魔法省への照会は、二月の末で回答遅延五十日目だ。出したのは五十年前の在籍記録と死亡記録の照会。省の記録局に出したのが年明けで、受領通知が来たのが一月半ば。以後、音沙汰がない。
なお柵の閉塞原因の照会は遅延百七十日を超えた。役所が役所に待たされる。万国共通の地獄であり、待たせる側をやってきた身としては、文句の言い方にキレがない。ダンブルドアの照会も待たせてやればよかったのに、という恨み言は未だに飲み込みきれていない。
待つ間に、こちらの帳場は動いていた。動かしたのは幽霊の癇癪である。
「それでね、先生。ひどいのよ。私、静かに死を偲んでたの。そしたら頭を本が通り抜けたのよ」
マートルの証言の整理に二晩かけた。彼女の証言は感情の指数関数で膨らむので、事実の芯を取り出すには泥水並に苦い珈琲を伴う蒸留が要る。蒸留の結果は次の通りだった。
一、投げ込まれたのは黒い小型の書籍。ノート様。
二、投擲は個室の扉越し、上方から。投げた人物は未目撃。証人は個室(便器)内に着水していたため。
三、時期は一月上旬。休暇明けの直後。
日野は手帳に書きながら考えた。幽霊が常駐しているトイレを選んで、そこに物を捨てる人間は二種類しかいない。マートルの存在を知らない者。もしくは、幽霊しかいない場所を選んだ者。
前者ならただのゴミだ。後者なら隠匿である。人のいない場所、来ない場所、探されない場所は、この城で物を消すのに貴重な場所だ。そこを選べる程度に、投げたやつはこの城と故障中の女子トイレに詳しい。
翌日、トイレと接続する排水系を検めた。
本は出なかった。床にも配管の曲がりにも、汚水槽への落とし口にもない。マートルは「流れた音はしなかった」と証言している。つまり、投げ込まれた本は流されずに、床のどこかにあったはずだ。そして今はない。
「誰か拾ったな」
拾得物の届出は職員室にも管理人室にも出ていない。日野は帳場の紙に新しい欄を作った。
黒色小型書籍一冊。投棄者、不詳。投棄時期、一月上旬。拾得者、不詳(届出なし)。
不詳が二つ並んだ。その二つを、日野はしばらく眺めた。投げた者と拾った者。この二人はたぶん、この事件のどこか深いところにいる。深いところにいる人間ほど届は出さない。
投棄の時期も引っかかっていた。休暇明け直後。城がまだ空に近い時期だ。残留者は少ない。日野は各寮の残留者名簿を取り寄せ、机に並べ、名前を上から順に、指でなぞった。
レイブンクロー、三名。ハッフルパフ、二名。スリザリン、四名。グリフィンドール、六名と、追記が一名。
指は名前の上を順番に滑り、次の名簿に移った。
種の特定に踏み切ったのは、二月の末の夜である。
机の上に半年分の材料を全部並べた。比喩ではない。手帳の該当頁を破らない程度に開き、証拠品袋を置き、帳場の紙を広げ、物理的に、机一枚を事件で埋めた。今マクゴナガルが日野の居室に入ってくれば、忽ちのうちに渋面になるだろう。
一。凶器は視線。直視で死、間接視で石化、幽霊は半石化。被害者三名(一名死亡、二名石化)。共通点:要検討。血統か、偶然か。
二。移動経路は壁内。水回りに沿う。五十年前から「水の機嫌が悪い」(先代管理人の愚痴、確度低、ただし方向は一致)。
三。鶏鳴を忌む。それを知る者に、先回りして潰された。
四。蜘蛛が逃げる。ハグリッドの冬の愚痴(「森の連中がおかしい」)と、窓枠の空き巣穴の観察が一致。
五。うちのが浮かれる。二十一年で初めての浮かれ方。格は、蛇の頂点。
六。五十年前から生きている。最低でも、五十年。
七。マートルの見た「大きな黄色い目」。
材料を眺めながら、日野は頭の中の故郷の棚を順に開けた。見合った者を殺す蛇。七尋蛇。夜刀の神の眷属は見た者の家を滅ぼすという常陸の話。山の主の大蛇は、目を合わせた猟師の魂を抜く。
方向は全部合っているが、和の伝承は「名指し」ができない。あれらは土地と結びついた話で、スコットランドの城の配管を這う何かの種名までは教えてくれない。スコットランドに根付いた蛇の伝承は、残念ながら寡聞にして知らない。
婆様の言い草だけが、妙に具体的だった。蛇の王様は、鶏の声で夜が終わる前に穴へ帰る。蛇の、王様。
日野は立ち上がり、鍵束から古い鍵を一本選んだ。フィルチの書庫である。
