“【独占】世界的作家ロックハート、極東で逮捕――編集部が入手した「奇行の全記録」と「裏切りの七年間」
『週刊魔女』が誇るチャーミング・スマイル・コンテスト五連覇の王者に、いったい何が起きたのか。東洋の鄙びた温泉地で本誌がつかんだ衝撃の逮捕劇。関係者は涙ながらに語る。「彼は取材に命を懸ける男。きっと何かの間違いです」。一方、七年来の担当編集者は電話口で三秒沈黙し、こう答えた。「……ああ、やっぱり」
――『週刊魔女』九月第一週号より抜粋”
準備期間はきっかり十二日だった。国際移動キーの発着枠が週に二便で、九月一日の朝の便に間に合わせるとそうなる。発着室で係員が古い薬缶を差し出す。摑む。臍の裏を鉤で引かれる、あの感覚。胃と誇りが同時に持ち上がり――
――着地した先は湿った芝の上だった。
朝靄。石の匂い。低い雲。気温は東京より頭一つ低く、湿気は東京より重い。目の前に古城が黒々と建っていた。写真の三倍はある。塔の数を数えかけてやめた。数えるべきは塔ではなく、非常口だ。
そして、門の前に人が立っていた。長い銀髪に銀髭、半月形の眼鏡、絵に描いたような魔法使いのローブ。写真で見た顔だ。一国の魔法界の重鎮が供も付けず、朝靄の門前に一人で立って、極東から来る一介の警部補を待っている。
日野の職業意識が静かに警報を鳴らした。偉い人間が自ら出迎える時、歓迎か、値踏みか、そのどちらもだ。
遡ること送検の翌朝、呼出状が来た。宛名は日野道広警部補、分室気付。差出は本省官房。用件の欄には「用件は当日申し伝える」と書いてあった。用件を伝えないための用件欄というものを、役所は平然と印刷する。
日野でなくとも、役人なら正確にその中身を察する。要するにお前のことが気に入らないから、これからお前が気に入らないことをするぞ、と書いてあるわけだ。
「俺は知らんぞ」
柏木は呼出状を二度読んで、二度とも日野に突き返した。
「言っておくが、送検書類に不備はなかった。俺が全部読んだ。全部だぞ。俺は悪くない。一寸たりともだ」
「誰も係長の話はしてませんが」
「本省に呼ばれる相手にはな、そういうことを先に言っておくもんなんだよ」
言われなくても承知していた。柏木は当年とって四十三、ノンキャリの中では人並みに出世したクチである。ぎりぎり現場に近い位置の椅子にしがみつき続けてきた。その能力の中には、本省から名指しされる厄介者に適切に保険をかけておくことも当然含まれている。
昼休憩中に、妻に言って東京行きの切符を手配してもらわないと。
そうしてやって来た本省は霞が関の合同庁舎の中にある。正確には、合同庁舎の案内板に載っていない階にある。エレベーターに存在しないボタンを、存在しない順序で押すと、扉の開く先が変わる。着いた廊下は下の階と同じリノリウム張りで、同じ蛍光灯が同じ具合に一本切れかけていた。予算のない役所は、隠し方まで倹約する。
日野は第七会議室の前の長椅子に案内された。
「少々お待ちください」
少々、は役所の単位で三時間だった。
最初の一時間でお茶が出た。玉露だった。若い職員が両手で持ってきて、丁寧に一礼して置いていった。悪くない扱いだ、と日野は思った。二時間目に二杯目が出た。煎茶だった。別の職員が片手で置いていった。三時間目の三杯目は出がらしの番茶が湯呑みの七分目で、盆も使わずに来た。
なるほど、と日野は思った。扉の向こうで俺の値段が下がっている。
会議室の扉は厚いが、廊下は静かだった。断片は聞こえる。聞こえる断片を拾って綴るのは取り調べと同じ要領だ。
「前例が」
「だから前例がないと言っている」
「ダンブルドアが」
「先方の司法当局は不介入と」
「なら外交案件ではなく」
「教育案件でもない、うちの予算では」
「誰が行くかではなく、誰が責任を」
「だからそれを今」
「そもそも逮捕したのはどこの」
警視庁です、と日野は廊下で胸中に答えた。もちろん適法にです。百パーセント。
三杯目の番茶が胃の中で完全に冷え切った頃、扉が開いた。
