逮捕状にサインを書こうとするやつは、二十年の警察人生で初めてだった。
「どちらの社の方ですかな? 取材でしたら宿の帳場を通していただきたいんですが――いや、いい。せっかくです、特別に応じましょう!」
ギルデロイ・ロックハートは日野道広が差し出した令状を両手で恭しく受け取ると、どこからか取り出した孔雀の羽根ペンを紙の上で優雅に旋回させた。忘れな草色の浴衣に、寝乱れた様子のまるでない金の巻き毛。三脚の上では自動撮影の魔法カメラが小さく身じろぎし、部屋の隅には空の徳利が綺麗に三列に並べてある。並べたのは仲居だろう。その仲居の丸一日分の記憶を、この男は消している。
「サインは結構」
日野は英語で言った。英語は実務でしか使わない。実務の英語は、丁寧に喋ろうとすると却って通じない。罪状で読み上げる単語自体は専門用語なので小難しいが、それ以外はできるだけ砕けたトーンにするのが、通じやすさのコツだ。それでも通じなければ、肉体言語で何とかなる。
「それは逮捕状ね。あー、ギルデロイ・ロックハートさん、二十八歳、職業・作家。国際機密保持法違反ならびに不正記憶魔法行使防止法違反の疑いにより――」
「ああ、分かりましたよ」
ロックハートは羽根ペンを置かずに、輝くような笑顔で膝を打った。
「日本のファンクラブの入会審査ですね? もちろん聞いてますとも、日本の読者は熱心だと。安心してください、審査は合格です。君の入会を認めようではありませんか」
歯が光った。魔法で口の中を洗ったのか、熱心に歯磨きしたのか、判別がつかない。直感では後者だ。よくよく見ると、一番手前の臼歯の付け根に海苔がついている。
日野は令状を静かに引き戻し、内容を英語で最後まで読み上げた。被疑事実の要旨。弁護人選任権。相手の顔から順に、笑顔の部品が一つずつ外れていくのが分かった。最後まで残ったのは歯の光だった。あと海苔。
「……オブリビエイト、と言いましたか、今」
「言ったねえ。三週間前の夜、この宿の裏手の集落だけど」
「はて。記憶にありませんね」
「だろうねえ。他人の記憶を消して回る人間ほど、自分の記憶には自信持ってるから」
ロックハートは羽根ペンを畳に置いた。その手が帯のあたりへ滑るのを、日野は目ではなく気配で追った。杖だ。浴衣に帯、その帯に杖という取り合わせを、この男は三週間かけて習得したらしい。学習能力はある。使いどころが壊滅的なだけで。
日野ならそもそも帯に杖を入れる発想にはならない。キツく締めなければ浴衣は緩んでだらしなくなるし、キツく締めれば杖を引き抜くのに一拍必要になる。その一拍が、たいていの場合致命的になる。
一応、警告はした。
「動くな。杖から手を離せ」
「一つ言っておきましょう」
ロックハートは立ち上がった。立ち上がりながら、無駄に髪を掻き上げた。
「僕は『泣き妖怪バンシーとのナウな休日』の著者です。週刊魔女のチャーミング・スマイル・コンテスト、五年連続受賞。その僕が杖を抜くところを見られるとは、君も運のいい――」
口上が長い。構えが大きい。呪文の頭が、口の形で読める。
日野は既に半歩、行灯の影の中に身を沈めていた。
「オブリビエイト!」
閃光は日野のいた場所を通過し、開け放った窓の外の闇へ抜けた。遠くで犬が一声吠え、なぜ吠えたのか忘れた声で鳴きやんだ。
畳を蹴る。二歩で距離が潰れる。杖手首を取り、外へ捻る。杖が畳に落ちるのと、ロックハートの体が卓袱台の脇に崩れるのがほぼ同時だった。袖口から白く細いものが滑り出て、生き物のような速さで被疑者の両手首に三重に巻きつき、結び目を作って締まった。行灯の火が一拍だけ揺れ、壁の影が一瞬、実際の人影より長くのびて、戻った。
制圧まで四秒。日野は懐中時計を見た。手帳にさっと書く。
「な……何を、僕の手に、この紙は――取りたまえ、ええと、君、外れない、これは外れないぞ?」
「そりゃそうだ、外れないように作ってあるんだから」
日野は落ちた杖を検分し、証拠品袋に収めた。
「はい、二十一時十七分、公務執行妨害の現行犯ね。あー、杖の他に危ないもの持ってたりしない?」
「待ちたまえ、話せば分かる、僕は有名人だ」
「知ってるよ。だから令状に顔写真がいらなくて助かった」
