マンドレイクの回復薬が仕上がったのは、五月最後の金曜だった。
医務室は順番に賑やかになった。コリン・クリービーは目覚めた三秒後にカメラを探し、ジャスティン・フィンチ=フレッチリーは目覚めて開口一番ポッターへの謝罪を口にし、ペネロピー・クリアウォーターの枕元には、パーシー・ウィーズリーが花を一輪握りしめたまま座り込んでいた。
ミセス・ノリスはフィルチの腕の中で目を覚まし、不機嫌に一声鳴いた。十月から七ヶ月ぶりの声だった。
管理人は猫を抱いたまま、しばらく顔を上げなかった。上げた時には、いつもの顔に戻っていた。戻そうとして半分ほど失敗している。
「……鏡の角度、今朝も見て回ったぞ」
「助かる」
「一枚もずれておらんかった」
「知ってるよ。あんたが磨いた鏡だからな」
フィルチは鼻を鳴らし、猫の背を撫でた。撫でる手が七ヶ月分ゆっくりだった。
ハーマイオニー・グレンジャーの覚醒後第一声は、記録しておく価値があった。
「私の紙!!」
日野は預かっていたそれを本人の手に返した。獣譜の頁と、余白の「配管」の一語。彼女は自分の字を確かめ、それから事件の顛末を三人がかり(ポッター、ウィーズリー、日野)で聞き、途中で一度だけ遮った。
「待って。……それ、いつの話?」
「四月十二日」
「一ヶ月半も前じゃない」
答えを握ったまま眠っていた子は、起きてみたら、答えが要る日がとうに過ぎていた。聞き終えて彼女は枕に沈んだ。
「間に合わなかったのね、私」
「いや、読ませてもらった。……勝負ありだ。君の勝ちでいい」
「……勝負?」
グレンジャーは、きょとんとした顔で問い返した。
「九月の頭から君がやってた方の勝負。彼は足で調べる、私は紙で調べる、どちらが先に着くか。……そういうやつな」
グレンジャーの顔が、見ている間に耳まで赤くなった。
「な、なんで、それ、先生が――いつから知って――」
「すまんが、守秘義務だ」
ほとんど首無しニックへの伝達は、手帳の頁の通りに履行した。十二月から数えて半年近く待たせた履行である。
遮蔽効果による人命保全の功績認定を読み上げると、五百年ものの幽霊は真珠色のまま絶句した。感謝状は様式問題(幽霊は紙を保持できるか)を額装の上、壁掛けで解決済みであることを伝えた。そして最後に一通の書状を額に入れて手渡した。手渡せないので壁に掛けた。
推薦状。宛先、首無し狩り猟団長。件名、ミムジー=ポーピントン卿の入団審査について。……貴団の掲げる勇武の徳目に照らし、当職は本候補を強く推薦する。半インチの皮で繋がった首は、五百年分の従軍記録であるものと認められる。
「……ヒノ教授」
ニックは、幽霊が泣けるものなら、という顔で言った。
「私は五百年、この首を恥じておりました。それを、そのように……」
「事実の評価を変えただけです。事実は最初からそうだったんだ」
六月の頭、日野の机の上には紙が二枚載っていた。
一枚目は皺だらけの羊皮紙だった。欄外にケトルバーンの細い字で添え書きがある。数は概ね正確。私の手足は無事。
『五月分 大人、二百八。子ども、六十一。たまご、ま引いた。のこり九十四。杭と糸、ぶじ。』
二百八。数えたのだ、あの男は。窪地の斜面を一匹ずつ。日野は受付印を捺し、綴りに入れた。月次報告、第一号。
二枚目は日野自身の起案だった。
『石化被害生徒等の期末考査免除について
一、対象 本年度、石化の被害を受けた生徒四名。及び、四月の拉致事案の被害生徒一名。
二、措置 期末考査を免除し、学年末評価は四月までの平常点をもって算定する。』
回覧に回し、職員会議は二分で通した。医務室に届けると、石化していた生徒たちは歓声を上げた。クリービーはカメラを掲げ、フィンチ=フレッチリーは拝むように手を合わせる。ウィーズリー妹は寮監から説明を受けて、黙って小さく頷いたという。それでいい。受ける権利も、権利だ。
