拝命、闇の魔術に対する防衛術 ※期間は別途   作:細野藤松

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第四話 危険箇所台帳(新規作成) 記載事項多数につき別紙

“危険箇所台帳

施設名: ホグワーツ魔法魔術学校(連合王国スコットランド)

作成者: 日野道広

作成年月日: 一九九二年九月一日

※本台帳に公式の様式は存在しない。存在しないので作った。帳面は作成者の私費。”

 

 

 

門から城の玄関までは徒歩で八分だった。その八分で日野は帳面に三件書いた。

 

通番一、正門。閂は内側からのみ。守衛所なし、来訪者記録なし。通番二、玄関前の石段。三十八段、手すりなし、雨天時の滑り止めなし。通番三、玄関広間の天井。高すぎて点検した形跡がない。

 

「熱心じゃのう」

 

隣を歩くダンブルドアが愉快そうに帳面を覗き込んだ。

 

「着いて十分で、もう三つかね」

「歩いた分だけです。まだ建物に入ってません」

 

建物に入って五分で五件増えた。うち一件は階段だった。

 

人を載せたまま巨大な石の階段が吹き抜けの空中をゆっくり旋回し、さっきと違う階に接続した。時刻表はない。予告もない。日野は手すり(こちらにはあった)を握ったまま動き終わるのを待ち、それから帳面を開いた。

 

「校長。この階段はどういう規則で動くんですか」

「気分じゃな」

「気分」

「城の、じゃよ」

 

通番四、大階段。可動、不定期、動作予告なし、運行主体は建物の気分。いや、気分って何だよ。書きながら、日野は自分の字が少し乱れているのに気づいた。乱れる字を書くのは久しぶりだ。

 

朝食は校長室で出た。銀の皿に焼いたトマトと豆の煮たのと、黒い円盤状の何かと、燻した魚が載っている。日野は円盤を一口食べ、正体を推理し、推理の結果を静かに棚に上げた。魚は骨ごと燻してあった。豆は甘かった。なぜ朝から豆が甘いのか。トマトだけが、トマトの味の責任を一人で果たしていた。

 

「口に合うかの」

「……興味深い味です」

「それは重畳」

 

紅茶は旨かった。この国は湯を沸かす技術だけ突出して高い。

 

「さて、ミチヒロ」

 

ダンブルドアは自分の皿にレモンキャンディを三つ載せながら言った。朝食にである。もし良美がそんなことをすれば、笠子の説教は海燕の出発まで続くことだろう。

 

「訊きたいことが顔に書いてあるのう」

「では三点だけ。一点目、指揮命令系統です。私は誰の指揮下で、何の職務範囲を持ちますか」

「わしの下で防衛術を教える。それだけじゃ」

「授業以外の生徒保護は」

「良いと思うようにやりなさい」

「二点目、緊急時の権限です。生徒に危険が及ぶ場合、私の判断で強制措置――立入制限、避難命令、身体の確保――を取ってよろしいか」

「良いと思うようにやりなさい」

 

日野はカップを置いた。

 

二問続けて白紙委任である。

 

役所で二十年働いた人間として言えば、これは満額回答ではない。危険信号だ。何も通さない上司は、せめて決裁の場所を教えてくれる。何でも通す上司は、決裁がどこで行われているのか教える気がない。

 

「……三点目です。前任者の引き継ぎ資料を頂きたい」

 

ダンブルドアの手が、キャンディの上で一拍止まった。

 

「前任はクィリナス・クィレルという。真面目な男じゃった」

「じゃった、と仰いますと」

「昨年度末に亡くなっての」

 

これは役に立ちそうな情報だ。闇の魔術に対する防衛術は、当然ながら闇の魔術の実際を見なければお話にならない。日野の南硫黄島在学中にも、再現用物品の使い方を間違えて大惨事になったという先生の噂を聞いている。それと同じ類のことだろう。

 

「殉職ですか。事故ですか」

 

半月眼鏡の奥の目が、初めて笑いを消した。

 

「……彼は、自らの選んだものの代価を払ったのじゃ」

「事故調査委員会の報告書は」

「作成されておらん」

「では殉職認定の調書は。労災の、いや、公務災害の」

「ミチヒロ。この国には、その、なんと言えばよいか」

 

ダンブルドアは珍しく言葉を探した。

 

「――そういう紙は、ないのじゃよ」

 

日野は、しばらく黙った。

 

職場で人が死んでいる。教師が、勤務中に、学校で。

 

