拝命、闇の魔術に対する防衛術 ※期間は別途   作:細野藤松

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第十七話 拾得物 黒い日記帳(持ち主不明・年代物)

一月の城にハーマイオニーが帰ってきた。

 

猫の毛は消え、目の色も元に戻っていた。マダム・ポンフリーは退院の日までついに一度も理由を訊かなかった。

 

「ほんとに助かるわ」

 

とハーマイオニーは言った。もう飛んでいる虫に反応してウズウズしなくていいことに、心底安心しているようだ。ロンはからかう材料が減って残念そうにしていた。

 

石化事件は小康状態だ。ジャスティンとニックの事件から一ヶ月以上、新しい被害が出ていない。生徒たちの間では一つの事実が信仰のように広まっていた。鏡のある区画では、誰もやられていない。

 

「ミラー様のおかげだよ」

 

廊下の曲がり角で、一年生が凸面鏡に向かって小さく手を合わせているのを、ハリーは見た。ミラー様。これを置いた先生が聞いたら何と言うだろう。たぶん「宗教じゃなくて設備」と言う。言っても一年生は拝むのをやめない気がする。

 

一方で、ハリーへの視線は解けていない。蛇語の少年こそが継承者なのでは。廊下の囁きは休暇を挟んでも風化していない。むしろ休暇中にそれぞれの家で発酵して、より濃くなって戻ってきた。すれ違いざまに黙る集団。教室で隣の席が最後まで埋まらないこと。

 

慣れていると思うことにしていた。実際、去年で慣れている。平気なのとは違うだけだ。

 

そんな一月の廊下で、ハリーは奇妙な光景を見た。スリザリンの下級生が二人、ヒノ先生を呼び止めている。

 

「先生。あの、僕、変な音を聞いたんです。地下牢の廊下で。壁の中から、ずずって、何かを引きずるみたいな」

「いつかな?」

「お、おととい。夜の八時くらい」

「場所は正確に言える? 案内できるならもっと助かるけど」

 

先生は手帳を出して、真顔で書き取っていた。スリザリン一年生の証言をだ。蛇にひれ伏されたと噂されている当の先生に、蛇の寮の下級生が自分から。

 

「……最近、ああなんだ」

 

隣でロンが言った。

 

「一年の間で流行ってるんだよ。怖いものを見たら怖いヒノに言う。そしたら怖いものが減る、って。……正直分かる気もするんだよな。だってあいつ、聞いた話を絶対に笑わないんだぜ。全部書いて、全部『助かる』って言うんだってさ」

 

疑われているヒノ先生に、目撃情報が集まっていく。ハリーはその光景をしばらく忘れられなかった。

 

先生自身とは、廊下で一度だけすれ違った。何も言われなかったが、すれ違う数歩の間だけ歩調がハリーと合った。監視だったのか、それとも護衛、はたまたただの偶然。決めかねているうちに、足音のない背中は角を曲がっていった。

 

二月の最初の週、二階の廊下が水浸しになった。

 

「またマートルだ」

 

ロンがうんざりと言った。

 

「今度は何だよ、もう」

 

故障中のトイレの中は、床が湖だった。湖の主はいつもの個室の水洗タンクの上で、体育座りをして泣いていた。泣き方に憤慨が混ざっていた。ハーマイオニーが水を踏まないように爪先立ちで訊いた。

 

「マートル? どうしたの」

「どうしたですって!?」

 

マートルは水柱を立てて向き直った。

 

「聞いてよ! ひどいのよ! 私、ここで静かに死を偲んでたの。そしたら、誰かが私に本を投げつけたのよ!」

「……本を?」

「そうよ! 扉の上から! 頭を通り抜けたわ!」

 

彼女は自分の頭を指した。

 

「ねえ、考えたことある? 幽霊に物を投げるのって、どういう気持ちなんだと思う? 当たらないのに! 当たらないからって、投げていいわけじゃないでしょう!? 私がここにいないみたいに! これじゃ五十年前とおんなじ!」

 

彼女の憤慨の詳述は五分続いた。要するに、誰かがこのトイレに本を投げ込んでいき、それがマートルの頭部を通過したということらしい。

 

「……で、その本は?」

 

マートルは鼻をすすって、床の隅を顎で指した。水浸しの床にそれは落ちていた。

 