歓声を上げなかった生徒は、翌朝に部屋の扉を叩いた。叩き方で分かる。三回。等間隔。几帳面な拳だ。
「免除を辞退します」
グレンジャーは入ってくるなり言った。椅子を勧める前だった。
「辞退の様式はないよ」
「では、作ってください」
日野は顔を上げた。
「ヒノ先生はいつも、様式がないなら作ると仰っています。私は先生の授業を九月から全部記録しています。四十一回です」
四十一回。数え方までこちらの流儀だ。日野は引き出しから白紙を一枚出し、定規を当てて罫を引き、頭に書いた。期末考査免除辞退届。氏名欄。辞退の理由欄。
「理由欄は一行でね」
紙を渡すと、グレンジャーは受け取るなり書き始めた。止まらない。一行目で欄を越え、二行目で余白に入り、三行目で裏に回ろうとした。
「待った。長い」
「でも、理由が――」
「いいかい、人に読ませたいなら可能な限り簡潔に、事実のみを書くべきだ。それで足りなく感じるのは、理由じゃなくて言い訳。もしくは不信だ。読み手を何も信じない文章は読まれないよ」
彼女は唇を噛み、書いた分に二重線を引いた。長いこと紙を睨んでいた。それから一語ずつ、ゆっくり書いた。
辞退の理由:勉強したので。
日野はその一行を読んだ。九月から四月まで、この子は勉強した。二ヶ月眠っていた間の分は取り戻せない。取り戻せない分を平常点で埋めてもらうことを、わざわざ口に出して断る。四月までにやった分を、四月までにやった分として測られたい。そういう一行だ。
「うん。いいね。十分だ」
日野は受付印を捺した。
「免除は権利で、放棄できる。……今日様式ができたから、来年から誰かが使えるな」
グレンジャーは深々と頭を下げ、それから扉の前で振り返った。
「先生。答案は返していただけますか」
「欲しければ朱も入れるけど」
「ありがとうございます。どこを間違えたか、知りたいので」
それだけ言って彼女は出ていった。点数ではなく間違えた場所を知りたいらしい。試験を終わりではなく続きだと思っている子の発想だった。
試験前最後の一コマは、全学年同じ内容にすると決めていた。
九月に全学年を三動作から始めた。距離を取る、遮蔽に入る、大人を呼ぶ。杖は三回目まで使わせなかった。もちろん、学年が上がるほどに果たすべき責任に合わせて内容は変えたが、基本的には同じことを言った。それから盾、武装解除、失神、拘束。学年ごとに段を上げ、五月までに一通りの実戦訓練を回した。
千人も教えていれば変人は一ダースではきかない。変人といっても色々な種類がいて、特定の呪文にだけ凝っていたり、余人に再現不可能な法則を持っていたりする。
ウィーズリーの双子は、拘束呪文を二人で交差させて張る「二人一組の拘束」を勝手に編み出し、利用の申請書付きで報告してきた。内容を検討したが、存外実効性が高そうだ。写しを取ったので今度本省の警備課に見せておく。申請は却下した。成人までは正規の運用を学べ、とコメントした。
一年生のレイブンクローに、ラブグッドという子がいた。三動作の一つ目で、誰もいない方向へ見事な距離を取った。何から離れたのか尋ねるとラックスパートですと答えた。
日野はラックスパートを寡聞にして知らない。ケトルバーンとハグリッドに、ついでにマクゴナガルにも確認したが、そのような名前の生き物は居ないそうだ。記録には「理由、本人談」と書いた。距離の取り方自体は学年で一番きれいだった。
六年生のウッドは、盾の呪文をクィディッチの陣形に組み込んだ作戦図を防衛術の課題に提出してきた。変人たちの中でも、防衛術の課題にクィディッチの作戦図を出してきたのは彼だけだ。
日野はじっくりと目を通した。守備戦略として筋が通っている。トヨハシテングは長年、防御に課題がある。ウッドにオファーを出させる方法が無いか考えたいところだ。課題を見たマクゴナガルが通りすがりに五点、加点していった。