廊下に出ると、騒ぎを聞きつけた番頭が青い顔で立っていた。三週間前、忘却術で夕方の記憶をまるごと失い、以来「狐に化かされた」と言い続けている男である。ロックハートは連行されながらその番頭に気づき、後ろ手に縛られた両手をお辞儀するようにして器用に持ち上げて見せた。
「やあ、君、心配いりませんよ、ちょっとした手違いです。そうだ、帳場に僕のサイン本を積んであったでしょう。一冊進呈しましょう、『グールお化けとのクールな散策』、いま日本で翻訳が――」
「はい、歩いてね」
「君、名前は?」
ロックハートは首だけ捻って日野を見た。
「次回作の謝辞に載せてあげましょう。『勇敢なる東洋の友人へ』――どうです、悪くないでしょう」
「はいはい、謝辞より先に調書に載るよ」
宿の外は、湯の匂いのする夜だった。共同浴場の灯りが石畳に落ち、側溝を温泉の余り湯が白い湯気を立てて流れていく。山の際に、件の集落の常夜灯が一つ見えた。日野はそちらを見ないようにして、見た。
取り調べ室は、公民館の奥にあった。
表向きは「郷土資料整理室」。段ボールに埋もれた奥の引き戸を正しい順序で三度叩くと、中は六畳の板間になる。机が一つ、椅子が二つ、記録用の自動筆記の筆が一本。地方分室の設備はどこもこんなものだ。筆は横浜の分室から借りてきた年代物で、速記が遅い。
その筆が、開始十分で音を上げかけていた。
「――そういうわけで、僕の作家人生はハンプシャーの小さな村から始まったんです。母は僕の才能を最初に見抜いた人でしてね。三人姉弟の中で魔法力があったのは僕だけだった。運命というものを感じるでしょう? そうでしょうとも。ホグワーツでは当然レイブンクロー、いや、実のところ組分け帽子はスリザリンとも相当に迷ったようですが――」
訊いたのは「職業と経歴」の一言である。返答は現在、幼少期の栄光を経て学生時代の武勇伝に差しかかっていた。筆はインクを飛ばしながら疾走している。日野は止めなかった。急かさず、遮らず、喋りたいだけ喋らせて、流れてくる言葉の中から使える石だけを拾う。取り調べというのは川底の砂金取りに似ている。この男の川は、水量だけは豊富だった。砂金は今のところ一粒もない。
実のところ、こいつの供述から砂金が生えてこずとも問題はなかった。拾うべき石はもう手の中にある。
発端は三週間前、一本の連絡だった。正規の通報経路ではない。集落の拝み屋、折居トメの孫娘から、人づてに人づてを重ねて、最後に日野の官舎の郵便受けに届いた手紙一通。ああいう筋の家は、警察に正面から駆け込まない。駆け込んだところで、まともに取り合われた歴史がないからだ。手紙は日野を名指ししていた。
祖母の様子がおかしい、と手紙にはあった。
日野は非番の日に、私費で汽車に乗って見に行った。
折居トメ、八十四歳。七つの歳に先代の背を追って山へ入って以来、雪の日も盆の入りも呼ばれれば出かけ、落とした憑き物の数も、落としきれずに拝み倒した数も、いちいち数えたことのないまま七十七年を憑き物落とし一筋で通してきた、中国地方でも数えるほどしか残っていない生き字引である。座敷に通されると、老婆は日野の顔を見て、それから日野の後ろあたりを見て、にこりと笑った。ああいう目をする婆様は、こちらの筋目を一目で見る。
「お客人は、落とさんでもええものをお連れじゃな」
「ええ。飼っているもので」
「ほうか。行儀のええことじゃ」
それが、まともな会話の最後だった。孫娘に促されて仕事の話になった途端、老婆の様子が変わった。手は動くのだ。塩を盛る手順、藁を綯う指、榊を振る角度――七十七年、体に染みた所作は完璧に流れる。だが、口が動かない。所作の要所要所で唱えるべき文言、師から口移しで受け継ぎ、弟子に口移しで渡すはずだった口伝が、綺麗に、外科手術のように、そこだけ消えていた。
老婆は自分の口が空回りするたび、不思議そうに首を傾げた。何かを忘れたことは分かる。何を忘れたのかが分からない。手だけが覚えている儀式を、老婆は途中まで何度もやりかけては、途中で迷子になった子供の顔をした。
孫娘は憶えていた。三週間前、集落に「歯の光るきれいな外国の方」が来たこと。作家を名乗り、日本の呪術の本を書くのだと言い、宿から酒を提げて三晩通ったこと。婆様は昔語りが好きだから喜んで話したこと。四日目の朝から、婆様の口から術が消えていたこと。