黒い革表紙の小さな日記帳だ。拾い上げると、紙は不思議と傷んでいなかった。表紙の隅に薄れた金文字。

 

T・M・リドル。

 

ロンが後ろから首を伸ばし、ハリーの肩を掴んだ。声が硬い。

 

「待った。今すぐそれ、床に置いといたほうがいい」

「どうして?」

「よく見なよ、あんだけマートルが暴れてるのに濡れてないだろ。本って呪いをかけられてることが多いんだ。父さんがいつも言ってる。魔法省にはそういうのが山ほど持ち込まれるんだって」

「でもただの日記帳だよ」

「ただの日記帳が、なんでトイレに投げ込まれるんだよ」

 

もっともだ。もっともだったが、ハリーの手は日記を開いていた。刷り込みの年号は五十年前。そして中は全部のページが白紙だった。湿気でたわんでもおらず、インクの染み一つない。五十年前の日記帳が、一度も使われないまま女子トイレの床に落ちていた。

 

「リドル……」

 

ロンが表紙を覗き込んで、眉を寄せた。

 

「T・M・リドル。……待てよ。知ってるぞ、その名前」

「え?」

「トロフィー室だ。罰則で磨かされた盾に、書いてあった。特別功労賞、トム・なんとか・リドル。ヒノも見に来てたんだ、その盾。何をした人か訊いたら、あいつも分かんないって」

 

ハーマイオニーの目の色が、変わった。彼女は日記を受け取り、その場で三種類の顕現呪文を試した(「アパレシウム!」)。あぶり出しの薬品の名前を二つ挙げた。全部、空振りだった。白紙は白紙のままだ。

 

「五十年前の、何も書かれていない日記」

 

彼女は日記を裏返し、背表紙を検め、値札の跡(ヴォクスホール通り文具店、とマグルの印字があった)まで確認した。

 

「持ち主は特別功労賞のリドル。なぜ今、このトイレに投げ込まれるの」

 

誰が捨てたのか。一番当たり前のその問いを三人とも口にしなかった。日記の白紙の謎の方がずっと気になる。

 

ハリーはロンが止めるのを振り切って、日記を鞄に入れた。入れる時、指先が妙に馴染んだ。

 

日記は手放せなかった。理由は自分でも分からない。所詮はただの紙である。何の役にも立たない。なのに、気づくと鞄の上から触っている。ハーマイオニーは日記への仮説を立てては潰し、もう何個目かの仮説を立てる前に苛立った。

 

「白紙の日記帳を、五十年も誰が持ち歩くのよ。しかも状態が良すぎる。五十年前のものじゃないわ、あれ」

 

 

 

二月には、バレンタインがあった。特筆することは何もなかった。強いて言えば、双子が愛の妙薬(希釈済)期間限定販売を計画し、年越し花火のときのを元に新しい申請書を提出して、ヒノ先生の「衛生基準」の四文字で却下されたことくらいである。双子は「前例主義の壁」と言って悔しがった。様式の使い方が合っているのが余計に腹立たしい、と先生は日誌に書いたらしい。それを怪談新章・第二十一話として語る双子が、いったいどこから仕入れてくるのかハリーには不思議だった。

 

その週の夜、ハリーは管理人室の前を通りかかった。

 

図書館の帰り道がたまたまそこだっただけだ。管理人室の扉は細く開いていた。中から灯りと低い話し声が漏れていた。ヒノ先生とフィルチだ。

 

「水の出る場所を全部教えてほしい。故障の常習箇所も、昔直した場所も」

「……水、水ときたか」

 

フィルチの声は、記憶の底を浚う声だった。

 

「あんた、妙なことを言うがな。……思い出したことがある。わしが来たばっかりの頃だ。先代の管理人の爺さんが、まだ生きてた」

「先代」

「アプルビイって偏屈でな。引き継ぎなんぞ、酒場の愚痴が半分だった。その愚痴でな……例の年は水回りの修繕願がやたら多かった、って言ってたんだ。廊下も壁もやたら濡れてな。修繕しても直らねえと。書類? あの爺さんはそんなもんはつけんかった。だがな、爺さんは確かに城の水の機嫌が悪い、そう愚痴ってた」

「……例の年」

 

先生の朱筆が、止まるのが見えた。

 

「確かか、と訊きたいが」

「そんなことは言えん」

 

フィルチは即座に、不機嫌に言った。

 

