その朝、大広間は静かだった。
所持品検査の朝だ。朝食の間にも寮監たちが順に席を立ち、監督生を連れて塔や地下へ消えていった。授業は平常通り、と告知の下に追記があった。生徒が教室にいる間に、部屋を見るらしい。
「なあ。日記、見つかると思うか」
ロンがトーストを千切りながら言った。
「……わからない」
見つかればいい、と思う。盗った誰かも一緒に。そう思うたびに胸の底が冷えた。見つかれば、あれを最初に拾ったのが誰かも全部分かる。
一時間目、二時間目と、廊下を引率する教師の顔ぶれがいつもと違った。ヒノ先生の姿は一度も見なかった。三時間目の移動では、引率のスプラウト先生が一人で二クラスを連れていた。先生の数が足りていない。
静けさは、四時間目の途中で割れた。廊下を走る複数の靴音。授業の窓の外を横切る、教師のローブ。そして城全体に響き渡る、拡声されたマクゴナガル先生の声。
「全生徒は直ちに各寮へ戻りなさい。全教職員は職員室へ。繰り返します――」
教室が凍った。ハリーとロンは目を見交わし、同時に立ち上がった。人波は寮へ流れていく。二人はその流れに逆らい、角を二つ曲がり、誰もいない職員室に滑り込んで――部屋の隅の、古い衣装箪笥の中に身を押し込んだ。
扉の隙間から、細く、部屋が見えた。ヒノ先生以外の教師たちは、数分で集まった。
マクゴナガル先生の顔は白く、白い顔のまま彼女は言った。
「継承者が新たな文言を残しました。最初の血文字の、真下に」
羊皮紙を持つ手が震えていた。
「『彼女の白骨は、永遠に部屋の中に横たわるであろう』」
職員室が音を失った。
「生徒が一人。怪物に、連れ去られました。秘密の部屋の、中へ」
フリットウィック先生が悲鳴のような声を上げる。スプラウト先生が両手で口を覆った。スネイプでさえも、椅子の背を指が白くなるほど握っている。
「誰です」
誰かが訊いた。
「……ジニー・ウィーズリーです」
箪笥の中でロンが崩れた。音はしない。ただ、隣の体から骨が抜けたみたいに力が消えて、ずるりと落ちかけた。ハリーは腕を掴んだ。その腕が小刻みに震えていた。ハリー自身の手も震えていた。
ジニー。
夏の隠れ穴でバターの皿に肘を突っこんでいた子で、汽車の中でも一度も目が合わなかった子で、クリスマスの祝宴でクラッカーが鳴るたびに笑っていた子で、廊下ですれ違うたびに、こちらが顔を上げるより早く目を逸らしていた子だった。ロンの妹。あの小さな――
そこで、大きな音を立てて職員室の扉が開いた。
ヒノ先生だ。上着の裾に、廊下の松明の煤がついている。現場を、血文字の壁を先に見てきたのだろう。
ヒノ先生は部屋の中央まで歩き、動揺で沸騰しかけている職員室を言葉で固定した。
「時系列を確定します」
ぐるりと大きな動作で全員を見渡す。いつもならほとんど音のしない上着が、がさがさと大きく音を立てた。ハリーはその動きをちょっとわざとらしいと思った。
「ウィーズリーの最終目撃。いつ、どこで、誰が見たか。各自、思い出せる限り正確に」
沸騰が止まった。
「副校長。現場指揮を俺に預からせてください。異論は事後に受け付けます」
マクゴナガル先生が頷いた。ヒノ先生はもう一度、部屋を見渡した。
「聞いての通りです。それと、これが一番重要ですが。本件は拉致事案です。進行中の。血文字は犯行予告であって、結果の報告じゃない。死体が出るまでは救出で動く。以上を前提に、役割を割ります」
声は大きくなかった。それなのに部屋の全員の背筋が順番に伸びていくのが、箪笥の隙間から見えた。
「副校長、もう一つよろしいか。怪物の種について。校長判断による非公表を、校長代行の権限で解除願います」
マクゴナガル先生は、一秒だけ目を閉じた。
「解除します」
「感謝します。皆さん、怪物はバジリスクです。根拠は後で。スネイプ教授、毒への対処と解毒剤の準備を。それと地下区画周辺の封鎖を。フリットウィック教授、塔と外部への出入口の封印。スプラウト教授、マンドレイクの保護を。あれが今、潰されたらまずい。マダム・フーチ。箒で湖側の排水口を上から見張ってください。直接は見ないで。鏡か水面越しに」
