異世界を救ったTS姫様と勇者は、現代に帰還しても男女カップルチャンネルの配信でてぇてぇ営業して生きていく。ダンジョン配信もやるよ 作:vhuphje
黒い線は、まだそこにあった。
「近づかないで」
イオリの声が飛んでくる前に、俺はもう止まっていた。
黒い線まで10メートル。
足元は平ら。右には黒い根、左には観測器。
後ろの退路に魔物の気配はない。
俺が斬るなら、届く。だが、斬っていいものには見えなかった。
イオリは観測器の前へ片膝をついたまま、左腕の端末を操作している。
さっきまで青かった観測器の表示灯は、まだ変わっていない。
端末の数値も正常域。
目の前にあるものを、地球の機械はまだ異常として認識していなかった。
「魔力値は?」
「変化なし。空間歪曲値も――」
黒線が揺れた。
音はしない。
それでも、周囲の水滴と結晶音が、一瞬だけ遠くなった。
「イオリ」
「分かってる」
イオリの指が速く動き、観測器の測定範囲を変え、記録間隔を短縮して、緊急通報用のデータをまとめていく。
顔は白い。それでも、配信へ向ける声は始めた時と同じだった。
「現在、予定外の空間異常を確認しています。視聴者のみなさんは、画面に表示されている場所を特定しようとしないでください。第三新宿ダンジョン第七階層は、許可のない探索者が立ち入れる区画ではありません」
俺は黒線を見たまま聞いていた。
怖がっている。
たぶん。
イオリは怖い時ほど、説明が正確になる。
『また端末より先に止まった?』
『何』
『黒い』
『動いた?』
『数値は正常なの?』
『今北何これ』
コメントは流れている。でも、イオリは見ていない。
端末の表示が黄色へ変わった。
遅れて、観測器の表示灯も青から赤へ切り替わる。
甲高い警告音が、第七階層へ響いた。
『うわ』
『警報』
『音でかい』
『さっきの狼も勇者が先だった』
『帰った方がよくない?』
「緊急データ送信。探索庁への自動通報が入りました」
黒線が、少し太くなった。
空間が裂けているというより、向こう側から押し広げられているように見える。
「斬るか?」
俺は聞いた。
イオリが顔を上げる。
「絶対にだめ!」
速い。
考える間もなかった。
「空間異常へ空間切断をぶつけたら、広がる可能性がある。閉じる保証もない。いまは触るな。魔力も当てるな。剣も抜くな!」
「分かった」
「本当に分かった?」
「抜かない」
「ならいい」
イオリはまた端末へ目を落とした。
俺は剣の柄から手を離す。
いつもなら、分からない敵は斬れば止まる。
今回は違うらしい。
なら、イオリに任せる。
黒線が、縦に開いた。
『え』
『まずい』
『開いた』
『ドローンぐらぐら』
『向こうに何かある』
『これ終了です』
『異世界演出きちゃああ!』
追従ドローンの映像へノイズが走る。
裂け目から強い風が吹いた。
黒い小型機がぐらりと傾き、高度を失った。
床へ落ちる直前、配信映像が自動で俺の右肩カメラへ切り替わる。
画面の中央から、イオリが消えた。
代わりに、俺が見ているものが、そのまま映る。
縦に開いた裂け目の向こうには、灰色の天井と黒い石床、途中から折れた柱、焼け焦げた壁が見えた。
見えているのはほんの一部だ。それでも間違えない。3年間、何度も遠くから見て、最後には二人で中へ入った場所だった。
「魔王城……」
イオリが言った。
声が少し低い。
俺は振り返らなかった。
背後にいるのは分かる。息も聞こえるし、端末を操作する音も止まっていない。
まだ、イオリは問題ない。
『今の、お城?』
『魔王城って言った?』
『合成?』
『観測器も鳴ってる』
『アイコラだろ』
『異世界は知らんけど現象はガチっぽい』
答えのない、短い困惑が流れていく。
イオリは緊急記録と現在位置を保存し、通信状態を確認して、退路の地図を表示する。
