二年生の答案の束は、事例一の問二でほぼ二つに割れた。扉と窓を書いて止まった者と、暖炉と本棚の裏まで書いた者。九月の授業を覚えているかどうかの問題ではない。数え直した者と、数え直さなかった者の差だ。
グレンジャーの答案は九問が満点だった。一問だけ落としている。事例一の問三。教室に残された生徒は、誰に、何を、いつ報告すべきか。
彼女はこう書いていた。不正確な報告は混乱を招くため、全容を把握し、裏付けを取ったうえで正確に別の教師へ報告すべきである。
几帳面な字だ。論理も通っている。一年にわたり調べ続けた子の、一番その子らしい誤答だ。
日野は日付を数えた。報告は一枚目から出せと教えたのは四月九日の夜、森から戻った二人相手に小屋で聴取した時だ。この子はその前に図書館の前で石になっていた。いなかった日に教えたことだけを、この子は間違えた。
日野は朱で書いた。
『否。四月九日の範囲(君は欠席)。全容は一枚目の報告を出した先にしか見えない。報告は一枚目から出すこと。』
答案を返すと、グレンジャーは事例一・問三のコメントを三回読んだ。それから顔を上げた。
「欠席した日の講義録を貸していただけますか」
「あー、授業じゃなくて聴取で言ったんだ。ノートはないよ」
「じゃあ、どこにありますか?」
「ポッターとウィーズリーの反省文」
グレンジャーは生まれて初めて、教科書に裏切られたような顔をした。ウィーズリーの反省文を教材として読む日が来るとは思っていなかったらしい。それでも夕方には、図書館で二人の反省文を広げている姿が目撃された。書き直しの朱まで一語ずつ写していたという。
マートルの死亡記録は日付を待って書いた。
六月十三日。
五十年前のこの日、彼女は二階東の女子トイレで死んだ。記録を作るならこの日付でなければならない。そう決めて、日野は書式を十日前から机に伏せておいた。四年生の教室では、名前を出さずにマートルの話をした。今日、その子に名前と日付を返す。
「あら、先生。……なあに、まだ何かある? 事件、もう終わったんでしょ」
「ああ、終わったよ。終わったから最後に一つ。君の、フルネームを教えてくれ」
マートルは水面の上できょとんとした。
「フルネーム? ……なんで?」
「仕事で要る」
彼女は怪訝な顔のまま、それでも答えた。五十年、誰にも訊かれなかった問いだったのだろう。名乗る声は途中で少しだけ、つっかえた。
「……マートル・エリザベス・ウォーレン。よ」
日野は持参した書式にその名を書き入れた。書き終えた紙を彼女に見えるように、洗面台の上に広げた。
『死亡記録
氏名:マートル・エリザベス・ウォーレン
死亡日時:一九四三年六月十三日
死亡場所:ホグワーツ魔法魔術学校 二階東・女子トイレ
死因:バジリスクの視線直撃による即死
加害者:T・M・リドルの使役した個体による。使役者の生死は不明。本年四月、その一部が消滅。
特記事項:本件死亡につき、被害者に一切の落ち度なし。
記録者:日野道広(闇の魔術に対する防衛術)
記録日:一九九三年六月十三日(死亡より五十年)』
マートルは騒がなかった。五十年分の癇癪の女王が水面に浮いたまま、静かに一行ずつ読んだ。分厚い眼鏡の奥の目が、特記事項の行で止まった。
「……私」
小さな声だった。
「ちゃんと、死んでたのね」
「ああ。ちゃんと死んでた」
日野は言った。
「事故でも、君のせいでもなく、ちゃんと殺されていた。書類が追いつくのが、五十年遅れた。……悪かったな。遅くなって」
人が死んだら書類を作る。たったそれだけのことが、五十年間この城でされていなかった。今日でそれが終わる。
特記事項の一行は、五月に既に一回書いている。ジニー・ウィーズリーの供述調書の、同じ欄に。本件につき、被害者に一切の落ち度なし。五十年を隔てた二人の女子生徒の紙が、同じ一行で閉じた。片方は死亡記録で、片方は供述調書だ。その差を作れたことだけが、この一年の、黒字の勘定として載っている。
