五月最初の週、朝食の卓に公用のふくろうが降りた。脚に括られていたのは封筒ではない。細く巻いた紙が一本。国際ふくろう便の公電である。本省がこれを使うのは、封筒に入れる時間も惜しい時か、封筒に入れると長くなる時かのどちらかだ。二十一年の経験では後者の方が多い。
紙を開いた。
『カユウラ ゼンコク キヨウ
キニンノ ヨウイ コフ
シヨサイ ベツト カトウ』
日野は茶を一口飲んだ。甘い。
粥占、全国、凶。
粥占というのは古い占いである。年の初めに粥を炊いて、その中に差した管の詰まり具合で作況を見る。日本のあちこちの社が正月にやる。当たる年もあれば外れる年もあり、役所が公電で打ってくる種類のものではない。少なくとも、去年までは。
日野の郷里の社でもやる。婆様たちが管を割り、中の粥の詰まりを見て、今年は早稲が良いとか何とか言い合う。その後に塩の量が決まる。子供の頃、それを縁側から見ていた。
粥占が当たるかどうか日野は数えたことがない。郷里の婆様たちも数えていない。そんなものを、本省が全国から集めた。全国で揃って凶というのを、日野は聞いたことがなかった。
帰任の用意を乞う。
命ずる、ではない。加藤という男は動詞を選ぶ。乞われた側に断る余地があることを、書いた側が知っている。別途はたぶん封筒で来る。
日野は公電を畳み、手帳に挟んだ。それから朝食を終え、一時間目の教室へ行った。三年生の盾の呪文である。チャンの盾は今日も速く、今日は保っていた。盾の出が早い割りに保ちがよくないと指摘したのは前回だった。こういうところに寮の性格は出る。
その盾を見て、隣のエッジコムが自分の盾を出し直した。出し直した盾は、先週より一秒長く保った。日野は出席簿の余白に、一秒伸長と書いた。
その日のうちにマクゴナガルに報告した。ダンブルドアは復職しているが、こういうものは副校長を通す。通す順番を守る男だと、この城で一年かけて覚えてもらった。今さら順番を飛ばす理由がない。
マクゴナガルは公電のカタカナを見て、それから日野の顔を見た。
「私は日本語が読めません。残念ながら」
「承知しています。日本からの召還です。時期は未定。用意をせよ、とだけ」
「……いつまでにですか?」
「未定です。返事はこれから書きます」
副校長はしばらく黙っていた。それから、眼鏡を外さずに言った。
「ハグリッドの訂正申立は、私が引き継げます。他に私ができるものは」
「今、数えています」
数え終わっていない、とは言わなかった。言わなくても副校長には分かったらしい。眼鏡越しの目が一秒だけ日野の右手を見た。この城の大人は視線で語る人が多い。
次の封筒は水曜に来た。これまでのどれよりも分厚い。
中を検める。一枚目は折り畳まれた日本地図だった。加藤の印刷めいた字で、主要な社殿が網羅されている。その全てに凶と注があり、北へ行くほど大凶の割合が増えた。青森、岩手、宮城などはほぼ大凶しかない。
二枚目が本題だった。
『日野様
公電の通りですが、もう少し詳しく申し上げます。
一月の粥占の集計が、四月末に官房へ上がりました。三ヶ月かかったのは、例年なら集計しないからです。今年は熱田の宮司が凶を報せてきまして、念のため枚岡に問い合わせたところ同じ結果でした。それで官房から全国に照会を出しました。返ってきた百二十七社のうち、吉が一つもありません。粥占が外れることはあります。百二十七社が揃って外れた記録は、ありません。
隠さずに申し上げます。貴職におかれましては、できるだけ早く帰ってきていただきたい。理由は二つです。
第一に、冷夏になれば米が細ります。米が細ると供物が細り、供物が細ると神事が細ります。細った年に何が起きるかは、貴職のご実家の方がお詳しいでしょう。官房の見立てでは、秋以降、国内で案件が増えます。それも、あちら側の事情に通じた人手でなければ扱えない案件が。そういう人手は当省に三人しかおりません。貴職はその一人です。
第二に、例の面白がっている者たちが、貴職に会いたがっています。会って何を話したいのかは、私が代わりに書いていい話ではありません。ただ、彼らが貴職を待っているのは事実です。待たせておくと私の仕事が増えます。既に週二回、同じ質問に同じ答えを回しております。
帰任の時期について、官房といたしましては、可能な限り早くと申し上げるほかありません。ただし、貴職の側に業務上の理由があれば聞きます。聞いた上で、官房で持てるものは持ちます。
加藤』
日野は手紙を二度読んだ。
事情はよく分かった。分かった上で、返信を書いた。書式は私信だが、中身は業務である。