一つずつ、必要な処理を進めていた。
俺は一度だけ、肩越しにその手元を見た。
左手の指先が少し震えていた。
「帰路は?」
俺が聞く。
「標定済み。来た道に新しい反応なし。端末の退路表示も生きてる。追従機は復帰不能。配信の本線はリョウの右肩へ切り替わってる。僕がつけてるカメラも、記録だけは継続してる」
「魔物は?」
「周辺反応なし」
「なら戻れる」
「撤退準備を始める。観測器との接続を切るまで、映像と音声だけ記録する。帰路は保ってる」
イオリが観測器との接続解除の手順へ入った、その時。
裂け目の向こうで、何かが動いた。
柱の陰から、人の形をした影が出てくる。
遠くて顔は見えず、誰なのかも分からない。黒い外套のようなものを着ている。
影は、こちらへ一歩近づいた。
裂け目の奥から、潰れた音が聞こえる。
『何かいる』
『人?』
『今声した?』
『音小さい』
『リョウ下がって』
ノイズに混じり、言葉が届いた。
「――勇者」
俺を呼んでいる。
異世界で何度も向けられた呼び名。
声には聞き覚えがなかった。
影が、今度は俺の後ろへ顔を向ける。
「――姫君」
イオリの端末を操作する指が止まった。
姫君という呼び方自体は、珍しくない。
向こうでは、三年間そう呼ばれていた。
向こうは、俺とイオリを見分けている。
俺を勇者。イオリを姫君。それだけは分かった。
『は?』
『え』
『勇者?』
『姫君って聞こえた』
『今二人を呼んだ?』
『誰の声』
『向こうが二人を知ってる?』
『!?』
「返事、するか」
俺は裂け目を見たまま聞いた。
誰なのか知りたかった。
俺たちを知っているなら、向こうで何が起きているのかも聞きたかった。
背後で、小さく息を吸う音がした。
「……したい」
イオリは、すぐに答えた。
「僕たちは無事だって言いたい。ちゃんと二人で地球へ着いたって。セシリアたちにも、みんなにも――」
そこまで言って、イオリは声を止めた。
イオリの反応も映しておく。
俺は裂け目から目を離さないまま身体をずらし、右肩のカメラへイオリの横顔を入れた。
黒灰色の目の端から、涙が一筋だけ頬へ落ちた。
イオリは拭わなかった。
端末を握り直し、裂け目の向こうに立つ影を見る。
「でも、誰だか分からない」
「声は?」
「覚えがない。顔も見えない。僕たちを勇者と姫君って呼んだからって、仲間とは限らない」
影が、もう一歩こちらへ近づいた。
俺たちを知っている。
それだけしか、分かっていない。
「名前だけ聞くか?」
「返事をしたら、こっちに声が届いてるって教えることになるよ」
イオリは端末へ目を落とした。
『返事しないの?』
『誰なのか聞いて』
『待て相手が分からん』
『仲間かもしれないだろ』
『無事って伝えたいよな』
『ついに異世界編来る???』
『エキストラ?』
「……いまは、返事しない」
イオリが言った。
「映像と音声は取れた。誰なのか分かってから答える」
「ああ」
同時視聴者数が跳ねた。
コメントの速度も、それまでとは明らかに違う。
『第三新宿の第七って』
『北東区画って言って』
二件とも、数秒で消えた。
コメント欄の上へ、運営の注意が固定される。
【区画・座標の特定、現地への接近を示唆する投稿は削除します】
イオリは見ていない。
イオリはコメント欄を見ず、裂け目を見ている。
第三新宿で、本当に向こう側が映っているかもしれない異常が起きた。そのせいで、普段の髪結いや言い合いとは違う理由から人が押し寄せている。
イオリは端末の同接表示へ一度だけ目を落とし、すぐに言った。
「配信を切る」
誰なのかは知りたかった。
魔王城が、いまどうなっているのかも。
だが、イオリが切ると言ったなら、ここで終わりだ。
『えええええ』
『もう少し見たい』
『切る判断は信用できる』