試験に出るものは、全部出した。だから最後の一コマでは、試験に出ないものをやる。
二年生のグリフィンドール・スリザリン合同では、問いを出した瞬間にポッターとウィーズリーが目を見合わせた。あの二人には答えを言う必要がない。地下で見てきたから。
その週の最後に回ってきたのが、四年生のレイブンクロー・ハッフルパフ合同だった。
「よし、教科書は閉じて。羽根ペンも置いていい」
教室が一瞬ざわついた。置いていいと言われて羽根ペンを置いたのはハッフルパフの半分で、レイブンクローはほぼ全員が握ったままだった。寮の性格というのはこういうところに出る。
「今日は防衛術の教師じゃなくて、一人の警察官として話させてもらう。だから今日の分は試験に出さない。ひょっとしたら一生役に立たないかもしれない。それが一番いい」
日野は教壇を降り、机の列の間を歩き始めた。
「試験に出るから覚えることと、命に関わるから覚えることは、別の話だ。今日の話はその後ろの方。たとえ試験に出なくても絶対に覚えること。理由は、忘れた者から死ぬから。じゃあまず質問をひとつ」
足を止めた。
「こっちを害する気のある奴がいる。そいつの前に、人間が二人いる。一人は、そいつが用のある人間。もう一人は、用のない人間。たまたまそこに居合わせただけの人間だ。そいつは二人を同時に視界に入れた。……どっちを先に始末すると思う」
沈黙が落ちた。考えている沈黙だ。
最初に手を挙げたのは、レイブンクローの前列の女子だった。
「用のある方です。邪魔が入る前に目的を果たすのが、合理的です」
「はい不正解」
女子の手が挙げた形のまま固まる。九月に二年生の教室で同じ形で固まった子がいた。今は辞退届を書いて、閉館まで図書館にいる。
「他は」
ハッフルパフの後列で野太い女子の声がした。
「じゃあ……逆に、用のない方ですか。いや、なんとなくですけど」
「正解。なんとなくで当たる奴は長生きするぞ」
教室が首を傾げた。日野は黒板の前に戻った。
「用のある方は、用が済むまで生かしておく価値がある。人質なら交渉の材料になる。証人なら喋らせる必要がある。用が済むまでは、殺したら損なんだ。……用のない方には、逆ね。生かしておく理由が一つもない。顔を見られている。逃げたら人を呼ばれる。目的を果たす邪魔になる。だから先にやっちまえ、となるわけだ」
チョークを置いた。
「俺が日本で担当した事件の話をしよう。細かいところは削るよ。ある店に男が一人立てこもった。男の用は店主にあった。金の話だ。店には、奥でその日の売上を数えてた若い手代が一人いた。男は手代の名前も知らない。用もなかった」
教室は静かだった。
「最初に呪われたのは手代だった。店主は三時間生きてた。俺たちが踏み込んだ時、店主は無傷だった。手代は、助からなかった」
誰も羽根ペンを動かさない。レイブンクローの全員が、握ったまま止めている。
「この城にも例がある。五十年前、ここで生徒が一人死んでる。泣いてて、物音がして、文句を言おうと扉を開けた。それだけだった。誰も彼女に用事なんてなかった。……今年地下で見つかった一年生は、犯人にとって用のある方だった。だから半年あまり生かされた。用が済む寸前で、間に合ったんだ」
黒板に三行書いた。
『一、自分がどちらか、最初の一秒で考える。
二、用のない方なら逃げる。庇わず、残らず、見ないこと。
三、用のある方なら時間を稼ぐ。用が済むまでは生かされる。』
「以上」
チョークの粉を払った時、ハッフルパフの中ほどで手が一本挙がった。背の高い少年だ。挙げ方に迷いがない。顔には納得していないと書いてある。
「友達が用のある方で、自分が用のない方だったら、どうするんですか。……置いて逃げるんですか」
教室の空気が少しだけ変わった。ハッフルパフの列が一斉に日野を見た。誠実を旨とする寮の、一番痛いところを突いた問いだ。日野は少年を真っ直ぐに見た。
