木曜の朝は、ベッドの下にトレバーがいなかった。
ネビル・ロングボトムの一日は、だいたいヒキガエル探しから始まる。今朝はカーテンの陰にもディーンの靴の中にもいなかった。四つん這いで暖炉の脇を覗いていると、上から時間割がひらりと落ちてきた。自分の鞄から落ちたのだ。拾って見て、胃が縮んだ。木曜午前。闇の魔術に対する防衛術。担当・ヒノ教授。
トレバーは結局、洗面台の水差しの中にいた。ヒキガエルを懐に入れていると、頭の中でおばあちゃんが言った。おばあちゃんの声はいつでも頭の中にいる。ロングボトム家の者が新任教師ごときに朝から怯えるんじゃないよ。
怯えてない、と心の中で言い返した。心の中の声が裏返った。
朝食の大広間はその先生の噂で沸いていた。
「三百人逮捕したんだって。日本で」
「僕は五百って聞いた」
「上級生が言ってたけど、あの人、影が二重に見えるんだって。廊下の松明の下で」
「書類に押してる赤い判、あれ血らしいぜ」
「怒らせると袖から縄が飛んでくるって。捕まったら二度と外れないって」
ネビルはかぼちゃジュースを持ったまま、一つ残らず真に受けた。犯罪者五百人逮捕。影が二重。血の判。飛んでくる縄。頭の中でおばあちゃんが言った。お前の父さんならそんな与太は笑い飛ばしたろうね。ジュースの水面が細かく揺れていた。
「初回の授業で腕試しに決闘させられるらしいぜ」
シェーマスが楽しそうに言った。
「一人ずつ前に出て、先生と」
「それで負けたら」
ディーンが続けた。両手首をくっつける真似をして目をひん剥いている。
「逮捕」
「されるわけないでしょう」
向かいでハーマイオニーが本から顔を上げた。
「教科書を読めば授業の方針くらい見当がつくはずよ。……そのはずなんだけど」
彼女は『闇の力――護身術入門』を軽く睨んだ。教科書はネビルも読んだ。正確には、眺めた。去年、クィレル先生も使っていた教科書だ。言い回しが古くて、挿絵が少ない。そのせいで内容は何も頭に入ってこない。決闘のやり方は少なくとも載っていなかったが、載っていないからやらないとは限らない。
ロンだけが朝から妙に静かだった。ネビルは気づいていた。ロンの杖が真ん中にスペロテープをぐるぐる巻かれて、制服の内側に隠すように差してあることに。例のダイナミックな登校の時に折れたのだという噂だった。気づいていたが言わなかった。杖のことで人に言われたくないことがあるのはネビルも同じだからだ。ネビルの杖は父さんの形見で、ネビルの手の中ではめったに言うことを聞かない。お前は父さんのようになれないとずっと言われている気がするから、杖を使う授業では惨めだ。
教室へ向かう廊下、大階段の踊り場に新しい掲示が出ていた。
『段が動いている間は渡らないこと。動き終わってから渡ること。動く床は、床ではありません』
誰が貼らせたんだろう、と誰かが囁いていた。ネビルは掲示の通り、動いている階段の前で立ち止まった。後ろから来た五年生が舌打ちして、動く段へひょいと飛び移っていった。かっこよかった。ネビルは動き終わるまで待ってから渡った。かっこわるかった。でも掲示にはそう書いてあったのだ。
防衛術の教室の扉は開いていた。中を覗いて、ネビルの足が止まった。机が全部後ろの壁際に寄せてある。教室の真ん中ががらんと広い。
「……ほら見ろ」
シェーマスが声を弾ませた。
「決闘用だ」
ネビルは自分の席(のあった場所)を探して、寄せられた机の一つにしがみつくように座った。始業の鐘が鳴った。鐘の音がこんなに処刑の合図に聞こえた朝はスネイプの初回授業以来だ。