『異世界は保留でいいから帰って』
『配信より帰還優先たすかる』
『ちゃんと二人で戻って』
『撮れ高放棄するのか?!』
「みなさん、緊急事態のため、本日の配信はここまでです」
イオリの声は乱れなかった。
「僕たちも、誰が呼んでいるのか確かめたい。でも、相手も、この現象の原因も分からない状態では続けません。ここから先は配信を終了します」
影が、向こう側から裂け目にむかって手を伸ばす。
俺はイオリの前へ移動し、身体を斜めにしてカメラを裂け目から外した。
画面には、俺の肩越しに、その後ろにいるイオリの横顔だけが残る。
「この区画には絶対に近づかないでください。探索庁から公式発表があるまで、切り抜きや画像から場所を特定しようとする行為もやめてくださいね?」
イオリは配信を終わらせる準備と、逃げる準備を同時に進めていた。
探索ジャケットの胸元に固定したカメラと端末を確認し、観測器との接続を切って、腰の回収袋を閉じる。
髪の右側が緩んでいる。
さっき追従ドローンが傾いた時、強い風が吹いてきた。
白い毛束が結び目から少し抜け、探索ジャケットの低い襟へ引っかかっている。
走れば、もっと落ちる。
俺は片手を後ろへ伸ばしてほどけかけた髪をまとめる。
「何?」
「髪」
「いまやる?」
「走るなら危ないから」
裂け目からは目を離さない。
指だけで、緩んだ毛束を戻す。
髪を持ち上げると、白いうなじが肩カメラの端へ映った。
抜けた白い毛束が、指の間をさらりと通る。
結び目へ戻し、きゅっと締める。襟へ挟まった髪を抜く。
『草』
『ああw』
『今直してる??』
『世界の危機より姫様の髪』
『危ないから仕方ないね』
『ようやっとる』
『逃げ遅れたらどうすんの』
『〈かわいい〉』
「世界の危機より優先してない! 撤退の安全確認だからね!」
イオリが反射的に叫んだ。怖がっていても、そこには反応する。
その声なら、まだ大丈夫だ。
「終わった」
「結び目、もう大丈夫?」
「その胸元のカメラも生きてる」
「そっちは聞いてないよ!」
「結び目も問題ない」
「最初からそう言って」
『通常運転やんけ』
『大丈夫そう?』
『いつもの姫様だ』
『〈安全確認〉』
『早く帰って』
『気をつけて』
どこが切り取られるかは、俺にも分かった。
イオリが軽く挨拶して配信終了ボタンを押す。
画面へ終了表示が出た。
+++++
視聴者には見えなくなった。
それでも、俺の手はまだイオリの結び目に添えられていた。
「もういい?」
「走っても落ちない」
「分かった。戻る」
イオリが立ち上がると、黒いカーゴパンツの膝には白い結晶の粉がついていた。
顔色はまだ悪く、頬に残った細い涙の跡も拭いていない。それでも、端末を持つ手はもう震えていなかった。
「リョウ、前。僕が帰路を保つ」
「ああ」
「裂け目は見るな。反応しても戻る。声をかけられても返事するな」
「分かった」
「剣も抜くな」
「分かった」
「本当に?」
「三回目だぞ」
「リョウは目を離すと斬るから!」
「目の前にいるだろ」
「そういう問題じゃないよ!」
いつもの声に戻っている。
それをたしかめて、俺は前へ出た。
黄色い誘導線の先に、帰路が続いている。
後ろにはイオリがいる。
それでいい。
俺は振り返らなかった。
通路を曲がるまで、背中の側の空気は冷たいままだった。
あの裂け目が閉じる音は、最後までしなかった。
3話をお読みいただきましてありがとうございました!
この物語のなかではじめての配信はまさかの途中終了でした。
次回はふたりを見守った掲示板のみなさんをお届けする予定です。
掲示板の民とともにふたりを見守っていただけると嬉しいです。
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