“本日昼過ぎ、ロンドン上空にて飛行する空色の自動車がマグル十数名に目撃された。目撃報告はその後、ノーフォーク、ピーターバラ、ディッズベリーと北へ点々と続いており、魔法省マグル製品不正使用取締局が対応に追われている。取締局のアーサー・ウィーズリー氏は本紙の取材に対し、ノーコメントと三回述べた。
――『夕刊予言者新聞』九月一日付”
ハリー・ポッターは、たった今カートごと突っ込みかけた柵をもう一度手のひらで押した。九番線と十番線の間の、ただの石だった。押す角度を変えた。端の方を押した。最後には肩から体重をかけてみた。結果はどの押し方でも同じだった。要するに柵は柵だ。
「時間は」
「あと十秒。……九秒。八秒」
十一時ちょうど、ホグワーツ特急は九と四分の三番線を出発した。柵のこちら側にはハリーとロン、ヘドウィグ一羽、トランク二つが残された。それと大荷物の子供が二人がかりで壁を撫で回しているのを遠くから眺めている、マグルの駅員が一名。
「どうしよう」
自分の声がかすれているのが、ハリーには分かった。
「ロンのパパとママも、こっちに戻ってこられなかったら」
「車だ」
ロンが顔を上げた。その目の輝き方には見覚えがあった。フレッドとジョージが「ちょっといいこと思いついた」と言い出す時の輝き方だ。あれが出ると、隠れ穴の全員が反射的に半歩下がる。それを正しく警戒しなかった理由は、後から何度考えても一つしかない。他に案がなかったからだ。
「アングリアなら飛べる。取りに戻ればいいんだよ」
雲の上に出て最初の一時間は、控えめに言っても最高だった。二時間目もそう悪くなかった。三時間目に、ロンが同じ話を二回した。
つまり、ロックハート逮捕騒動である。
始まりは八月半ばの朝食の席だった。日刊予言者新聞を広げたモリーおばさんが、紅茶のカップを持ったまま固まった。覗き込むと、一面にここ数年ですっかり見慣れた顔写真が躍っていた。写真の中の男は、報道陣に向かって手錠を――正確には白い紙の縄のようなものを――見せびらかすように掲げ、完璧な角度で微笑んでいた。
『醜聞! ギルデロイ・ロックハート、極東で逮捕さる――“魅力の笑顔”、取り調べ室では通用せず』
「何かの間違いよ」というのが、おばさんの第一声だった。
二日目に続報が出た。日本の魔法省がブリテンの記者向けに行った会見の内容が、遅れて届いたのだ。ロックハートの手口が詳しく報じられ、名前を伏せられた被害者が何人もいることが分かった。
ハリーもロンも、会ったこともない魔法族のお婆さんのことを気の毒に思った。フレッドとジョージも、その朝は珍しく茶化さなかった。おじさんとパーシーは、巻き添えで記憶を失ったマグルについて怒っていた。怒り方はそれぞれ立場通りで、おじさんは人数を、パーシーは手続を問題にした。おばさんの主張は「記者というのは大げさに書くものだから」になった。
四日目、ブリテン側の取り調べ結果が会見で報じられた。忘却術の被害者は件の日本人だけでなく、世界各地に複数人いる可能性があるという。おばさんの主張は「まあ、有名人は狙われるものだし」になった。
一週間後、台所の棚に飾ってあった切り抜きがいつの間にかなくなっていた。誰も何も言わなかった。フレッドとジョージだけが食器棚に向かって黙祷の真似をして、濡れ布巾を投げつけられた。
「実はね」
おばさんは布巾を回収しながら言った。
「前からちょっと信用ならないと思ってたのよ」
問題はその先だった。ウィーズリー家は騒動の一週間前に、ダイアゴン横丁で新学期の買い物を全部済ませていたのだ。
指定教科書一覧を見た時のおばさんの顔を、ハリーは覚えている。七冊全部ロックハートの著作。しかもロックハートの本は防衛術を取る学年全部で指定されていたから、パーシー、フレッド、ジョージ、ロン、ジニーの五人分だった。フローリシュ・アンド・ブロッツで、おばさんは金貨の袋を逆さにして振っていた。あの日は他にもいろいろあった。ルシウス・マルフォイとおじさんが本棚の前で本気の殴り合いをして、ジニーの大鍋に本が雪崩れ込んで、最終的に全員まとめて店の表へ放り出された。