「五十年近く前に聞いた、死んだ爺いの愚痴だ。儂の記録にもない。でもあんたは、確かじゃねえ話でも笑わないだろう」

「もちろん。確かじゃない話は、確かじゃないという印をつけて書くもんだ」

 

紙をめくる音がした。ハリーは足早にその場を離れた。離れながら、鞄の中の日記をくっきりと思い出していた。水の出る場所。先生たちは水を調べている。

 

廊下の角を二つ曲がったところで、ハリーは立ち止まった。心臓が走ってもいないのに速い。そして、気づいた。

 

下級生の告げ口。フィルチの確かじゃない記憶。マートルの癇癪だってそうだ。全部、先生のところへ集まっている。

 

集まるという現象なら、ハリーは知っている。誰よりも知っている。一年生の秋から、朝食の皿の横に置かれる知らない誰かからの手紙も、廊下ですれ違いざまに耳へねじ込まれる罵りも、自分のいない場所で育って自分のところへ帰ってくる噂も知っている。握手をせがむ手も、写真をせがむカメラも、頼んだ覚えは一度もないのに、ハリーの周りには勝手に集まり続けてきた。ハリーにとってはそれらは降ってくる雨みたいなもので、避けるものだ。

 

先生は違う。疑われて、噂されて、視線を集めて、それでも集まってくるものを一つも捨てずに、全部ノートの紙に入れている。下級生の変な音も、死んだ管理人の愚痴も、幽霊の癇癪も。疑われている人のところにしか集まらないものがあるのだとしたら。先生はたぶん、それを知っていて拾っている。

 

僕に集まる分は、どうだろう。

 

 

 

「これ、届けるべきなんだ」

 

その夜の談話室で、ハリーは日記を机に置いて、初めてはっきりと口にした。

 

「分かってるんだ。持ち主不明で、現場の隣で見つかった、五十年前の何か。しかも、ただの紙じゃないらしい。先生の言葉に従うなら――大人を呼ぶべきだ」

 

距離を取る。遮蔽に入る。大人を呼ぶ。三動作の、三つ目。九月から何十回も練習した。練習では、教室で一番早く声が出た。

 

「……じゃあ、なんでヒノのとこに持っていかないのさ」

 

ロンが小声で言った。責めるような口ぶりで、たぶん自分自身にも訊いている。

 

「持っていったら、先生は訊くよ。どこで拾ったって」

「マートルのトイレでって言えばいいだろ」

「そしたら次は、なんでそのトイレに入った、って。故障中の女子トイレだよ? 僕らの入る理由なんて本当はないだろ。あそこに何回入った? 大鍋は? 薬の材料の出所は? 先生は三日で全部辿るって、ハーマイオニーが言ったんだ」

 

ハーマイオニーは暖炉の火を見ていた。膝の上のノートは閉じたままだった。小さい声で答える。

 

「……ごめんなさい。私があの時、言えないって言ったから」

「ハーマイオニーのせいじゃない」

「せいよ。計算したのは私だもの」

 

彼女はノートの表紙を撫でた。

 

「日記だけ届ける方法がないのよ。日記は、トイレと薬と潜入と、全部に紐がついてる。一つ引けば全部出てくる」

 

ロンが天井を仰いだ。

 

「……じゃあさ。この日記が何なのか、何か分かってからにしよう。白紙の日記帳を届けたって、ヒノにとって何になるかも分からんないだろ」

 

理屈だった。理屈の形をした先送りだ。

 

ハリーは暖炉の火を見ながら思った。僕たち三人とも、この半年で先送りの理屈だけが上手くなっている。声のとき。ドビーのとき。マルフォイの話のとき。そして今夜。結論だけが毎回同じだ。

 

 

 

その夜、事件は机の上で起きた。

 

宿題の途中、ロンの肘がインク瓶を倒した。黒い水たまりが羊皮紙を呑み、机の端の日記に達し――

 

吸い込まれた。

 

インクが、だ。革表紙に触れた黒が染みにならず、紙に飲まれるように消えた。日記は濡れてすらいない。三人は顔を見合わせた。ハーマイオニーが息を止めて頷き、ロンが「やめとけって」と言い、ハリーはもう羽根ペンを握っていた。

 

日記の最初の頁に、書く。

 

僕の名前はハリー・ポッター

 