「日野警部補。どうぞ」
会議室は横に長かった。長机の向こうに幹部が七人並び、上座の席が一つ空いている。日野はその配置を一目で読んだ。責任者の椅子を空けたまま進む会議は、結論だけがあって責任者のいない会議だ。つまり、結論はもう出ている。
「まあ、掛けたまえ」
真ん中の男が言った。官房の弘中審議官。残念な役回りを引く時だけ真ん中に座らされる種類の人だ、というのは、着座の姿勢の落ち着かなさで分かった。
「日野くん。此度は、その、ご苦労だった。実に見事な、適法な逮捕だった」
「恐れ入ります」
「適法だった。そこは誰も疑っておらん。逮捕は適法。手続も完備」
弘中審議官は湯呑みの茶を一口飲んだ。審議官の茶はまだ湯気が立っていた。
「だからこそ、困っておる」
「は」
「いいかね。適法な行為を、政府は謝罪できんのだ。謝罪できんものだから遺憾の意も出せない。遺憾の意すら出せんとなると、先方へお詫びする形式がだな。その、この世のどこにも存在せんことになる」
「詫びる必要が、そもそもございますか」
七人が一斉に、痛みを堪える顔をした。弘中はもちろん、弘中以外の六人も、日野の言っていることの正当性は当然分かっている。彼らも同じ役人で、同じく日本の秩序に責任を負う立場だ。ただ、日野よりもほんの少しばかり、視野が広いことを求められるだけで。
「日野くん」
弘中審議官は湯呑みを置いた。
「先方はな、アルバス・ダンブルドアなのだよ」
「存じております。照会電文で」
「古くはゲラート・グリンデルバルド、最近ではヴォルデモートを退けた国際魔法使い連盟の元議長でな。あー、その、要するにだ、機嫌を損ねてよい相手の一覧表というものが仮にあるとして、あの御仁は載っておらんのだな、これが。どこの国の一覧表にも。当然我が国もだ」
「はあ」
「そこで、だ」
審議官は手元の紙に目を落とした。落としたまま、顔を上げずに言った。
「君、英語話せたよね?」
沈黙が落ちた。日野は三秒待った。三秒待っても、続きは来なかった。どうやら、今のが本文だったらしい。
「……取り調べと交通整理の英語でしたら」
「十分だ」
「何がでしょう」
「読み上げる」
隣の杉総括課長が立ち上がり、一枚の紙を両手で掲げた。
「辞令。警視庁外事第五課、日野道広警部補。ホグワーツ魔法魔術学校教授(闇の魔術に対する防衛術)への派遣を命ずる。発令、八月二十日付。着任、九月一日。なお期間は別途とする。以上」
「以上、とは」
「以上は以上だ」
「お待ちください」
日野は背筋を伸ばした。ここは勝負どころだ。伸ばすと敬語が硬くなる。硬いなりに、一つずつ積んだ。
「まず理屈が分かりかねます。当方の逮捕により、先方は教師を一人欠いた。それは分かります。しかしなぜ、その補充を当方が」
「差し引きの問題ですよ」
答えたのは、端の席の男だった。若い。四十前だろう。名札には企画官・加藤とある。七人の中で一人だけ、手元の資料が分厚かった。
「先方は教師を一人失いました。当方が一人補充します。国際収支は均衡する。詫びの言葉は要らず、遺憾の意も要らない。誰も謝らず、誰の責任も発生しない。美しいでしょう」
「美しいのは分かりましたが、なぜ私が」
「英語が話せて、防衛術が使えて、身元が固くて、二週間で動かせる者。名簿を三度洗って、残ったのが一名です」
「洗い方に異議があります」
日野は懐から手帳を出した。準備はしてある。呼出状に用件が書いていない時ほど、用件の見当はつくものだ。
「国際派遣要綱第六条。海外の機関への長期派遣には、本人の同意を要する」
「同意書はこちらで用意した」
杉総括課長が二枚目の紙を掲げた。
「日付も入れてある。あとは判だけだ」
「同条二項。家族の生活に著しい支障がある場合、本人は派遣を辞退できる」
「単身赴任手当がつく。著しい支障は、手当により著しくなくなる」
「教員資格の問題があります。私は教職課程を」
