トイレの穴から這い出た四人と一羽を迎えたのは、教職員のほぼ全員だった。マートルの伝言は完璧に機能していた。後で聞いたところでは、マートルは騒然としている職員室に突入し、マクゴナガルの眼前で「二階東のトイレに報告書がある」を正確に三回繰り返したのだという。
伝言は三回繰り返せと教えたのは日野だが、教えたのは幽霊自警団の発足時で、七ヶ月前だ。七ヶ月前の指導を一言一句守るやつを彼女の他に知らない。拝命直後の沼田よりも飲み込みが早い。
もう一人、律儀な証人がいた。人垣の後ろの壁から半透明の老人がゆっくりと滲み出てきた。ビンズである。
「三十分、いただきましたのでな」
魔法史の教授は、職員室で交わした約束の刻限を守って答えを持ってきていた。
「五十年前の捜索について、思い出せる限りの事実を申し上げる。当時の教職員は城内をくまなく改めた。ただし女子手洗いは、慎みの観点から捜索の対象外とされた。……以上ですな」
日野はしばらく何も言えなかった。それから手帳の後ろの方を開き、探索記録の第四十一区画の下に一行を足した。一九四三年、慎みにより捜索対象外(証人:C・ビンズ)。五十年分の答えが三十分遅れて届いた。
ウィーズリー夫妻は、その日の夕方に着いた。娘は母親の腕の中に消え、父親は娘の髪に顔を埋めた。日野は家族の時間が一段落つくのを廊下で待ち、それから両親にだけ話をした。
「娘さんは被害者です」
最初に結論から言った。被害者家族への説明は、結論からやる。
「半年あまり、大人でも保たない相手にたった一人で耐えた。恐らくですが、途中に自力で縁を切りかけてもいる。十一歳にできることの全部をやった上で、届かない部分は大人の落ち度です。俺を含めた全員の。そう書きます」
モリー・ウィーズリーの目から新しい涙が溢れた。アーサー・ウィーズリーは何かを言おうとして言えず、代わりに深く、長く、頭を下げた。
残った証拠品は二点だった。
一点目。バジリスクの牙。上顎の一本、根元から折れている。長さ三十七センチ、根元の径四センチ。二十一年で見た凶器の中で、三番目に大きい。牙の内側には管が通っていて、毒はそこを通って先端から出る。管の中は空だった。
空になった毒がどこへ行ったのかは、二点目が答えている。
二点目。黒い革表紙の日記帳。中央に牙の刺突痕。縁は焼け爛れたように波打ち、頁という頁がどす黒いインクで固まって、もう開かない。刺突痕の径は、牙の先端から五センチの位置の径と一致した。管の中の毒は、全部、この穴から日記に入った。
入ったはずである。牙の外側に毒は付着しない。素手で握ったポッターの手に傷はなかった。そこまでは理屈が通る。
理屈が通らない箇所が、一つあった。
牙の根元、折れた断面のすぐ下に、白いものが一枚、貼りついていた。骨牌のように白い、小さな鱗。緑の牙に白い鱗は生えない。地下で王の眼窩を縫い止めていた白い流れは、頭部から離れた後、袖に戻った。戻る前にどこを通ったのかは、見ていない。灯りが落ちていた。
日野はピンセットで鱗を剥がし、証拠品の袋の中に別で収めた。品目の欄には何も書かなかった。凶器の一部でもなく、被疑者の遺留品でもなく、被害者のものでもない。
夜、日野は居室の机に日記帳を置き、まず外形を書いた。寸法、重量、刺突痕の径と角度、表紙の金文字。T・M・リドル。刷られた年号。ここまでは刑事の仕事で、二十一年やってきた手順の通りに済んだ。
済まないのは中身である。書けば返事を書き、記憶を見せ、十一歳の子供を半年かけて器に変え、最後には人の形で立ち上がって杖を振るった。立ち上がったものは牙の一突きで消えた。消えた後の、これは何だ。
日野は右の袖をまくり、日記を袖口の前に置いた。袖の中のものは、地下であれほど王を欲しがった。格のあるもの、古いもの、力のあるものの前では、二十一年ずっと浮かれるか構えるかしてきた。その同居人が日記の前で身じろぎ一つしない。鼻も利かせず一瞥もくれず、空の皿を前にした時と同じ静けさだ。
