抜け殻の先は、岩の隘路だった。天井の一部が崩れた痕がある。落ちた石の角がもう丸くなりかけているところを見ると、五十年のうちのいつか、地震か老朽か、とにかく誰も見ていない夜に一度落ちて、それきり誰も片付けにこなかった崩落だった。
人一人がようやく通れる隙間の向こうに、トンネルは続いている。日野はここを拠点と決めた。
「ウィーズリー。お前の持ち場は、ここだ」
ウィーズリーの顔がはっきりと歪んだ。置いていかれるという顔だ。日野はその顔が言葉になる前に、指を三本立てた。
「役割を三つ言う。一つ。この隘路の確保。見ろ、天井が既に一度落ちてる。もしこれからバジリスクと戦うときの振動でまた落ちたら、塞がる。そうしたら何としてでも開けろ。ここは帰り道の生命線だ。二つ。あと二十分足らずでマートルの伝言が動いて、応援が来る。来た応援に、ここから先の状況を説明できる人間が要る。地図はこれだ」
日野はチョークで岩肌に略図を引いた。
「三つ目――」
日野は、声を落とした。
「俺たちは、妹さんを連れて戻る。受け取る係が要る。……兄貴の仕事だ。ここで待て」
ウィーズリーの喉が上下した。歪んでいた顔が、ゆっくりと役割の重さの形に変わった。
「……了解です」
「よし」
日野は岩肌に大書した。降下三名。二名先行。時刻。地下でも記録は続く。続けるから記録なのだ。
先へ進む。配管の分岐は二度。角の先は、手鏡で確認してから曲がった。ポッターの鏡の扱いは様になっていた。教えたことは無駄ではなかった。
袖の中は静かだ。浮かれが消えている。十一月から五ヶ月、王様に会いたがって騒ぎ続けたものが、玉座に近づいた今になってぴたりと黙った。黙って袖の中で構えている。
「……お前が黙ると、俺は嫌な予感がするんだよ」
袖は答えなかった。
突き当たりに扉があった。二匹の蛇が絡み合う彫刻だ。眼にはエメラルドが嵌められている。ポッターが進み出て、低くこの世のものでない音で囁くと、蛇が動き壁が開いた。
秘密の部屋は聖堂だった。薄緑の光に満ちた広間が奥へ奥へと伸び、左右に並ぶ石柱にはどれも同じ意匠の蛇が彫り込まれている。柱の列が視線を最奥まで運んだ先に、猿めいた面立ちの老人の石像が天井に頭がつかえるほどの高さで聳えていた。あれがスリザリンだろう。限られた技能の持ち主しか来られない場所に、これを作る。聞いていた通りの趣味だ。
そして、像の足元に小さな赤いものが倒れていた。
「ジニー!」
ポッターが駆け出す。日野も並走しながら、視線だけは周囲を掃き続けた。柱の陰、水路、像の口元。走りながらでも、検分はやめない。やめた瞬間に死ぬ現場だと、袖の沈黙が言っている。
赤毛の一年生は石の床に横たわっていた。顔は蝋のように白い。日野は手首を取った。
脈は、ある。
あるが細い。触れている数秒の間にも、指の下で拍が薄くなっていく感触がある。血液よりもっと根本の何かが、今この瞬間も静かに引き落とされ続けている。
「息はある。だが、減ってる。進行形だ」
「ジニー! 起きて、ジニー――」
「ポッター。……下がれ」
日野は、立ち上がりざま、少年を自分の背の後ろに入れた。
柱の陰から、輪郭の薄い少年が歩み出てきた。十六歳ほど。黒髪。整った顔。監督生のバッジ。ネクタイの縁だけがわずかに滲んで、けれど床に影を落としている。
「トムだ――」
ポッターが囁くように言った。
「記憶の中の映像より、ずっと濃い」
「日野。当校教員」
日野はすかさず言った。警察の声で。
「動くな。両手を見せろ」
少年は、微笑んだ。
「話には聞いていたよ、センセイ。思ったより早かったね。それに」
