拝命、闇の魔術に対する防衛術 ※期間は別途   作:細野藤松

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本日投稿分から、一日二回更新です(毎日19時・21時)。


第二十話 全生徒は十八時までに各寮へ戻ること 以後の廊下の通行を禁ずる

三月も半ばを過ぎた土曜、クィディッチの朝練から戻ると部屋が荒らされていた。正確にはハリーのベッドの周りだけが、だ。

 

シーツが剥がされ、枕が床に落ち、トランクは蓋を開けて中身を吐き出している。ロンのベッドもシェーマスのベッドも無事だった。ハリーの一角だけが、竜巻の通り道みたいになっていた。

 

「盗まれたもの、確かめて」

 

駆けつけたハーマイオニーが戸口で言った。女子は男子寮に入れる。この規則の不公平については、パーシーが年に一度は演説する。

 

ハリーは散乱した持ち物を検めた。透明マント、ある。アルバム、ある。金貨の袋、手つかず。箒の手入れ道具、ある。ないのは、一つだけだ。

 

「……日記だ」

 

三人の間に、冷たい沈黙が落ちた。

 

「金目のものを全部残して、白紙の日記帳だけ盗るやつって、なんだよ」

 

ロンの声が掠れた。

 

「透明マントなんて貴重品だぞ。それにハリーの金貨の袋、まあまあ重いのに」

「日記の価値を知ってる人よ」

 

ハーマイオニーが即答した。

 

「つまりあの日記が何なのか、私たちより知ってる。それに、考えて。ここはグリフィンドール塔よ。合言葉がなきゃ入れない。犯人はうちの寮の中にいる」

 

同じ寮の誰かがハリーのベッドを暴いて、日記だけを持ち去った。

 

「ヒノに言うか? 盗難だぞ、これ」

 

ロンが言った。

 

「言うには、持ってた経緯から言わなきゃならない」

 

ハリーは首を振った。自分でも変だと思った。日記はもう手元にないから、隠している罪は消えたはずなのに。

 

「『トイレで拾った日記が盗まれました』って、どこから説明すればいいんだよ」

 

堂々巡りだ。半年かけて転がした雪だるまは、日記が消えても消えてくれなかった。ハーマイオニーだけが、会話から半分抜けて考え込んでいた。

 

「……誰がなんのために。なんで今盗ったのかしら」

 

彼女の目は爛々と光っていて、ハリーはそれをいつもの癖としか思わなかった。

 

 

 

対ハッフルパフ戦の朝はよく晴れていた。ロッカールームへ向かう廊下で、それは来た。

 

「……殺してやる……今度こそ……裂き殺してやる……」

 

ハリーは廊下の真ん中で棒立ちになった。三度目だ。壁の中を恐ろしい声が滑るように移動していく。

 

「ハリー!?」

「声だ。……聞こえた。動いてる」

 

ロンの顔から血の気が引いた。そして、ハーマイオニーが弾かれたように顔を上げた。彼女は自分の額を叩いた。

 

「声! 声よ! ハリー、なんで今まで気づかなかったの、私。あなた、蛇の声を聞いてるのよ! 蛇語ですって! だからあなたにしか聞こえない! だとしたら、だとしたらよ、壁の中を通れて、それで」

 

彼女はもう走り出していた。

 

「図書館に行ってくる! 確かめたいことが一つあるの!」

「お、おい! 試合は!?」

「先に始めてて!」

 

角の手前で彼女は一度足を止め、ローブのポケットから小さな丸い手鏡を出した。壁の鏡のない区画用に、と彼女が持ち歩き始めた鏡だ。角を曲がる前に先を見る。鏡を掲げて廊下の先を確かめ、それから角を曲がって見えなくなった。

 

それが、歩いて喋るハーマイオニー・グレンジャーを見た最後だった。

 

 

 

試合は始まらなかった。両チームが整列した直後、マクゴナガル先生が拡声した杖を口元に競技場へ入ってきた。

 

「試合は中止です! 全生徒は寮へ戻りなさい! 各寮監の指示に従うこと!」

 

スタンドがどよめきとブーイングで揺れた。マクゴナガル先生はハリーとロンを見つけると、二人だけを呼び寄せた。

 

「ポッター、ウィーズリー。……一緒に来なさい」

 