先生は鐘と同時に入ってきた。黒っぽい、見慣れない服。ハーマイオニーが言うにはキモノという東洋の伝統的な装束らしい。短い髪に白いものが混じっている。噂で膨らんでいた化け物じみた印象より、ずっと普通のおじさんに見えた。顔はかなり疲れていて、聖マンゴの病棟で両親を診てくれている癒者を思い出した。影は一つしかなかった。ネビルは数えた。
「ヒノです。一年間、防衛術を担当します。よろしく」
先生は教卓に出席簿を広げた。
「出席取るよ。ブラウン」
「は、はいっ」
名前が順番に読まれていく。ネビルは身構えていた。何にかは自分でも分からない。ただ、点呼というのはだいたい誰かが恥をかく行事だ。
「ロングボトム」
「は、はいぃ」
声が裏返った。裏返ったのはネビルの側だけで、先生は他の生徒と同じように顔を一度確認し、次へ行った。点呼で何も起きなかった新学期は生まれて初めてかもしれない。
「ポッター」
「はい」
間がなかった。
ネビルは思わずハリーの方を見た。去年、どの先生もこの名前の前で一拍止まった。眼鏡越しにちらりと見るか、額の傷に視線を走らせるか。クィレル先生に至っては声が裏返ったし、スネイプ先生は嫌味をぶつけていた。ヒノ先生は名簿から顔を上げて、ハリーの顔を一度だけ確認して次に行った。ハリーの肩から、目に見えて力が抜けた。
「はい、全員いるね」
先生は出席簿を閉じ、教室をゆっくり見渡した。
「じゃあ始める。……の前に一つ訊こうか。この教室、出口はいくつある?」
全員の目が入ってきた扉に向いた。ネビルの目も向いて、それから窓の方へ戻った。窓が四つ。暖炉が一つ。数え終える前にハーマイオニーの手が真っ直ぐ挙がった。
「一つです」
「はい不正解」
ハーマイオニーが伸ばした手ごと固まった。石にされたみたいに固まった。ネビルも、ネビル以外の教室の皆も、彼女が授業で「不正解」と言われるのを見たのが初めてだった。たぶん本人も初めてだ。
先生は教室を歩きながら説明し始めた。ネビルは噂の影をもう一度確かめようとして、妙なことに気づいた。足音が全然聞こえない。
「まず窓が四つある。暖炉が一つ。あと教員用の小さい扉が一つ、その本棚の裏ね。合わせて七つ」
ネビルは机の下で自分の数えかけた数を思い返した。窓が四つ、暖炉が一つ。二つ足りなかったが順番は同じだ。
「扉ってのは出口の一種でしかない。窓は開く。一階までなら、正しく降りれば足は折れない。煙突は……まあ、君らの体格なら通れる子もいる。覚えておくように。出口を一つしか知らない部屋には長居するな。これが今学期の一つ目」
教室の空気が変わった。ハーマイオニーはまだ固まっていた。よく見ると、その目に怒りも恥もない。爛々としている。次の瞬間羽根ペンが猛烈な速度で動き始めた。
「それから連絡事項ね。今学期、最初の三回の授業では杖を使いません」
どよめきが起きた。えー、という失望の声と、は? という当惑の声。その騒ぎの中でネビルは見た。ロンが、ネビルの席からしか見えない角度で、深く長く息を吐いたのを。
分かる、とネビルは思った。今日は杖に裏切られずに済むという息だ。ネビルの懐でも、父さんの形見が今日は静かにしていていいことになった。
「先生」
シェーマスが不満げに手を挙げた。
「じゃあ何をやるんですか。防衛術ですよね」
「やるよ、防衛術。一番大事なやつから」
先生は黒板に几帳面な活字体で三つ書いた。
『一、距離を取る。
二、遮蔽に入る。
三、大人を呼ぶ。』
「危ないものに出会ったら、この順番。まず離れる。次に、硬いものや太いものを自分と相手の間に置く。それから大声で大人を呼ぶ。以上」