滲む視線が、日野の袖にすっと触れた。
「思ったより、いい匂いだ」
「トム・リドルか」
「おや。名乗る手間が省けた」
ポッターが息を呑み、それから叫んだ。
「トム! 助けてくれ、ジニーが――」
叫びながら床に杖を――杖? 日野の目が、リドルの手元を捉えた。細い指の間で、ポッターの柊の杖が、くるりと回った。
「探し物は、これかい」
いつ抜いた。ポッターがジニーに駆け寄った、あの数秒か。日野は自分の迂闊さを一行で記帳し、頁を閉じた。悔やむのは後だ。事実だけ拾う。実体がないはずの記憶とやらが物を持っている。物を持てるほど、こいつはもうこちら側に近い。つまり時間がない。
「君たちが来るまでの八ヶ月、退屈でね」
記憶は杖を弄びながら、歩き始めた。円を描くように。取調室ならこちらが歩く側だ。歩く側が、場を持つ。
「ジニーは実によく書いてくれた。くだらない悩みを、延々と。兄たちが構ってくれない。有名なハリー・ポッターに嫌われたらどうしよう。僕は何ヶ月も、聞いてやったんだ」
「五十年前の管理人の名前は?」
リドルの足が止まった。
「何?」
「管理人。お前の在学中の。名前、覚えてるか」
「……アプルビイ、とかいったか。使用人の名など、なぜ」
「いや、裏が取れて助かる。ありがとう」
日野は手帳を出して、本当に書いた。
「続けてくれ。何ヶ月も聞いてやった、の続き」
目が笑いの形のまま冷えている。歩調が読まれ、独白の拍子を折られる――この少年はたぶん生前、一度もこれをされたことがない。教師も、寮監も、孤児院の職員も、この顔とこの声の前では例外なく最後まで聞く側へ回っただろうし、五十年ぶんの頁の中でさえ、聞き手は十一歳の女の子ひとりきりだ。話の途中に「それで、管理人の名前は」と割り込んでくるような無粋な人間は、どこにもただの一人もいなかったはず。
「……面白い人だね、センセイ」
「よく言われる。もう一つ。トロフィー室の盾。『特別功労』ってのは、何の功労だ? 記載がなくてな。半年、気になってた」
「ああ、あれかい」
微笑が、誇りで濡れた。
「学校を救った功労さ。五十年前、僕は『犯人』を挙げたんだ。危険な怪物を飼う、半巨人の間抜けな少年をね。学校は閉鎖を免れ、僕は孤児院に帰らずに済み、表彰された。……完璧だろう?」
「自白、取れた」
日野は手帳に書いた。声に出して。
「五十年前の冤罪事件、真犯人の自白。時刻、記載の通り。証人、当職およびH・ポッター。……法廷がないのが、残念だよ」
「法廷?」
リドルは心底おかしそうに笑った。
「僕を、裁く? センセイ、僕は記憶だよ。五十年前に書き付けられた思い出だ。手錠は霧を掴み、召喚状は宛先を失う。あなたの世界の道具は、一つも僕に届かない」
届かない。その通りだった。日野は頭の中の帳場に、静かに一行を立てた。詰み、その一。逮捕できない被疑者。二十一年の道具箱、その一段目が丸ごと使えない。
「それにしても」
心の毒をありったけ載せた声で、記憶は歩みを再開した。
「ジニーの話で一番面白かったのは、途中から君の話ばかりになったことだ。日本から来た先生。記録の男。蛇に伏せられる男。調べたよ、君を。彼女の目と耳でね」
「知ってる。鶏もお前だろう」
「なら話が早い。殺しても殺しても、翌週には新しいのが届く。おかげでジニーは夜ごと城を歩かされて顔色が戻らなくてね。極めつけは今朝の検査だ。君のせいで、予定を一ヶ月早める羽目になった」
「業務評価として受理する」
日野は手帳に書いた。一ヶ月、早めた。書きながらもう一つ勘定をした。急いだから、まだ半分霧なのだ。こいつは仕上がる前に呼び出された。
