双子が居室に来たのは、採点を終えた日の夕方だった。今回も呼んでいないのに二人で来た。
「先生、本日は」
「一世一代のご相談に参りました」
二人とも真顔である。真顔の時の双子が一番危ないことは九月に学習済みだ。
「俺たち、店を開きます」
「ついては開業に要る紙を」
「一枚残らずご教示願いたい」
「……何の店かな」
「「悪戯専門店であります!」」
悪戯専門店。日野は茶を三つ淹れた。話が長くなる時の癖である。
「どんな場合でも必ず要るのが三枚。事業計画書、賃貸借契約書、営業許可の申請書。あとは自分で調べな」
白紙を三枚出し、雛形を書き始めた。着任時研修によれば、英国魔法省における呪文の分類はチャーム、ジンクス、ヘックス、カースの四つ。ジンクス以降は日本だとまとめて「呪い」だ。呪いを何の対策も無しに日本において行使すれば、大抵は実刑になる。
雛形に必要なのは目的、商品、資金、五年の見込み。期間、賃料、原状回復、解約の条項。業種、所在地、責任者。それから。
「安全基準の欄。ここだけは今、見てやるよ。試作品は持ってるかい?」
待っていたように、ジョージが懐から小さな紙包みを出した。フレッドが恭しく両手を添えた。
「お目にかけますは、我らが試作第一号」
「その名も、吠えるガム」
「噛めば三十秒、お口から出るのはワンワンのみ」
「会議の最中に」
「試験の最中に」
「退屈な演説の最中に!」
「お前ら、誰のことを言ってる?」
「「一般論であります」」
日野は包みを検めた。見た目はただの飴である。それが一番の問題点だった。
「治るまでの時間は」
「三十秒!」
「秒単位で保証いたします!」
「根拠は」
「フレッドで試しました」
「被験者として勇敢に、この身を捧げました」
「被験者一名は統計じゃないよ」
フレッドが胸を張った。
「三回捧げました!」
「同じ被験者で三回は、一名だ」
双子は顔を見合わせた。
「……ジョージ。統計って、何人からだ」
「知らん。先生に訊け」
「最低十名。体格も年齢も魔力もばらばらの十名。治らなかった場合の処置も書け。誰に連絡して、何を飲ませるか」
「十名!」
「十名も、どこから集めるんですか」
「それを考えるのが事業計画書だ」
ジョージが雛形を三枚、額に押し頂いてから懐に入れた。フレッドが一歩前に出た。
「では先生。開店の暁には」
「記念すべき第一号の書類を」
「海の向こうの大師匠に、お届けしても?」
「……一応、聞いとこうか。何の書類だい」
「開店のご案内と」
「安全試験、十名分の結果報告であります」
「わざわざ日本まで?」
「ふくろうは」
「海を渡ります」
「分かった、受理する。ただし、十名に俺を入れるなよ」
「「……チッ」」
同時の舌打ちだった。入れるつもりだったらしい。
学年末の祝宴が始まった。大広間の天井は夏の夕空で、四つの卓は満員である。
日野は寮杯の行方に興味が持てなかった。点はつけてきた。授業で正しく答え、正しく呪文を唱えた者に、規則の通りに。減点はほとんどしていない。他人の命を軽んじるような行動のときだけだ。校則違反を見つけた時は、家裁の連中を思い出しながら説諭で済ませた。
前夜に寮ごとの集計をしてみたら、四寮ほぼ均等で、差は十一点だった。意図しなかったから均等になった。保護対象を四つに分けてどの山が高いかを数える趣味はない。
宴の半ばで、ダンブルドアが立った。
「さて諸君。一つ、伝えねばならんことがある」
大広間が静かになった。
「闇の魔術に対する防衛術のヒノ教授は、この年度をもって、辞令のとおり任期を満了される。……ミチヒロ。最後に一言、あるかね」
日野は立ち上がった。言うことは決めてあった。三晩かけて一行に削った。削る前は三枚あったが、やめた。読む側のことを信じない文章は誰にも響かない。
「この一年間、記録を取らせてもらいました。全部、残してあります。以上です」
座ろうとして止まった。
グリフィンドールの卓で誰かが立ち、腰から上を折ったのが見えた。隣が立った。その隣が立った。ハッフルパフが続き、レイブンクローが続き、スリザリンは遅れて、それでも半分ほどが続いた。
日野は困った。千人分の礼に一人ずつ返す様式はない。祝宴が明日の朝まで続いてしまう。