医務室への廊下は永遠に続くようで、一瞬で終わった。白いベッドが二つ増えていた。一つにはレイブンクローの監督生、ペネロピー・クリアウォーターという名の上級生が目を見開いたまま横たわっていた。

 

もう一つに、ハーマイオニーがいた。石のように硬直して目を見開き、片手を胸の前に固めている。

 

「図書館前の廊下で発見されました」

 

マクゴナガル先生の声は無理に平らにした声だった。唇は無くなっていた。

 

「二人一緒に。……そばに、これが」

 

ハーマイオニーの固めた手に、丸い手鏡が握られていた。ハリーの膝から力が抜けた。ロンがベッドの柵を掴んで、白くなった指で掴み続けていた。

 

先に始めてて。

 

あれが最後の言葉になるなんて、誰が。

 

部屋の隅で何かが崩れる気配がした。パーシーだった。監督生バッジをつけたまま、壁際の椅子に操り糸の切れた人形みたいに座り込んでペネロピーのベッドを見ていた。顔が紙より白い。

 

「……パーシー? なんで、パーシーが――」

 

訝しがるロンにパーシーは答えなかった。ハリーの目にも、お世辞にも答えられる状態には見えない。

 

「治ります」

 

マダム・ポンフリーが毛布を直しながら、断固とした声で言った。

 

「いいですか、三人とも。この子たちは死んでいません。石化です。石化は治ります。マンドレイクの回復薬が、スプラウト先生の見立てでは五月の末には完成します。そうしたら全員、猫も坊やも幽霊も監督生も、この子も、全員まとめて起こします。ですからその顔をおやめなさい。葬式の顔は禁止です」

 

五月の末。ハリーは頭の中で数えた。いまは四月に入ったばかりだ。あと、二か月足らず。

 

二か月足らずしたらハーマイオニーは目を覚ます。そのことにしがみつくように頷いた時、病棟の扉が開いた。

 

ヒノ先生だ。いつもの足取りで入ってきた。戸口で一度全体を見て、ベッドの間を決まった順路みたいに歩いて、ペネロピー先輩の枕元で足を止め屈んで、目の開き方と手の形を確かめ、それからハーマイオニーのベッドの前に立って。

 

止まった。

 

手帳は腰にあった。先生の手は、いつもなら戸口の時点で手帳を抜いている。その手が動かなかった。先生は、ハーマイオニーの顔と、胸の前に固めた手と、その手の中の鏡を、長いことただ見ていた。

 

記録の人が記録を始められずに立っている。ハリーはそれがどれだけ異常なことか、半年の付き合いで分かるようになってしまっていた。

 

やがて先生はゆっくりと手帳を抜いた。第一筆が紙に降りるまでが、遠目にも分かるほど遅い。

 

「……鏡を、使ったんだな」

 

先生の声は、低かった。

 

「習った通りに。角の前で、鏡で先を見た。だから生きてる」

 

だから生きてる。その四文字の後ろに続きがあるのが、ハリーには聞こえた気がした。――だが、石化は防げなかった。先生はその続きを言わずに検分を続けた。

 

そしてヒノ先生の手がまた止まった。ハーマイオニーの固まった右手。鏡を握っていない方の手だ。その握り込んだ指の隙間から――紙の端が、ほんの数ミリ覗いている。

 

「……紙だ」

 

先生は屈み込み、そっと彼女の指に触れた。開こうとした。指は動かない。石の指だ。先生は力の入れ方を三度変えて、三度目で手を離した。

 

「こりゃ、無理にやれば指の方が折れるな」

「せ、先生」

 

ハリーは思わず言った。

 

「その紙、何か――手がかりかも。ハーマイオニーは図書館に、確かめたいことがあるって――」

「だろうな」

 

先生は立ち上がり、手帳に書きつけながら言った。

 

「図書館の前で倒れてた子の、握り締めた紙だ。十中八九、調べ物の答えがこの中にある。……が、開かんものは開かん。切り裂いて抜くのは論外だ。この子が最後まで守った紙だ。この子の手の中にあるのが、一番安全だ」

 

先生は手帳を閉じた。

 

「五月末に薬ができる。起きたら本人の口から聞く。これはな、ポッター。この子の戦果だ。横取りはしない」

 

先生はハーマイオニーの枕元にほんの一瞬だけ、日本式のお辞儀をした。生きている人間への角度より、少しだけ深い角度に見える。それから、いつもの足音のない歩き方で病棟を出て行った。