夜半の書庫で探したのは禁書ではない。禁書のことなら司書に聞けばいい。探したのは、忘れられた本だ。書庫の最奥、五十年誰も触っていない棚。教材の改訂で外された旧版の獣譜、廃止された科目の教本、寄贈されたまま登録されなかった雑本の山。この手の場所には抜け落ちたものが吹き溜まる。
探し始めて三時間目に収穫があった。背表紙の剥げた、旧い獣譜だ。ケトルバーンの両足がまだ健在だったころに採用され、改訂で教材から外れて久しい版である。索引はない。頭から繰った。繰って、ある頁で、手が止まった。
キング・オブ・サーペンツ。
「その眼光は死を運び、これと目を合わせたる者は即座に命を落とす。雄鶏の声はこれにとって致命の毒であり、蜘蛛はこれを恐れて逃げ惑う。体躯は巨大にして寿命は数百年に及び、湿った暗所を好む――」
日野はその頁を三度読んだ。
視線。鶏。蜘蛛。長命。暗所。全項目が一つの名前で説明された。
バジリスク。
答えが出るのは、いいことばかりではない。日野は書庫の冷えた空気の中で、静かにそれを味わった。
体長は成体で十五米超。寿命九百年。牙の毒は最速の致死毒。そして視線が、凶器。
名前が一つ確定した瞬間から、この城の全てが射程圏内になった。曲がり角も、動く階段の継ぎ目も、教室の扉の向こうも、鏡を掛けた二十一箇所の角も、通番を振らずに素通りしてきた無数の何でもない廊下も、区別なく。
九月から四ヶ月かけて一件ずつ積み上げてきた危険箇所台帳は、百四十七件目にして一つの影に呑まれた。
今や台帳は、無意味だ。
袖の中で、うちのが小さく身じろぎをした。そうか。二十一年飼って、初めて浮かれた理由がこれで分かった。
会いたがるはずだ。この壁の中に王様がいるのだ。蛇の頂点が、九百年ものが、配管を玉座にして。うちのの浮かれ方は恐怖の探知機ではなく、俺に謁見してもよいぞと呼びかける声だったわけだ。
「……趣味が悪いぞ、お前」
袖に向かって言った。袖は答えなかった。答えない代わりに、皿の塩が今夜も黒く変わるのだろう。
居室に戻り、帳場の紙を広げた。
「怪物」の欄。十一月の夜、蛇性と書きかけてやめた欄である。名指しは呪いの初手だ。確度の低い名指しが紙に載った時に何が起きるかを、憑き物筋の家の者は骨身で知っている。だから書かなかったのだ、揃うまで。
揃った。
視線、経路、鶏、蜘蛛、長命、格、目の色。七つの材料が一つの名前を指している。文献の裏も取れた。これはもう、疑いではない。
日野は筆を執り、書いた。
怪物:バジリスクと推定す。
墨が紙の上で乾いていく。名指しは呪いの初手で、そして狩りの初手でもある。名を知らない獲物は狩れない。名を知った獲物は性質が読める。性質が読めれば手が打てる。ここからは、名指して狩る側だ。
ただし、紙の上には、白い欄がまだ二つ残っていた。
一つ。媒介。
バジリスクは蛇である。蛇は蛇と話せる者しか制御できない。そこは洋の東西も変わらないようだ。五十年前も今も、あの怪物を「使って」いる者がいる以上、蛇語の使い手がいる。スリザリンの継承者、の伝説の芯はたぶんこれだ。血統の話ではなく技能の独占の話だ。歴代の探索者たちが何も見つけられないわけである。
二つ。実行者。容疑者は生徒千人と教職員全員――そして、蛇語の使い手として現在この城で衆目に晒されているのは、たった一人。
ハリー・ポッター。
あの子ではない。それは俺自身が証明している。全事件のアリバイが揃っている。だが俺の帳面の外で、世間はそう読む。種が割れたことを公表できない理由が、また一つ増えた。「凶器はバジリスク、操れるのは蛇語使いだけ」と発表した瞬間、あの子は理屈の通った容疑者になる。パニックと私刑の理屈が、揃ってしまう。
種は伏せる。伏せたまま狩るのは刑事の本分だ。
対策の再編は翌日から始めた。マクゴナガルには種名を伏せて三点だけ共有した。大型であること。毒性が最悪級であること。凶器が視線であること。
「……種は訊かないでおきましょう」
副校長は、鏡の増設リストを検分しながら言った。
「訊けば、私は校長に報告する義務が生じる。報告すれば理事会に諮らざるを得ず、翌朝には千人が知っている。そういうことですね?」
「そういうことです」
「あなたの国の役所は、ずいぶん察しのいい上司ばかりだったようですね」
「いえ。察しの悪い上司の下で、察しのいい書類を書く訓練を二十一年」
「……ご苦労なさったのね」
「ついでに、察しの良い方の上司はたいてい、書類を無視するのがお好きですよ」