「……逃げるってことですか?」
誰かが言った。声に薄い失望が混じっていた。
「そう、逃げる」
先生はあっさり頷いた。
「かっこ悪いと思ったろ、今。顔に書いてある」
図星を突かれた笑いが教室に散った。先生は黒板を軽く叩いた。
「いいか。逃げるのは才能じゃない。技術だ。技術ってのは、練習すれば誰でも上手くなる。呪文の才能があるやつもないやつも関係ない。練習した分だけ死ににくくなる」
才能じゃない。誰でも。練習した分だけ。ネビルは黒板の三行を写しながら、その三つを何度も読み返した。この学校に来てから、いや、生まれてから今まで、大人が教えてくれるものは全部才能の話だった。杖を振れるか。箒に乗れるか。父さんのようになれるか。この先生は才能の話をしない。
「じゃあ立って。机はそのまま。今から練習します」
練習は単純だった。教室のあちこちに置かれた机や椅子を遮蔽物に見立てる。先生が教室のどこかを指差して「そこが危険」と言う。生徒は指された場所から離れ、遮蔽物の陰に入り、陰から先生に向かって大声で状況を言う。「窓際に一人!」「扉の横、二人います!」。
それだけなのに最初はみんな滅茶苦茶だった。離れる方向がばらばらで正面衝突する者、遮蔽物を挟まずただ隅に走る者、隠れたきり黙り込む者。ネビルは二回転び、一回シェーマスとぶつかった。
「はい、やり直し。急がなくていいから、順番だけ守って。一、二、三ね」
三回目あたりから、ネビルは奇妙なことに気づき始めた。
どこへ動くか迷っていない。
この教室に入った時から机の配置は頭に入っていたし、それは今日に始まったことでもなく、薬草学の温室でも大広間の長机の下でも、談話室の暖炉脇でも、そのもっと前のおばあちゃんの家の廊下の突き当たりでも、どの机が一番大きくて、どの陰なら膝から下が出なくて、どの窓が内側から開くかを、誰に教わったわけでもなく数え終えてから座るのがネビルの十一年だった。
臆病者の癖だ。
その癖がこの授業では全部正解だ。
「距離!」で真っ先に離れ、「遮蔽!」で最短の陰に滑り込み、「報告!」で誰よりも早く声が出た。五回目、教室でネビルだけが一度も引っかからなかった。六回目もだった。周りが自分を見ている。いつもの失敗を待つ目じゃなかった。
「ロングボトム」
先生に名前を呼ばれて心臓が跳ねた。
「今の遮蔽の選び方、良かった。グリフィンドールに五点。低くて太いやつを選んだね。なんで?」
「え、あの、その」
防衛術で加点を受けている。しかも説明を求められている。頭が真っ白になって、口が勝手に答えた。
「た、高い棚は、倒れてくるかもしれないから……」
「そうだ」
先生は頷いた。
「遮蔽は盾にもなるが、凶器にもなる。倒れないものを選ぶ。全員今のを覚えるように」
全員と先生は言った。全員がネビルの答えを覚えるように、と。
ネビルは自分の耳が赤くなるのを感じながら、床の一点を見つめていた。頭の中のおばあちゃんは、珍しく何も言わなかった。
その時、懐でトレバーが動いた。あっと思った時にはもう遅かった。ヒキガエルは制服の合わせ目から転がり出て、床をびたんびたんと跳ね始めた。教室にいつもの笑いの気配が立ち上る。いつもの、ネビルのやらかしを楽しむ笑い。ネビルは顔から火が出そうになって――
先生が視線も落とさずに片手を出した。跳ねたトレバーが、その手の中に吸い込まれるように収まった。
「はい、脱走一件」
先生はヒキガエルを目の高さに持ち上げ、しげしげと眺めた。