そして原因を調べた記録も、調べた者の名前も、二度と起こさないために何をどう変えたかの記録も、遺族に何をどう説明したかの控えも、この城のどこにも一枚として残っておらず、代わりに残っているのは「代価を払った」という詩のような一言だけだ。

 

紅茶の湯気はまだ立っていた。湯気の向こうで、老人は次の質問を待っている。こちらが待っている中身については何も言わない顔だ。この職場で最大の非開示案件は、校長室の椅子に座っている。

 

「承知しました。では、引き継ぎ資料は私がゼロから作ります。私の後任のために」

「後任、のう」

 

ダンブルドアは目を細めた。

 

「気の早いことじゃ」

「役所の人間は着任した日に離任の準備を始めるんですよ。それと校長、雇用の書面を頂きたいのですが」

「書面? 握手で済んでおるよ、昨日」

「済んでませんので作ってきました」

 

日野はトランクから紙を二枚出した。誓約書兼労働条件確認書、正副二通。職務範囲、勤務時間、報酬、緊急時権限、そして期間の欄には「別途(発令官庁の定めるところによる)」と憎しみを込めて書いてある。朱肉の蓋を開け、判を捺した。ダンブルドアは身を乗り出して、濡れたように赤い印影を眺めた。

 

「ほう。それが日本の署名かね」

「印鑑と言います。署名より偽造しにくい……人によりますが」

「面白い。わしも一つ作ろうかの。不死鳥の意匠で」

 

老人は孔雀めいた飾り文字で華麗に署名し、副本を返しながら、こともなげに言った。

 

「この学校で、書面を求めた教師は君が初めてじゃよ」

「そうでしょうね」

「褒めたつもりじゃがのう」

「そう受け取っておきます」

 

退出の間際、ダンブルドアが背中に声をかけてきた。

 

「時に、ミチヒロ」

「……日野です」

「うむ、ミチヒロ。故郷への便りはこまめに書くとよい」

 

日野は振り返った。老人は窓の外の空を見ていた。

 

「役所勤めは報告が仕事じゃろう。わしのことも見たままに書いてかまわんよ。――ありのままに書かれて困る歳は、とうに過ぎたでな」

 

月例報告の存在は割れている。割れた上で囲い込みもせず、検閲も求めず、好きに書けと言っている。監視を嫌がる相手は御しやすい。歓迎する相手はその逆だ。厄介極まる、と日野は廊下へ出ながら思った。

 

 

 

職員室は玄関広間の二階にあった。

 

新学期初日の職員室はどこの国でも同じ匂いがする。インクと湯気と、諦めきれていない夏休みの匂いだ。

 

挨拶回りは概ね穏当に済んだ。呪文学のフリットウィック(小柄、丁寧、握手の位置が低い)、薬草学のスプラウト(手の土が落ちきっていない、いい職人の手)、その他にも必須科目、選択科目ごとに一人ずつ。名前と顔と担当を手帳に書き、書くたびに珍しがられた。

 

例外が、二人いた。

 

副校長のマクゴナガルは挨拶より先に紙を出した。

 

「ヒノ教授。時間割です」

 

差し出された紙には、担当する全学年の授業時間、教室番号、監督当番、寮の減点・加点の権限規程、保護者対応の系統図までが過不足なく整理されていた。日野は二度読んで、書式の裏まで確かめた。完璧だった。

 

「質問は」

「三点ありましたが、今の説明で三点とも消えました」

「結構」

 

マクゴナガルは眼鏡の位置を直した。

 

「他の教員にも見習わせたいものです」

 

決裁権と実務が一致している人間を、日野は英国に来て初めて見た。日本を含めても五指に入る。この人が回している範囲がどこまでなのかは、追って測ればいい。

 

二人目は、暖炉脇の椅子から立ちもしなかった。魔法薬学のスネイプは、黒ずくめの体をそのままに値踏みの視線だけを寄越した。

 

「これはこれは。有名人を逮捕するご趣味の方とお見受けする」

「趣味じゃなくて仕事ですよ。初めまして、日野です」

「セブルス・スネイプ。魔法薬学」

 

男は唇の端だけで笑った。

 

「一つ、親切にご忠告申し上げよう。当校の防衛術の教職は――一年と保たぬのが伝統でしてね。歴代、辞めるか、消えるか、死ぬかだ」

「へえ。統計は取ってあります?」

「……何?」

「何年分の記録で、内訳は何件ずつか。辞任と失踪と死亡じゃ、対策が全部違うので」

 