こういう時は一括で処理する。もう一度まっすぐ立ち直すと、腰から上を折るいつもの角度で、一度だけ返した。頭を上げるとまだ全員下げたままだ。一括処理の返礼が届いたかどうか、確認が取れない。グリフィンドールの卓から大声が来た。
「先生! 今の、記録に残しますからね!」
双子のどちらかである。声では区別できない。笑い声が起きて、頭が上がり、祝宴が再開した。
それは俺の台詞で、使用許諾は出していないだろう。書面で抗議してやると思い、宛先をどちらにするかで悩むうちにデザートが終わった。
事件は、生き残った被害者を無事家に送り届けるまでが事件である。
ホグワーツ特急の車室で、日野は四人と同席になった。ポッター、ウィーズリーの兄妹、グレンジャー。
列車が動き出してすぐ、ポッターが訊いた。
「先生。二週間って、日数で数えるんですか。それとも、夜の数ですか」
「上申書の文言は二週間。起算日は到着の翌日。満了は七月十四日の正午。泊数なら十四泊だ」
ポッターは指を折った。十四本は指が足りない。足りない分を、隣でウィーズリー兄が貸した。
「……十四泊」
「迎えの時刻も書いてある」
「迎えに来るのは」
「アーサー・ウィーズリーさんだ」
ウィーズリー兄が胸を張った。
「父さん、遅刻したことないんだ。早く来すぎて怒られたことは、わりとあるけど」
「今回の場合、早着は様式違反にならないよ」
ポッターが少しだけ笑った。笑ってから、言った。
「……ありがとうございました、先生」
「礼はご夫妻に言いな。俺は書類を用意しただけだから」
「でも」
「礼は、言う相手を間違えると目減りするんだ。ご夫妻に、満額で言いなさい」
グレンジャーは、羊皮紙に質問を番号付きで用意していた。
「日本の魔法学校は何年制ですか。入学の年齢は。試験の制度は。寮はありますか。防衛術に当たる科目は」
「一つずつだ」
十年制。七歳で入学。十一歳で選抜を受け、残ったものだけが正式な寄宿生となる。防衛術に当たる科目はある。答えるたびに彼女は書いた。十二問目で、ウィーズリー兄が窓の外を見て言った。
「ハーマイオニー。夏休みだぞ」
「だから訊いてるのよ。学期中は石になってたんだから」
言い返しようがなかったらしく、兄は窓の外に戻った。妹は膝の上で手を組んで、同じく窓の外を見ていた。目が合うと、逸らさなかった。小さく頷いた。日野は手帳を出さなかった。今の頷きを書く欄は、どの様式にもない。
キングズ・クロスの九と四分の三番線は混雑していた。
「父さんが当てた!」
ウィーズリー兄が柱の陰から叫んだ。
「日刊予言者のガリオンくじ! 七百ガリオン! エジプトに行くんだ、ビル兄さんのとこに!」
アーサー・ウィーズリーが、照れた顔で帽子を直していた。モリー・ウィーズリーは日野を真っ先に見つけて、人混みを割って来た。
「ヒノ先生。エジプトの帰りに、日本に伺いたいんです。お礼に」
「礼は要りません。仕事をしただけです」
「そのお仕事で、娘が帰ってきたんですよ」
モリーは引かなかった。四月に娘を抱いていた時と同じ顔である。引かない相手との交渉なら二十一年やってきた。こういうときの最強の一手は、決まっている。先送りである。
「なら、別の機会に返してください」
モリーは一秒黙り、それから笑った。娘と同じ、笑ったことに自分で驚く笑い方だった。
柵の外では、バーノン・ダーズリーが口髭の下で不機嫌を煮詰めて待っていた。日野は歩み寄り、名乗り、紙を差し出した。保護者同意書。当該生徒の夏季休暇中の居住について。滞在十四泊。以後の期間、ウィーズリー家に委ねる。署名欄。
バーノンは紙を読み、日野を見た。
「……あんた、警察か」
「日本のですが」
バーノンの肩から、目に見えて力が抜けた。
「なら、関係ないな」
「ええ」
事実である。九月から十ヶ月、その事実が一番の足枷だった。足枷が、今は署名を速くしている。二秒で終わった。二十一年で見た中で一番速い署名だ。受け取った写しを、男は折らずにポケットへ突っ込んだ。
ポッターが柵の向こうからこちらを見ている。日野は頷いた。少年は指を一本立てて、それから四本立てた。
七月十四日。プリベット通り四番地。アーサー・ウィーズリーの迎えに、日野は身元保証人として同行した。同意書に書いた迎えの名前と来た人間の名前が一致することを、保証する者が要る。