「……空か」
空だということは、住人がいた。
日野は郷里の婆様たちの口伝を、頭の中の棚から一冊ずつ下ろした。
形代の話がある。人の形に切った紙に、自分の穢れや災いや、時には魂の端を移す。流せば祓いになり、残せば身代わりになる。その口伝の中に、子供の頃に聞いて意味の分からなかった一節があった。
――身代わりの形代を、一枚だけ作る阿呆はおらん。一枚きりなら、焼かれたらそれで終いじゃろうが。
死なないために自分を分ける者は、必ず、何枚も作る。
日野は書式を出した。鑑定書。刑事が鑑定人を兼ねる書式は本来ない。ないので、作った。
『鑑定書 黒色小型書籍一冊(証拠品第一号)に関する所見
一、当該書籍は人の一部を器に納めたものと認む。
二、器の住人は本年四月十二日、バジリスクの牙による刺突をもって消滅した。現在、器は空である。
三、この種の器が単数で作られた例を当職は知らない。自らを分ける者は焼かれた時に備えて必ず複数を作る。
四、したがって同一人物による他の器の存在を前提とした調査を要すると思料する。
鑑定人:日野道広 鑑定の根拠:当職の知見による』
根拠の欄でペンが一度だけ止まった。当職の知見。その知見がどこから来たのか書かなくても紙は成立する。成立させるための欄の選び方なら、二十一年分の手癖がある。
朝までに、皿の塩がひとつまみ分だけ黒くなっていた。取引はしていない。見せただけだ。見物料のつもりだろう。
事件の翌朝、ポッターが居室に来た。寝ていない顔だ。
「先生。あの日記、返してもらえませんか」
日野は茶を淹れる手を止めなかった。
「証拠品だぞ」
「分かってます。でも、考えがあって。……ドビーのことで」
屋敷しもべ妖精。昨日の五枚の報告の、二枚目。主人の家の秘密。
「持ち主が分かってるのか」
「マルフォイさんです」
ポッターは少しも迷わずに言った。
「夏に、フローリシュ・アンド・ブロッツで。ジニーの大鍋に古い本を一冊戻してました。あの時は気にしなかったけど、あれが日記だった」
目撃証言だ。八ヶ月前、書店の一瞬。日野は手帳に書き留めた。場所、時期、目撃者、行為。
それから机の上の日記を見た。外形を記録し、鑑定書を書いた。写しは綴ってある。この物件がこの机を離れても残るものだ。そして。
「いいだろう」
日野は日記を布で包み、ポッターの前に置いた。
「拾得物は、持ち主に返すもんだからな」
「え、いいんですか」
「ただし条件が一つある。渡す時は、相手の手に渡してほしい。投げたり置いたりしないで、向こうの手がこれを掴むところまで。頼まれてくれるか」
ポッターは瞬きをした。意味は分かっていない顔だった。分からなくていい。
「それと、考えの残りは今はいい。前にも言ったように、受付は一枚からだからな」
少年は包みを抱え、深く頭を下げて出て行った。この城に伝染した、あの角度だった。
ルシウス・マルフォイが城に乗り込んできたのは、その日の午後である。
理事たちへの脅迫工作が露見し、理事会は停職命令を撤回した。当人は釈明のためダンブルドアの校長室へ、という筋書きは後で聞いた。
日野が見たのは廊下の一瞬だけだ。長い黒ローブが、萎びた屋敷しもべ妖精を蹴り飛ばすように従えて大股に歩いてくる。すれ違う。銀の蛇の杖が、半歩ぶんだけ遅れた。
「……覚えておこう、ヒノ教授」
それだけだった。返事は要らない台詞だったので、日野も返さなかった。敵意の予約に受付印は要らない。
日野はそのまま廊下の角に立ち、凸面鏡を見上げた。
校長室への階段下が、丸い視界に収まる角度だった。十一月に自分で決めた角度である。
鏡の中でポッターがマルフォイを追いかけ、布包みを差し出した。マルフォイの手がそれを掴んだ。布を剥ぎ、中から出てきたものを見て顔を歪め、挟まっていた汚れた靴下を床へ放った。妖精がそれを受け止めて胸に抱きしめ、マルフォイが激昂して杖を抜きかけ、妖精の魔法が主人だった男を階段の下まで吹っ飛ばした。