スネイプの目が、すっと細くなった。挑発が滑ったことを怒っているわけではなさそうだ。思うに、出した札を裏返して検分された顔だ。

 

スネイプは暖炉の火を見たまま、指を三本立てた。

 

「辞任、七。失踪、二。死亡、二。以上、吾輩の在職分だけでこれだ。内訳が入用と仰せなら、辞任七のうち四は年度途中、二は療養、一は本人の申し出た理由が今も不明。――統計とやらはこれでよろしいか」

 

日野は手帳を出した。

 

「もう一度お願いします。ゆっくり」

「一度で書け」

 

書いた。書き終わるまで、男は火を見ていた。

 

「精々、貴殿は四つ目の内訳にならぬことですな」

「善処しますよ」

 

離れてから日野は手帳に短く書いた。S・スネイプ。教師の職場に尋問官の目。要継続観察。あの目は知っている。取調室の、机のこちら側の目だ。南硫黄島の講師陣でさえ教壇に持ち込むものではない。なぜ教壇の上にいるのか。理由のある人事か、理由を隠した人事か。

 

書きながら、さっきの三本の指を思い出した。あの男は十一年分を一枚も書かずに持っている。書かない記録は消えると日野は沼田たち若手に二十年以上言ってきた。消えていない記録が、暖炉の脇に座って足も組み替えずにこちらを見ていた。

 

統計の有無を訊いたのは俺だ。取ってあると答えられた場合の二の矢を用意していなかったのは、稚拙だった。

 

 

 

森番には午後に会った。

 

ルビウス・ハグリッド。城の外れの小屋に住む、山のような男である。

 

「あんたが日本の先生か! よく来なすった!」

 

戸口から出てきた男は日野の倍は横幅があった。黒い犬(大型、垂れ耳、戦意なし)が飛びついてきて、日野の羽織を涎まみれにした。ハグリッドは笑いながら犬を引き剥がし、熊の前足のような手を差し出した。

 

「ハグリッドだ。森と、鍵と、あー、その他いろいろの番をしとる」

 

日野はその手を握った。握る前に自分の右足が半歩だけ後ろに引けていたことには、握ってから気づいた。

 

握力に備えたと処理した。実際に握力は凄まじく、備えは正しかった。小屋に通され、岩と見分けのつかない菓子を出され(通番二十二、咀嚼による歯牙損傷リスク)、薄めの茶を三杯ごちそうになった(通番二十三、湯量に対して茶葉が構造的に不足。通番二十二と合わせ、訪れた英国人生徒とのトラブル防止策を要検討)。

 

「森はどこからが森ですか」

「どこから?」

「境界です。柵か、標か、目印になるものが」

「ああ、あるある。あの辺に……いや待てよ、去年、ユニコーンが塩を舐めに来るってんで、ちっと開けたんだ。あれは可愛かったなあ。仔が三頭、金色でな」

「境界の話ですが」

「そうそう、それでな、その仔が」

 

ハグリッドはよく喋った。森の生き物のこと、今年の新入生のこと、ダンブルドアがどれほど偉大かということ。気のいい男だった。それは一分で分かったし、三十分後には確信になった。境界の位置は最後まで分からなかった。

 

小屋を辞して城への道を歩きながら、日野はさっきの半歩のことをもう一度だけ考えた。握力に備えたという説明は順番が合わない。備えは判断の後に来るものだ。あの半歩は判断より先に出ていた。体が先に動く時、動かしているのは訓練か、そうでなければ訓練でないものだ。

 

日野は考えるのをやめ、帳面を開いた。通番二十四、森番小屋。居住者は独り、電話も非常ベルも杖もなく、昼間に城から徒歩九分の距離。夜間に緊急事態が起きた場合、森番が助けを呼ぶ手段もなければ、森番に呼び出されることもできない。書いて閉じた。

 

 

 

午後の残りは城内の保安査定に費やし、通番は面白いように増えた。

 

通番二十六、談話室の合言葉制度。防犯としては上等、火災時の避難経路としては最悪(合言葉を忘れた生徒は炎の中で扉と問答するのか)。通番二十九、廊下の甲冑。自律移動する個体あり、移動の動機は不明。通番三十一、幽霊。壁から出てくる。慣れの問題とはいえ心臓に悪い。ただし常時城内を巡回している目でもある。敵か味方かで言えば、届出のない自警団に近い。要関係構築。