アーサーは正午の四十分前に着いていた。三回怒られた実績に、四回目を足すかどうか迷っている顔だった。
「早すぎましたかね」
「正午までは呼び鈴を押さないでください。滞在が十四泊に満たなくなる」
二人は角の郵便ポストの陰で四十分待った。待つ間、アーサーは街灯の仕組みについて四つ質問し、日野は一般常識の範囲で答えた。
正午。呼び鈴を押す。玄関を開けたのは痩せた女だった。日野を見て、アーサーを見て、何も言わずに二階を指した。
トランクを持って階段を降りてきたポッターは、十四泊分痩せていたが、目は生きていた。数え終わった人間の目である。
「行くぞ、ハリー」
アーサーがトランクを取った。
日野は二階を一度だけ見上げた。廊下の突き当たり、小さい方の部屋の扉。扉の下の方に、蝶番の跡が四つ、白い塗料の下に浮いている。差し入れ口を外した跡だ。外に出て、庭からも見上げた。二階の窓枠。白く塗り直してある。塗り直した下に、釘の頭の跡が等間隔で六つ。
手帳を出し、一行だけ書いた。
『七月十四日正午、現認。窓枠に釘痕六、扉下に蝶番痕四。昨年九月一日付R・ウィーズリー供述と符合』
裏付けは取れた。使われない調書も、調書である。手帳を閉じた。ポッターが庭の道で振り返って待っていた。
「先生。ありがとうございました」
「礼の宛先はウィーズリーご夫妻だと言ったはずだが」
「二人とも言いました。おじさんにはさっき、もう一回。後は、先生だけです」
「……なら、受理する」
アーサーが、道端に停めた省の車の扉を開けた。彼の車は今も森の中を走っている。
引継書の表紙に氏名の欄を二つ作った。引継者、日野道広。受継者、空欄。通常、書類の必要事項が空欄のまま出すことは出来ない。こういうときは、欄の名前を仮に入れるのだ。受継者、後任(未定)。二十一年の手癖である。
中身は九月からの一年を順に並べた。
危険箇所台帳百四十七件。鏡三十箇所の位置図と角度表。夜間体制と点呼の手順。幽霊自警団の名簿と伝言規程。禁じられた森内の車両(保護観察中・友軍・追わないこと)。
解毒剤の備蓄量。マンドレイクの在庫。塔の封印手順。
地下水路探索記録。アクロマンチュラの頭数管理(杭と糸の位置図、若齢個体の移送手続き・係属中を含む)。期末考査免除辞退届の様式。
鑑定書と凶器(牙)一点は「別冊・校長預かり」と一行だけ記した。中身は書かない。読む資格のある者が読めばいい。
最後に一枚足した。回覧票である。
引継書は関わる者の確認を経て決裁に回す。役所の常識だ。この城にその常識はないので、作った。確認欄は十二。管理人、森番、魔法生物飼育学、魔法薬学、薬草学、呪文学、図書館、魔法史、幽霊自警団代表、副校長、校長。それと予備。予備の欄はたいてい使うことになる。
最初の管理人室で、フィルチは回覧票を裏返し、表に戻し、また裏返した。
「……印章なぞ持っとらんぞ」
「署名でいい」
「署名は好かん」
「じゃあ、本人確認が取れる印なら何でもいい」
フィルチは少し考え、足元のミセス・ノリスを抱き上げた。猫の前足をインク壺の縁で湿らせた。確認欄に、小さな足形が一つ捺された。
「……これでいいか」
「猫の足形で管理人本人の確認は取れないな」
「ならどうすりゃいい」
「いや、管理人室の確認は取れてる。それで足りるよ」
フィルチは鼻を鳴らし、鏡の角度表の頁を開いた。三十枚分、全部自分の字である。
「次に来る防衛術のやつが鏡を外せと言ったらどうする」
「外せと書いた紙を、そいつに書かせな。署名入りで。書けないなら外さなくていい」
フィルチはしばらく黙った。それから角度表の頁を閉じ、自分の机の一番上の抽斗に入れて、鍵を掛けた。
「こいつは預かっとく。写しは、あんたの方に」
「引継書に付けてある」
「……抜かりのない男だ」
足形の乾き具合を確かめて、日野は管理人室を出た。背中で猫が一声鳴いた。管理人は鳴かなかった。
森番の小屋では、ハグリッドが頭数報告の六月分を差し出してきた。
『六月分 大人、二百八。子ども、五十九。たまご、ま引いた。のこり六十七。子どものへったり由、けんか。杭と糸、ぶじ。』
「こどもが二匹減ってるな」
「喧嘩だ。二匹が、同じ雌を……」
「いや、詳細は書かなくていい。移送の手配に影響はない」