丸い視界の中で、事態は無声映画のように進行した。日野は一つだけ確認した。吹っ飛ばされたマルフォイの手に、黒い日記帳が握られたままであることを。
受領の現認。三十枚の鏡の、最後の仕事がこれか。悪くない画角だった。マルフォイが捨て台詞を残して消えると、後には靴下を抱えた妖精だけが残った。
屋敷しもべ妖精は跳ねた。跳ねて、回って、泣いて、笑って、廊下の空中で足をばたつかせ、大声で宣言した。
「ドビーは――ドビーは、自由です!!」
日野は角の陰で動けなかった。胸の奥で、窓が鳴った。祖父の遺影の前で一度。そして今。解放されたものがあんなふうに跳ねるのを、日野は生まれて初めて見た。飼い殺しという言葉を家紋のように背負ってきた男は、靴下一足で買い戻された自由の跳ね方を目に焼き付けた。袖の中の千年祀られてきたものは、静かだった。
去り際、ドビーはふと角の陰の日野に気づいた。テニスボールの目がまん丸になった。それから妖精は、廊下の真ん中で深々とお辞儀をした。腰から上を折る、九月から城中に伝染した、あの角度のお辞儀を。
日野も返した。礼だけが交わされて、自由になった妖精は指を鳴らして消えた。
居室に戻り、日野は一月から開いたままだった記録を閉じた。
『拾得物返還記録
物件:黒色小型書籍一冊(滅失。刺突痕あり)
拾得:一月上旬、二階東女子トイレにて。拾得者、H・ポッター(届出遅延。四月十二日、本人の報告により判明)
返還:四月十三日
返還先:L・マルフォイ(所有者と認む。根拠:本人による受領の事実、並びに昨年八月の書店における目撃証言)
受領の現認:当職(校長室階段下を望む凸面鏡越し)
添付:鑑定書写し一通』
拾得者欄の「届出遅延」の四文字を、日野はしばらく見た。遅延は遅延と書く。それで誰かが吊るされる紙にはしない。等級を偽らないことと、人を責めることは、別の仕事だ。
帳場の紙に一月から空いていた欄も埋まった。拾得者、不詳。その不詳に、横線を一本引いた。
事件処理簿は、その後二晩かけて書いた。手が止まったのは被疑者欄である。
T・M・リドル。一九四〇年代の在校生。
その後ろに「死亡」と書きかけて、日野はペンを上げた。鑑定書の第四項がそれを書かせなかった。器を何枚も作る者は、死なないために作る。作った本人が五十年前に死んでいるという根拠は、今のところ一枚もない。
T・M・リドル。一九四〇年代の在校生。現在の生死、不明。本年四月、その一部が消滅。
被疑者死亡につき不起訴相当――と、この様式なら続くはずの一行を、日野は書かなかった。死亡どころか生死が分からない。手錠の掛からない被疑者の一部を牙で消した。二十一年使ってきた書式はそれを書く欄を持っていない。
ジネブラの名は被害者欄にだけ載せた。異例の措置である。彼女の手が実行行為に使われた以上、通常なら参考人欄には載る。載せなかった理屈は、報告書の欄外に明記した。操られた者の名を被疑者側に載せる前例を作れば、次の事件では服従の呪文の被害者が全員、前科者になる。前例というのは、作る時に百年先を考えて作るものだ。
官房気付・加藤宛の報告一式は、見積もりの段階で桁が嫌になった。書きながら、ついでに古い宿題を二つ閉じた。
一つ。九月一日の柵の閉塞原因の照会(回答遅延二百二十五日)は、事由判明につき照会打切り。原因は屋敷しもべ妖精の魔法による干渉だった。魔法省より回答が来る前に現場で答えが出た。役所が役所に勝った瞬間である。誰も褒めてくれないが。
二つ。フォード・アングリア。「捜索第八回(未実施)」を取り消し、台帳の記載を変更した。
当該車両:保護観察(森内)。特記事項:騎乗可能。友軍。
鑑定書の写しは報告一式の一番下に綴じた。本省の誰がそれを読み、読んで何を思い、どう使うのか。読まれるか分からない紙を出すのは慣れている。