逮捕報道から数日後、ホグワーツから一通のふくろう便が追加で届いた。
『教科書変更のお知らせ――闇の魔術に対する防衛術(全学年)の指定教科書は、諸般の事情により下記一冊に変更となります。『闇の力――護身術入門』(クェンティン・トリンブル著)。なお、購入済みの旧指定図書(七点)については、フローリシュ・アンド・ブロッツ書店にて全額返金の取り扱いがございます(学校側の申し入れによる特別措置)』
「全額返金」の四文字を、おばさんは声に出して二回読んだ。二回目の読み方に、ハリーは覚えがあった。ペチュニアおばさんが広告に「無料」の字を見つけた時と、ほとんど同じ響きだった。
かくして、二度目のダイアゴン横丁行きが決行された。
横丁は似たような家族で溢れ返っていた。フローリシュ・アンド・ブロッツの返品の列は店の外まで伸びて薬問屋の角を曲がり、七冊入りの紙袋を抱えた父親と、袋の重さに負けて三歩ごとに持ち替える母親と、列に飽きて縁石の上を歩く子供とを数珠つなぎにしたまま、フローリアン・フォーテスキュー・アイスクリーム・パーラーの前まで達していた。フォーテスキューさんはその先頭あたりで、早くも「返品待ちのお客様割引」を始めていた。
列は見ものだった。前のほうでは明らかに読み込んでページの端が丸まった『バンパイアとバッチリ船旅』を差し出した魔法使いが、店員と「これは未使用か否か」の神学論争を繰り広げていた。その後ろの魔女は逆に、返金を拒否して七冊を胸に抱えていた。「彼は無実です。私には分かるの」と繰り返す魔女を遠目に、ロンが「じゃあ何で並んでるんだよ」とボヤいた。列の脇では山高帽の男が「サイン入りは買い取ります、定価の三割」と札を掲げて歩いていた。誰かが「逮捕されたのにか」と訊くと、男はこう答えた。「逮捕されたからですよ、旦那。作家の本は、何かあると上がるんです」
フレッドとジョージは五人分三十五冊を店の手押し車に山積みにして運び、「ロックハート教授追悼記念セール」と勝手に節をつけて歌い、パーシーに監督生の権限で黙らされた。
返金の金貨を数え終えたおばさんの目は、少し潤んでいた。
「五人分よ」
と、おばさんは言った。
「五人分の完全著作集が、戻ってきたの」
帰り道、おじさんだけは終始上機嫌で、まるで別のことに感心していた。
「しかし日本の警察というのは大したもんだ。マグルの警察組織の中に、そっくり隠れて機能しとるそうじゃないか。書類もマグル式でな。テレフォンも使うらしい。テレフォン。なあハリー、テレフォンというのはあれだろう、あの、耳に当てる――」
「アーサー」
「うん?」
「本を落としてるわ」
新しい教科書『闇の力――護身術入門』は去年クィレルが使っていたもので、ウィーズリー家の出費はジニーの分、一冊九シックルで済んだ。ロックハートの著作一冊の、およそ五分の一である。その晩ロンは寝床で、生まれて初めて本屋に行って金が増えて帰ってきたとしみじみ言った。
一通り騒動を振り返っても、まだホグワーツには着かなかった。四時間目にはハリーは尻の感覚をあらかた失い、ロンは同じ話の三回目に入った。フォード・アングリアのエンジンが咳をし始めた。眼下の雲はいっこうに動かない。
雲の上でロンが計器を叩いた。エンジンの咳は、もう咳というより痙攣に近い。
「せめてもの救いはさ、僕らが今から怒られるとしても、今年のママの機嫌は史上最高だってことだよ。返金があったから」
「車を盗んだ息子を許すくらい?」
「……教科書代五人分と車一台。どっちが高いかなあ」
車は、その質問に答えるように大きく傾いた。
墜落の瞬間のことは、断片でしか覚えていない。黒い城。眼下の湖。急降下。フロントガラス越しに迫ってくる大きな木。衝撃。ロンの悲鳴。それから何かの折れる音がした。それが枝であってほしいという願いは、ロンの手の中で力なく垂れた杖を見た時点で終わった。
そして信じられないことに木が反撃してきた。枝という枝が丸太のように振り回され、屋根が凹み窓が割れた。アングリアは自力で後退して射程から逃れると、二人とトランクとふくろう籠を泥の上に吐き出した。ヘッドライトを怒ったように明滅させて、禁じられた森の方へ走り去っていく。