リドルは足を止め、勧誘の顔をした。
「君、僕と同じだろう。血に呪われて、才を持て余して、凡人の規則の中で飼い殺されてきた。……その袖の中のもの。素敵だ。実に素敵な匂いだ。彼らは君にそれを恥じろと言った。隠せと言った。捨てた国の推薦を、君は今でも――」
「履歴書の読み方が雑だな」
日野は遮った。遮る価値のある独白と、ない独白がある。これは前者だった。自分について自分以外の口から語られるのは嫌いではない。妙な見方をしなければだ。
「一点だけ訂正だ。俺は飼い殺されてるんじゃない」
袖を、軽く上げてみせた。
「飼ってるんだ。二十一年、無事故でな」
初めて微笑から演技の層が一枚剥がれた。その下にあったのは若く剥き出しの憎悪だった。
「……つまらない人だ。ジニーと同じ、つまらない側だ」
リドルはポッターの杖を、すっと構えた。
「もういい。時間もない。君の言う通りでね。彼女の残りが尽きれば、僕は完全になる。それまで、余興と行こう。幸い、この部屋には――」
像を仰ぎ、口を開いて出てきたのは人の言葉ではなかった。低く軋る呼び声。ポッターの顔色が変わる。意味が分かるのはこの場で二人だけだ。
《スリザリンよ。四人の内の最も偉大な者よ。我に語れ!》
石像の口が、軋みながら、開いていった。
「瞑れ! 鏡!」
日野の声と同時に、ポッターが目を閉じ、手鏡を掲げた。
像の口の奥から、何かが落ちてきた。床が震えた。鱗が石を擦る、湿った轟音。
手鏡の中の像は、柱の間を埋める緑の巨躯だった。抜け殻を検分したとき、日野は頭の中で胴の直径を大人の胴回り二つぶんと見積もっていた。実際には鏡の枠に収まりきらず、端から溢れていく実物はその見積もりを縦にも横にも裏切って、入ってすぐ歩測しておいた柱と柱の間隔――四米半――を胴一本で埋めていた。台帳の数字が現物に負けた。
視覚は封鎖。ここからは鏡と音と、床の震えで戦う現場だ。
日野は詠唱した。無言で。学校仕様は置いてきた。減点を恐れる場所ではない。詠唱を殺し、振りを殺し、二十一年の現場の形で、拘束の呪文を三連。鏡の中で、光が巨躯の首元に着弾し、
弾かれた。
鱗が光を鏡のように散らした。二射目、首の後ろを狙う。一射目と同じ、蛇を取り押さえる王道だ。弾かれる。三射目、眼――は狙えない、鏡越しの精密射撃は角度が死ぬ。金のローブの魔法が九百年ものの鱗の前で、雨垂れだった。
「プロテゴ」
横合いから別の呪文が来た。日野の盾がそれを受ける。リドルだ。ポッターの杖から迸る光。記憶のくせに撃ってくる。しかも、いい腕だ。
「余所見かい、センセイ!」
二正面。前方に目の潰せない巨獣、側面に杖の天才。日野は柱の陰に滑り込み、ポッターの位置を鏡で確認した。広間の反対側、水路の縁。バジリスクの頭が、そちらを向く。
「ポッター! 配管へ走れ! 目は瞑ったまま、壁伝い!」
少年が走る。巨躯が追う。日野は追撃の呪文を放ち――空中で、掻き消えた。
「フィニート」
リドルの声が歌った。
「無言呪文とは、いい教育を受けているね! でも杖の出は僕のほうが早い!」
彼我の位置を入れ替えながら、日野は冷静に脳髄へ刻みつけた。リドルの腕は本物だ。見た目からして十代後半のくせに、既に第十機動隊勤続五年目の大ベテランに勝るとも劣らない風格がある。本物だが、まだ半実体だ。こちらの呪文はあいつを素通りする。傷つけることすらできない。倒す手段は日記のみ。日記は懐、リドルのローブの内。近づけば杖と蛇語が待つ。
天井の梁を撃たれる。石材が雪崩れた。ポッターの逃走経路、配管の口の前に、瓦礫の山。少年の足が止まる。巨躯が迫る。