日野は理由の欄に「群れ内の自然な淘汰」と書き添え、ハグリッドの「けんか」は消さずにおいた。報告者の言葉はそのまま残す。
「確認欄だ。署名を」
「おう」
ハグリッドは羽根ペンを握りかけて、やめた。巨大な親指をインク壺に突っ込んだ。
「こっちの方が、早え」
捺された親指の跡は、確認欄を三つ跨いだ。魔法生物飼育学の欄と、魔法薬学の欄の半分が、森番の指紋の下に消えた。
「……ハグリッドさん」
「お、はみ出したか」
「今後のために覚えといてくれ。印影が様式からはみ出した場合、はみ出した欄は無効になるんだよ」
「そいつはすまねえ」
「いや、予備の欄がある。一つは使うと思ってた。……それと、杖の件だが。申立はもう出してある。省は三度は突き返すだろうが、そのたびに副校長が出し直す手筈だ」
「四度目で通るものかね」
「俺の経験ではな。通らないのは、出すのをやめた時だけだ」
ハグリッドは親指を布で拭きながら、しばらく黙っていた。それからロックケーキを一つ、日野の懐に押し込んだ。断る暇はなかった。九月から、この男の差し出すものを断れた例がない。
魔法生物飼育学の欄は親指の下に沈んだので、予備の欄をケトルバーンに回した。老人は飼育小屋の脇で、義手の指に羽根ペンを挟んで、自分の書類を書いていた。
「森番は昔から、ああやって捺すのですよ。私のサイン欄も半分は親指の下だ」
老人は予備の欄に署名した。義手の署名は震えなかった。震えないように、長いこと練習してきたのだろう。
「ヒノ教授。私の方も、確認を一枚いただけますかな」
差し出されたのは、退職届だった。
『本年度末をもって退職する。理由、残った手足と過ごす時間を増やすため。』
「……正直ですね」
「あなたの書き方を真似たんですよ。職員室で何度も見たのでね。理由は一行、事実だけ」
「これに確認欄は要らないでしょう。退職届は本人が出すものなんだから」
「いえね、こうも長いこと務めていると、せめて見届けた者が欲しいものでしてな。せっかくなのでお願いしますよ。同じ年に辞める者同士じゃありませんか」
日野は退職届の余白に、日本語で小さく書いた。
『閲。日野』
「これは、どういう意味の字ですかな」
「確認でも承認でもなく、単に見た、というだけの印です」
「それが一番欲しかった」
老人は退職届を懐に入れてから嬉しそうに言った。
「来年から、バジリスクの抜け殻を部屋に飾れます。手足の心配なく、ね」
地下の研究室で、スネイプは回覧票を受け取らなかった。机の上に置かせ、指一本触れずに上から読んだ。
「吾輩が確認する理由は」
「解毒剤の備蓄。四月に準備をお願いした分です。数量と保管場所が引継書の十四頁にある。管理者はあなただ」
「知っている」
「知っていることを、確認してもらいたいんですよ」
スネイプの唇の端が、片方だけ上がった。
「この欄は、半分が森番の指紋で埋まっているが」
「残り半分で足ります」
「……愚かしい」
それでも羽根ペンは動いた。欄の残り半分に、これ以上小さくは書けないという大きさで、頭文字が二つ。S・S。
回覧票を返さずに、スネイプは言った。
「九月に吾輩は、この職は一年と保たぬと言った。辞めるか、消えるか、死ぬかだと」
「ええ。統計は取ってありますか、と訊きました」
「では、辞任が一件増えることになりますな」
「満了です。辞任とは欄が違う」
黒い目が、初めて回覧票から上がった。
「……吾輩の統計に、その欄はない」
「なら、一件目です。結局、あなたの言うとおり四つめの統計になってしまいましたね」
肩を竦める日野を、スネイプはしばらく黙って見ていた。それから鼻を鳴らし、回覧票を滑らせてきた。日野が礼をすると顎の先を一度だけ下げた。九月より、たぶん二秒長かった。
薬草学、呪文学、図書館の欄は、温室と階段と閲覧室で、それぞれ五分で埋まった。スプラウトはマンドレイクの在庫表を見て「来年は二鉢増やしますよ」と言い、フリットウィックは塔の封印手順の頁に誤字を三つ見つけて甲高く喜び、ピンスは署名と引き換えに請求書を出した。頁を一枚破られた獣譜の補修費。請求先の欄は空いていた。日野が自分の名前を書くと、破った生徒の名前は、司書も訊かなかった。
魔法史の欄は手間取った。
ビンズ教授は去年の秋に一度署名をしている。禁書の閲覧許可証に。本人が覚えているかどうかは別の問題である。