「行っちゃった」
ロンが呆然と言った。
「車が、家出した」
「はい、そこの二人、動かない」
声は城の方からではなかった。校庭の闇の中からランタンの灯りがひとつ、揺れずに近づいてくる。灯りの主は見慣れない上着を着た大人の男だった。背はそれほど高くない。走ってもいない。なのに、気がついた時にはもう目の前に立っていた。
ローブではない。黒っぽい上着に、幅の広い帯。ハリーが知っているどの魔法使いの服とも違っていて、どちらかというと、ダドリーが一時期通っていた空手教室の先生の服に近い。ただしずっと着古してある。袖口が擦れていて、それを気にしている様子もない。帯の左脇に細長い革の袋が下がっていた。杖入れだろうか。位置が腕を垂らした時に手の落ちるちょうどそこにある。
ダーズリー家の玄関に立てば、バーノンおじさんの肩ほどしかないだろう。がっしりしているというより、厚い。首と肩の間に余分な角度がなくて、上着の下の体がそのまま塊で動いている感じがした。髪は短く刈ってあって、白いものが混じっている。日に焼けた顔は、夏の終わりの日焼けではなかった。何年もかけて焼けて、それが元の色になってしまった種類の焼け方だ。
「怪我はない?」
英語だった。単語を一つずつ選んで置いていくような、少し硬い英語。その割に口調は砕けている。ハリーは反射的に「だ、大丈夫です」と答えた。
声だけなら近所のおじさんのようだ。目は違った。ハリーの顔と、手と、靴の泥と、後ろのトランクを順番に一度ずつ見て、それから顔へ戻ってきた。
「あー、大丈夫かどうかはこっちが決めるから。はい座って。……よし。名前は?」
「ハリー・ポッターです」
「今日の日付、言える?」
「く、九月一日」
「指、何本に見える?」
「に、二本?」
男は指を三本立てていた。何も言わず、同じ手をもう一度、今度は灯りに近づけて掲げ直した。
「……三本、です」
「うん、暗いからね。頭は打ってない。はい次、君。名前は?」
「ロ、ロン・ウィーズリーです。あの、僕ら汽車に乗ろうとしたんです、ほんとに、ちゃんと九と四分の三番線まで行ったんです、でも柵が」
「日付」
「柵が石になってて、それで」
「日付」
「……九月一日」
「指」
「三本」
「よし。じゃ、杖見せて」
ロンの杖を受け取った手を、ハリーは見た。指が太くて、関節が大きくて、爪が短く切り揃えてある。アーサーおじさんの手にも似ているが、あちらはドライバーとプラグの手だ。左手の甲に、薄い線のような傷が二本あった。その手が、真っ二つになりかけた杖を、驚くほど丁寧に持ち替えた。
「応急処置は……できないか、これは。ごめんな、杖は管轄外なんだ」
男は懐から手帳を出した。
「じゃあ、車のこと訊くよ。車種と色は?」
「フォ、フォード・アングリア。空色」
「持ち主は?」
「父さん……あの、父です」
「はい。乗員は君ら二名、積載物はトランク二、鳥籠一。車両は自走で森林方面へ逃走、追跡は明朝とする、と」
書きつける間だけ、男の声は書き言葉になった。書き終えると、独り言のように付け足した。
「車が逃走、と書く日が来るとはなあ」
怒鳴られていない、とハリーは思った。マクゴナガル先生ならとっくに唇が消えている。スネイプなら減点の数字がもう出ている。この人はどちらもしない。知っている大人の中でこの感じに一番近いのは、去年の夏に一度だけ見た、交通事故の現場を仕切っていたマグルの警官だ。
「あの」
ロンが恐る恐る言った。
「僕たち、柵が開かなくて、それで」
「あー、事情はあとで全部聞くから。今は聞かない」
男は手帳を閉じた。
「順番の問題ね。怪我、車、報告、事情。事情は四番目」
「ぼ、僕らのことは報告するんですか」
「するよ、そりゃ。事故だからね。事故ってのは、隠すと二度起きるんだ」
その時、城の方から今度こそ足音がした。大股の、床を鳴らす足音。黒いローブが夜気をはらんで膨らみ、蝋燭のような顔色の男が、新聞を片手に石段を降りてきた。
「ほう」
スネイプは二人を見て、唇の端だけで笑った。ハリーの知る限り、世界で一番嬉しくなさそうな笑い方だ。