「逃げ場は消したよ! さあセンセイ、どうする? あの子を助けに出れば君の背中が空く、出なければハリー・ポッターの物語はここで終わる。ああ、それと」
リドルの杖が、日野のランタンを撃ち抜いた。
灯りが死んだ。
薄緑の燐光だけが残る広間で、鏡は急速に役目を失っていく。視覚封鎖戦の生命線は光だということは九月に台帳へ書いておいたはずなのに、鏡を三十箇所に配ればぎりぎり足りると計算したときの自分は、鏡を配った側が灯りを落とされる場合をとうとう一行も書かなかったな、と日野は思った。
詰みが頭を過る。
役人の口は、思った通り届かなかった。学校の魔法は、その外側に踏み出してもなお弾かれた。灯りは落ちた。あの子までの距離、二十米。間には九百年の長きに渡って生きてきた巨躯が立ち塞がる。
残っているのは、家の言葉だけか。
日野は、柱に背を預けたまま、右の袖口の紐を、解いた。
「……おい」
袖の中の沈黙に向かって、日野は言った。
「仕事の話だ」
袖が開き問うてきた。声はない。それでも意味は、骨に直接判を捺すように届いた。達者でと挨拶だけを交わしてきた相手の、初めての商談の声だった。
何をくれる。
何をさせるではない。何をくれる。順番からして、神様の商売だ。神は貰った分、己が満足した分しか動かない。
日野は注文を先に言った。声に出す必要はない。この距離なら思うだけで通じる。それも前から知っている。あの王の、目を塞げ。視線を殺せ。それだけでいい。殺しは要らん。
返ってきたのは不満だった。不満と、剥き出しの食欲。うちのの第一希望は明確だった。
食わせろ。
大物。焦がれ続けた玉座の主。丸ごと寄越せと、袖の中の白いものは言っていた。会いたがっていたのではなかった。食いたがっていたのだ。十一月からずっと。
駄目だ。
日野は、即答した。あれは凶器だ。凶器で、証拠品で、操られてただけのでかい被害者だ。長きに渡り地下に繋がれて、蛇語で叩き起こされ、行けと言われた方に行っただけだ。……そういうのを食っていい理屈は、うちにはない。
沈黙。値踏みの沈黙だった。それから勘定書が来た。
ならば、刻め。
来た。分かっていた。分かっていたが、続きがあった。
それにこれからは、こちらからも「頼む」ぞ。
日野は、暗がりの中で、一瞬目を閉じた。行儀である。二十一年、こちらから何も求めず、向こうにも何も求めさせず、それで保ってきた均衡。飼い殺しのあの静かな家計を、こいつは今夜、買い戻せと言っている。一度でも取引をした家は二度目を断りにくくなる。断りにくい相手から、今後は催促が来る。婆様たちが「取引だけはするな」と言い続けた理由の、たぶんこれが本体だ。
代金は、歳。それも提示された量の感触からして、遠慮のない、大人の一口。
広間の向こうで、瓦礫を背にしたポッターの気配が壁際まで詰められていた。頭の中の時計が残り時間を読み上げていた。値切る時間はもうない。
……高いな。
日野は袖を肩まで開けた。それでも、買う。
白が溢れた。袖から白いものが、水のように、絹のように、質量を持った月光のように、床へ溢れて広がった。太さはと目測しかけて、日野はやめた。測れる域を途中で越えた。柱の間を、白い鱗の流れが滑っていく。一枚一枚が骨牌のように白い鱗が、灯りのない広間で、灯りより白く発光している。頭は見えない。流れの先頭がどこにあるのか、目が追うことを拒んだ。見えなくてよかった。
広間の空気が変わる。水面が、一斉に凪いだ。薄緑の燐光が一段暗くなり、石柱の蛇の彫刻が気のせいでなければ全部、彫りの中で平たくなった。場の格が上から塗り替えられていく。スリザリンのものだった部屋が、数秒で、別の何かの神域になった。