「写しに防水の符を打って、額に入れて、ここの壁に掛けておくよ。……ここは君の家だからな。家には、家の者の記録があっていい」
マートルは長いこと黙っていた。それから精一杯いつもの調子を装った、装いきれていない声で言った。
「……変な、先生」
「よく言われる」
校長室の合言葉は、六月分に替わっていた。
「……水無月」
石像が滑る。階段を上がると、復職した校長は机の向こうで両手の指を組んでいた。
「おお、ミチヒロ。今月の合言葉は分かったかの。水無月というのは京都の菓子でな、六月の晦日に食うのじゃ。氷室の氷に見立てた外郎の上に小豆を――」
「知ってます。今日は最終報告に上がりました」
「……ふむ。菓子の話はまた今度じゃな」
報告は三十分で終えた。事件の全容、処理の状況、ハグリッドの件、記録の復元。ダンブルドアは一度も遮らずに最後まで聞いた。
日野は最後に、二枚の紙と、布に包んだものを一つ、机に置いた。事件処理簿。鑑定書の写し。そしてバジリスクの牙。
「凶器の一部です。ご存知の通り、部屋はいったんポッターに閉じさせました。これは校長預かりにしていただきたい。当職の管轄では、これ以上の用途がない」
老人は布を開き、牙を見た。処理簿の被疑者欄で目を止めた。T・M・リドル。一九四〇年代の在校生。現在の生死、不明。それから鑑定書を読んだ。一項目めで読む速度が落ち、三項目めで止まった。
この種の器が単数で作られた例を、当職は知らない。自らを分ける者は、焼かれた時に備えて必ず複数を作る。
長い沈黙だった。三月に上申書を読ませた時の沈黙とは質が違う。あの時は知っていることを確かめていた。今日の老人は、知らなかったことに行き当たっている。
「……ミチヒロ」
ダンブルドアは顔を上げなかった。
「被疑者欄の、この生死不明という記載。なぜ死亡と書かなんだ」
「鑑定書の四項目めです。器を何枚も作る者は、死なないために作る。作った本人が死んでいる根拠はどこにもなかった」
「……そうか」
老人は鑑定書を机に置き、指で端を揃えた。揃える必要のない紙の端を、二度揃えた。
「一つ、お主の知らんことを教えよう。トム・マールヴォロ・リドルという生徒はな、この学校を出てのち、別の名を名乗った」
日野は黙って待った。
「ヴォルデモート卿。この国の魔法使いが、今も口にせぬ名じゃ」
日野の頭の中の棚で、何冊かが同時に落ちた。
着任前の研修で聞いた名である。英国の闇の魔法使い。貴族主義のテロリスト。十二年前、一人の赤ん坊を殺し損ねて消えた。死んだのか、ただ消えたのかは、誰も書類にしていない。その赤ん坊が今は二年生で、地下で剣を握っていた。
日野は鑑定書を頭の中で読み直した。三項目め、四項目め。今度はその名を被疑者欄に入れて。
器は複数ある。作った者は死なないために作った。そしてその者は、十二年前に消えたことになっている。
「……生死不明の欄は、正しかったわけですか」
「正しすぎるほどにのう」
ダンブルドアはようやく顔を上げた。半月眼鏡の奥の目は、九月から見てきたどの目とも違った。何かを決めた者の目だった。
「わしは疑い始めておったところじゃ。日記の報せを受けた夜からな。……お主の紙は、わしの疑いに名前をつけてしもうた」
老人は羽根ペンを取り、鑑定書の余白に書いた。
『受理。A・ダンブルドア』
署名した。
三度収受して一度も発出のなかった校長室から、初めて判の捺された紙が出た。日野はそれを受け取り、インクが乾くのを待ってから畳んだ。
「写しは日本にも行っておるのじゃな」
「行ってます。四月の報告に綴じました。送った時点で、俺の手を離れてますが」
「……それでよい」
老人は窓の外を見た。
「一つの国だけが知っておる秘密より、二つの国が知っておる事実の方が強い。わしは長いこと、一人で抱える方を選んできた。……年寄りの悪い癖じゃ」
それから声の調子を一つ落として、ダンブルドアは言った。
「五十年前、この城で生徒が一人死んだ。わしは止められなんだ。今年は」