「南硫黄島の卒業資格で先方に照会済みだ。先方の回答を読み上げようか。『当校の教員採用に資格要件はない。校長が握手をすれば成立する』。……いやあ、いい国だな、英国というのは」
「健康診断が」
「済んだことにしてある」
「済んだことに」
「君は健康だろう。血圧が気になるかね?」
「いえ、昨年は基準値範囲内ではありましたが、健康ですが、手続の話をしております」
「手続なら今、済んだろう」
外堀という外堀が、事前に埋まっている。埋め方に見覚えがあった。日野が被疑者を落とす時、逃げ道を先に全部塞いでから世間話を始める、あの手順だ。役所は役所を落とす時、同じ技術を使う。
「日野くん」
弘中審議官が、声を一段柔らかくした。柔らかい声は、最後の段の合図だ。
「実際、悪い話ではないのだよ。国際交流の最前線だ。名誉なことだ。それにな、こういう務めを果たした者を、本省は忘れん。断れば、その、なんだ、今後の君の出世にも」
「響く出世が、私にはありませんが」
会議室が、凍った。
七人が七通りの角度で固まり、杉総括課長の掲げた辞令が小さく傾いだ。長い沈黙の後、弘中審議官が咳払いを一つした。
「……日野くん。それはその、あれだ。言わない約束というものだろう、お互いに」
「失礼しました」
「まったくだ」
腹は決まっていた。正確に言えば、呼出状を見た朝から八割、廊下の茶が番茶に落ちた時点で九割五分決まっていた。断れる椅子なら上座を空けて七人も並ばない。残る話は条件だ。負け戦の値切りこそ、ノンキャリ二十年の本職である。
「では伺います。期間は」
「一年だ」
杉総括課長が即答した。
「辞令には別途とあります」
「一年の、予定だ」
「予定というのは」
「決定ではない、ということだよ」
「帰任の発令権者は」
「それは、その、状況により」
「状況の判断権者は」
「……追って定める」
追って定める、が定められた試しはない。日野は手帳にそう書く代わりに「期間・空欄」と書いた。
「次に身分です。退職しての現地採用は受けかねます」
「無論です。その点はご安心を」
加藤企画官が資料をめくった。めくる前から頁は指で押さえてあった。
「警視庁からの研修派遣の形を取ります。警部補の官職は保持。給与は本俸を本邦で支給、在勤手当を別途。共済も継続。ご家族の官舎もそのままで結構です。それでは、同意書の方で二点だけ確認させてください」
加藤企画官が別の紙を出した。
「官職名の表記です。辞令は『警部補』、共済の届出は『巡査部長級以上』の欄。どちらも正しいのですが、様式が違いますので両方お書きください。それと添付の写真、上半身、背景無地、三ヶ月以内のもの。先方の登録に要るそうです」
「三ヶ月以内の写真は手元にありません」
「駅前の証明写真で結構です。領収書は出ません」
「出ませんか」
「費目がありませんので。私も出たことがありません」
「手当の費目は」
「在外研修雑費で通しました。稟議は昨日下りています」
「昨日」
「ええ、昨日」
日野は加藤企画官の顔を初めて正面から見た。仕事の速い役人には二種類いる。仕事が好きな者と、その仕事に用がある者だ。前者は珍しい。後者は珍しくない。
「もう一点。現地からの報告義務は」
「月例で結構です」
加藤は薄い冊子を机の上に滑らせた。
「様式はこちらで整えました。第一号様式、定期報告。第二号様式、臨時報告。第三号様式は、様式にない事項を報告する時の様式です」
「様式にない事項を報告する様式」
「そこはまあ、役所ですから」
「宛先は官房で?」
「官房気付、で私まで」
私まで、の三文字だけ声が半音低い。日野は冊子を受け取り、それ以上は訊かなかった。訊いて得をする時と、訊かずに得をする時がある。ここは後者だろう。俺にだけ情報が欲しいと言い出すやつは、大抵異常な値付け感覚をお持ちだ。
「結構です。判を捺します」
同意書に朱を落とした。自前の印だ。役所勤めで自分の印を捺す機会は少ない。少ない機会の大半が、始末書とこの手の紙だ。