「……」
鏡は九箇所増設。水回りの動線には時間帯制限をかけ、トイレの単独使用に二名以上・扉の外に一名の運用を追加した。生徒たちはトイレ番と呼んで嫌がり、三日で慣れた。
スプラウトには、マンドレイクの進捗を照会した。
「順調ですよ。にきびが出始めましてね。にきびが出れば思春期、ここを越えれば刈り入れです。五月の末、というところかしら」
五月末に石化した者は全員戻る。猫も、カメラの少年も、マグル生まれの少年も戻る。幽霊も戻る。まだ死人を出していない。五十年前は出したが、今回はまだだ。死人が出ていない事件のうちに、終わらせる。
手帳の頁を開いた。書いていた見出しを読む。
『N・ド・ミムジー=ポーピントン卿 復帰時伝達事項
一、貴殿の半透明の身体が遮蔽として機能し、生徒一名(J・F=フレッチリー)の生命が保全された。功績として認定する。本人は無自覚と思われるため、当職から正式に伝達する。
二、右の功績につき、感謝状の交付を検討中。ただし様式上の問題あり。幽霊宛の感謝状の前例が確認できない。また賞状の物理的授与の可否(貴殿は紙を保持できるのか)につき、技術的検討を要す。額装して壁に掛ける案が現実的か。要相談。
三、絶命日パーティーにおける証言協力の礼、未了。五百一回目のパーティーには、一段上の供物を渡されたい(通常、手土産には腐敗の進んだものが喜ばれる由だが、当職の倫理観が調達に抵抗している)。
四、「首無し狩り」入団の件。貴殿の遮蔽実績は、狩猟団の掲げる勇武の徳目に照らして遜色ないと当職は考える。ついては、貴殿が再申請を望む場合、当職名義の推薦状を書く用意がある』
読み返して、我ながらと思った。死んだ人間への伝達事項を様式込みで書き溜めている。感謝状の額装の検討までしている。だがこれでいい。言う日が来ると決めているから、手帳の先の頁に書ける。
一年生の全員面談は、三月の頭に組んだ。
進級を前にした定期面談、という制度の顔である。進級や進路に関する面談の存在を副校長に照会したところ、五年生時のO.W.L.前に一度きりだとの回答だった。南硫黄島の保護者たちなら、発狂の末に海燕をハイジャックして乗り込んでくる制度設計だ。防衛術担当として初学者向けの簡単な面談をしたいと言えば、すんなりと通された。制度の顔をしていれば、特定の生徒だけを呼ぶ形にならない。
百四十人を三日に割り、その真ん中に、赤毛の一年生を置いた。
「失礼します」
ジニー・ウィーズリーは、前と同じ椅子に、前と同じように浅く座った。そして、前と違っていた。顔色がいい。冬の間、蝋のようだった頬に赤みが戻っている。目の下の隈が、消えている。
「調子はどうかな。授業、ついていけてる?」
「……呪文学は、好きです。得意だと思います」
一拍おいて、少し照れたように付け足した。
「変身術は……ちょっと。マッチ針、まだ銀色にならなくて」
日野は茶を淹れる手を止めなかった。止めない訓練は二十一年している。
言い淀んだ。
十二月の面談で、この子は言い淀まなかった。全部の答えが質問の半拍前に完成していた。台本のある証人の滑らかさだった。
今日は違う。答えの前に考える間があり、苦手を認める照れがあり、視線が斜め上に泳ぐ――年相応の、健康な態度。
「友達は」
「います。同じ寮に。……あと、レイブンクローにも、一人」
「そう。いいことだ」
面談は十分で終わった。終わって、少女は前より深いお辞儀をして出ていった。扉が閉まる。日野は面談記録に、観測を書いた。
顔色、改善。食事量、改善(大広間の定点観測と一致)。応答の質、改善。滑らかさが消え、自然さが戻った。全項目、快方。
書いてからペンを止めて、その頁を長いこと見た。
急に良くなった子供は、急に悪くなった子供と同じだ。いくつかの少年事件がそうだった。変化には原因がある。悪化の原因を探すのと同じ真剣さで、改善の原因を探す必要がある。やらないのは観測として片手落ちだ。何が変わった。環境か。兄たちか。学業か。それとも――
そもそも、いつからだ。
大広間の定点観測を遡る。顔色の戻りに気づいたのは一月の半ば。兆候はその前から。一月上旬。黒い本がトイレに投げ込まれた時期と重なる。
日野は帳場の紙と面談記録を、机に並べて置いた。黒色小型書籍、投棄、一月上旬。G・ウィーズリー、快方、一月上旬。二枚の紙の、二つの「一月上旬」。