『加藤企画官殿
公電及び書状、拝受しました。
帰任の用意について、以下のとおり業務未了につき、時期の再考を求めます。
一、本年四月の拉致事案に関し、石化の被害を受けた生徒四名が現在も未回復。回復薬の完成見込みは五月末。また、被害生徒一名の供述、未録取。事案の担当者として、被害者の回復と供述を確認せずに離任することはできません。
二、引継書、未完。本件は解決済みであるにもかかわらず、被害者が起きていないため、事案の終結を記載できません。終結の記載のない引継書は、引継書ではありません。
三、五十年前の退学処分に関する訂正申立、係属中。当職が起案者です。
四、学年末の考査、六月。当職が出題者です。
以上により、離任は早くとも学年末以降が相当と思料します。
日野』
四項目まで書いて、日野はペンを置いた。
四項目とも事実である。三度確かめた。確かめる回数が多いのは、そうせねばならない何かがある時である。何のことか、その夜は考えなかった。
加藤の二通目は翌週の月曜に来た。前回より薄い。そして早い。到着後、即座に読んで返信を書かねば、この日取りでは届かない。
『日野様
四項目、承りました。四項目とも業務として筋が通っています。しかし、筋が通っていることと官房が呑めることは別です。一つずつ申し上げます。
一項目め、被害者の回復確認と供述録取は業務です。これは呑めます。
二項目め、引継書は終結を副校長に記載していただく手があります。
三項目め、訂正申立は副校長が引き継げると、貴職ご自身が三月の報告に書いておられます。
四項目め、考査は出題者でなくとも監督はできます。
つまり、業務として残るのは一項目めだけで、それなら五月末です。それでも貴職は「学年末以降」と書かれた。
率直に申し上げます。まだ他に項目があるように読めます。帰りたくないという項目です。あるなら、お書きください。業務でない理由を業務の下に隠して出されると、官房としては扱いようがありません。書いていただければ、扱いようはあります。以前にもお伝えしましたが、私はあなたの席を作るのに三年かけました。
外れていたら、ご寛恕ください。
加藤』
日野は手紙を机に置いた。
帰りたくない、と書いてある。加藤は日野が書かなかったものを、日野が書くはずだった言葉で書いてきた。真正面から書かれると、こちらが書けなくなる。
返信は、書けなかった。日野は医務室に寄った。
四つの寝台に、四人が眠っている。クリービーはカメラを胸に抱いたまま。フィンチ=フレッチリーは口を半分開けたまま。クリアウォーターの枕元には、今日もパーシー・ウィーズリーが校庭から摘んだであろう花と、点呼の集計表が置いている。花は毎日新しい。監督生は、眠っている相手に、毎日報告に来ている。相手が起きていなくても、報告は報告である。それを教えたのはたぶん自分だ。
グレンジャーの寝台の前で足を止めた。左手に手鏡。右手はもう空だ。握っていた頁は日野の手帳に挟んである。起きた時、最初にそれを探すはずだ。それから事件の結末を確かめるだろう。その時、答える者がここにいるかどうか。
日野は四つの寝台をいつもの順路で回った。頭の中で項目を数えていた。
五、被害者の覚醒に立ち会う。六、覚醒後の聴取。七、考査の採点。八、夜間体制の解除の判断。九、来年度の……
九で止めた。
九まで数えて、九つのうち業務がいくつあるかを、日野は数えなかった。数えると答えが出る。答えが出ると、加藤の言う五項目めを書かなければならなくなる。
医務室を出ると、廊下の角でロングボトムに会った。手に杖を持っていた。
「先生。見てください」
盾の呪文が出た。一度で。
三月には三回目で出ていたものが、五月には一度で出る。丸顔の少年は杖を下ろし、緊張の面持ちで日野の返事を待っていた。
「……出たね」
「はい」
「次は、保たせるんだ」
「はい!!」
少年は駆けていった。走るな、と言うのを忘れた。忘れたことを、手帳に書かなかった。
居室に戻り、日野は返信の下書きを机に伏せた。伏せた紙の上に手帳を置いた。起案中の紙の扱いは、起案者の裁量である。その夜は書かなかった。
ジネブラ・ウィーズリーの供述を取ったのは、その週の木曜だった。
地下で、まだ調書は取らんと言った。その「まだ」の期限を決めたのは、本人である。寮監を通じて申し出があった。話したいことがあります。書いてください、と。
研究室に茶の匂いを立てて、日野は椅子を三つ並べた。一つは供述者、一つは自分、一つは窓際の立会人席。マクゴナガルが無言でそこに座った。