異議申立書は第四稿を書いた。第三稿までは三度突き返されている。理由はどれも同じで、証拠不足だった。五十年前の記録の不在を突く論法には不在それ自体しか武器がなく、不在は突き返すのが役所である。
第四稿は違った。弾が揃った。アラゴグの証言調書(証人の脚は八本だが、宣誓能力に問題なしと当職は判断する)。T・M・リドルの自白の録取(冤罪工作の経緯、証人二名)。そして真犯人の一部消滅までの事件報告書。徹夜で書き上げ、速達で発送した。
省の反応は四日後に来た。
来たのは紙ではなく、人だった。
「魔法法執行部のナイジェル・グレンビルと申します。書記官をしております」
若い役人だった。几帳面に整えたローブ、几帳面に磨いた靴、几帳面な作り笑い。応接した研究室で、彼は几帳面にお辞儀をして、用件を述べた。
「ルビウス・ハグリッドの件です。ご提出の申立書を受け、部内で再検討しました結果、疑義の解消が認められ放免と決しました。本日はその旨を口頭にてお伝えに上がりました次第で」
「口頭で、ですか」
「はい。本件は、その、正式な逮捕ではございませんでしたので、放免についても記録は特段――」
日野は頷いて茶を淹れ、客の前に湯呑みを置き、その隣に羊皮紙と羽根ペンと携帯用の硯を並べて置いた。
グレンビル書記官の几帳面な笑顔が、微かにひび割れた。
「……あの、これは」
「釈放理由書の用紙です。様式は自由で結構。今から起案していただきます」
「い、いえ、ですから、本件は記録には――」
「一枚、お見せしましょう」
日野は懐から写しを出した。あの夜の身柄拘束書である。
「引致の際の書類です。日時、引致先、そして根拠。『慣例による』。魔法大臣の署名入りで。……つまり書記官殿、この人物には入りの記録があるんですよ。入りの記録がある人間を、出だけ無記録にはできませんね? 差し引きが合わなくなるでしょう」
日野は、湯気の立つ茶を客の方へ寸だけ押した。
「紙の上で、出入りは一致させる。役所の一年生で習いませんでしたか」
書記官は写しの署名を三度見て、額の汗を一度拭き、暖炉経由で上官に照会を試み(繋がらなかった)、結局その場で書いた。日野は横から様式を「指導」した。指導の山場は、釈放理由の文言だった。
「えーと、『疑義解消につき』……では、駄目ですか」
「駄目ですね。解消した疑義の中身がない。それだと五年後に読んだ人間に何も伝わらない。こう書いてください。『引致の根拠とされた五十年前の処分に、重大な疑義が認められたため』」
「ご、五十年前の処分に疑義、と書きますと、その、当時の省の判断への――」
「事実ですから」
「……はい」
書き上がった釈放理由書の写しを一部確保し、日野は客を城門まで送った。別れ際、若い書記官は疲れ切った顔で、それでも妙に晴れ晴れと一礼した。
「あの……勉強に、なりました」
「そりゃ何より。紙は、書いた側の身も守るんですよ。今日の一枚はいつか書記官殿を守ります」
ハグリッドが戻ったのは、その週の夕食時だった。
大広間の扉が開き、巨体がのそりと入ってきた瞬間、グリフィンドールの卓が爆発した。ポッターとウィーズリーが飛びつき、揉みくちゃの抱擁があり、拍手が広間を回った。日野は教職員席から遠景でそれを見た。見ながら、釈放理由書の写しの角を、懐の上から一度だけ確かめた。
数日後、小屋に呼ばれた。
ハグリッドは、いつもの倍は硬いロックケーキと、途方もなく濃い茶と、それから皺だらけの羊皮紙を一枚、日野の前に置いた。何度も広げては畳み直したらしい折り目が縦横に走り、書き出しを二度失敗した跡が上端で黒く潰れ、巨大な指には短すぎる羽根ペンを握り直したのだろう。それでも一字ずつ楷書に近づけようとしたのが分かる、のたくってはいるが確かに判読できる文字が、罫線もない紙の真ん中にまっすぐ並んでいた。
