玄関の引き戸を開けると布団の匂いがした。十一ヶ月ぶりだ。日野はトランクを上がり框に置き、靴を脱ぎ、揃えて、初めて自分の手を見た。城では一度も揃えていない。玄関を見た途端に勝手に動いたのだった。手癖というのは簡単には消えない。
「おかえりなさい」
笠子は廊下の奥から出てきて、右手を一瞬だけ見た。刑事の目は自動的に、笠子が見たことを務めて顔に出さなかったと読んだ。妻は何も聞かずに夕食の献立を一つ変える人である。食べる側は、何を見られたのかを献立から逆算することになる。
「お布団、干しておきましたよ」
「ありがとう、助かるよ」
廊下の突き当たりの襖が、半分だけ開いていた。
良美が腰を浮かせてこちらを見ていた。十一ヶ月ぶんだけ背が伸びている。深緑のローブは着ていない。夏休みの家の服だ。
良美は日野の顔を見て、口を開き、閉じ、もう一度開いた。
「……おかえり」
「ただいま」
それで会話が止まった。父と娘の間には空白が畳のように敷いてあって、どちらもその上を歩く順番を知らない。
取調室なら、先に歩くのは日野である。場を持つ者の方が動く。娘の前ではその手順が使えない。使えないことを、去年の夏に二度、簪の棚の前と手紙で確かめている。
夕食の卓で笠子は献立を一つ変えていた。日野の好きなものではなく、良美の好きなものになっている。今回の采配はかなり重い方だ。娘が風呂に入る間、それと隣家も寝静まった後。最低限その計二回、大人ふたりだけで話す必要がある。
「……呪文理論」
日野は言った。娘の箸が止まった。
「面白いから伸びた、と書いてあったね。何が面白いんだい」
「……なんで、今聞くの。それ」
「一行しか書いてなかっただろ。俺も中身が知りたいんだ」
良美は箸を置いた。それからしばらく考えて、言った。
「式が、途中で裏返るところ」
「裏返る?」
「杖を振る前に、頭の中で式を組むでしょ。組んでる途中で、あ、これ逆から読んでも同じだ、って気づく式があるの。気づいた時が一番面白くて」
娘の言っていることは、金のローブを獲った時の自分にも、現場に出て金ローブの誇りをかなぐり捨ててからの自分にも分からない内容だった。ホグワーツで、レイブンクローの生徒たちを相手にした時に近かった。少なくとも受験用にローブの色を変えるために必要な知識ではない。
分かったふりはしなかった。分かったふりは取調室で一番早く見抜かれる。娘の前なら、なおさら早い。
「ううん……俺には分からないが、面白いのは分かった」
「……うん」
その夜、寝支度を終えた日野の部屋の襖を、誰かが叩いた。
「お父さん」
「なんだ」
「手紙の、消してあったとこ」
日野の手が止まった。
「線の下、読めたよ。お前も、そういうものを見つけるといい、って」
二重線で消して、書き直さずに送った一文である。書き直した手紙は報告書と変わらない、とあの夜の自分は思った。思った通りに送って、消した文字は線の下で読める形のまま海を渡った。分かっていて送ったくせに、読まれてみると少し慌てた。
「……読むなと書き忘れたなあ」
「あのね。もっと書いてほしかった。書いてあったら、もっと読んだのに」
良美は襖の陰から、それだけ言った。
「わたし、見つけたよ。呪文理論以外にも。ちょっと前にね」
襖が閉まった。
日野は布団の上で、しばらく天井を見ていた。娘はこちらが答えを尋ねる前から持っていた。そして今度は、自分の口で言いに来たのだ。
郵便は翌日から束で来た。十一ヶ月分の留守を、郵便受けは律儀に覚えていた。
柏木からは、封筒に一枚。
『祭り世話役 引継書
一、朝五時に起きろ。婆さんたちは四時に来る。
二、塩は多めに用意しろ。俺がやった時は足りなかった。足りないと婆さんたちが怒る。とんでもなく怒られた。
三、屋台の配置図は別紙。別紙は紛失した。
四、来年以降、もしお前がやらない年は沼田か誰かにやらせろ。俺はやらん。
柏木昭』
日野にとってはほとんど知っていることだらけだった。一つだけ、知らない情報がある。屋台の配置図だ。
紛失も記録である、というのは日野が長年言い続けてきたことで、そのたびに柏木の決裁する書類の山は高くなった。その通りに紛失を記録した引継書が、反論の余地を残さずに届いている。栗羊羹は、指定の一本ではなく三本にすることにした。
加藤からは、封筒に三枚。
一枚目は四月に書いた鑑定書の写しだった。右上に赤い判が捺されている。文書番号、八桁。
二枚目は辞令だった。