「ああ、それと日野さん」
散会の間際、加藤企画官が思い出したように言った。思い出したように言うために取ってあったのは口調で分かった。
「被疑者の処分ですが。処分保留のまま国外退去、身柄は英国側に引き渡しと決まりました。今朝方」
「原稿は」
「証拠品ですので、当分還付できません。当分の長さは――」
加藤は初めて、事務の顔の下から一瞬だけ別の顔を出した。
「――現場の裁量かと」
いい役人か、悪い役人か、まだ分からない。ただ、話の通じる役人ではあった。
官舎に帰ると、夕飯は秋刀魚だった。
「英国に行くことになった」
「あら」
笠子は大根おろしを添える手を止めなかった。
「いつからです」
「九月一日から」
「あと十二日ですね」
「うん、そうなる」
「期間は」
「一年の予定だそうだ」
「決まってないんですか?」
「決定ではないということらしい」
「お役所ですねえ」
笠子は箸を置いて、少し考えた。考えてから、台所の戸棚ではなく、居間の本棚を見た。
「あなた。あの本、どうしましょう」
本棚の中段に、それはあった。『グールお化けとのクールな散策』邦訳版。二年前、笠子が生協の共同購入で買ったものだ。面白かったから、と当時は言っていた。
「著者は俺が逮捕したよ」
「ええ、夕刊で読みました。相良さんの奥さまが大騒ぎしてましたよ。もう皆さんご存知じゃないかしら」
「捨てるかい」
「初版ですから」
笠子は真顔で本を棚の奥へ一寸押し込んだ。
「値が上がるかもしれませんし」
「上がるかねえ」
「作家の本は、何かあると上がるんです。逮捕とか、自殺未遂とか、乱痴気騒ぎとか。分かるでしょ?」
それから笠子は、単身赴任の実務を五分で詰めた。給与振込の口座、官舎の名義、冬物を送る時期、緊急時の連絡経路。詰め終わってから、湯呑みに茶を注ぎ足して、一言だけ足した。
「英国ですか。遠いですねえ」
「不満かい」
「いいえ。うちに嫁ぐ時も、親戚中に反対されましたから」
笠子は自分の茶を一口飲んだ。
「遠いところに行く人だとは、最初から聞いていますし」
どういう意味だと訊きかけて、やめた。取り調べなら訊く場面だ。家庭では訊かないのが正解の場面がたまにある。取り調べでの勝率ならかなり高い。家庭では残念ながら、五割を切っている自覚がある。
良美への手紙はその晩に書いた。書くのに一時間かかって、本文は三行になった。父は仕事で英国に行くことになった。九月からだ。体に気をつけて勉強しなさい。――三行目を「勉強しなさい」にするか「無理をするな」にするかで二十分使い、結局両方書いて両方消して、「体に気をつけて」だけ残した。
海燕便は南硫黄島まで四日かかる。返事は八日目に来た。私塾の教材申込書の控えの裏に、鉛筆で一行。
「ふーん、がんばってね」
日野はその一行を、都合十一回読んだ。取り調べで鍛えた行間の読解がまるで通用しない。「ふーん」は驚きなのか無関心なのか。読点は間なのか癖なのか。末尾の「ね」の一文字に、日野は三度ばかり希望を見出しかけて、三度ともやめた。完全黙秘の被疑者なら落とし方の型が七つある。娘の一行には、一つもない。紙は手帳に挟んだ。
出立までの十二日間は戦場だった。まず金の話である。移転料の支給を申請すると、経理の係員は規程集を三十分めくった末に、顔を上げずに言った。
「日野さん。国際転任の欄が規程にありません」
「ないと、どうなるんです?」
「内国転任の準用で算定します。東京・ロンドン間」
「どうやって」
「鉄道換算です」
「それ、どこを走る鉄道ですか」
「規程上は走っていなくてもいいんです」
謎の鉄道が日野と係員によって東京・ロンドン間に敷かれた結果、支給額はトランク一つ分の移動キー超過料金にわずかに届かなかった。届かない分は自腹である。二週間で海を渡れという国が、渡し賃を満額出さない。日野は驚かなかった。驚かない自分に、少しだけ驚いた。
