拝命、闇の魔術に対する防衛術 ※期間は別途   作:細野藤松

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第二十九話 家政簿七月分 特別損失:書物一冊(滅失)・使用人一名(欠員)・他一件

マルフォイ邸は、微かに軋んでいた。軋みの原因は些細なことの集積である。朝のアイロンがけが甘い。銀器の曇りが一日遅れで磨かれる。書斎の暖炉の火が、望んだ温度より常に低い。

 

後任の屋敷しもべ妖精は斡旋所に手配済みだが、旧家の水準に達する個体などというものが市場に出回るはずもない。だからこそ代々の家は自前で育てるのであって、その四世紀ぶんの育成を、ルシウス・マルフォイは洗濯済みかどうかも怪しい灰色の靴下一足で失ったのだった。

 

あの日のことを思い出すたび、脳裏に浮かぶのはポッターの顔でも妖精の跳躍でもなく、あの靴下である。四世紀を洗濯物が笑いに来た。

 

家政簿の七月分はあらかた埋まっていた。残るは、特別損失の欄である。ルシウスはペンを取り直し、一行を書いた。

 

一、使用人一名、欠員。

 

これは書けた。

 

二、書物一冊(古書)、滅失。

 

もう一行でペン先が遅れた。気づいたルシウスは口元だけで笑った。四世紀のあいだ家の恥も負債も呑み込んできたこの家政簿が、書けない名前を持つ品目の前でだけ、当主の手を止めさせる。

 

書物一冊。五十年前の、黒い革表紙の日記帳。

 

その夜、ルシウスは蝋燭を一本だけ持って客間へ降りた。絨毯をめくり、床板の継ぎ目に杖先で触れると、板は音もなく開いた。省の抜き打ち捜索が二度、素通りした空間である。

 

並んでいるのは売り時を待つ幾つかの品――毒、呪具、家系の負債。その奥に、天鵞絨張りの小箱が一つ。蓋を開けた。日記はそこにあった。

 

あったと言っていいのかは分からない。黒い革表紙の中央に、鋭いもので貫かれた穴が開いている。縁は焼け爛れたように波打ち、頁という頁はどす黒いインクの染みで固まって、二度と開かない。ポッターが靴下と共に突き返してきたこれが、その成れの果てである。

 

手袋の指で穴の縁をなぞった。呪文の焼痕には見えない。刃物の切り口にしては荒々しすぎる。強いて言えば牙だろう。太い一本の牙。それも、革と紙とあの方の五十年を一突きで貫通できる何かだ。

 

ルシウスはこれが何に殺されたのか、知らない。

 

これは預かり物だった。十二年前、あの方が消える少し前に「保管しておけ」とだけ言われて渡された品である。中身は問うな、時期が来れば分かる。それきり時期は来ないまま十二年が過ぎ、ルシウスは自分の裁量で判断した。ダンブルドアを理事会を使って排除するのにこれは役立つ。使って、失った。

 

あの方が戻らなければ、これはただの一行である。戻れば――

 

そこで思考を切った。切る手つきが我ながら手慣れていて、手慣れていること自体が答えのようなものだ。箱を戻し、床板を下ろした。静かな客間に音が必要以上に響いた。

 

 

 

人間は四種に分類できる、というのがマルフォイ家の家学である。

 

買える者。脅せる者。煽てられる者。弱みのある者。父アブラクサスは家系図の読み方や葡萄酒の年号と同じ手つきでそれを教え、魔法省の廊下を三十年歩いてきたルシウスは、この四分類でおおむね不自由をしなかった。ファッジは第一と第三の複合。必要なのは小切手と、肩を叩く回数の按配だけだ。理事たちは概ね第一。魔法法執行部の中堅どころに第四が多いのは、人が出世の途中で必ず何かを埋めるからである。

 

分類できない人間は三十年で一人だけだった。アルバス・ダンブルドア。便宜上、第五分類と呼んでいる。分類名は「動かせない者」。対処法は、周囲を動かして孤立させるほかない。

 

今年それをやり、十日で覆された。覆した男の調査ファイルが書斎の抽斗にある。

 

ミチヒロ・ヒノ。三十九。日本の刑事。階級は警部補。十一年間、昇進なし。

 

収賄歴なし、醜聞なし、妻・笠子の他に女なし(これには感心した)、賭博なし、蓄財に至っては痕跡すらない。俸給の使途は調べのついた範囲で娘の学費と書籍に尽きる。清貧で、有能。値のつかない有能は市場の外にいる。市場の外にいる者は、市場の論理では動かない。