「発想を変える必要があるな。置いて逃げるんじゃない。呼びに行くんだ」
黒板の三行の横に、もう三行を書いた。九月の最初の授業と同じ字で。
『一、距離を取る。
二、遮蔽に入る。
三、大人を呼ぶ。』
「最初に教えた三動作の、三つ目だ。一年かけてここに戻ってきた。……いいかい。用のない方が残って庇えば、二人とも死ぬよ。でも用のない方が生きて逃げて大人を呼べば、用のある方は時間を稼いでる間に助かるかもしれない。可能性の話だ。どっちが友達のためになるかは、分かるだろう」
少年は黙っていた。黙ったまま、黒板の六行を見ていた。それから言った。
「でも、それは……公平じゃない気がします。友達だけ残して」
「公平ってのは、二人とも生きてる時に使う言葉なんだ」
日野は言った。
「一人が死んだら、公平も不公平も永遠に分けようがない。分けたいなら、二人とも生きてろ。そのために逃げろ。それは恥じゃない。明日、二人揃って笑うための手段なんだ」
少年は長いこと日野を見ていた。ゆっくりと羽根ペンを動かして、黒板の六行を書き写した。一字ずつ、丁寧に。最後の一行を書き終えるまで、日野は次の話に移らなかった。
終業の鐘が鳴った。生徒たちが出ていった後、日野は教卓で出席簿を開いた。授業記録の欄に、いつもの通りに書いた。四年生、レイブンクロー・ハッフルパフ合同。出席、全員。発言者、S・フォーセット、H・マカヴォイ、C・ディゴリー。
二年生の期末考査は、九月に初めて授業をした同じ教室でやった。日野は監督席に座り、配り終えた問題用紙の控えを一枚手元に置いた。一年かけてこの一枚に何を載せるかを考えてきた。
『闇の魔術に対する防衛術 期末考査(二年)
次に挙げる架空の事件三つについての記述を読み、各設問に答えよ。
■事例一
ある教師が授業にて、捕獲した小妖精(コーンウォールのピクシー)二十匹を教室で一斉に解放した。教師は自ら杖を振ったが効果がなく、混乱の中で退室し、生徒に「後は籠に戻しておくように」と指示した。
問一 教室に残された生徒として、杖を抜く前にとるべき動作を三つ、順に記せ。
問二 教室からの退避を検討する際、解錠呪文(アロホモーラ)を唱える前に確認すべきことを述べよ。本教室を例とし、扉以外の経路もすべて挙げること。
問三 教室に残された生徒は、誰に、何を、いつ報告すべきか。事態の全容が判明してから行うべきか。理由とともに述べよ。
■事例二
クィディッチの試合中に腕を骨折した生徒に対し、居合わせた教師が医務室へ運ぶ前に治癒呪文を試み、腕の骨を消失させた。生徒は後に「大丈夫だと言われたので断れなかった」と述べた。観客の一人は「紫の閃光を見た。治癒呪文だった」と証言した。なお同教師は当日朝、医務室の担当者に対し「骨折治療の心得」と題した助言文書を送付していた。
問四 観客の証言をそのまま記録してはならない理由を、呪文の光の色に関する知識を用いて述べよ。
問五 教師や見知った顔の大人からの指示であっても、従うべきでない場合とは何か。ポリジュース薬の存在を踏まえ、「ご両親に頼まれて迎えに来た」と告げられた場合の対処を例に述べよ。
問六 杖を向けられて「動くな」と言われた。盾の呪文と武装解除の呪文、それぞれを用いるべき場面を一つずつ挙げよ。
問七 教師から「この件は誰にも言うな」と約束させられた。破れぬ誓いと通常の口約束の違いを述べ、後者において守ることで自他の身に危険が及ぶ場合、その約束は守られるべきか論ぜよ。
■事例三
ある著述家は自著に記した功績が他人の手柄であることを隠すため、当事者に忘却術(オブリビエイト)を施していた。著述家は事故で自身の記憶を失い、所持品から元の持ち主の分からない古い書物一冊と装身具一点が見つかった。
問八 持ち主の分からない書物・装身具を拾った者が、呪いの有無を見分ける方法を述べよ。また、見分けがつかない場合の処置を述べよ。