次に教科書の話である。英国側から着任資料が届いたのは発令の三日後だった。時間割、寮の一覧、職員名簿、そして全学年の指定教科書一覧。日野は一覧を開いて、しばらく動かなかった。
七冊全部、被疑者の著作だった。
『泣き妖怪バンシーとのナウな休日』『グールお化けとのクールな散策』『鬼婆とのオツな休暇』『トロールとのとろい旅』『バンパイアとバッチリ船旅』『狼男との大いなる山歩き』『雪男とゆっくり一年』。
防衛術の教科書が一冊もない。あるのは自伝が七冊である。育ち盛り、食べ盛りの十代の家庭に、被疑者の自伝を、七冊。しかも調べたところ、どれも安くない。七冊揃えれば私塾の月謝一月分は飛ぶ。
「教科書から選び直しだ」
言うのは一秒で、やるのは四日だった。まず七冊を全部読んだ。読まなければ差し替え理由書が書けないからだ。読んだ結果、理由書の下書きは「本件著作七点は、いずれも防衛術の教材としての適性を欠く(別紙のとおり)」の一行で足りることが分かったが、別紙が九枚になった。
九枚目を書きながら、日野は自分がこの四日で世界有数のロックハート研究家になりつつあることに気づき、筆を置いて茶を淹れた。今ならロックハートの好きな色だって答えられるだろう。やつがオグデンのファイア・ウイスキーをいけるクチだ、ということに感心している自分に腹が立つ。入省当時、柏木に飲ませてもらって昏倒したのだ。
代わりの教科書は書店に照会して定番を選んだ。『闇の力――護身術入門』。古くて安い。書き方も堅い。三拍子である。ダンブルドア宛に、差し替えの承認伺いと理由書一式、それに「学期直前の変更により各家庭の出費に影響が出る場合の緩和措置(旧指定図書の買戻し等)」の提案を三枚付けて送った。
返信は二日で来た。羽根ペンの流れるような筆跡で、一行。
「万事、貴殿にお任せします。楽しみにしております。――A・D」
理由書九枚に返事が一行。
日野は電文を三度読み、封筒に戻し、手帳の「期間・空欄」の隣に「校長・要観察」と書いた。
荷造りは半日で済んだ。トランクの底に呪符の束と清めの塩、その上に着替えと制服類、辞書が二冊。最後に印章一式を布に包んで隅に収めた。認印、訂正印、朱肉、捺印マット。
「英国に判子は要るんですか」と笠子が訊いた。
「要らんだろうね」
「じゃあ、なぜ」
「捺せと言われてから取りに帰れる距離じゃないだろ」
笠子は納得のいかない顔で、それでも隙間に味噌と梅干しと出汁昆布をありったけ詰めた。戦地に送る気かと思ったが、言わなかった。四日間の英国飯研究の結果、あれは戦地に近いという結論が出ていたからだ。ホグワーツにはたぶん、無聊を慰めるチャイナタウン飯もインドカレーもない。
出発の朝、見送りは玄関までだった。
「行ってくる」
「はい。いってらっしゃい」
それだけだった。当直明けで帰ってまた出る朝も、令状を懐に入れて出る朝も、三日は戻らないと分かっている朝も、笠子は同じ場所に立って同じことを言い、日野は同じことを返して靴を履いてきた。二十年、送り出しの型は変わらない。
変わらないことに、今朝だけはほんの少し助けられた。
そして今、日野は自分を英国に引き寄せた元凶の前にいる。
「ようこそ」
老人は日本語で言った。発音は柔らかく、ほとんど訛りがなかった。それから英語に切り替えて、両手を広げた。
「会えて嬉しいよ、ミチヒロ。さあ、朝食がまだじゃろう」
初対面の、しかも一国の重鎮に、名を呼び捨てにされた。
握手の速度で、心の距離の審査を無審査で通過してくる男だ。国境より、この爺さんの間合いの方が緩い。
「……日野です」
と、日野はひとまず英語で言った。
「着任のご挨拶に上がりました。それと校長、恐縮ですが最初に一点」
「なんじゃな」
「この門の閂、内側からしか掛からない構造ですか」
アルバス・ダンブルドアは目を瞬き、目尻に皺を寄せて笑顔を作った。
「もちろん、内側からしか掛からぬよ」
その目の奥が一切笑っていないことを、日野は職業柄、見落とさなかった。