ヒノ先生の目が部屋の後ろへ動いた。ハリーが授業で習ったことのない先生たちが並んでいる。上級生の選択科目の先生たち。その後ろには先生ではない人たちも並んでいる。
「ケトルバーン教授」
義手の老人が、義足を鳴らして一歩出た。
「飼育中の雄鶏が俺の居室にあと数羽います。医務室の前と、各寮の入口に一羽ずつ置いてください。鳴かなくていい。死んだら、そこに来たってことです」
老人の目が、場違いなほど輝いた。ヒノ先生はそれを見て一言足した。
「現場には来ないでください。これ以上手足が減ると、労災の書類が増える」
「そんな殺生な」
抗議の声を上げる老人を無視して、ヒノ先生はさらに指示を重ねた。
「バブリング教授。書庫に水回りの旧図面があります。この間見つけました。注記が古いルーンで俺には半分しか読めない。怪物は壁の中の水の道を通る。城の中に口を開けている出口を、図面から全部拾ってください。鍵は、これを」
ヒノ先生は鍵束から一本を外して、放った。ハリーはその鍵束に見覚えがあった。いつもフィルチが自慢げに鳴らしているやつにそっくりだ。
「フィルチさん」
フィルチが戸口の近くで顔を上げた。
「鏡を頼む。三十箇所、今から全部の角度を見て回ってくれ。一枚でもずれてたら直してほしい。あんたが磨いた鏡だ。ずれに一番早く気づけるのは、あんたしかいない」
フィルチは返事をしなかった。猫のいない腕を一度だけ見下ろして、それから誰よりも先に部屋を出て行った。
「マダム・ピンス。図書館を閉めてください。それと、今年に入って頁を破られた本があれば、書名を」
司書の顔が一瞬で険しくなった。心当たりがあるらしい。あるどころではない顔だった。
「ビンズ教授」
黒板の横の壁から、半透明の老人が半分だけ出てきた。
「……何ですかな、ミスター・ヒナ――ヒネノ――」
「日野です。五十年前、在職しておられましたね。当時の教職員が城のどこを探したか、思い出せる限り。伝説ではなく、事実として」
ハリーは息を止めた。事実。ハーマイオニーが魔法史の授業で、同じ一語でこの先生を起こした。幽霊の教授は、しばらく宙に浮いたまま黙っていた。それから、生きた人間のように唸った。
「……よろしい。三十分ほど、いただきますかな」
「お願いします。ベクトル教授はさっきの最終目撃を全員分、時刻順に並べてください」
先生の視線が空いた椅子で一度止まった。
「トレローニー教授は」
「塔です」
フリットウィック先生が甲高い声で答えた。
「降りて来られないと。……『もう、全部見えております』とのことで」
「では北塔の封印も、フリットウィック教授の担当に含めてください。マクゴナガル教授とバーベッジ教授は生徒の掌握を。バーベッジ教授は特にマグル生まれの生徒に手厚くお願いします。それと」
ヒノ先生は、少しだけ声を落とした。
「兄が五人います。特に六年生の監督生、パーシー・ウィーズリー。彼には仕事を与えてください。生徒の点呼の集計でも、何でもいい。クリアウォーターの件から十日も経ってません。今座らせたら、もう壊れるしかない」
マクゴナガル先生が唇を結んで深く頷いた。
「現場の所見を共有しておきます」
ヒノ先生は手帳を開いた。
「廊下に引きずり跡なし。抵抗痕なし。遺留品なし。悲鳴を聞いた者、現時点でなし。攫われたんじゃない。歩いて行かされた可能性が高い」
「歩いて……? 自分の足で、ですか? そんな馬鹿な」
「魔法界でしょう、ここは」
声は平らだった。
「服従の呪文なり、それに類する何かなり。単純に、杖を至近距離で背中に突きつけられただけでも命の危機だ。……手段の特定は後です。今は、本人に抵抗の余地がなかったという前提だけ覚えてください。以上。動きましょう。三十分後に、ここで再集合」
教師たちが、弾かれたように散っていった。職員室にヒノ先生だけが残った。
ヒノ先生は動かなかった。手帳を繰る、乾いた紙の音だけがした。一枚。二枚。戻って、また一枚。何かを照合している音だった。