半月眼鏡がこちらを向いた。
「今年は、出なかった」
「……運が良かっただけです」
「幸運ではないぞ、ミチヒロ」
老人の声は静かで、これまで聞いたどの声よりもまっすぐだった。
「鏡があった。訓練があった。点呼があった。手鏡を握って倒れておった子は確かに生きておった。半年あまり耐えた子が、地下で生きて見つかった。幸運というものはな、準備をした者の仕事に後から貼られる札のことじゃよ。幸運ではない」
日野は何も言えなかった。代わりに深く一礼だけをした。それが受け取り方として一番正確だと、この一年で学んでいた。
「さて。来年度の話じゃがな」
ダンブルドアは、机の抽斗から一枚の羊皮紙を出した。
「その前に一つ、白状せねばならんことがある。この城の防衛術の教授職には、少々性質の悪い縁起があっての」
「縁起ですか」
「一年で必ず、その職を続けられなくなる。形は色々ある。死ぬる者、去る者、病む者。三十年近く例外なしじゃ。君の前の前はクィレルで、彼は死んだ。お主の前は――」
「ロックハートですか」
「そう。ギルデロイ・ロックハートは」
老人の眼鏡の奥が、悪戯に光った。
「着任する前に、お主に逮捕された」
日野は顔を上げた。
「わしはな、ミチヒロ。あの報せを受けた朝、たいそう驚いたのじゃ。三十年もの間、誰も逃れられなんだ縁起の取り立てが、あの男には届く前に済んでしもうた。日本の警察の、一枚の逮捕状でな。つまりじゃ。縁起より速く動く紙が、この世にはある」
だからあの晩の稟議があの速さだったのか。一年越しに腑に落ちるものがあった。この爺さんは詫びの品を受け取ったのではない。実証実験の続きを雇ったのだ。
老人は、羊皮紙を机の上で滑らせた。
起案書。新設職・保安顧問の設置について。職務:校内の危機管理、保安体制の構築、および護身実技の指導(外部講師として)。
「肩書きが変わるだけじゃよ。防衛術の教壇には来年度、別の者を座らせる。座る椅子に縁起があるなら、椅子だけ毎年替えればよい。――縁起より速く動く紙がある。それを書ける者に居てもらえれば、と思うてな」
日野は起案書を書式から検分した。日付。発議者。決裁欄。既に、理事の署名が半数埋まっている。役所は役所を落とす時、逃げ道を先に全部塞いでから世間話を始める。同じ手順を使う男を、日野はもう一人知っている。稟議を前の日に下ろしておく男だ。
ありがたい紙だった。よく書けている紙でもあった。
日野は起案書を、机の上で校長の方へ押し戻した。
「帰ります」
ダンブルドアは驚かなかった。今日はその様子を書き留める気にならない。日野は懐から一枚の紙を出し、起案書の横に置いた。本省官房気付、加藤企画官発。帰任、七月三十一日付。決裁済み。
「副校長から聞いているでしょう。五月に召還が来ました。業務未了を理由に、学期末まで延ばしてもらった。それ以上延ばす理由がありません」
「確か、帰任は乞われておったな。ならば、わしも乞う側に回れるわけじゃ」
「ええ。それでも答えは変わりません」
日野は言った。
「呪いで降りるんじゃない。辞令で降りる。そういう降り方をした防衛術の教師が、三十年に一人くらいいてもいいでしょう。……それに、家に娘がいます。手紙の返事に一行しか書かない娘ですが、一行は書いてくるんです」
老人は長いこと日野を見ていた。それから笑い声を上げ、起案書を手元に引き寄せた。
「起案中の紙の扱いは、起案者の裁量じゃったな」
それは良美と加藤に私信を書くまでに、日野が自分の中でこねくり回した理屈だ。種は知らないが、この爺さんはそんなところまで読んでいる。
月例報告の写しを暖炉の前の卓に置き続けて九ヶ月、読まれた形跡は一度もないと記録してきた。この分では、記録も訂正しなければならない。
ダンブルドアは起案書を抽斗に戻した。捨てずに。抽斗が静かに閉まった。
「では、起案中のままにしておこう。お主の国が冷えなくなる年までに。――それで、まだ他に言うことがあるという顔じゃな」