バジリスクの巨躯が動きを止めた。止まって、震え、それから崩れた。
戦いではない。宣告だ。王の鎌首が落ち顎が床を打ち、緑の巨躯が石の床に、長く、平たく、伏せた。十二月の演壇の小さな蛇と寸分違わぬ形で。原寸大の平伏だった。
白い流れが、伏せた王の頭部に幾重にも絡んだ。瞼の上から眼窩ごと、白い紐状のものが縫い止めていく。視線が物理的に封をされた。
そして、日野の骨に判が捺された。声ではない。認識そのものが、直接。
これは、神にあらず。
千年、繋がれたる、ただの禽獣だ。
千年。獣譜の九百年も、台帳の数字と同じく、現物に負けたらしい。
宣告の後ろに、ごく微かに別の色があった。侮蔑はなく、哀れみに似た何かだけがそこにある。同じ形をしたものが、片や家に祀られて千年、片や地下に繋がれて千年。その差を白いものは一瞥で読んだらしい。
「そんな……馬鹿な」
記憶は震える蛇語で叫んだ。《立て! 殺せ! 王よ、我が命に――》。伏せた巨躯は、鱗一枚動かない。命令の言語が、届いていない。届く格の話ではもうなくなっている。
リドルは白い流れに向き直った。憎悪と、それより濃い渇望の顔で。
「素晴らしい」
少年の声がうっとりと掠れた。
「なんて力だ。それだ、僕が探していたのは、そういう――おい! こちらを見ろ! 僕はスリザリンの後継、いずれ世界が跪く者だぞ!」
白いものは一瞥もしなかった。格下は視界に入らない。それだけのことだ。世界に跪かれる予定の少年は、生まれて初めて、存在ごと勘定に入れられないという経験をしていた。
その隙に赤金の炎が天井から舞い降りた。不死鳥だ。深紅の翼、金の尾。爪に、古びたとんがり帽子を掴んでいる。フォークス。校長の鳥だ。鳥は瓦礫の前のポッターの頭上で帽子を落とし、リドルの頭上で急旋回して牽制し、梁に止まった。
この城で、わしに忠実な者がおる限りな。ここには居ないジジイの穏やかな声が、日野の中で再生される。
帽子の中から硬い音を立てて、何かが床に滑り出た。銀の柄、卵大のルビー。剣だ。
日野は駆け寄りながら柄に手を掛けた。ただの重い金属だ。握れるし、持ち上がる。だが、刃に何も灯らない。応える気配がない。九月からこの城で触れてきたどの魔法よりはっきりと、その剣は日野を選んでいない。
「……決裁権が俺にない判子か」
日野は、柄を先にしてポッターへ差し出した。
「ポッター。お前のだ」
少年が握った瞬間、剣は、少年の手の中であるべき重さに納まった。そういう顔をした。
「先生、これで、あいつを――」
「リドルは斬れん。半分霧だ。やるのは日記だ。その前に、この剣に一仕事ある」
日野は伏せたバジリスクを指した。
「あの王様の口だ。牙を一本折れ。根元から、剣で、まっすぐ。それがあの日記を殺せる、たぶん唯一の毒だ」
「で、でも、生きて――」
「気にすんな。蛇の牙は生え変わる。折っても死なない。行け。俺はあっちを受け持つ」
あっち。リドルが、杖を上げていた。
「させると思うかい!」
閃光がポッターの背を狙い、日野の盾が割って入った。ここからは単純な仕事だ。半実体の天才が採証を妨害するその全弾を、二十一年の現場仕様で受け続ける。盾、盾、逸らし、盾。やつの詠唱は速い。ただ、こちらは当てる必要がない。時間を買うだけの防戦なら、受験で百万回やった。
「いい加減にしろ!」
大きく吠えていた。
「苛々させる――おい、撃ってこい――君は、何者だ!」
「防衛術の教師だが?」