 

家系の線も洗わせた。日本側への照会には、国際協力部の伝手を三本使った。返ってきたのは丁重を極めた紙だった。曰く、照会の趣旨を確認したい。趣旨を書いて送ると、照会の法的根拠を確認したい。根拠を書いて送ると、当該情報は個人の名誉に関わるため、正式な外交経路での請求を求める。

 

三往復してルシウスは理解した。これは無能な役所の遅延ではない。防火壁だ。誰かがあの男の家系の周りに、書式でできた壁を築いている。三通の返書の末尾には同じ名前があった。

 

そして査問の夜。

 

慇懃な侮蔑は通じず、権威の圧には記録の写しが返ってきた。手札が尽きて最後に地金を見せた。帳面にしがみつくしか能のない、血筋の卑しい小役人と。

 

返ってきたのは、低く平らな声だった。

 

今のは、記録に残すぞ。

 

一秒。たった一秒で男は敬語に戻り、謝罪し、そして本当にその場で一行書いた。

 

十二月の決闘教練の件もある。召喚された蛇が、あの男の三歩手前で伏せた。報告は三系統から取り、三系統とも細部が一致した。手品でも調教でも偶然でもない。三つの逃げ道が三つとも塞がった夜、ルシウスはファイルの余白に「蛇が頭を垂れる血統というものが、仮に東洋に存在するとすれば――」と書きかけ、線を引いて消した。線の下で、文字は読める形のまま残っている。

 

分類欄には結論だけが書いてある。

 

分類:不明。接触禁止(ドラコに指示済)。観察は継続。

 

第五分類が今年は二人いた。二人とも、息子の通う城にいた。葡萄酒の要る夜が増えた。

 

 

 

その第五分類の片方が城を去る。

 

報せは理事の一人から来た。七月の半ば、倶楽部の喫煙室で葉巻の灰を落としながら。

 

「ダンブルドアが保安顧問の椅子を新設しようとしたのは、ご存じでしょう。例の日本人を据えるための」

「ああ、議決に回る前に、私の耳にも入っておりましたよ」

「その起案書が、抽斗に戻ったそうです。本人が断った。任期満了で帰国すると」

 

ルシウスは葡萄酒のグラスを、傾けかけたところで止めた。

 

「……断った」

「辞令の通りに降りる、と言ったそうですよ。日本人というのはよく分かりませんな」

 

日本人のことはルシウスにも分からないが、結果は分かった。

 

第五分類が一人、城から消える。あの城に残るのは動かせない老人が一人のみ。老人一人なら、三十年やってきた手順で足りる。周囲を動かして孤立させる。今年は十日で覆されたが、覆した男がもういなくなるのだ。

 

その夜、ルシウスは久しぶりに望んだ温度の暖炉の前で葡萄酒を開けた。火加減は自分で調整した。しもべ妖精がいないので。

 

家政簿を閉じる前に、備考欄へ几帳面な美しい筆記体で一行を足した。

 

『九月に向け、理事会復帰の根回しを開始のこと』

 

インクが乾くのを待ちながら、ルシウスは独りごちた。

 

「……覚えておこう、と言ったはずだ」

 

覚えておく。覚えておいた上でもう会うことはない。東洋の小役人は東洋へ帰り、紙と判子の国で元の十一年目の警部補に戻る。それで終わりだ。

 

 

 

ふくろうが来たのは、七月の末日の朝だった。

 

魔法省の公用ふくろうである。脚に括られた封筒が異様に厚い。アイロンの甘いシャツの袖で受け取り、ルシウスは書斎で封を切った。

 

一枚目は、送り状だった。

 

『差出人:魔法大臣特命 ホグワーツ魔法魔術学校理事会調査委員会 事務局

宛先:ルシウス・マルフォイ殿

 

下記の件につき、事情聴取のため出頭を要請する。

 

記

一、日時 八月十日 午前十時

二、場所 魔法省地下二階 魔法法執行部第三聴取室

三、聴取事項 別紙「照会」の各項に関する事実関係

四、持参物 本人確認書類。写真一葉(上半身、背景無地、三ヶ月以内に撮影のもの)

五、疑義の中身 別紙のとおり

 

担当:事務局主任書記官(臨時) ナイジェル・グレンビル(魔法法執行部より出向)』

 