 

通番三十三は天井から降ってきた。正確には、天井付近に浮いていた小男が花瓶を落としてきた。日野は半歩ずれて躱した。破片の飛散範囲を目測してから上を見ると、ベルボーイ帽の小男が空中でひっくり返って笑っている。

 

「新入り! 新入りのセンセ! いい避けっぷり!」

「はい、そこの浮いてるの。今のは物損だね。器物は学校の備品?」

「知らないねえ!」

「じゃ、遺失物拾得と破損の報告ね。名前は」

「ピーブズさまさ!」

「ピーブズさん、所属は」

「所属ゥ?」

 

小男は宙返りしながら大笑いし、廊下の向こうへ飛び去った。日野は帳面に書いた。通番三十三、ピーブズ。飛行する何か。人でも幽霊でもない由(スプラウト談)。分類不能。災害として計上する。台風に所属を訊いても仕方がない。対処は防災の枠組みで行う。

 

通番四十五、禁じられた森。「禁じられた」の法的根拠を確認したところ、根拠は看板一枚だった。柵も巡回もなし。罰則規定の掲示なし。禁じ方が祈りに近い。昨年度は三階の廊下もほぼ同じ禁じられ方をされていた由(フリットウィック談)。英国人のセンスは天丼か金太郎飴がお好みのようだ。

 

通番四十六、その昨年度の飼育案件。廊下の噂話(幽霊二名の会話)によれば、校内で頭が三つある大型犬が飼育されていた由。伝聞につき要裏取り。裏が取れないことを祈っている。

 

一通り歩き回った後、夕暮れの校庭の外れに一本の大きな柳を見つけた。

 

風はないのに枝が揺れていた。揺れ方が植物のそれではない。間合いを測る揺れ方だった。日野は職業的な距離を保って外周を一周し、地面に転がる砕けた鳥の羽と、枝の射程を示す扇状の摩耗痕を確認した。

 

通番四十七、校庭南西の柳。攻撃性あり。推定射程六米。近接禁止の掲示なし。防護柵なし。植えた者の設置目的不明。優先度・高で要対処。

 

日が落ちる。今夜は新入生の到着と歓迎会で、全校の人間が大広間の一箇所に集まる。裏を返せばそれ以外の全部が空になる。警備の目で見れば、今夜の城で一番危ないのは大広間の中ではない。ご馳走は惜しいが、飯には期待していない国だ。紹介だけ手短に受けると、日野はランタンに火を入れた。外周警備の時間だ。

 

その夜のことは、翌朝の報告書に書いた。

 

『臨時報告(第三号様式)

発: 在ホグワーツ・日野

宛: 官房気付・加藤企画官

 

一、着任翌日を待たず、特異事案が発生したので報告する。

 

二、九月一日二〇時頃、当校生徒二名(十二歳)が飛行自動車で長距離を無許可飛行し、飛行中マグル十数名に目撃された後、校庭南西の樹木(当職の危険箇所台帳通番四十七、攻撃性確認済み)に衝突・墜落した。人的被害は軽微。車両は自走のまま森林へ逃走し、未確保。

 

三、機密保持法の観点では重大事案であるが、当地の処分は「罰則(反省的労働)および説諭」で完結した。本邦であれば家裁送致と保護者の始末書が確実な事案である。量刑感覚の彼我の差として特記する。

 

四、なお当職が最も重大と考える点は、乗車の原因(駅の魔法障壁が二名に対してのみ閉塞した)が未解明のまま誰も調査していないことである。障壁の管理主体は英国魔法省とのことで、照会を掛けたが回答は未着。障壁は「たまに機嫌が悪い」というのが当校職員の平均的見解である。

 

五、着任初日に保安査定で攻撃性を確認した樹木に、その日の内に生徒が墜落した。査定の的中をこれほど喜べない日は初めてである。

 

以上』

 

 

 

翌朝八時四十分、日野は大階段の三階踊り場に立っていた。

 

理由は単純な算数である。新学期二日目、初回授業、全校生徒が初見の時間割を持って一斉に移動する。動線は大階段に集中し、階段は気分で動く。人流の集中と経路の不確定が重なる場所と時刻。何年か前のクィディッチワールドカップ警備計画を思い出した。事故が起きる場所と時刻はだいたい決まっている。

 