ウィーズリーは前と同じ椅子に、前と同じように浅く座った。それから座り直した。少しだけ深く。
「今日のは調書だ」
日野は最初に言った。
「君が言ったことを、君の言った通りに書く。直すのは誤字だけだ。言いたくないことは言わなくていい。途中でやめてもいい。やめたら、やめたと書く」
頷いた。それから、膝の上で指を組んだまま、小さな声で訊いた。
「……書いたら、病院に送られますか」
日野のペンが止まった。誰がそう言ったのかは明らかだ。大人は君の話を聞くふりをして、君の言葉を症状にする。そういう言い方で子供を囲い込む手口は、どこの国でも同じである。日野は言った。
「送らない。病院には行きたければ行けばいい。君のは症状じゃなくて供述で、俺が書くのもカルテじゃなくて調書だ」
ウィーズリーは長いこと、日野の手元の白い紙を見ていた。それから、話し始めた。
「一月に、日記を捨てました」
最初の一文はそれだった。
「休暇の終わりに、夜、手を洗ってたら、爪の間に赤いのが残ってて。ペンキみたいな。壁の字の色でした。それで顔を上げたら、鏡の中が、わたしじゃない顔をしてて。……怖くなって、トイレに投げました。マートルのいるとこなら、誰も拾わないと思って」
日野は書いた。彼女の言った通りに。
「捨てた次の朝、ポリッジが甘かったです」
ウィーズリーは少しだけ笑った。笑ったことに、自分で驚いた顔をした。
「ずっと、何を食べても味がしなかったのに。甘くて。それから夜も眠れるようになりました。日記を書かない夜は、いつも胸がすうすうしてたけど、それもなくなって」
三月の面談記録に日野が書いた「全項目、快方」の、本人の側から見た中身がこれだった。
「三月の面談は、こわくなかったです。先生のお部屋、お茶の匂いがして。……十二月のときは、何を聞かれるか全部先に分かってて、答えも先に決まってて。でも三月は、分かんなかった。分かんないのが、うれしかった」
台本のある証人の滑らかさ。十二月に自分でつけた観測の、裏が取れた。ずいぶん遅れて。
「三月の、半ばに」
ウィーズリーの声が、そこで一段低くなった。
「談話室でハリーの鞄が開いてて、見えたんです。あの日記。……ハリーが持ってるって分かったら、頭が真っ白になって。ハリーが読んだら、わたしの書いたこと全部。ハリーのことも。全部。それに」
組んだ指が白くなった。
「呼ばれてる気がしたんです。取り戻したら、また聞いてくれるって。……だから、男子寮に」
「合言葉は」
「同じ寮だから、知ってます。……ごめんなさい」
「謝る必要はないよ」
日野は書き続けた。
「続けてくれ」
取り戻した夜、日記は何も責めなかったという。お帰りジニー、心配したよ。その夜から、また味がしなくなった。鶏のことは覚えていない。ただ、朝起きると爪の間に白い羽根が挟まっていたことが、二度あった。
「月曜の検査の日」
ウィーズリーはそこで一度だけ、言葉を切った。
「前の日に掲示を見て、その夜に日記が言ったんです。急がなきゃ、ジニー、って。……気がついたら四時間目の途中で廊下を歩いてて。止まろうとしたけど、足が止まらなくて。その後は起きるまで覚えてません」
日野は時刻を書き入れた。ベクトルが並べた最終目撃の時刻表と、一分と違わなかった。
最後にもう一つだけ付け足してきた。
「先生のお部屋の前まで、行ったことがあります。二回。一月と、三月の終わり。……ノックできませんでした」
日野のペンは止まらなかった。止めない訓練は二十一年している。
書き終えてから、日野は調書を頭から読み聞かせた。一語ずつ、彼女の言った通りの言葉を耳に返していく。ウィーズリーは一度も遮らず、最後まで聞き、聞き終えて小さく頷いた。
「間違いは」
「……ありません」
一拍、遅かった。日野は調書の末尾に定型の一文を書いた。右のとおり録取して読み聞かせたところ、誤りのないことを申し立て、署名した。
「ここに名前を。フルネームで」
羽根ペンを受け取り、少し震える字でそれでも最後まで書いた。ジネブラ・モリー・ウィーズリー。立会人欄にマクゴナガルが署名した。それから日野は、特記事項の欄に一行を足した。
「……それも、わたしが言ったことですか」
覗き込んだウィーズリーが訊いた。日野は答えた。
「いや。これは俺の所見だよ。この欄は俺が書いていいんだ」
特記事項:本件につき、供述者に一切の落ち度なし。
ウィーズリーはその一行を、二度読んだ。それから前より深いお辞儀をして、寮監と一緒に出ていった。扉が閉まってから、日野は業務日誌の綴りを出し、一月と三月の終わりの頁を繰った。巡回のない夜は、どれも同じ一行で終わっている。二十時以降、在室。書類整理。