『しいく届 アクロマンチュラ「アラゴグ」ほか一ぞく しいくば所・きんじられた森 届出人・ルビウス・ハグリッド』
「先生よ」
森番は、耳まで赤くして言った。
「俺、書類ってのを、生まれて初めて書いてみた。……これでよ、あいつはもう、隠し飼いじゃなくなるんだよな?」
「受理しよう」
日野はその場で受付印を捺した。捺してから、報告を一つ足した。
「ハグリッドさん。あんたの五十年前の退学処分、訂正の申立が学校に正式受理された。復職した校長の決裁済みだ。記録の上で、あんたはもう『怪物を放った生徒』じゃなくなる。時間はかかるが必ず通す」
「……」
「杖の件は別途。こっちはもう少し骨だが、諦める理由がない」
ハグリッドは返事をしなかった。しない代わりに、日野の湯呑みに涙より先に茶を注ぎ足した。縁から盛大に溢れた。二人でしばらく、その茶を黙って見ていた。
茶が冷めるのを待ってから、日野は受付印を捺したばかりの飼育届をハグリッドの前に戻した。
「で、だ。こいつを受理した以上、俺はこの届の中身に責任を持つ。だから先に言っておく」
森番の顔から、赤みが少し引いた。
「五十年前の件は、あんたが何を選んでも通す。あんたは当時死んだ生徒を殺してない。それは事実だ。事実は取引に使わない」
「……選ぶ? 何のことだ」
「だが、アクロマンチュラを城で隠匿し、森で飼っていたのも、揺るがぬ事実だ。危険度トップクラスの代物を、生徒たちのすぐそばでだ」
日野は届の一行を指で叩いた。アラゴグほか一族。
「念のため、こっちの国の規則も調べた。あれの卵は、国際魔法使い連盟の加盟各国じゃ取引禁止、人工的な繁殖も禁じられてる。……うちの国がどう扱ってるかは、いったん聞かないでくれ。で、退学の量刑を軽くする申立と、杖を返してもらう申立は、情状の話だ。情状ってのは昔のことじゃなくて、今のあんたがどうしてるかで決まる」
ハグリッドの喉が動いた。
「あの窪地に、何匹いる」
「……数えたこたぁねえ」
「それじゃ困る。先週、俺の生徒が二人、あそこで食われかけた。群れの長は幸いにもあんたとの約束を守った。守らなかったのは子供たちだ。長が死んだら、約束は誰が守らせる。あんたが守らせられる保証はあるのか」
「いや、あいつらは賢い子たちだ。きちんと話せりゃ――」
「話したら聞く保証は」
返事はなかった。
日野はこの男にできることとできないことを、半年かけて数えてきた。名前をつけた相手を直接殺すことはできない。杖を持たず、正規の魔法教育を修了しておらず、百匹単位で一度に殺す力はない。法律上の規制と自己の判断では、自己の判断を採る。おそらく三頭犬の城内飼育も彼だろう。着任直後、城内の噂として台帳に書き留めたあれだ。
それに、怪物を飼育した疑いで退学処分となった人物を、ダンブルドアはわざわざ森の近くに住まわせている。魔法省経由での処罰から、守っている。
この一年で、英国側の事情がだいぶ見えてきた。英国の魔法界は、人治でできている。人治の国の人事には、意図があって然るべきだ。決まっている人事を法治を盾に危険性だけで排除する。そんな芸当ができるなら、日野にも出世の目があっただろう。
知恵をつけた蜘蛛というのも厄介だ。中途半端に手を出せば群れは散る。散った群れは縄張りを捨てて森の外へ出ようとするだろう。追い詰めて散らすのは、この相手には最悪だ。
結論は出ていた。法で動かない男を動かすのは、その男が守りたいもの。殺せない相手に一番効くのは、増やさないこと。そして、逃げ道を塞いで追い込むことである。
「条件は四つ。一つ目から三つ目は、数を減らすための方法だ。まず、卵は全部間引け。今ある分も、これから産む分も。次に、若い連中は森から出す。あれの故郷はボルネオの森だ。向こうに保護区がある。移送の許可は俺が書く。受け入れ先への照会は日本の官房から出させる。英国の省を通すより、その方が早い」