 

ハリーはハーマイオニーの握られた手を見た。あの中に答えがある。彼女は先に着いたのだ。九月から競争していた、紙の道の先に。それでも間に合わずに答えを握ったまま、二か月近く眠る。

 

その日の夕方、各寮の黒板に同じ告知が書かれた。

 

『全生徒は十八時までに各寮へ戻ること。以後の廊下の通行を禁ずる。授業間の移動は教員の引率による。クィディッチの練習および試合を無期限で延期する』

 

城は戒厳の城になった。そして、ハリーは見た。パニックで逃げ惑う生徒が一人もいないのを。

 

廊下では誰もが二人一組で歩き、曲がり角の手前で当たり前のように足を緩めて凸面鏡を見上げ、動いている階段の前では列を作って動き終わるのを待った。夕方には各学年の監督生が名前を読み上げる声と返事の声が階ごとに重なって響き、泣きそうな一年生が上級生の袖を掴むと、掴まれた上級生のほうも声を震わせながら「大丈夫だ、手順どおりにやれ」と言った。

 

手順どおりに。

 

全校が、誰に言われるでもなくやっていた。距離を取る。遮蔽に入る。大人を呼ぶ。動く床は床じゃない。角の先は鏡で見る。

 

ヒノ先生が時間をかけて城中に張り巡らせたものの正体を、ハリーはこの最悪の夕方に、初めて全部見た。

 

談話室のハーマイオニーの席は空いたままだった。彼女の持ち物は医務室の私物棚に封をされ、二部構成の検証ノートも誰にも読めない場所へ仕舞われた。答えを知っているかもしれない人間が、これで二人黙り込んだことになる。一人は石の中で。もう一人は……もう一人が誰なのか、ハリーはまだ知らない。

 

「ハリー」

 

消灯前の談話室で、ロンが低く言った。目が赤かった。泣いたのを擦った目だった。

 

「ハグリッドのところに行こう。今夜。マントで」

「……うん」

「もう、待ってられない。犯人だなんて思っちゃいないけど、五十年前に何があったのか、ハグリッドは知ってるんだ。訊くしかないだろ」

 

夜の校庭を、透明マントの下で二人は歩いた。

 

ハグリッドの小屋には灯りがついていた。小屋の脇の囲いが空で、白い羽根が数枚、夜風に転がっている。ノックすると内側で慌ただしい物音がして、扉が細く開き――石弓の切っ先が闇に突き出された。

 

「……誰だ!」

「僕らだよ! ハリーとロン!」

 

マントを脱ぐと、ハグリッドは石弓を下ろして大きく息を吐いた。

 

「お前さんたちか。……こんな時間に、来ちゃなんねえ」

 

小屋の中のハグリッドは見たことがないほど落ち着きがなかった。薬缶を火にかけたまま忘れ、ファングの頭を撫でる手が震えていた。何かを、誰かを、待っている様子だ。

 

「ハグリッド、訊きたいことがあるんだ。五十年前――」

 

ノックの音がした。

 

ハグリッドの顔から色が抜けた。彼は無言で二人にマントを被せ、隅へ押しやった。ハリーとロンは暖炉脇の壁に張りついて息を殺した。

 

扉が開いた。入ってきたのは二人だ。一人はダンブルドア。その顔は見たこともないほど静かで、厳しかった。もう一人は細縞のマントに黄緑の山高帽の、恰幅のいい小男だった。ロンが誰かに気づいた。魔法大臣、コーネリウス・ファッジ。

 

「困った事態だ、ハグリッド。実に困った」

 

大臣は帽子を揉みながら、部屋の中を見ないように喋った。

 

「学校で四人。省としては動かんわけにはいかん。動いた形を見せんことにはな」

「俺は、何も」

 

ハグリッドの声は、根こそぎ掠れていた。

 

「ダンブルドア先生、俺は――」

「わしは君を信じておる、ルビウス」

 

ダンブルドアの声は静かで、ファッジに向けた圧だけが硬い。

 

「コーネリウス。ハグリッドを連れて行くことに、わしは断固反対する」

「アルバス、しかしだね君。前科というものがある。五十年前、当時も君は――とにかく規則は規則、省は省だ。ハグリッド、すまんが来てもらう。アズカバンへ。な、なに、予防措置だよ。無実と分かればすぐ帰れる。すぐだ」