「教授。探索記録の、五十年前の証言部分です。確認の署名を」
ビンズは回覧票に手を伸ばした。半透明の指が半透明の羽根ペンを摘まみ、そのまま確認欄にペン先を下ろそうとした。
「読んでからにしてください」
ペン先が、紙の一寸上で止まった。
「……読む?」
「去年の秋、読まずに署名した許可証で禁書が一冊出ています」
「記憶にありませんな」
「まあ、署名は残ってますので」
幽霊の教授はしばらく黙り、それから生きた人間のように唸って、回覧票を目の高さに引き寄せた。日野は該当頁を開いて見せた。一九四三年、女子手洗いは慎みの観点から捜索の対象外。証人、C・ビンズ。
「事実ですな」
ビンズはそこまで読み、それから引継書の表紙に目を移した。引継者の欄。読まずに署名する者は表紙を見ない。読む者は、表紙から見る。
「……ミチヒロ、ヒノ。ミスター・ヒノ」
これまで一度も合わなかった名前が、紙の上から読まれて合った。最初から読ませればよかったのだ。九月から、ずっと。
幽霊自警団代表の欄は、首無しニックの口頭確認で埋めた。ビンズ教授は署名ができるが、この騎士は額の件で試した限り、紙を保持できない。幽霊にも個体差があるらしい。名簿の頁を読み上げると、五百年ものの騎士は背筋を伸ばして「相違なし」と答え、それから付け足した。
「猟団から返事が来ましてな。審査は来年だそうです。書類は受理された、と」
「受理されたなら、半分は通ったのと同じです。残りの半分は、審査の日に首を落とさずに行くことですよ。その皮がなくなったら、推薦状の理屈が立たんでしょう」
ニックは首ごと大笑いした。首が、半インチの皮の上で盛大に揺れた。
副校長室に着いた時、回覧票の確認欄は、猫の足形と、巨大な親指と、頭文字二つと、幽霊の筆記体と、口頭確認で埋まっていた。
マクゴナガルは表から裏まで読み、眼鏡を外し、また掛けた。
「ヒノ教授。これは」
「確認欄です。様式は自由、と九月に校長から伝えられておりますので」
「猫の足形は」
「管理人室の確認です」
「この、欄を三つ跨いでいる指紋は」
「森番です」
「予備の欄に、魔法生物飼育学と書き足してありますが」
「一つ沈みましたのでね」
副校長は唇の端をほんの少し持ち上げ、持ち上げたことを恥じる顔をして、戻した。
「……決裁しましょう」
副校長の欄に、細く正確な署名が入った。この城で一年かけて、最初に正しい様式で埋まった欄である。
「原本は副校長預かりとします。後任が決まるまで」
「お願いします」
「後任がこれを読んだら、驚くことでしょう。前任者が、猫の足形まで記録していたと知って」
「その驚きも書き足してもらってください。余白は残してあります」
校長の欄は空けたまま綴じた。ダンブルドアの決裁はもう二枚もらっている。三枚目は、後任が来てからでいい。
七月の末。英国魔法省、国際移動キー発着室。
トランクは一つ。九月と同じである。超過料金は、今度は支給された。加藤が費目を作ったらしい。証明写真の四百二十円に七ヶ月かけた男が、これに何ヶ月かけたのかは書いていなかった。
窓口の向こうに、見覚えのある几帳面な顔がいる。
「これはヒノ教授。お帰りで?」
「もう教授じゃないですよ、グレンビルさん。窓口もやるんですか」
「人手が足りないもので。……その、省内が今、たいへん騒がしくてですね」
書記官は声を落とした。
「日本から照会が一枚来たとかで。中身は見ていませんが、上の階が二日は明かりを消していません。――それと、あの釈放理由書ですが。部内で様式の見本になりました。『疑義の中身を書け』という注記付きで」
「注記は誰が」
「私です」
書記官は、四月より少しだけ胸を張っていた。
薬缶が台の上に置かれた。日野は握る前に二つ確かめた。胸の内ポケットの薄い封筒。右手の袖の下、手首の手前で止まっている青黒い線。封筒はある。線は伸びていない。今のところは。
復命は帰ってから書く。
薬缶を摑んだ。臍の裏を鉤で引かれる、あの感覚。胃と誇りが同時に持ち上がり――
着地したのは、東京の発着室の硬い床の上だった。係員が薬缶を回収し、日野の顔を見て書類を一枚差し出した。
「入国の申告書です。こちらの様式で」
十一ヶ月ぶりに見る、見慣れた升目である。日野は胸ポケットからペンを出し、日付の欄に、元号で書いた。