箪笥の中でハリーは隣を見た。ロンの目はもう濡れていない。箪笥の桟を掴んで、自分の呼吸を三つ数え、それから掠れた声で言った。
「……言おう。全部」
「ロン――」
「一枚ずつ、だろ」
ロンが先に箪笥の扉を押し開けた。ヒノ先生は振り返らなかった。手帳から顔も上げず、ただ一言。
「……出てくると思った。箪笥の中の呼吸が二人分、最初から聞こえてたんでな。で?」
ハリーも箪笥を出た。膝が少しだけ笑っていた。半年だ。半年間、この瞬間の言い方だけを、知らないまま持ち歩いてきた。言い方は結局、先生の書式の中に最初からあったんだ。
「先生。報告があります」
先生は初めて顔を上げた。何も訊かず、ただ手帳の新しい頁を開いて椅子を二つテーブルから引き出し、自分の向かいに置いた。
「よし。聞こう」
一枚ずつ出した。
一枚目。声。十月の夜の廊下で聞いた、壁の中の氷の声。ハロウィンの夜。そして試合の朝の三度目。「気のせい、と本人談」の訂正を、半年遅れで。
二枚目。ドビー。夏の警告。柵を封じたのも、ブラッジャーに細工したのも、あの屋敷しもべ妖精だったこと。「歴史は繰り返される」と言ったこと。主人の家の秘密らしいということ。
三枚目が一番言いにくかった。ポリジュース薬。禁書の署名。備品の拝借。クラッブとゴイルへの眠り薬。スリザリンの談話室。言いながらハリーは退学の二文字を覚悟した。先生の眉は一ミリも動かなかった。動かないまま、一言だけ。
「それで?」
「……マルフォイは継承者じゃありませんでした。ただ、父親から聞いた話をしてました。五十年前に部屋が開いた時、死んだのはマグル生まれだったって」
先生のペンが、そこで一度だけ強く紙を押した。
四枚目。日記。マートルのトイレの水の中から拾ったこと。T・M・リドルの名前。インクを吸って、返事を書いてきたこと。五十年前の記憶に引き込まれたこと。若いリドルと、若いハグリッドと、箱の中の何か。ハーマイオニーが「記憶は見せた人の編集かもしれない」と言ったこと。
五枚目。盗難。三月の半ばを過ぎた土曜、グリフィンドール塔の内側で、日記だけが盗まれたこと。
出し終えると、ハリーの体は変に軽かった。軽くなった分の重さが、全部先生の手帳の上に移っていた。頁は細かい字で埋まっていた。
先生はペンを置いた。
「全部、受理した」
一言で終わった。
「あの」
ハリーは思わず言った。
「怒らない、んですか。僕ら、規則を、いくつも――」
「数えたよ。今の報告の中の違反、ざっと十一件。法律違反もあるな」
先生は手帳を繰った。
「説教は事件の後だ。まとめてやる。だから、生きて、全員で受けろ。いいな」
先生は立ち上がり、手帳を開いたまま部屋の中を歩き始めた。歩きながら、声に出して線を引いていった。
「日記の投棄、一月上旬。……ある一年生の容体の快方、一月上旬。日記の盗難、三月の二十日前後。鶏の全滅、三月二十四日と四月二日。同じ一年生の再悪化の兆候、三月末」
先生の足が、止まった。
「……帳面には書いてたんだ」
低い独り言だった。
「書いてただけ、だった」
それからもう一言。
「媒介が動いてるのは分かってた。だから本を押さえに、検査の手を打った。今朝、先生方を全員寮に張り付かせた。廊下が一番薄くなる時間を俺が作ったんだ」
先生は顔を上げ、ロンを正面から見た。
「盗難の現場はグリフィンドール塔の中。合言葉を知る内部の者。日記を故障中の女子トイレに捨てられる程度に城に詳しく、日記の在り処を突き止めて盗み返せる者。捨てた者と盗み返した者は、同一人物と見ていい。つまり――ウィーズリー」
先生の声は、残酷なほど静かだった。
「お前の妹さんだ」
ロンの顔から、残っていた色が全部落ちた。
「じ、ジニーが……ジニーが、や、やった、って――」
「違う」
先生の否定は即座で、断固としていた。
「妹さんは犯人じゃない。器にされた被害者だ。いいか、順番に言うぞ。あの日記は書いた者に返事を書く。返事を書くものは対話する。対話するものは人を操れる。こういうのは、俺の国には珍しくないんだ」