辞令、日野道広。警視庁警部補に任命する。防犯部保安第五課勤務を命ずる。特定動物等対策室付とする。魔法事務官に併任する。大臣官房企画室勤務を命ずる。
日本魔法省は、英国のように単一の省が全てを統括する形ではない。本省と、マグルの各省庁に隠された無数の部局によって成り立っている。故にこういった省庁の看板を横断する辞令はよくある。
問題はその中身だ。中身は三枚目で解説されていた。加藤からの事務連絡である。
『日野様
辞令を同封します。読みにくい辞令ですので、補足いたします。
まず、貴職の配属は保安第五課です。外事第五課からは外れるので、柏木警部とは別部署、別の建物になります。彼の栗羊羹好きは有名ですので、郵送で足りるかと存じます。
特定動物等対策室という室を置きました。今年度限りの臨時の室となる予定です。室員は現在、貴職を入れて三名です。他の二名については、復命書の提出時にお話しいたします。杖魔法に詳しい、由緒ある方々です。
この室の所管は、今年に各地で飼えなくなって放たれるであろうもの、そして出雲の闇市に集うものです。公式の分類ではあれらは動物です。
公安部でなくここに置いた理由を申し上げます。放たれたものの後ろには必ず放った家があります。出雲の闇市はご存知の通り本来ならば法規制対象です。どちらも公安の手順で扱えば昭和四十年代と同じことが起きます。起こさないために、貴職をここに置きます。
魔法省の官房にも併任が掛かります。私の付です。報告はこれまで通り私宛にお願いします。
追伸一
鑑定書は公文書として受理され、番号が振られました。根拠の欄は貴職の書かれた通り「当職の知見による」のまま登録されています。知見の出所を問う欄は様式にありません。念のため申し添えますが、誰も問いませんでした。この番号はご退職しても消えません。
追伸二
復命書と最初の出勤は祭りの後で結構です。年次休暇は私の方で代わりに申請済みです。様式は第三号。日付は元号で、右詰めで。九月分から十二月分まで私が書き直しましたので、覚えておいでかと。
加藤』
保安第五課。特定動物等対策室付。日野は右の袖を見た。袖の中のものは、自分が今しがた所管の対象になったことを知らない顔をしている。無許可飼養、と日野は頭の中で条文を引いた。許可を取った覚えはない。二十一年、誰にも探られなかった。その根拠を管理する側に、来月から自分が座ることになる。
放たれたものの後ろには必ず放った家がある、と加藤は書いた。人は飼えなくなった家と飼っている家、そして飼ったことのない家の区別をつけない。昭和四十年代に公安が村の噂を頼りに家を挙げた時にもその手順が存在しなかった。区別をつけられる者を置く。それが日野を置く理由だ。
そして闇市と書かれている。あの市を闇と呼ぶのは東京の言葉である。出雲の側から見れば、闇にいるのは東京の方だろう。
同僚についての記述に目がとまった。杖魔法に詳しい由緒ある方々。つまり、日野と違いキャリアとしてスタートを切る資格のあった者が次の同僚になる。柏木と組んでいた気楽な時間とは、今日でおさらばだ。
追伸の方に目を戻した。
八桁の数字を長いこと見た。台帳に載らない家の知見が載っている。載せたのは根拠の欄を空けたまま通したこの企画官である。官房の中で誰に何を言ったのか。
その書かないことで伝える書き方をする男が、最後の一行だけはしっかりと伝えてきた。根に持たれている。日野はそれを少し嬉しく思った。
八桁の数字は祖父の位牌の前に置こう。それでこの一年の勘定は黒字の側にもう一行増える。
郷里は山の際にある。町から山道を三十分。町の常夜灯が見えなくなった先に、集落の常夜灯が一つ灯る。日野が十七で出て、盆と正月にしか戻らない場所だ。戻るたびに家の数が一つ減っている。
実家は祖父の代のままだった。位牌の前に数字を書いた紙を置き、線香を一本立てた。燃え尽きるまで、袖の中のものは静かだった。ここは、こいつの家でもある。
婆様たちは四時に来た。
柏木の引継書は、この点においては正確だった。集落の老女が五人、勝手口から座敷に上がり込み、日野の用意した塩の袋を検分し、少ないと言った。去年の柏木も同じことを言われたのだろう。日野の最初の一年も同じだった。倍を出すとそれでいいと言われた。要求してから足りないと言うのが大事らしい。逆らわない。
五人とも日野の右袖を見た。何も言わない代わりに、一番年嵩の婆様が日野の湯呑みに塩をひとつまみ入れた。
「……婆様」
「飲め。お前のじゃのうて、袖のに飲ませるんじゃ」