宿に戻れば仲居が一人、丸一日の記憶を失っていた。番頭も夕方の記憶がない。どちらも雑な仕事だった。マグルへの忘却術は本来、専門職が事後の整合まで含めて設計する精密作業である。この男のそれは、読み終えた新聞を破って捨てるのと同じだ。
そして今夜、宿の部屋から原稿の束が押収された。
日野は証拠品袋の上から、その一枚目を机に置いた。奔流のような自分語りが、ぴたりと止まった。
「これ、あんたの原稿で間違いない?」
「ええ、見紛うことなき僕の字です!」
ロックハートは縛られた手の不自由も忘れて身を乗り出した。
「扱いに気をつけてくださいよ、それは人類の財産になる予定の――」
「はい、下がって。表題を読み上げるよ。記録のためね」
日野は袋の上から題字を指でなぞった。
「『憑き物筋とツキまくりの日々』」
「発音が固いですね! 『ツキまくり』はもっと弾ませて。売れる題名にはリズムが要るんです。『グールお化けとのクールな散策』、ほら、口が勝手に動くでしょう? 題名で本は三割売れるんです。ちなみに帯の推薦文はコーネリウスに頼もうかと思ってるんですよ。ほら、魔法大臣の。彼、僕の読者ですからね」
自動筆記の筆が、律儀に全部書き取っていた。よし、と日野は思った。この種の供述は削らずに全文残すに限る。
「じゃあ、内容を確認してくよ。第一章から第四章まで、折居トメからの聞き取りに基づく憑き物落としの技法が記述されている。作法、道具立て、そして口伝の文言の全文。相違ないかな」
「取材の成果ですよ。三晩かけました。いい話がたくさん聞けた」
「聞き取りの後、彼女に忘却術を行使した?」
「もちろんしましたとも」
あまりに屈託がなかったので、筆が一瞬止まったほどだった。ロックハートはむしろ胸を張った。
「取材のマナーというやつです。ネタ元の保護ですよ。話が世に出る前に本人があちこちで喋ってしまったら、本の鮮度が落ちるでしょう? それに彼女のためでもある。うろ覚えの術を素人が語り継ぐより、僕の完璧な文章で記録される方が、後世のためになります」
「なるほど」
日野は頷いた。
「んじゃ、供述のとおり記録ね」
それから日野は書類仕事の癖で、確認事項を一つずつ潰していった。潰しながら最後の一つを机の端に置いたままにしておいた。全部の事務が終わってから、日野はその最後の一つを取り上げた。
「じゃあ最後にひとつ確認するよ。あんたが消したものについて」
「記憶でしょう。三晩ぶんの」
「いいや違うね」
日野は手帳を見なかった。見る必要はない。
「婆さんの八十四年の人生、そのほとんどを占める技法は、一代に一人へ口に伝えるだけで渡る。書き付けは作らない。作らないことまで含めて技だからだ。婆さんは十年かけて孫娘に渡す途中だった。あんたが消したのは三晩の記憶じゃない。七十七年の仕事と、次の七十七年だ」
取り調べ室が初めて静かになった。
ロックハートは瞬きをした。それから心底不思議そうに首を傾げた。
「ですが、考えてもみてください」
その声には、嘘の気配がまるでなかった。それが一番堪えた。
「無名の老婆の呪いが、ギルデロイ・ロックハートの一章になるんですよ? 彼女の技は僕の本の中で、永遠に、世界中で生き続ける。これ以上の保存がありますか。むしろ感謝されていい」
「供述のとおり記録」
日野はそれだけ言って、原稿の袋を証拠品の箱に戻した。
戻す手が一拍だけ遅れた。原稿の第二章には集落の名が実名で書かれている。折居の家の屋号も、憑き物筋という言葉もそのままだ。これが刷られて海を渡り、いずれ邦訳されて戻ってきたらあの集落がどうなるか。あの筋の家の縁談が、就職が、子供らの私塾がどうなるか。
それを正確に想像できる人間は、この部屋には一人しかいない。
一人しかいない理由を、日野は調書に書かなかった。書かない理由なら三つ数えられた。三つとも、口に出したことは一度もない。
「僕はいつ釈放されるんでしょう?」
ロックハートが言った。
「九月から新しい仕事なんです。大事な仕事でね」
「作家業なら当分は房の中でできるよ。紙と鉛筆は看守に言えば差し入れられる」