 

アズカバン。マントの下でロンの息が止まるのが分かった。

 

ノックが二回鳴る。ファッジがびくりと跳ねた。扉が開いて、夜気と一緒に黒い人影が入ってきた。ヒノ先生だ。

 

「夜分に失礼。見回りの途中、灯りと人声がしたもので」

 

ヒノ先生は戸口で靴の泥を落とし、部屋の中を一度だけ見渡した。視線はまずダンブルドアに行き、ファッジを見て片眉が上がった。ハグリッドを通り越すとき、暖炉脇の何もない壁に投げかけられた視線が、ほんの一瞬だけ強くなった。

 

「君は……教員かね?」

 

ファッジが眉をひそめた。

 

「防衛術の日野です。で、これは何の集まりです? 森番の家に、夜、魔法大臣が直々に」

「き、君には関わりのないことだ。省の公務でね。この男を連行する」

「連行」

 

先生の声の温度が、一度だけ下がった。

 

「罪状は」

「い、いや、罪状というか、その、疑いがだね」

「では令状は。当然お見せいただけるのでしょうね」

「……れ、令状? いや、これは逮捕ではなく、その、保護的な措置で」

「では引致の法的根拠は。裁判の期日は。証拠は。弁護人選任の権利は告知済みですか?」

 

先生は畳みかけなかった。一つずつ、事務的に、置いていった。

 

「ああ、五十年前の有罪記録をお考えなら、申し上げておきますが、存在しませんよ。私が調べましたのでね。あの年度の記録は、死亡記録も処分記録も抜き取られている。つまり大臣、あなたが今この人を引く根拠は、記録の上には一枚もありません」

 

ファッジの顔が、山高帽と同じ色になった。

 

「き、君ぃ! 外国の方だから分からんのだろうが、これはだね、慣例というものだ! 世論というものがある! 学校で四人もやられて、省が何もせんでは、私の立場が」

「記録なしの予防拘禁は、俺の国では戦前に捨てた手続きだが」

 

ヒノ先生の声は静かだったが、色が明らかに変わっていた。ハリーは、マントの下で動けなくなった。低くて平らだ。聞いたことがない。いや――一度だけある。査問の噂で、双子が真似してみせた声。今のは記録に残すぞ、の声。本物は真似の百倍静かで、百倍怖い。

 

「あんた、五十年前と同じことをしてる自覚はあるか」

 

二秒。

 

小屋の空気は凍っていた。ファッジは口を開けたまま固まり、ハグリッドは呆然と見下ろし、ファングまでが伏せた。ダンブルドアだけが目を伏せずに、半月眼鏡の奥から、じっと見ていた。

 

ヒノ先生は、息を一つ吐いた。

 

「……失礼。取り乱しました」

 

戻った。戻った声で先生は続けた。

 

「当校の教員として、引致には従います。その代わり記録は取らせてもらう」

 

懐から紙とペンを出し、ハグリッドのテーブルの端で、立ったまま書き始めた。

 

「身柄拘束書。日時、四月。今夜の日付。執行者、魔法大臣コーネリウス・ファッジ。引致先、アズカバン。引致の根拠――」

 

先生は顔を上げた。

 

「先ほど『慣例』と仰いましたね。そう書きます。慣例による、と」

「ちょ、ちょっと待ちたまえ、そんなものに署名は――」

「署名できない引致、ということでよろしいか」

 

先生はペンを止めなかった。

 

「では、そのように記録します。『執行者は文書への署名を拒否した』と。……大臣。署名を拒否した紙と、署名のある紙、五年後にどちらがあなたを守るか、考えてからお決めください。時間はあります。私は待つのが仕事なので」

 

ファッジは、山高帽を握り潰さんばかりに揉み、周囲を見回し、ダンブルドアの無言の視線から目を逸らし――署名した。

 

先生は紙を検めて写しを取り、一枚をファッジに、もう一枚を自分の懐に収めた。それからハグリッドに向き直った。

 

「ハグリッドさん」

 

先生の声は、いつもの現場の声に戻っていた。

 

「よく聞きな。向こうで何も言うんじゃない。一言もだ。訊かれても名前以外は喋るな。いいか、喋らないことは罪にならない。あんたが何か言えば言葉尻を取る奴が出る。だから、黙って、待て。迎えの算段はこっちでやる」