文字は一瞬紙の上で光り、それから吸い込まれて消えた。代わりにハリーのものではないインクが、紙の奥から滲むように浮かんできた。細くて形のきれいな字だった。

 

『こんにちは、ハリー・ポッター。ぼくはトム・リドル。その日記を、どうやって手に入れたの?』

 

「ヤバい」

 

ロンの声が裏返った。

 

「返事、書いてる。脳みそがどこにあるか分からないのに」

 

ハリーは書いた。トイレに捨てられていたこと。誰かが流そうとしたらしいこと。返事は少し間を置いて浮かんだ。

 

『捨てられていたのか。それは、ぼくの日記が幸運だったということだね。この日記には、消してしまいたい人がいるような記憶が書き込んであるから』

 

「記憶……?」

 

『そう。ぼくは五十年前にこの学校で起きた恐ろしい事件の、生き証人なんだ。事件は隠蔽された。ぼくは知っていることを日記に封じた。ハリー・ポッター。君がよければ、見せてあげられる。ぼくの記憶の中へ、君を連れていける』

 

ハーマイオニーが「待って」と言った。ロンがまた「やめとけ」と言った。ハリーの手は、もう書いていた。

 

見せて

 

日記の頁がひとりでに捲れ始めた。六月十三日の日付の枠が、小さなテレビの画面のように光り、風が吹き、視界が傾いて――ハリーは、肩から五十年前へ吸い込まれた。

 

 

着地した場所はホグワーツだった。ハリーはすぐ違和感に気づいた。廊下の敷物が違う。甲冑の位置がちょっと違う。

 

そして誰もハリーに気づかない。手を振っても目の前を横切っても、視線はハリーを素通りした。これは記憶だ。ハリーは映像の中を歩いている。

 

校長室に入るのに、ガーゴイルの合言葉は要らなかった。記憶の主と一緒にするりと入れた。見知らぬ老校長(ディペットという名らしい)がいた。

 

記憶の主は十六歳くらいの、背の高い黒髪の生徒だった。深緑色のネクタイに、監督生のバッジが光っている。顔はなかなかの男前だ。その生徒、トム・リドルは夏の間の学校残留を願い出ていた。孤児院に帰りたくないことに対して、校長は気の毒そうに、しかし苦い返答を返した。

 

「事情が事情でな、トム。……例の事件だ。被害者が出た以上、保護者は生徒を家に置きたがる。閉校もやむを得ん、という声が理事会にある」

 

リドルの顔が一瞬強張った。自分に言われたわけでもないのに、ハリーも胸を締め付けられた。ダーズリー家に引き返すなんて、嫌だ。

 

校長室を辞したリドルをハリーは追った。夕暮れの廊下。リドルは何かを決めた足取りで階段を降りていく。地下へ。地下のさらに奥へ。そして、ある扉の陰で足を止めた。

 

扉の向こうから大きな影が出てきた。

 

巨体の少年だ。年下なのに、リドルより頭一つ大きい。もじゃもじゃの黒髪。両手で、大きな木箱を抱えている。箱の中で、何かがかさかさと動いていた。

 

「今夜のうちに逃がすつもりか、ルビウス」

 

リドルの声は静かだった。静かで、悲しんでいる声だった。

 

「ち、ちがう」

 

巨体の少年の声は、今よりずっと若くて、何よりも今と同じだった。

 

「こいつは、こいつはそんなんじゃねえ。誰も殺しちゃいねえ!」

「死んだ子がいる。怪物は始末される。飼い主は退学だ。……仕方ないんだ。僕は監督生として――」

「だめだ!!」

 

巨体の少年が箱を庇い、その拍子に蓋が跳ね、中から毛だらけの何かが飛び出した。何かは二人の間を駆け抜け、廊下の闇へ消えた。リドルの杖が光り、少年が組みつき、揉み合いの影が壁に躍って――

 

視界は唐突に砂嵐になった。

 

気づくと、ハリーは寮のベッドの上に大の字で放り出されていた。手の中に閉じた日記があった。心配そうに覗き込むロンとハーマイオニーを振り切って、ハリーは自分のベッドに飛び込んだ。

 

 

 

「五十年前の犯人は――ハグリッドだったみたい」

 

翌朝、人気のない教室で、ハリーは二人に全部を話した。ロンの顔は、話の途中から白くなり、終わる頃には怒りで赤くなっていた。

 