「いやいや、執筆じゃない。もっとずっと名誉ある――」
「あー、移送の時間だ」
日野は立ち上がった。
「続きは明日聞くよ」
送検準備には、それから四日かかった。
「またお前か」
係の柏木警部は日野の積んだ書類の山を見て、露骨に嫌な顔をした。
「現場はお前に任せると早く済むが、その後の紙がいつも三倍になる」
「三倍固く獲れますよ」
「決裁するのは俺なんだぞ、この山を見ろこの山を」
柏木は文句を言いながら、山の一番上から順に朱印を捺していく。捺すのはいつも柏木だ。日野の印が捺されるのは、せいぜい回覧の隅の確認欄と、あとは始末書である。二十年、そういうことになっている。今後もそういうことになっている。それについて考えるのは、月給日の翌日だけと決めていた。
「これ、まじないの方は落とした方がよくないですか」
若手の沼田が、調書を綴じながら言った。
「機密法違反と公妨で十分嵩がありますよ。まじないの分は証明の目処が立たない。公判で崩されたら、本体まで筋が悪く見えます。俺なら切ります」
意見としては正しい。捜査会議で言えば頷く者の方が多い。日野も二十代の頃なら同じことを言っていた。
「切らない。別に綴じてある」
日野は箱の中の副本を指した。
「立つ場所で立てればいい。立たなくても、記録は残る。消された側があったという記録がどこにも残らないのだけは、駄目でしょ」
「……その副本、公判で使うんですか」
「使わないね」
「じゃあ、何の書類なんですか」
「婆さんの書類だよ」
沼田は少しの間、副本の背を見ていた。それから何も言わずに、自分の綴じていた分の角を揃え直した。分かる者にだけ分かる書類というものが、役所には存外たくさんある。分かる側に回るかどうかは、たいてい本人が決めることだ。
送検の目処がついた夕方、日野は駅前の土産物屋に入った。温泉まんじゅうを職場の数だけ。それから、木彫りの蛇の根付が籠に山積みになっているのを見て少し笑った。ここらの土産物は今でも蛇なのだ。縁起物として。いい土地だった。
棚の端に、鼈甲色の簪が並んでいた。日野は一本手に取った。取ってから、娘が今何を好むのか知らないことに気づいた。去年までは知っていた気がする。気がするだけかもしれない。寄宿舎に簪を送って、笑われるのか困られるのか、それとも何も返ってこないのか。三択のどれの目も読めない相手は、被疑者を除けば娘だけだ。
簪を棚に戻し、まんじゅうだけ提げて宿舎に戻った。
異変は送検前夜に来た。
夜半、分室で最後の綴じ直しをしていると、廊下を走る音がした。役所で人が走るのは、慶事ではない。戸を開けたのは柏木で、片手に国際魔法協力室の電文を握り、顔色は電文の紙より白かった。
「日野。お前の……お前が挙げたガイシャ」
「ホシです」
「ホシだ。英国魔法省から身柄照会が来た」
柏木は電文を机に置いた。置いた手が、離れなかった。
「読め。声に出さんでいいから」
日野は読んだ。二度読んだ。
被疑者ギルデロイ・ロックハートは、本年九月一日付で、ホグワーツ魔法魔術学校「闇の魔術に対する防衛術」担当教授に着任予定である。同校校長アルバス・ダンブルドアの名により、新学期開始前の身柄の取り扱いについて、貴国当局の速やかなる回答を求める――。
「学校、ですか。教育機関の」
覗き込んだ沼田が言った。
「この照会、司法当局名義じゃないですよ。校長名義です。一私学の校長が他国に身柄照会をかけて、様式として通るもんなんですか」
「通ってるだろ、現に」
柏木が乾いた声で答えた。
「英国の、全寮制の魔法学校だ。でかい方の。一番でかい方の。ヨーロッパで」
「はあ。……で、ダンブルドアって誰です」
柏木は答えなかった。日野を見た。答えを言いたくない時の上司は、大抵こちらを見る。日野は電文を封筒に戻し、机の端に置いた。
面倒なことになったとは思った。だが所詮は面倒までだ。逮捕は適法、手続は完備、証拠は箱一つ。あとは検察と外務当局と本省国際部の仕事であって、地を這う警部補の管轄ではない。誰が誰に何を詫びるにせよ、詫び状の起案が回ってくるのはもっと上の階だ。
俺の仕事は送検で終わりだ。
日野道広、二十年の警察勤めで見立て違いは少ない方だった。
この時までは。