「ええ。これが最後です」
日野は懐から、一枚の写しを出した。
「昨年九月一日。空飛ぶ車の件で、ポッターとウィーズリーの弟から事実関係を聴取した際の調書です。該当箇所だけ抜いてきました」
ダンブルドアの前に置いた。聴取の日付。供述者、R・ウィーズリー。
なぜ車で行ったかについて、供述者は次のように述べた。運転方法を夏に覚えていたため。夏の間、ハリーは部屋に閉じ込められていた。窓に鉄格子が嵌められていた。扉には錠が掛かっていて、食事は扉の下の小さな差し入れ口から入れられていた。手紙を出しても返事がなかったので、兄たちと迎えに行った。その際に覚えた。
老人の指が、調書の端で止まった。
「九ヶ月、この一行を動かせませんでした」
日野は言った。
「場所は英国のマグルの住宅地で、申告者もいない。本人は被害を申し立てていない。供述はウィーズリー弟からの伝聞。刑事として、動けない条件が全部揃ってました」
「……」
「先に言っておきます。特定少年の保護と扶養は俺の管轄じゃない。俺は刑事で、もう帰るのが決まっている外国人で、あの子の保護者じゃない。引き取るつもりも、その資格もありません」
日野は二枚目の紙を置いた。
「ただ、記録したことを握ったまま帰るのも、俺の仕事に相応しくない。管轄のある大人に渡す紙なら俺が書けますから」
上申書。当該生徒の夏季休暇中の居住について。親族宅での滞在を必要最小限とし、以後の期間を、保護者の同意のもと、A・ウィーズリーおよびM・ウィーズリー夫妻の保護下に置くこと。
「夫妻には打診済みです。二秒で承諾をもらいました。奥さんの方は一秒でしたね」
ダンブルドアは長いこと、調書の一行を見ていた。
「……知っておったと言えば嘘になる」
老人は言った。
「知ろうとせなんだ、と言うのが正しいのお」
日野は何も言わなかった。言う必要のない自白というものがある。
「あの子には、あの家を家と呼んで過ごす日々が要る。理由は今は言えんが、要るのじゃ。お主の嫌いな、紙のない理由でな」
「では紙にしてください。一行で結構です」
老人は、一瞬だけ目を見開いた。それから羽根ペンを取り、上申書の余白に書いた。
『夏季の最初の二週間は親族宅にて過ごすこと。当該少年の安全のため、親族宅を家と呼ぶ期間を要する。以後は上申のとおりとする。A・ダンブルドア』
二週間。それより短くはできない、という線だった。中身は書いていないが、理由があると紙に書いた。一年前のアルバス・ダンブルドアなら、その一行も書かなかったはずだ。
「十分です」
日野は受け取り、乾くのを待って畳んだ。この日、二枚目の発出だった。
そして、辞去の間際。
「ああ、それとな、ミチヒロ。君の袖の同居人にも礼を言うておいてくれ」
日野の足が、扉の前で止まった。
「地下の始末、あれの働きじゃろう。……ときに、老婆心で言うがの。ああいう古い縁というものは、抱え方を誤るとな。わしも昔、身内のことで――支払いの利息というものは、若いうちは軽く見えるものでの、それが歳を取るとじゃな――」
「校長」
日野は振り返らずに言った。
「それは、俺の管轄ですよ」
短い沈黙があった。それから背中に、ふぉっふぉ、という例の笑いが届いた。
「……そうじゃったな。管轄は大事じゃ」
居室に戻り、洗面台の鏡の前に立った。右手の袖をまくる。
痣は消えていない。手の甲の付け根から手首の手前まで。蛇の這った跡のような青黒い、細い一筋。あれから二ヶ月、薄れもせず濃くもならず、皮膚の下にじっと身を潜めている。長くなっていないことだけはありがたい。
言い伝えを思い出す。取引をした者の体には、記録がつく。線は取引のたびに伸びる。腕を這い、肩を越え、首に至って、一周りしたら――勘定の締めだ。
祖父のそのまた祖父の代に、取引上手と呼ばれた男がいたそうだ。線が首まで残り三寸、「まだ三寸ある」と笑っていたその男は、ある朝の布団の中で唐突に終わっていたという。三寸ぶんの取引をした覚えもないままに。