扉一枚だった。
日野は日誌を閉じ、調書を綴りの一番上に置いた。鑑定書と、拾得物返還記録と、並べて。三枚とも、同じ黒い本について書いた紙だ。三枚目だけが、人の言葉でできていた。
もう一つ薄い封筒が来たのは、その週の金曜だ。
一通だけ、居室の窓に、国際ふくろう便の小さな梟が届けてきた。差出人の欄の字は癖のある、右上がりの――成績表の隅の署名で見覚えのある字だった。
『日野良美』
四月十三日に、ふくろうの脚に括った手紙の返事である。海を渡って、さらに海を渡って、南硫黄島で読まれて、また海を渡って、一月かかった。笠子の手筈だろう。
日野は封を切った。指が、我ながら少し慌てていた。中身は便箋一枚。一行だった。
『お父さんへ。呪文理論は面白いから伸びました。良美』
それだけだった。時候の挨拶もない。近況もない。返事とも書いていない。ただ、一行。
面白いから、伸びた。
父親が消し線の下に隠した一文の答えを、娘は、訊かれる前から持っていた。
日野は一行を三回読んだ。一回目は目だけで、二回目は指でなぞり、三回目はランタンの灯りにかざした。それから便箋を丁寧に畳み、封筒に戻し、手帳には挟まなかった。手帳は公用だ。これは違う。胸の内ポケットに入れた。
入れてから、机に伏せた下書きを起こした。
四項目の下に、日野は五項目めを書いてみた。加藤の言う通りに。書けば分かる。
五、当校において、当職は業務を面白いと感じている。
これは業務未了ではない。業務が面白いというのは、離任を避ける理由にはならない。四項目までは事実だ。五項目めも事実だ。しかし五項目めだけが、離任の時期と関係がない。
加藤はそれを読んだ。娘も、消し線の下の一文を読んだ。同じ手口を二度使って二度とも読まれた男が、机の前に座っている。
面白いから伸びた、と娘は書けた。しかし日野は、面白いから残る、とどうしても書けなかった。理由は簡単だ。娘の「面白い」は娘のものだ。日野の「面白い」は、家に帰ってから続ける種類のものである。
日野は五項目めに、二重線を引いた。
線の下で、文字は読める形のまま残った。読める形で残ることは知った上で引いた。この下書きは送らない。線の下を読めるのは書いた本人だけだ。
新しい紙を出して、三通目を書いた。
『加藤企画官殿
五項目め、確かにありました。離任の時期とは関係のない項目でしたので、削除しました。
帰任の時期について、七月三十一日を提示いたします。学年末です。被害者の回復確認、考査、引継書の完成は、それまでに終わります。訂正申立は副校長に引き継ぎます。
八月一日以降は、官房の指示に従います。
日野』
短かった。
ふくろう小屋まで、自分で持って行った。公用のふくろうは五月の夕陽を浴びて不機嫌そうに一声鳴き、脚に括られた封筒の重さを確かめるように一度羽を広げ、それから東へ飛んだ。飛んでいく方角を、日野は塔の窓から、姿が見えなくなるまで見ていた。見ている間、手帳は出さなかった。
加藤の三通目は翌週の水曜に来た。一枚だった。
『日野様
七月三十一日、了承いたしました。学年末までという線でしたら、官房としても筋を通せます。八月一日以降の配置は、追ってお知らせします。
五項目めについて。削除されたと書かれましたので、削除されたものとして扱います。私としては読みたかったのですが、読ませないのは貴職の権利です。
粥占の件、追加があります。五月の低温が東北で続いています。まだ誰も口に出しませんが、宮司たちは正月の占いが当たりつつあると感じているようです。秋を待たず、事態は始まるかもしれません。始まっても、七月末までは官房で持ちます。持つと決めたのは私ですので、貴職が気にされることはありません。
良い初夏をお過ごしください。
加藤』
読みたかった、と書いてあった。その上で権利だと書く。官房で持つというのがどれだけの重さなのかを、日野はもう知っている。この一行にも礼は書かなかった。礼を書けば、持たれたことが軽くなる。
日野は加藤の三通を、公用の綴りに入れた。
自分の下書きは綴りには入れなかった。これは送らなかった報告であり、保管するべきものではない。それでも、手帳の一番後ろに挟んだ。
医務室で四人がまだ眠っている。目覚めまで、あと九日。考査まで、あと三週間。引継書はまだ表紙しかない。表紙の受継者の欄は、空欄のままだ。そのうち欄に名前を書き入れることになるだろう。
帰任、七月三十一日。決裁済み。
私信、一通。受領した。