「ありえないだろ。ハグリッドだよ? ハグリッドが人を殺すわけ――」

「殺してない。リドルの記憶でも、ハグリッドは『誰も殺してない』って叫んでた。ただ、その、何かを飼ってたのは本当だったみたい。箱から何かが逃げてた」

「……それだよ」

 

ロンは頭を抱えた。

 

「ハグリッドが怪物を飼うのは――正直、あり得るじゃん。ノーバートのことだってある。ドラゴンの卵を暖炉で孵したんだぞ、あいつ。三頭犬にフラッフィーって名前つけてたんだぞ」

 

ロンの顔は、板挟みでくしゃくしゃになっていた。

 

ハーマイオニーは聞いただけでは何も言わなかった。指先を組んでハリーの話を最初から最後までもう一度なぞるように黙り、それから慎重に言った。

 

「……一つだけ引っかかるの。ハリー、あなたが見たのはリドルの記憶よね」

「うん。本人がそう言ってた」

「そこよ。見せた人の編集があるかも」

「編集?」

 

彼女は、言葉を選びながら続けた。

 

「ハリーが見たのは、リドルが『何を見たか』じゃないわ。リドルが『何を見せたいか』を見せられた可能性があるの。カメラの位置は? ずっとリドルの側にあった。ハグリッドの言い分は? 叫び声だけ。箱の中身はよく見えなかったんですもの。死んだ子がその生き物に殺された証拠は、映像のどこにも映ってなかった――そうでしょう?」

「で、でも、じゃあなんでリドルはわざわざ嘘の記憶を」

「分からないわ。動機が読めない。だからちょっとした疑いってだけ」

 

彼女は悔しそうにノートを開き、「リドルの記憶(要検証)」と書いた。要検証の三文字が、彼女に今できる最大の抵抗だ。反証の材料はどこにもない。

 

「ハグリッドに直接訊く?」

「訊けるわけないじゃないか。『やあハグリッド、最近、城で何か凶暴で毛深いものを放してない?』って?」

 

結局、抱え込む荷物がまた増えただけだ。

 

 

 

数日後の放課後、ハリーはまたあの廊下を通った。

 

マートルのトイレの前だ。近道だったのは本当だ。例の日記のことで気が重かったのも本当だった。

 

トイレの入り口から、マートルが半身を出していた。幽霊が廊下側に出てくるのは珍しい。もっと珍しいのはその相手だ。ヒノ先生が廊下の壁に軽く背を預けて、手帳を開いて立っている。

 

「それでね、先生。本を投げつけられたのよ、私。頭を通り抜けたの。ひどいと思わない?」

「思う」

 

先生は書き取りながら、真顔で言った。

 

「物を投げてぶつける行為は、生きてる相手なら傷害罪か暴行罪を構成する。幽霊は法律上の被害者にはならんが、俺は傷害未遂として扱うよ。実害の有無とやっていいかどうかは別だしね」

「……ふふ」

 

マートルは、水音みたいに笑った。

 

「変な先生」

「よく言われる。で、その本ってのはどんな」

 

ハリーは足を止めなかった。止まったら終わりだという気がした。歩調を保ったまま二人の横を通り過ぎる。先生は顔を上げず、マートルの証言だけが背中を追いかけてきた。

 

「黒っぽい、ちいさな本。ノートみたいな。扉の上からぽーんって。……先生、調べてくれるの? 私のために?」

「調べるよ。投げた側をな」

 

角を曲がって、ハリーは早足になった。鞄の中の日記の角が跳ねる音がする。

 

先生のノートに、今入った。黒っぽい小さな本。先生の捜査と鞄の中のものの距離が、たった今、壁一枚になった。

 

その夜、ハリーは日記を枕元に置いて眠れずにいた。リドルの記憶。ハグリッドの叫び。ハーマイオニーの「要検証」。マートルの証言。水の場所を調べる先生。集まってくるものを全部拾う先生。

 

先生のノートには白紙の欄がある。被疑者、不詳。凶器、不詳。僕の枕元には白紙の日記がある。持ち主はたぶん、もういない誰か。どっちも埋まるのを待っている。そして僕はたぶん、両方の埋め方を少しずつ知ってしまっている。知っているものを、今夜もまた枕の下で眠らせる。

 

訂正はいつでも受け付ける、と先生は言った。いつでもの残りがあとどれくらいなのか、ハリーはもう考えるのが怖かった。

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