広間の向こうで、めきりと音がした。ポッターが伏せた王の口元で銀の剣を梃子に、上顎の牙を一本、根元から折り取った音だった。白い封の隙間から、王は抗議のように長く息を吐いた。吐いただけだった。
「先生! 取れた!」
「よし。やれ!」
リドルが振り向いた。その顔は誰の目にも分かる恐怖の形になった。彼は懐にあるべき日記へ手をやり、杖を少年へ向け――その杖ごと、日野の白い縄が腕に絡んだ。半実体に縄は効かない。それでもコンマ五秒、視線と注意を奪うことはできる。身をよじった拍子にローブの内から黒い日記帳が床へ滑り落ちた。
コンマ五秒で、足りた。
ポッターが、床に落ちた黒い日記帳に、バジリスクの牙を両手で突き立てた。
音は、絶叫と、噴出だった。日記の頁という頁から、インクが血のように噴き上がった。リドルの輪郭が罅割れ、罅から光が漏れ、少年は身をよじり、絶叫した。その最後の一瞬、目が日野を見た。
何かを言いかけた口の形のまま、五十年前の記憶は、光に千切れて消えた。
ポッターの柊の杖が、からんと床に落ちた。
静寂。
水音が戻ってきた。白いものはいつの間にか伏せた王の頭部から解け、するすると絹の反物を巻き取るように、日野の袖へ帰っていくところだった。鏡越しに見ると王は瞼を閉じており、開けようともしない。引き上げ方は仕事を終えた職人の満足げなそれだった。満足の中身を考えると、日野は少しだけぞっとした。
「……う」
小さな声がした。石像の足元で赤毛の一年生が身じろぎをする。蝋のようだった頬に、目に見えて色が戻っていく。引き落とされ続けていた何かが、元の口座に戻ったのだ。
「ジニー!」
ポッターが駆け寄る。少女の目が開き、部屋を見、自分の手を見、日記の残骸を見た。それから見開かれ、決壊した。
「ハリー……わ、私、私が、私がやったの、ずっと、鶏も、壁の字も、コリンも、みんな、私――」
「しゃべるな」
日野は羽織を脱ぎながら言った。二人の傍らに膝をつき、小さな肩に羽織を掛ける。
「まだ調書は取らん。今は一言も要らん。……一つだけ言っとく」
日野は、泣きじゃくる十一歳の、涙で溺れかけている目を、まっすぐに見た。
「半年あまり、あれと同じ枕で寝て、よく生きてた。上等だ。あとは全部、大人の仕事だ」
帰路、隘路の手前で、兄の方のウィーズリーが待ち切れずに転がり出てきた。
「ジニー!!」
感動の再会は兄に全部やらせた。日野は三歩下がって、岩肌のチョークの脇に時刻だけを書き足した。経過三十二分。四名、自力帰還中。
三十分は過ぎている。マートルはもう飛んだ頃だ。上は今ごろ蜂の巣だろう。蜂の巣に戻って書く報告書の枚数を、日野は歩きながら見積もり始めた。見積もりは途中でやめた。桁が嫌になったからである。見たことはないが、加藤の青筋の立った額が幻視された。
配管の登りはフォークスが解決した。金の尾羽に順に掴まると、不死鳥は四人と帽子ひとつ分の重量を意にも介さず引き上げた。燃えるように温かい尾羽だった。
登りながら、日野は右手の甲を一度だけ見た。
皮膚の下に、細い痣が一筋、浮いている。蛇が這った跡のような、青黒い、細い線。手の甲の付け根から始まり手首の少し手前まで。二十一年何もなかった場所に、今夜、記帳された線だ。
婆様たちの言い草を思い出す。取引をした者の体には帳面がつく。線が伸びて首を一周したら、勘定の締めだ。
「……初回から、随分と引き落としやがったな」
日野は袖を下ろした。
頭上で光が近づいていた。マートルのトイレの、割れたタイルの光。その向こうの、蜂の巣になった城の、これから書く紙の山の、生きて戻った四人ぶんの夜の光だった。
明日以降の投稿は1日1話に戻します。