ブリテンじゃ知らんがな、と吐き捨てて、先生は続けた。
「グレンジャーが言ったんだろう、『記憶は見せた人の編集かもしれない』と。彼女の読みがたぶん一番正しい。リドルの記憶が編集なら、編集者が犯人だ。五十年前も今もな。妹さんはその編集者に、半年あまり一番近くにいさせられた。俺は九月から教師として見ていながら拾えなかった」
先生は手帳を閉じ、一度だけ強く目を瞑り、開いた。
「悔やむのも後だ。ポッター。グレンジャーは石化の直前、何か言ってたな」
「あ……はい。確かめたいことがあるって、図書館に」
先生はもう扉に向かっていた。
「医務室。走るぞ」
医務室のハーマイオニーは、静かに硬直したままだった。その右手。握り込まれた指の隙間の、紙の端。
先生は彼女の手を検め、一歩下がった。それからハリーを見た。
「これはお前たちの仲間の戦果だ。お前が受け取れ」
ハリーはベッドの脇に膝をついた。ハーマイオニーの指は大理石だった。冷たくはない。ただ、固い。その隙間の紙を破らないように、彼女の指を痛めないように、一ミリずつ滑らせて――
抜けた。
古い。だいぶ煤けて茶色くなっている。本を崇めるハーマイオニーが、それでもなお古い本から破り取った頁だった。蛇の王、バジリスクの項。眼光は死を運び、雄鶏の声は致命の毒、蜘蛛はこれを恐れて逃げ惑う。そして頁の余白に、見慣れた几帳面な字が、一語。
配管(パイプ)
「……声が壁の中を移動するのは、配管の中を通ってるから」
ハリーは彼女の字を読んだ。声が震えた。
「城中の壁に、水の管が通ってて――」
「やはり、先に着いてたか」
先生は頁を受け取り、彼女の字を長いこと見た。
「……勝負ありだ」
何の勝負だろうとハリーは思った。ただ、先生の声が叱られた側みたいに聞こえたので、訊かなかった。
「これで三点、揃った」
先生は頁を手帳に挟んだ。
「蜘蛛の証言。五十年前の被害者は、トイレで死んだ。マートルの死亡場所、二階東の女子トイレ。そしてグレンジャーの、配管。五十年前の被害者第一号は、入口の目の前で死んだんだ」
そして手帳の後ろの方を一枚繰る。
「……探索記録、第四十一区画。二階東、女子トイレ。済。理由、一月に排水系を検分済み」
先生はその一行に、横線を引いた。
「本を探す目で見てたが――」
二人を見た。
「マートルのトイレが、玄関だ」
故障中の女子トイレはいつも通り湿っていた。
「あら、揃って来たの? ……なあにその顔」
マートルは、三人の顔を順に見て、水面の上で居住まいを直した。
「マートル」
先生の声は聴取の声だった。ただ、いつもよりずっと柔らかい。
「今日は一番大事なことを訊きに来たんだ。君が死んだ時のことを、もう一度話してくれるか」
マートルは瞬きをした。それから生前ぶんと死後ぶんを合わせた五十年の中で、一番真面目な顔になった。
「……いいわ。もう一度ちゃんと話してあげる」
彼女は語った。オリーブ・ホーンビーに眼鏡をからかわれて、この個室で泣いていたこと。誰かが入ってきたこと。男の子の声だったこと。変な言葉、作り物みたいな、しゅうしゅういう言葉を喋っていたこと。男子が女子トイレに入ってくるなんて、と文句を言うために扉を開けたこと。
「そしたら」
マートルの声が小さくなった。
「見えたの。そこの洗面台のところ。大きな黄色い目玉。それだけ。それだけよ。次の瞬間、私、死んでたの」
「その目玉が見えたのは、どの洗面台だ」
「……そこ」
指された洗面台に、先生は歩み寄った。ハリーも覗き込んだ。ひび割れた陶器、緑青の浮いた蛇口。そして――蛇口の横腹に、引っ掻いたような小さな刻印。
蛇。
「この蛇口、回るか?」
「ううん」
マートルが首を振った。
「そこ、私が生きてた頃からずっと壊れてるの。一度も水が出たことないわ」
「壊れてるんじゃない」
先生は、刻印を指でなぞった。
「錠だ。蛇語の錠。……ポッター」
先生は一歩脇へ退いた。
「鍵を、頼む」