線は寿命の帳面だ。首を一周すれば、帳尻が合う。残高は本人にも読めない。それが一番怖いところだ。あと何回で首に届くのか、届く前の最後の一回がどれなのか、誰にも分からない。読めないまま線と付き合っていく。今夜から先、それが日野の家計となる。
夕食の途中、袖が軽くつついてきた。催促である。二十一年、一度もなかったことだ。塩の減りも目に見えて増えた。これが行儀を売った代金か。二十一年の静かな家計は、あの夜、確かに終わった。
怖くないと言えば嘘になる。後悔しているかと言えば――それは、もっと嘘になる。
今日、洗面台の上に一枚の死亡記録を広げた。あの夜に買わなければ、赤毛の一年生は今ごろ、五十年前の少女と同じ書式に名前を書かれていた。書かずに済んだ。供述調書で済んだ。それだけで勘定は合っている。
『定期報告(第一号様式) 六月分
発:在ホグワーツ・日野
宛:官房気付・加藤企画官
一、四月発生の生徒拉致事案は解決した。
二、死者なし。石化の被害を受けた者は全員回復した。
三、詳細は別紙のとおり。別紙には、昨年十二月の当職に対する身辺照会(全十二項、照会者:当校理事)、当職の勤務場所への呪物の持込み、及び当該呪物の受領者に関する経緯を含む。
四、七月三十一日付帰任について、当校校長A・ダンブルドア氏に報告済み。氏は了承した。八月一日以降の配置について、追って指示を乞う。
以上』
三項目めに、判断は一語も書いていない。ただ事実だけを並べた。どう読み、どう使うかは向こう側の仕事だ。日野の知る限り、読めて使える人間が少なくとも本省に一人いる。書き終えて判を捺した。
学期末の郵便は、束で来た。
柏木からの私信。公務の体裁すら放棄した巻紙に、憎しみを込めてなぐり書きされている。
『七月末で帰ってくると聞いた。祭りの世話役は、今年はお前がやれ。何とか一年やったが、あれを何年もするお前のもの好きには辟易した。二度とやらん。土産は栗羊羹でいい。あと沼田が例の副本を借り出して読んでいる。もの好きが増えて困る』
加藤からの事務連絡。末尾に追伸があった。
『追伸。八月一日以降の配置は、現在調整中です。近く通知できるかと思います。鑑定書と四月以降の報告は、既に官房で回覧しております。例の者たちですが、今度は本気で面白がっております。秋を待たず、先方に一枚出す予定です。
六月に入ってからの低温と日照不足が、東北と北海道で続いております。作況はまだ読めませんが、宮司たちはなかなか興味深い顔色をしておりました。
良い夏をお過ごしください』
先方、とだけ書いてあった。日野は追伸を二度読み、公用の綴りに入れた。
笠子からの手紙。近況、梅の出来。
『帰りは七月三十一日ですね。布団を干しておきます。今年は雨ばかりで、梅が上がりません。相良さんの奥さまがまたいつもの発作で――』
梅が上がらない、と妻は書いた。作況が読めない、と加藤は書いた。宮司の顔色と妻の梅干しが、同じ夏を別の言葉で書いている。
束の中に右肩上がりの字はなかった。なくていい。あの一行は日野が五月に受領して、胸の内ポケットにある。返事はまだ書いていない。書くと決めたのは、召還の日付が決まった夜だ。
日野は便箋を出した。四月に書いた時は、書き出しを四回失敗した。今は一回で書ける。書くことは一つしかない。
『良美へ
返事をありがとう。「面白いから」呪文理論が伸びる、というのがまだよく分からないが、夏休みに聞かせてくれ。帰る日はつい先日決まった。七月三十一日だ。
体に気をつけて。
父より』
読み返した。消し線はない。線の下に隠す一文はない。隠すものも、隠す必要もなかった。封をして切手を貼った。宛先は南硫黄島。
窓の外では、六月の湖が夏の色で光っていた。城は静かで、廊下のどこかで甲冑が調子外れに歌い、遠くの森では野生の車が今日もどこかを走り回っている。机の上では、まだ白紙の引継書の表紙が、風に一度だけめくれた。
日野道広、三十九歳。当地在勤、残り一ヶ月。
私信を一通、発出した。