物証はゼロだ。赤毛の一年生と黒い本を結ぶものは時期の一致だけ。時期の一致は偶然の別名でもある。この城には千人の子供がいて、一月上旬には千の変化があった。冬休みに家族から手紙を貰って元気になった、で説明がつく。それを投棄事件に接続するのに適切な名前は、筋読みではなくこじつけである。
日野は面談記録の「経過観察・優先度」の欄を見た。中、とある。全項目快方なら、低に戻すのが手続きだ。ペンの先が、低の字の形に動きかけて――
止まった。
戻さない。理由、勘。
勘と書く欄は様式にない。二十一年の役人生活で、書類に書いたことは一度もない。書けないものは、別の言葉に翻訳するのが役人である。日野は「優先度・中」をそのまま残し、備考欄に書いた。
「改善の原因が特定されるまで、経過観察の期間を延長する」
翻訳としては上出来だ。少し嫌になった。
その夜、月例報告の二月分を書き終えて、日野は机の端を見た。
封筒がある。薄い方の封筒。「良美へ」と、「あけましておめでとう。父より」の一行だけが入った、封のされていない起案中の紙。年明けから二ヶ月、机の端で起案中のままの紙。
日野は便箋を出した。
今夜書き直す気になった理由は、考えなかった。考えると理由の方が逃げる気がする。
ただ、帳場の紙に名前を書いてまだ一週間と経っていない夜で、狩る側に回った夜で、五月末には全員戻ると分かった夜だ。そういう夜の手は、便箋に伸びるものらしい。
書き出しは四回、失敗した。「元気ですか」。尋問だ、消す。「勉強は順調ですか」。妻と同じだ、消す。「英国は寒いです」。天気の話に逃げるな、消す。「お前が生まれた日のことを」。重い、重い重い、消す。
五回目に成績表から入った。
『良美へ
あけましておめでとう。返事は要らない。
母さんから、成績表の写しが届いた。言いたいことは分かるが、諦めろ。あの母さんに勝てる者はうちにはいない。父も負け続けている。
呪文理論が伸びていたな。丸暗記の伸び方じゃない、何かを掴んだろう。何を掴んだのかは成績表に書いていないから、父には分からないが、お前のためになっているといいな。
古典を捨てたのも分かった。放り出したのではなく、計算して捨てたな。戦略として正しい。全部に勝とうとする受験は、全部に薄く負ける。捨てる科目と伸ばす科目を自分で決められるのは強さだ。父には当時、それができなかった。だから受験終わりの時期から白髪がある。
こちらは変わりない。仕事は面白い。』
そこまで書いて、手が止まった。
仕事は面白い。書いてしまってから、日野は他人の筆跡のように眺めた。愚痴でも、無事の報告でもなく、面白いと書けてしまった。笠子宛にも書かなかったのに、娘宛の手紙の上に先に載っていた。
消さずに続けた。
『父はこれまで、お母さんのために、何よりお前のために働いてきたつもりでいた。だが本当は、自分の仕事が好きなだけかもしれない。
お前も、そういうものを見つけるといい。』
最後の一文を書き終えた瞬間、日野は自分で、線を引いて消した。
説教くさい。見つけろと言われて見つかるものなら、誰も苦労しない。
それに、父親が娘に「そういうものを見つけろ」と書くのは、順番が違う。俺はまだ見つけた報告をしただけだ。三十九年かかって、ようやく。かかった年数を棚に上げて、十二の娘に急かすような一文を書くべきではない。十二歳には、特に理由なく面白いことがたくさんあるものだ。
消した。二重線の下で、文字は読める形で残った。便箋を書き直すべきかと一瞬考え、やめた。下書きの線も含めて、手紙というものだ。清書された手紙は報告書と変わらない。報告書なら俺は毎月書いている。
最後の一文は、意外とすらすら書けた。
『体に気をつけて。母さんの言うことは、七割でいいから聞け。
父より』
読み返した。二ヶ月かけて一行だった紙が、一晩で一枚になった。名指した夜に、である。
日野は便箋を畳み、封筒に入れ――今度は、封をした。
糊が乾く間に、国際ふくろう便の切手を出した。貼った。宛名を確かめた。日本国、東京都。宛先は寄宿舎ではなく自宅にした。春休みに家で受け取ればいい。
出すかどうかではもうない。いつ出すかの紙になった。帳場の紙の墨と封筒の糊が、同じ速さで乾いていた。
名指した週、手紙に封をした。関係はない。
関係はないが、同じ週だ。