ハリーは、洗面台の前に立った。蛇の刻印を見る。ただの引っ掻き傷だ。これに話しかける。喋れる保証はどこにもない。あの時は本物の蛇だった。これは絵だ。ハリーは目を細め、松明の灯りで刻印がぬらりと動いて見える角度を探し、本物だ、本物の蛇だと自分に言い聞かせ――
「開け」
自分の耳には英語ではない音が聞こえた。洗面台が白く輝く。陶器が軋み、蛇口ごと回転しながら床へ沈み、壁のタイルが左右に割れ――人が一人、余裕で入れる太さの配管の口が黒々と開いた。
冷たい、深い、湿った空気が、下から吹き上げてきた。
「……開いたわ」
マートルが囁いた。
「五十年間開かなかったのに」
先生は配管の口を検分し(深さ、傾斜、壁面の摩耗。「よく滑ってる。使われてる管だ」)、それから二人に向き直った。
「本来ならお前らを連れて行く選択肢はない」
先生の声は、職員室で聞いたのと同じだった。指揮の声だ。
「ないが、この錠を見ろ。この先の扉も同じ蛇語の錠なら、俺一人で行った場合、開かない扉の前でウィーズリーの妹が死ぬ。だから、ポッター。お前は鍵係だ。バジリスクとは戦わせない。俺の三歩後ろ。指示以外で動くな。『瞑れ』と言ったら、とにかく瞑れ。いいな」
「はい」
「ウィーズリー。お前を城に残す選択肢も考えたが、どうせ勝手に来る分だけ危険だろう」
ロンの耳が少し赤くなった。反論はしなかった。
「お前は伝令だ。役割は下で言う。装備」
ヒノ先生は上着の内側から、手早く出した。手鏡が二枚(「角と、角の先は、これで見ろ」)。見慣れた白い縄。チョーク(「分岐に印を打つ。帰り道は、行きに作るもんだ」)。
それから洗面台の縁に紙を広げ、立ったまま驚くべき速さで書いた。書き終えた紙の頭に、ハリーの位置からも読めた。発生報告(第一号様式) 生徒一名拉致(進行中)。現在時刻、判明事項、入口の位置、降下する三名の氏名。
ヒノ先生はその紙を洗面台の一番目立つ場所に置き、上から石鹸皿で重しをした。
「マートル」
「な、なあに」
「頼みがある。三十分経って俺たちが戻らなかったら、マクゴナガル教授のところへ飛んで、この場所とこの紙のことを伝えてくれ。『二階東のトイレに報告書がある』と、それだけでいい」
先生はそこで少しだけ、言い方を崩した。
「紙を持ってってくれと言いたいところなんだが……幽霊が紙を運べるかどうか、実はまだ、技術的検討が済んでなくてな。だから伝言を頼む。君の声で、君の言葉で。頼まれてくれるか」
マートルは空中でぴたりと止まった。しばらく瞬きだけをしていた。それから精一杯つんとした声で、言った。
「……いいわ。特別よ。あんたの頼みだから」
そして彼女はハリーの方を向き、いつもの調子を三割ほど取り戻して付け足した。
「ハリーは死んだら私のトイレに住んでいいわよ。半分こしてあげる」
「……遠慮しとく。生きて戻るから」
「よし」
先生がランタンに火を入れた。
「俺が先。ポッター、ウィーズリー、続け。着地は膝で受けろ。行くぞ」
先生の体が配管の闇に消えた。ハリーは一度だけロンと頷き合い、管の縁を掴み、足から滑り込んだ。
滑降は永遠に続くかと思うほど長く、実際は一分もなかった。曲がり、落ち、また曲がり――最後は緩やかになった管の出口から、湿った床へ膝で着地した。すぐ後ろにロンが落ちてくる。
ランタンの灯りの中に先生が立っていた。足元は骨だった。小動物の骨が絨毯のように、床一面に敷き詰められていた。トンネルは真っ直ぐ闇の奥へ続いている。そしてその闇の手前に――
抜け殻があった。毒々しい緑の、巨大な蛇の皮。トンネルの幅いっぱいにうねって天井近くまで盛り上がっている。厚みはハリーの胴体ほどもある。
先生は皮に歩み寄り、素手で厚みを確かめ、一拍黙った。
「……脱皮の皮だ。古い。今はこれよりデカい」
それから先生は、左手で右の袖口を一度だけ押さえた。押さえた手がすぐに離れた。
「行くぞ」
先生はランタンを掲げ、五十年分の闇の奥を見据えて、いつもの現場の声で言った。
「ここから先は――五十年間、誰も立てなかった現場だ」