「……せ、先生よ」

 

ハグリッドの目が、盛大に潤んだ。

 

「あんた……」

「仕事なので」

 

ハグリッドは巨大な手の甲で目元を拭い、それから連れられて戸口へ向かいながら、誰にともなく、大声で言った。

 

「誰か、ファングに飯をやってくれ! それとな! 蜘蛛を追いたい奴がいるなら、蜘蛛の跡を追え! そうすりゃ分かる! 俺が言えるのは、それだけだ!」

 

扉が閉まる寸前、もう一組の靴音が、外から来た。

 

「おやおや。もう来ておられたか、大臣」

 

杖を優雅について入ってきたのは、ルシウス・マルフォイだった。長い黒ローブ、冷たい満足の笑み。その視線が部屋の中のヒノ先生を見つけて、一瞬だけ止まった。

 

「……これはこれは、ヒノ教授。夜歩きがお好きなことだ」

「職務なので。で、理事殿は何のご用で」

「決まっているだろう」

 

ルシウスは、羊皮紙を取り出した。

 

「理事会十二名、全員署名の停職命令だ。アルバス・ダンブルドア、貴殿は本日をもって校長職を停止される。……襲撃を四件も許した校長をこれ以上は置いておけん、というのが理事たちの総意でね」

 

ハグリッドが吠えた。ファッジが「それとこれとは」とおろおろした。ヒノ先生とダンブルドアだけが静かだ。

 

「理事会が全員一致で決めたのなら、わしは身を引こう」

 

ダンブルドアはゆっくりと部屋を見渡した。

 

「じゃが、覚えておくがよい。わしはこの学校から本当に去りはせん。この城でわしに忠実な者が残っておる限りな。そして、助けを求める声には、ホグワーツでは必ず応えが与えられる」

 

その目はハリーたちのいる暖炉脇の壁を、確かに一度見た。それからダンブルドアは戸口で足を止めた。振り返らずに、もう一言だけ付け足した。

 

「ミチヒロ」

「はい」

「紙の勝負は、まだ君の負けではないぞ」

 

ヒノ先生は何も答えなかった。答えない代わりに、深く一度だけ頭を下げた。

 

大人たちが夜の中へ出ていった。ルシウス・マルフォイの含み笑いと、ファッジの言い訳と、ハグリッドの巨大な足音。そして最後に足音のしない一人が、戸口で懐の紙を一度確かめてから闇に消えた。

 

小屋にはハリーとロンとファングだけが残された。ファングが閉まった扉に向かって長く細い遠吠えをした。

 

二人はマントの下から長いこと動けなかった。

 

「……見たか」

 

ロンの声は、掠れていた。

 

「大人があんなふうに怒るの……僕、初めて見たかも」

 

ハリーは頷いた。頷いてから、暖炉の火を見ながら考えた。

 

先生は負けたのだ。ハグリッドは連れて行かれ、ダンブルドアは解任された。あの場にいた大人の中で、たぶん一番正しいことを言っていた人は、何一つ止められなかった。

 

でも。

 

先生は負けながら何かを一枚書いた。ファッジに署名させた。「慣例」と書かせた。あの紙が何の役に立つのかハリーには分からないけれど、先生は「五年後にどちらがあなたを守るか」と言った。あの人の戦いは今夜で終わりじゃなくて、今夜から始まる種類のものなんだと思う。

 

それから、盛るな、削るな、の人が二秒だけ盛った。いや、たぶん違う。漏れたんだ。ハリーには分からない何かが二秒だけ。

 

あれをハリーはたぶん忘れられない。

 

「……ロン」

 

ハリーは立ち上がった。ファングが期待の目で見上げてくる。飯をやってくれ、とハグリッドは言った。それからもう一つ。

 

「蜘蛛を追え、って言ってた」

「……ああ」

 

ロンの喉が上下した。ロンは蜘蛛がこの世で一番苦手だ。

 

「言ってたな。言ってた」

 

ロンは世界の終わりみたいな顔で、それでも頷いた。

 

「……行くよ。ハーマイオニーが起きた時に、僕たちが何もしてませんでした、じゃ――あんまりだろ」

 

夜の森が夜風に黒くうねっていた。

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