ルシウスの目は、四項目めの上で釘付けになった。写真。上半身。背景無地。三ヶ月以内。

 

マルフォイ家の当主の肖像は、代々、画家が描く。背景には家紋と庭園が入る。背景が無地の肖像というものを、ルシウスは生まれてこのかた一度も持ったことがない。

 

それから差出人の欄をもう一度読み直した。大臣特命。委員会。事務局。臨時の主任。出向。

 

一行に魔法省の事情が五つ詰まっている。ファッジは自分の名で動かない。大臣特命の委員会を立て、その事務に執行部から若手を一人引き抜いてやらせる。引き抜かれた若手は、臨時の肩書きで主任になる。臨時は終われば元に戻る肩書きだ。しかし、うまくやれば戻らない。

 

グレンビル。魔法法執行部の中堅どころの名前なら、ルシウスは大抵知っている。第四分類の多い部署である。この名前は知らない。つまり、まだ誰にも借りがない。借りのない若手は何の値もつかない。値がつく前の男をファッジは選んだ。

 

上出来すぎる人選だ。ファッジの頭からは到底出ようがない。誰かが、選び方を教えたのだ。

 

それから五項目め。疑義の中身。この文言に見覚えがある。不愉快だ。魔法法執行部の書式にこんな欄はなかったはずだ。いつから執行部は疑義の中身を書くようになったのか。

 

別紙をめくった。

 

『在ホグワーツ魔法魔術学校派遣職員の安全確保について(照会)

発:日本国魔法省大臣官房

宛:英国魔法省

全十二項』

 

十二項。

 

ルシウスは、その数字を見た。十二月に自分が理事会の権限で送った身辺照会も、十二項だった。

 

一項ずつ読んだ。

 

第三項。貴国の学校法人理事が、当国派遣職員に対して行った身辺照会(全十二項)について、その法的根拠を問う。

 

第五項。本年、貴国魔法省国際協力部を経由し、当国に対して三度にわたり、当国派遣職員の家系に関する照会がなされた。照会文の写しを添付する。当該照会の依頼者の氏名を問う。

 

添付があった。三通。ルシウスが伝手に書かせた照会文の、写しだった。二通目には照会の趣旨が、三通目には法的根拠が、ルシウス自身の言い回しで丁寧に書いてある。

 

防火壁だと思っていた。趣旨を確認したい、根拠を確認したい。守るために遅らせる手口だと思っていた。違った。あれは書かせるための問いだったのだ。趣旨を書かせ、根拠を書かせ、書かせた紙を綴じておく。壁ではなく、記録簿だった。

 

第七項。当国派遣職員の勤務場所に持ち込まれ、生徒一名の意思を操作し、これを拉致させた呪物(黒色小型書籍一冊)について、その持込みの経緯を問う。なお当該物件が昨年八月、ロンドン市内の書店において生徒の所持品に混入された状況については、目撃証言がある。

 

第八項。当該物件は本年四月十三日、ルシウス・マルフォイ氏が受領した。受領の事実は、当国派遣職員が校長室階段下を望む凸面鏡により現認している。当該物件の現在の所在を問う。

 

ルシウスの指が紙の端で止まった。

 

受領。

 

あの日、ポッターは布包みを差し出した。差し出されたものを、自分は掴んだ。中身を見て靴下を放り、妖精に吹き飛ばされ、それでも日記だけは手放さなかった。自分の物だったからだ。自分の物を取り返すのに、理由は要らなかった。

 

あの廊下の角に鏡があった。

 

城中の角という角にあの男が鏡を掛けていたことは、息子の手紙で知っていた。怪物対策だと聞いていた。怪物対策の鏡に、自分は映っていた。

 

第八項は所在を問うている。答えは二つしかない。床板の下にあると答えれば、所持を認める。ないと答えれば、受領した物件を隠したことになる。書店の目撃証言がある以上、持ち主ではないとは言えない。

 

ルシウスは逃げ道を数えた。三つ思いついた。三つとも紙で塞がっている。

 

第九項。本年四月、貴国学校法人の理事会に対してなされた脅迫工作と、それによる校長の停職命令について、貴国の調査の状況を問う。

 

第十一項で、ルシウスは読むのをやめかけた。やめなかった。やめられない。

 