問九 忘却術、服従の呪文、あるいはそれに類する支配を受けた者に現れる徴候を挙げよ。また、支配の解除が一見「快方」として現れる場合があるか、論ぜよ。
問十 視線を媒介として精神に干渉する術、及び視線を媒介として害をなす魔法生物への備えとして、直視を避けて前方を確かめる方法を二つ挙げよ。』
顔つきは魔法学校の試験にした。副校長に確認したところ、事例問題という形式は主に上級生の考査で使われているという。呪文の名前も魔法生物の名前もちゃんと入っている。
実際に問うていることは、二十一年の現場の話である。
事例一は、教室の話だ。
問一は三動作で、相手がピクシーでも継承者でも答えは変わらない。問二の本体は呪文ではなく後半にある。窓が四つ、暖炉が一つ、扉が一つ、本棚の裏の扉が一つ。出口を一つしか知らない部屋には長居するな、を解錠呪文の衣で包んだ。問三の答えは一つしかない。全容を待つな。一枚目から出せ。教師が退室した教室で、生徒が全容を把握してから報告しようとしたら、把握する前にピクシーに吊るされる。
事例二は、大人の話だ。
問四は取調室で一番多く聞いた間違いである。紫の閃光は治癒呪文にもあるし、そうでない呪文にもある。見たのは光で、呪文の名は思っただけだ。見たことと思ったことを混ぜて話す証人は悪気なく人を吊るす。問五は日本で毎年同じ手口で子供が連れて行かれた。魔法界では顔そのものが薬で借りられる。借りた顔で他寮に潜り込もうとした生徒が今年この学年に三人いることを、日野は四月に受理している。三人のうち一人はいま窓際の席で問題用紙を待っている。
問六は杖を向けてくる大人が教師でも、盾は盾だ。問七は半年あまり一人の子を黙らせた声へ、答えのつもりで書いた。破れぬ誓いは魔法的に最も重い約束だ。それ以外の約束で、誰かの命より重いものはない。大丈夫だと言われたので断れなかったという一文を事例に入れたのは、断っていい相手がいることを全員に知らせるためである。
事例三は、拾い物と頭の中の話だ。
問八は一月に誰かが拾った本の話である。模範解答は一行しかない。開けるな。届けろ。問九の後半を書いた夜のことはよく覚えている。良くなった子供は、悪くなった子供と同じだけ見なければならない。三月の面談記録の欄外に、自分で書いた一行だった。問十は今年この城で覚えた。
事例の人物はあくまでも架空である。書きながら顔を当てていた。去年の八月に温泉町の座敷で逮捕状を突きつけ、自伝を全部読む羽目になった相手の顔だ。試験問題と模範解答を用意し終えて、日野はその男に少しだけ感謝した。逮捕しなければ、この城ではこの三つ以上の事件が起きただろう。副校長は問題文を読んで、「どこかでありそうな話ですね」とだけ言って通した。
用紙をめくる音が、教室に広がった。
窓際の列の三番目の席。グレンジャーが問題用紙を表に返した。事例一を読み、問一を読み、問二で羽根ペンが止まった。本教室を例とし、扉以外の経路もすべて挙げること。
九月、この教室の出口の数を訊かれて、グレンジャーは一つと答えた。日野から不正解を指摘されたときの表情はよく覚えている。答えも覚えているはずだ。窓が四つ、暖炉が一つ、扉が一つ、本棚の裏の教員用の扉が一つ。合わせて七つ。九月のあの日、彼女は猛烈な速度でそれを書き留めていた。書き写せばそれで済む。
グレンジャーは羽根ペンをまだ紙に下ろさなかった。
顔を上げた。窓を数え、暖炉を見て、入ってきた扉を振り返り、それから本棚の方へ目をやった。九月に教わった数ではなく、今日のこの部屋の数を、もう一度自分の目で数え直している。数え終えて、ようやく羽根ペンが紙に降りた。
日野はその手元を見なかった。見なくても分かる。九月の不正解が今日の問二になって、あの子の手の下にある。
採点は朱で入れる。どこを間違えたか、本人が知りたがっているので。