飲んだ。塩辛い。袖の中のものは、たぶん少し満足した。飼い主の湯呑みを間食にする同居人を二十一年飼ってきたわけである。
婆様は日野の右手を取り袖をまくった。手の甲から手首の手前まで、青黒い細い線。皺だらけの指がその線を一度なぞった。
「取引をしたな」
「一度」
「それだけはするなと言うたぞ」
「そうですね。言われていました」
「行儀の悪いことをしたな」
「もちろん、しましたとも」
婆様は線から指を離し、日野の顔を長いこと見た。筋目を一目で読む目である。去年の秋に拝み屋の座敷で折居トメに会った時、こういう目をする老女は日本のあちこちにいるのだと知った。知ったところでこちらの分が良くなるわけではないが。
塩の袋に戻りかけて、婆様は足を止め座り直した。
「例の取引上手の話は覚えとるな」
「聞いてます。まだ三寸あると笑っていた男が覚えもないままに死んだと」
「そう教えた」
「……教えた、と言いましたか、今」
婆様は答えなかった。代わりに日野の湯呑みにもうひとつまみ塩を足した。
「やつはな、覚えがないまま終わったんじゃない。自分で差し出したんじゃ。残りの三寸まとめてな」
日野は湯呑みを持ったまま動かなかった。
「何のために」
「孫の熱じゃ。医者が匙を投げた夜に、袖に頼んだ。残り全部やるからあの子の熱を下げろと。下がった。朝、布団の中で笑うとった。笑うて死ねたんじゃ、あれは。自分で締めたからな」
線香の煙が、位牌の前で一度だけ揺れた。
「……なぜ、そう、教えなかったんです」
「お前のような男に教えると、締めに行くからじゃ」
婆様は日野の顔を見た。
「勘定の締め方を自分で選びたがる、決めたがる男に見本を教えてみろ。見本の通りに締めに行くに決まっとるじゃろう。孫の熱でも他人の命でも口実が来たら全部差し出して、笑うて終わる。残った者は、笑うて死んだ男の勘定を一生読まされるんじゃ」
日野は湯呑みを置いた。
「……では、どうすれば」
「締めるな」
婆様は言った。
「お前の仕事は前を見ることじゃ。線が伸びるのは前に出た証拠じゃろう。伸びた線を数えて残りを勘定して、締め時を計るんじゃない。それをやり出したらやつと同じになる。数えるな。ただ前を見とれ」
それだけ言って婆様は塩の袋に戻った。戻りながら、空を見上げて付け足した。
「今年は冷える。塩はとにかく厚めにやれ。酒もたまにはあると良い」
祭りの夜が来た。
境内に灯りが並び塩が盛られ、婆様たちが五人、社の前に座った。飼う者と飼われる者、祀る者と祀られる者が今夜だけ同じ境内にいる。袖の中のものは社の方を向いて静かにしていた。地下で王を伏せさせた夜と同じ静けさだ。あの夜は怖いと思った。今夜は思わない。塩を飲ませすぎたせいかもしれない。
良美と笠子は儀式をよく見ていた。神事の儀式に深緑色のローブは目立つ。それでも礼装として着てくるように日野が伝えた。娘にはもう娘の人生を歩んでほしい。
祭りの最中、日野の元に一羽のふくろうが飛んできた。英国のふくろうだ。日本の山の夜気に不満があるらしく、脚の筒を外すまで日野の指を何回も噛んだ。
封筒は二通。一通目は、見覚えのある細く正確な字だった。
『ヒノ教授
後任が決まりました。引継書は本人に渡しました。本人から手紙を預かりましたので同封します。猫の足形について、三度質問を受けました。
M・マクゴナガル』
二通目の字は知らない字だった。丁寧で、少し右に傾いている。
『ヒノ教授
引継書を拝読しました。表紙の受継者欄に名前を書き入れました。余白に驚きを書き足すよう副校長から伺いましたので、一つだけ。鏡の角度表、管理人の字が丁寧でたいへん驚きました。私の在学中は、ああではなかったと思います。鏡は三十枚とも外さずに置いておきます。
お伺いしたいことがあります。最初の授業をまね妖怪で始めるつもりでした。引き継がれたあなたの教案には、最初の三回は杖を使わせずに三動作から始めたとあります。どちらにすべきか、まだ迷っています。
夜間体制の頁は何度も読み返しました。私にも月に一度、夜の過ごし方に気を配らねばならない事情があります。詳細は申し上げられませんが、あなたの台帳はそういう者が読んでも使えるものでした。
英国は少し騒がしい夏を迎えておりますが、私たちの問題です。私たちの方で何とかしようと思います。あなたの夏が穏やかでありますように。
R・J・ルーピン』
日野は社の灯りの下でそれを読み返した。
知らない名前が自分の作った引継書に記名している。欄は埋まったということだ。