日野は本省で誰かが出すであろう恨み言を想像し、できるだけ声を平らにした。平らにしないと、声が弾んでしまうからだ。
「三つ目、残る成体に数の目標を置く。五年で今の半分。十年で、長とその連れ合いだけ。頭数は毎月記録して、俺と俺の後任に提出しろ。目標を割れなかった年は、差分を駆除の申請で埋める。申請するのは防衛術の教師か副校長、校長の名前で、執行するのはあんたじゃない」
「……故郷に、帰れるのか。あいつの子らが」
「帰す。ただし餌は、頭数に合わせて減らせ。一匹あたりは減らすな。腹の減った蜘蛛は線を越えるからな」
ハグリッドの巨大な手が、湯呑みを包んだまま白くなった。
「四つ目、縄張りの線引き。群れとの約束じゃ意味がない。約束した相手が死んだら消えるからな。線は物で引く」
日野は懐から、布に包んだものを出した。掌ほどの大きさの、毒々しい緑の、乾いた鱗の一片。
「地下の抜け殻だ。入口は四月十二日にポッターが開けたまま、まだ調査のために閉じてない。だから副校長の決裁で封鎖して、見張りを立ててある。バジリスク自体は瞼を閉じたまま、一度も開けてない。処遇は校長の決裁事項だ。抜け殻は証拠品の一部転用として、同じ決裁で切り出した。これを杭に打って、森の中に線を引く。城側と、村側と、街道側。群れが小さくなったら、その分範囲を狭めていく。蜘蛛はやつの匂いを越えられない。……越えられないかどうかは明日あんたの前で試す」
ハグリッドは食い入るように鱗を見つめた。地下に降りて抜け殻に興奮していたケトルバーンに、そっくりだった。
「……もし、俺が嫌だと言ったら」
「五十年前の件は通す。アラゴグ本人も守ろう。あれは証人だ。証人は保護する。だがそれ以外はあんたの不始末だ。俺はこの城の生徒を全員守る側にいる。あんたのことも守りたいが、あの窪地の群れを守る理由は、俺にはない」
ハグリッドは長いこと黙っていた。
「……アラゴグに、話してみる」
「頼む」
「あいつは帰らねえと思う。俺の森で死ぬって言うに決まってる。……けど、子らが故郷に帰れるなら、卵の話も、たぶん呑む。増えねえのも、出ていくのも、俺が箱ん中に戻されるよりは、まだマシなんだ」
日野はその言葉を手帳に書いた。群れの長の妥協点を飼い主が先に読んでいる。読める男に間引きをやらせる。この男にしか、やれない仕事だった。
ハグリッドは短すぎる羽根ペンを、もう一度握った。届の余白に、のたくった字が一行増えた。
『たまごは全ぶ、ま引く。わかいのは、ふるさとに返す。まい月、かずをかぞえて届ける。へるのを、見まもる』
日野はその一行の横に、もう一度受付印を捺した。変更届として。
翌日の夕方、日野は森の縁で抜け殻の効き目を試した。ハグリッドに群れの子供を一匹、籠に入れて持って来させた。籠を地面に置き、抜け殻の一片を籠から二米の位置に立てた杭に括った。籠の戸を開ける。
蜘蛛は出てきて、杭の手前で止まった。八本の脚を縮め、後ずさり、籠に戻った。もう一度戸を開けても出てこない。日野は帳面に書いた。忌避、確認。有効半径、二米以上。杭の間隔、三米で設計する。
「……こいつは」
ハグリッドは籠の中で縮んでいる蜘蛛の子供を、長いこと見ていた。
「こいつらは、あれを、そんなに」
「そんなに、だ。アラゴグたちが五十年、名前すら呼ばなかった相手だよ」
杭は、ハグリッドとケトルバーンで打った。老人は自分の部屋に飾る分を一切れ確保した上で、残りを喜んで杭に括った。三日で線が引けた。群れの窪地を中心に、城側、村側、街道側に、抜け殻の杭が三米おきに並ぶ。砕く過程で出た細かな破片には穴を開け、丈夫な糸を通して、木々の間に張り巡らした。
線の外へ出た個体は駆除の対象とする。日野はそれを地図に書き込み、頭数報告の様式に杭と糸の点検欄を足した。
週に一度杭と糸を検め、月に一度頭数を把握する。数が減り続け杭と糸が揃っている限り、駆除の申請は抽斗から出ない。