八時五十二分、階段が動いた。三年生の集団を乗せた階段がゆっくり旋回し、接続先が変わる。その根本、踊り場との継ぎ目が口を開けた瞬間、時間割に顔を埋めて歩いていた一年生が開いた隙間へまっすぐ踏み出した。

 

日野は一歩で届く位置にいた。

 

襟首を掴んで引き戻す。少年の片足が空を踏み、靴の先が遠ざかる石段の縁をこすった。

 

「はい危ない」

 

日野は少年を床に立たせ、膝の高さまで屈んだ。

 

「怪我はない? よし。いいかい、段が動いてる間は止まる。動き終わってから渡る。信号と同じね」

「し、しんごう?」

「……通じないか。じゃあこう覚えて。動く床は、床じゃない」

「う、動く床は、床じゃない」

「よし。行っていいよ。走らない」

 

少年は青い顔で頷いて、今度は足元を見ながら歩いていった。周囲の生徒たちはほとんど何も気づいていなかった。それでいい。事故が起きなかった朝というのは、誰の記憶にも残らない朝のことだ。

 

日野は手帳を開いて、ヒヤリ・ハット第一号と書いた。一件の重大事故の裏には二十九件の軽微な事故と三百件の「ひやり」がある。現場で叩き込まれた経験則だ。今のは三百分の一。三百を記録して潰していけば一の方は起きない。地味の極みである。

 

「ヒノ教授」

 

背後から声がした。マクゴナガルが朝の巡回の途中で立っていた。今の一部始終を見ていたらしい。

 

「……階段の継ぎ目に警告の掲示を出すべきだと、前々から思ってはいたのです」

「奇遇ですね。今朝の要望書に書いたところです。掲示と、可能なら継ぎ目の手すりを」

「言っておきますが、この城は模様替えを嫌います。千年は手すりなしでやってきた城です」

「なら千年分のヒヤリ・ハットが未記録なだけですよ。今日から記録します」

 

マクゴナガルは眼鏡の奥の目で日野をしばらく検分し、それからほんのわずかに口の端を動かした。この人の笑顔の単位は、たぶんこれで一枚なのだろう。

 

「掲示の件、職員会議に諮ります。議題として」

「お願いします。議事録の写しも頂けると」

「……あなた、本当に紙が好きですね」

「紙は嘘をつかないので」

 

 

 

夜、日野は自室の机で教案を書いた。

 

書く前に資料を漁った。まず英国魔法省の指導要領。これは三分で読めた。役所語で「学生はまず理論をしっかり勉強しましょう」以上のことは書かれていない。

 

次に、学校独自の防衛術の指導要領はあるのか。結論から言えばなかった。あったのは歴代教師の残した試験問題の綴りで、これが考古学だった。ある年は吸血鬼の弱点を延々と問い、ある年は呪いの実技一辺倒、ある年に至っては試験問題そのものが残っていない。要するに歴代、各自が好きなことを教えて去っている。カリキュラムの一貫性という概念ごと、この職には呪いがかかっているらしい。

 

ゼロから書くしかない。ゼロから書けるとも言う。

 

日野は帳面の新しい頁に一枚目を書いた。

 

『教案・第一号

対象: 一・二・三年生 科目: 闇の魔術に対する防衛術

 

第一時限の目標: 生徒が「距離を取る・遮蔽に入る・大人を呼ぶ」の三動作を呪文より先に体で覚えること。

 

理由: 低学年の呪文は大人の悪意に勝てない。勝てないことを前提に生き延びる手順を先に教える。呪文はその次で間に合う。間に合わなかった例を、作成者は職業柄いくつも見てきた。

 

備考: 本校の生徒は「危険に近づかない」訓練を受けた形跡がない。むしろ近づく傾向が観察される(九月一日の事案を参照)』

 

書き終えて読み返し、朱肉の蓋を開けて判を捺した。

 

誰にも求められていない。この国に判子の文化はなく、教案に決裁は要らない――「良いと思うようにやりなさい」。そもそもこれを読むのは自分だけだ。それでも捺した。判を受けた紙はその日から仕事になる。二十年、そうやってきた。

 

引き出しから二年生の名簿を出し、グリフィンドール寮の欄に指を滑らせる。H・ポッター。R・ウィーズリー。昨夜泥の上に座っていた二人の名前がそこにあった。障壁の閉塞原因、未解明。車両、未確保。既に未処理の符号が二つぶら下がっている。着任二日で、である。

 

「……一年、保つといいがな。この職も、俺も」

 

明日木曜、午前、二年生。初回の授業である。

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