月に一度という一節に目が止まって、先へ進んだ。詳細は申し上げられませんと書いてある。わざわざ聞くのは無粋だ。相手は被疑者ではないのだから。袖の中のものは便箋の匂いを一度だけ嗅いで、静かになった。
騒がしい夏と書いてある。何とかするとも書いてある。向こうが管轄を主張してきた以上、こちらからすることはない。
返事は、手帳の頁を一枚破って書いた。
『ルーピン教授
まね妖怪で結構です。ただし、出す前に教室の出口を数えさせてください。逃げ道がないまま、ヴォルデモート卿や親類縁者の死体を見せたくなければ。
日野道広
追伸。フレッド・ウィーズリーとジョージ・ウィーズリーの申請書は、よく読まないと酷い目に遭いかねませんのでお気をつけください。私が仕込みました。』
噛まれた指で筒に戻すと、ふくろうは不満そうに一声鳴いて西の空へ飛んだ。
祭りの翌晩、家の者が寝静まってから日野は机に向かった。
第三号様式。復命書。
『復命書
発:日野道広
宛:官房気付・加藤企画官
一、出張期間 平成四年九月一日から平成五年七月三十一日まで
二、用務 英国ホグワーツ魔法魔術学校における闇の魔術に対する防衛術の教授職
三、概要 別紙のとおり(月例報告十一ヶ月分、事件処理簿一式、鑑定書写し、引継書写し)
四、成果 当該校における生徒一名拉致事案の解決。死者なし。五十年前の死亡記録一件及び処分記録一件の復元。危険箇所台帳の新規作成(百四十七件)。
五、経費 別紙のとおり。鶏十六羽分の領収書を含む。
六、所感 』
六項目めで、ペンが止まった。
所感は、役所の様式で一番書きにくい。ここは事実と事実の間に落ちたものを拾って書くための欄だ。二十一年、日野はこの欄を「特になし」で通してきた。そう書けば誰も何も掘ってこない。掘られないための二十一年だった。
今回は、特になしでは済まない。
『六、所感 本出張の業務は、当職にとり有意義であった。』
翻訳としては上出来だ。娘への手紙に「仕事は面白い」と書いてしまった夜の一文を、役所の言葉に直すとこうなる。本当に上出来だ。少し嫌だ。
「ねえ」
湯呑みが机の端に置かれた。良美だった。寝ていなかったらしい。肩越しに復命書を覗き込んでいる。
「……六番、なにそれ」
「所感だよ」
「有意義であった、って」
「役所の言葉ってやつさ」
良美は六項目めをもう一度読み、それから父の顔を見ないで言った。
「面白かった、ってちゃんと書けばいいのに」
日野のペンが止まった。
「……それ、仕事でやったら怒られるんだよ」
「でも、お父さんはホグワーツでそうやってきたんじゃないの」
反論の余地がない。
一年間様式がないなら作ると言い続けてきた男が、娘にその一年を突きつけられた。取調室ならこういう証人が一番怖い。怖いやつが湯呑みを持って肩の後ろに立っている。
日野は六項目めの下に一行を足した。
『※有意義とは、当職の語彙において、面白かったの意である。』
良美は肩越しにそれを読んで、何も言わなかった。湯呑みを置いた手が父の肩に一度だけ触れて、離れた。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
襖が閉まった。
二十一年で初めて、所感の欄に二行書いている。判を捺した。日付は元号で、右詰めだった。
窓の外では集落の常夜灯が一つ、山の際で灯っていた。座敷では笠子と良美が眠っている。日野の帳面には鶏十六羽の領収書と、後任の名前と、塩でふくれた袖の中のものと、二行の所感が載っている。
日野道広、三十九歳。復命完了。
翌朝、縁側に良美が座っていた。膝の上に帳面を開いて何かを組んでいる。日野は隣に座った。
「それが例の裏返るやつかい?」
「まだ。組んでる途中」
「そうかぁ」
婆様たちが来る前に塩の袋を片付ける仕事が残っている。日野が立ち上がると、良美が帳面を閉じた。
「お父さん」
「ん?」
「手伝うよ」
「……助かるよ」
集落の常夜灯は朝には消える。消える前に二人で塩を運んだ。
本作は短期集中連載として、上下巻の文庫本程度の分量で完結させるつもりだった物語です。大晦日のシーンまでで上巻、翌年から下巻のイメージですね。
日野は役人なので、辞令でやってきて辞令で帰るのが最も適切なストーリーであろうと思います。書いてるうちに続編/シリーズ化の構想も出てきましたが、当初の想定通り綺麗に終わることができたのでいったん完結扱いとさせてください。
改めて読んでくださった皆さま、感想や評価で応援してくださった皆さま、本当にありがとうございました。またお会いできる日を楽しみにしています。
作者