味を失ったように視線を戻す。
「私は遠慮するさ。汗をかくのは趣味ではないからね」
「魔術師だからって、少しは運動しないと、いざという時に動けなくなるよ。健康にも悪いし」
「是非、兄上にも言ってやってくれたまえ」
ライネスの視線がⅡ世へ向いた。
「あの体力のなさには、我が義兄ながら呆れもするしね」
「……君も人のことは言えないだろうに」
Ⅱ世が呆れたように返す。
ライネスは悪びれた様子もなく笑った。
「魔術師という生き物は、どうしても自分の研究室に引き籠りがちになりますしね。
研究や依頼でフィールドワークもするでしょうに」
ウーピーが二人を眺めながら言葉を添える。
「耳が痛い話ですな」
Ⅱ世は苦笑した。
実際、反論しにくい。
時計塔での研究生活を思い返せば、
身体を動かす時間より机に向かっている時間の方が圧倒的に長かった。
そんな大人たちの会話をよそに、グレイは壁の前に立っていた。
視線を上へ向け、次に手元の突起へ目を移す。
一度、足場を確認すると、迷いなく手を伸ばした。
次々と突起へ手をかけ、身体を引き上げていく、無駄な動きがない。
普段から身につけている戦闘訓練が、そのままこうした動作にも表れているようだった。
「グレイは運動が得意なんだね」
ヴァイオレットが感心したように見上げる。
「大人しそうに見えて意外だねぇ。Ⅱ世さんの守護者なのかな?」
その言葉に、Ⅱ世の眉がわずかに動いた。
「グレイは内弟子ではあり、護衛もこなすが……君の言う守護者とは?」
ヴァイオレットが答えようと口を開く。
「えぇ、それなら――」
しかし、その前にリアンが一歩前へ出た。
「待て。俺の家系のことだ。俺から話す」
律儀な性格らしい。
彼はⅡ世へ向き直ると、改めて姿勢を正した。
「リアン・スクリムジョーと申します」
「スクリムジョー……《七つの盾》、魔術の大家の一つか」
聞き覚えのある家名だった。
Ⅱ世も、相手を改めて見る。
「失礼、エルメロイⅡ世だ。よければ説明してもらえるか」
「はい」
リアンは頷いた。
「俺の家、スクリムジョー家は、魔術に明るい《護り手》を多く輩出した家柄です。
学院の外では争いごとも多いので、他家の魔術師から依頼され、守護…
…要人警護や護衛をこなすのが主な役割となります」
「なるほど。だから【守護のスクリムジョー】か」
魔術師同士の争いが存在するのは、こちらの世界でも変わらないらしい。
魔術師という人種を考えれば、それ自体はさほど不思議なことではない。
それでも、この学院にいる間だけは、
そうした世界から切り離された場所にいるような感覚があった。
「感謝する、リアン氏」
「リアンで構いません。この先、交流が増えれば問題ごともまた増えるでしょう。
その際は、我が家系にご依頼下さい」
淡々と告げると、リアンは一礼した。
「では、訓練がありますので、これで」
そのまま彼は、鍛錬場の別の区画へ向かっていった。
「随分真面目な子だね」
ライネスがその背中を見送る。
「少し頭が固いところが玉に瑕さ」
ヴァイオレットが肩をすくめた。
「君たち双子も同じ大家ではないか。確か【獣殺しのセント=ジョージ】だったかな」
「うちの場合は、大家といっても落ち目だしねぇ」
ヴァイオレットの表情に、少しばかり自嘲するような色が浮かぶ。
「毒を吐く竜も、洞窟に潜んで夜な夜な村を襲う怪物だっていないし、
吸血鬼も人狼も、人の波に押されて隠れ住む時代だしねぇ」
ジャスミンも姉の言葉を引き継ぐ。
「まぁ、私たちの出番がないのは、
人間の世界が安定した証拠だし、悪いことではないんだけどね」
「お役御免ってのも寂しいものさ」
ヴァイオレットはそう言って、鍛錬場の向こうへ目を向けた。
かつてならば、彼らのような一族が必要とされた時代もあったのだろう。
今では、それらが物語の中に追いやられつつある。
「そう卑下するものでもないよ」
ライネスの声音は穏やかだった。
「セント=ジョージ家は、純粋な魔術師の家系でもないんですよ」
ヴァイオレットが少しだけ姿勢を正す。
「古代から人の世界で暴れていた『竜』や『怪物』。
それらと戦ううちに、魔術と『共生』するようになった人々が集まって成立したのが、
【獣殺し】の一族、セント=ジョージなんです」
魔術師の家系というだけではない。
人ならざるものと戦い、その力を利用するのではなく共に生きることで、
自らの在り方を築いてきた一族。
これまで学院で見てきた魔術師たちとは、また違った歴史を持っている。
「家に歴史あり、だね。貴重な話をどうも」
「いえいえ」
ヴァイオレットは笑って答えたものの、すぐに周囲を見渡した。
何かを探すような仕草だった。
「……それにしても、遅いなぁ」
「防衛術の講師のことかね? 確かに、まだお見えにならないな」
Ⅱ世も周囲を見渡す。
講義の開始時間は、すでに近づいている。
それらしい人物の姿は、まだどこにも見えなかった。
「どうせまた、生徒への無理難題でも考えてるんでしょ」
ジャスミンが呆れたように言った、その直後だった。
「聞こえてるぞ。ガキども」
低い声が鍛錬場に響いた。
ヴァイオレットとジャスミンの顔が、同時に引きつる。
「「げっ」」
二人が揃って嫌そうな顔をした。
その反応だけで、これから現れる人物が彼女たちにとってどういう存在なのか、
ある程度察することができる。
一同が声のした方へ視線を向ける。
そこから、一人の男が歩いてきた。
鍛錬場へ向かう足取りには迷いがなく、
周囲の生徒たちも彼の姿を見ると自然に道を空けていく。
「ん? あんたらが今回、見学するっていうお客人かい?」
男の視線が、Ⅱ世たちへ向けられた。
Ⅱ世もまた、相手を見据える。
「あなたは……」
男は不敵な笑みを浮かべた。
「俺は、ファビオ・ザッケローニ。学院との契約によって防衛術の訓練を行う
……まぁ、臨時講師ってとこだ」