第十一項。昨年十二月、当国派遣職員に対する査問の席上、貴国学校法人理事より当該職員に対してなされた発言について貴国の見解を問う。当該発言は当該職員の記録により、日時、場所、立会人とともに特定されている。発言の内容は次のとおり。「帳面にしがみつくしか能のない、血筋の卑しい小役人」。

 

今のは、記録に残すぞ。

 

あの一秒の声が、書斎の中でもう一度鳴った。

 

あの男は本当にその場で一行書いた。書いて、綴じて、送った。半年かけて東洋の官房を回り、国の名前を背負って、七月の末日の朝に、マルフォイ家の書斎に戻ってきた。

 

第十二項。以上につき、三十日以内の回答を求める。なお当国派遣職員が在勤中に提出した月例報告書十ヶ月分の写しを、疎明資料として添付する。

 

添付の束は分厚かった。一枚目をめくった。九月分。報告者、在ホグワーツ・日野。第一号様式。毎月一枚。あの男は自分が仕掛ける前から書き続けていた。そして書いたものは読まれていたのだ。海の向こう、一番読まれたくない部屋で。

 

別紙の末尾、起案者の欄に名前があった。

 

官房企画官、加藤均。

 

三通の返書の末尾にあった名前と、同じだった。

 

封筒にはもう一枚入っていた。公用の紙ではない。私信である。ルシウスの見慣れた丸みのある筆跡だった。

 

『親愛なるルシウス

 

まことに困ったことになった。日本から照会が来た。国の名前で来たものを、私の執務机の上で止めるわけにはいかんのだ。分かってくれ。

 

理事会には調査委員会を置くことにした。委員会の結論が出るまで、理事の選任はすべて凍結となる。九月の件は、残念だが。

 

聴取の事務には、執行部から若いのを一人借りた。ナイジェルというのだが、几帳面な男だ。ずいぶん書式にうるさいが、あれで春から妙に仕事ができるようになってな。見込みのある若者は久しぶりだ。

 

誠意ある回答を期待する。私も、君のためにできることはしたいのだが。

 

コーネリウス』

 

この男が「のだが」と書く時、それは何もしないという意味である。三十年この男に小切手を切ってきたルシウスは、それをよく知っていた。

 

第一分類。買える者。

 

買える者は、より高い値をつけた客に売られる。それが第一分類の定義であり、ルシウスはその定義で三十年儲けてきた。

 

儲けてきた側は忘れがちになる。自分より高い値をつける客が現れる日のことを。

 

国家というのは、最も人を安売りし、同時に最も高く買いつける客なのだ。

 

 

 

ルシウスは家政簿を開いた。

 

備考欄に、昨日の自分の美しい筆記体が並んでいる。

 

『九月に向け、理事会復帰の根回しを開始のこと』

 

頁を破って書き直そうとして、指が止まった。書き直した頁は、そうしたという事実の方を残してしまう。あの男から学んだことだ。学んだことを今この瞬間に一番使いたくない。

 

その一行に線を引いた。線の下で、文字は読める形のまま残った。それから特別損失の欄に戻り、三行目を書いた。三、理事の職。調査委員会の結論まで、凍結。書けてしまった。四世紀の家政簿は、この品目の前では当主の手を止めなかった。止める理由がない。どこにでもある、平凡な、失脚の一行だ。

 

ルシウスは客間の方角へ一度だけ目をやった。床板の下、天鵞絨の小箱。何に殺されたのかも分からない預かり物の亡骸。

 

何に殺されたのかは、今も分からない。

 

誰に捕まったのかは、分かった。

 

「……覚えておこう、と言ったはずだ」

 

誰もいない書斎で呟いて、ルシウスは自分の言葉の欠陥に気づいた。覚えておくと言ったのは自分である。覚えておいて何をするかは、言っていない。向こうは覚えておくとは言わなかった。記録に残すと言って、言った通りにしたのだ。

 

覚えておいた者はいつか忘れる。記録に残した者は、忘れても紙が覚えている。

 

家政簿を閉じ、抽斗に押し込んだ。心持ち強くやったが、抽斗は前より少しだけ閉まりが悪かった。

 

それからルシウス・マルフォイは呼び鈴を鳴らしかけてやめた。どうせ誰も来ない。自分で外套を取り、自分で手袋をはめ、玄関の鏡の前に立った。鏡の中の当主はアイロンの甘いシャツを着ている。

 

ダイアゴン横丁の写真屋が背景を無地にしてくれるかどうか、ルシウスは知らなかった。生まれて初めて、それを知りに行くことになる。

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