「ポッターと、ウィーズリー。夕刊はもう読んだかね」
突きつけられた夕刊予言者新聞の一面には、空飛ぶ車の目撃記事が躍っていた。
「マグル十数名に目撃。国際機密保持法違反。学校の面目は丸潰れだ。ようやく、貴様を退学にできる日が――」
「処分の話は、管轄外ですよ」
男が静かに割って入った。スネイプの黒い目が、ゆっくりとそちらを向いた。
「これは失礼、ヒノ教授。着任初日から夜間の見回りとは、ご熱心なことで」
「歓迎会の間は警備が手薄になりますから。空いてる者が回るのが道理でしょう」
「道理、結構。では道理ついでに申し上げるが、この二人の身柄は」
「身柄、という段階じゃありません。負傷確認済み、事実関係の聴取済み。あとは監督権者への引き継ぎです。この二人の寮の責任者は?」
「吾輩ではない。残念ながら」
「じゃ、呼んでもらえますか。それとその新聞、証拠品として一部お借りしたいんですが」
「……買いたまえ」
二人の大人は、極めて礼儀正しく、極めて温度の低い応酬を続けた。泥の上に座ったまま、ハリーとロンは顔を見合わせた。こちらを退学にしたくてたまらない大人と、退学かどうかにまるで興味のなさそうな大人。どちらの前にいる方が安全なのか、ハリーには見当がつかなかった。
その後のことは早かった。マクゴナガル先生が来て(唇は予想通り消えていた)、ダンブルドア先生が来た。退学ではないこと、ただし罰則があること、家族に手紙が行くことが告げられた。ダンブルドア先生は一度も声を荒らげなかった。それでハリーは、怒鳴られた方がまだ楽だということを知った。
その間じゅう、男は少し離れた石段の端に腰掛けて、膝の上の板を机代わりに何かを書き続けていた。縦に。文字を縦に書く人を、ハリーは初めて見た。書き終えると男は、小さな四角いものを紙に押し当てた。ランタンの灯りの下で、その印は濡れたように赤かった。
「では、引き継ぎます」
男は書類をマクゴナガル先生に手渡し、二人に向き直ると、腰から上を折る見たことのないお辞儀をした。
「ヒノです。今年の防衛術の担当。次からは正規の経路で登校すること。はい、以上」
そして来た時と同じように、足音をほとんど立てずに闇の中へ戻っていった。ランタンの灯りが規則正しく遠ざかっていく。まっすぐ立っているのに、どこにも力が入っていないように見える立ち方だった。着ているものの背中は湿っていて、裾には泥がついていた。歓迎会の間じゅう、外を歩き回っていたらしい。
「……見回りの続きだって」
ロンが囁いた。
「この状況で?」
グリフィンドール塔の談話室には、ハーマイオニーが起きて待っていた。腕組みをして、口を開けば説教が三十分は出てくる顔をしている。だが二人の泥だらけの姿と事の顛末を聞くうちに、説教は好奇心に敗北した。
「それで、その先生と話したのね? もう?」
「その先生って」
「新しい防衛術の先生よ。歓迎会で紹介があったの。日本から来た、ミチヒロ・ヒノ教授」
ハーマイオニーは声を落とした。
「ダンブルドア先生の紹介の仕方、聞かせたかったわ。『諸君も新聞でご存じの通り、ロックハート殿は当校に来られなくなった。代わりに今年は、彼を来られなくした方をお迎えしておる』ですって」
ハリーとロンは、顔を見合わせた。
「来られなく、した」
ロンがゆっくり繰り返した。
「つまり、あいつが」
「そうよ。ロックハートを逮捕した、日本の警察官なんですって。上級生はもうその話で持ちきり。マホウトコロ――日本の魔法学校の出身で、向こうでは闇祓いみたいなお仕事で、逮捕した凶悪犯罪者は百人とも二百人とも」
「二百人」
「まあ、それは大げさだと思うけど」
ロンは暖炉の前の椅子に、崩れるように座り込んだ。ハリーの頭の中では、質問の順番と、腰を折るお辞儀と、書類に押された赤い印が、順序も脈絡もなく回り続けていた。
明後日の時間割には、もう新しい文字が入っている。木曜、午前、二年生、闇の魔術に対する防衛術、担当・ヒノ教授。教科書は去年の『闇の力――護身術入門』のままで、ハリーはまだ内容を思い出す努力をしていなかった。