「……ほう。いい判断だぞ、こいつは。見てたか? 跳ねたのは低い所と物陰だけだ。開けた床の真ん中は一度も通ってない」
トレバーがネビルの手に戻される。教室が笑った。いつもと質の違う笑いだった。ネビルを笑うのではなく、授業が面白くて笑っている。
「君のカエルは三動作の一と二ができてる。三の『大人を呼ぶ』はできてないが、まあ、鳴き声しか使えんなら仕方ない。減点なし」
「先生」
シェーマスがまだ納得のいかない顔で手を挙げた。
「でもさ、じゃなくて、ですけど。呪文の方が速くないですか。逃げるより、その、バーンと」
「いい質問だ」
先生は白墨を置いた。
「じゃ、実験しよう。今日は杖なしって言ったけど、実験だから特別ね。志願者は……募るまでもないな、君だ」
シェーマスが教室の前に出された。先生は教室の反対の端、壁を背にして立った。距離は教室の幅いっぱい。
「ルールは簡単。俺がそっちの壁まで歩き切る前に何か唱えてみて。何でもいい。当てなくていい。唱え切れたら君の勝ち」
「え、それだけ?」
「それだけ」
シェーマスは杖を構えた。にやりと笑った。教室中が固唾を呑んだ。ネビルも呑んだ。だって教室の幅だ。歩いて五秒はかかる。呪文なら二秒で――
「はい、始め」
「リク――」
肩に、手が置かれていた。
ネビルは瞬きをした。教室の半分が瞬きをした。先生は走っていない。少なくとも走ったようには見えなかった。ただシェーマスが二音目を言い終わる前に、もうそこにいた。シェーマスの杖先は明後日の方向を向いたままで、その肩に先生の手が載っていた。
「はい、一回目。もう一回やろうか」
二回目、シェーマスは先に杖を構え、狙いをつけてから始めた。「リクタス――」まで行った。肩に手が置かれた。三回目、シェーマスは意地になって合図と同時に早撃ちを試み、盛大に手元が狂って自分の前髪の先を焦がした。焦げ臭い煙の中、肩に手が置かれた。
「はい、三回目。……前髪、大丈夫か。よし」
先生はシェーマスを席に帰した。シェーマスの顔は赤かったが、席へ戻る足取りはなぜか少し弾んでいた。
「今のが答えね。十二歳の呪文は大人の足に間に合わない。君らの詠唱より悪い大人の一歩の方が速い。これは君らが下手なんじゃなくて、体の大きさと場数の問題。あと五年、人によっては三年もすれば逆転する。だから今は先に間に合うものから教える。距離と遮蔽と大声だ。この三つは今日から間に合う」
ハーマイオニーの手が挙がった。
「では先生、呪文はいつ教えてくださるんですか」
「四回目から」
先生は即答した。
「心配しなくてもやることはやる。ただ順番が違うだけね。……逃げ方を覚えたやつの呪文は、覚えてないやつのより強いよ。撃つ場所と撃つタイミングを自分で選べるようになるから」
ハーマイオニーはしばらく先生の顔をじっと見た。反発でも納得でもない、これから時間をかけて検証しますというお澄まし顔だった。羽根ペンがまた猛烈に動き始めた。
終業の鐘が鳴る直前、先生は黒板の隅に一行書いた。
「宿題。一週間で自分の『逃げ道』を三つ見つけて書いてくること。寮でも教室でも、よく通る廊下でもいい。羊皮紙半枚」
そして書き終えた白墨を置きながら付け足した。
「あーそれから。半枚って言ったからね。長く書いたやつから減点するから、そのつもりで」
教室がざわめいた。ハーマイオニーが小さく悲鳴を上げた。
廊下は授業の話で持ちきりだった。
「決闘より怖かったって、あれ」
「いや面白かっただろ。シェーマス三連敗」
「四連敗だよ。前髪入れて」
「うっさいな!」
噂の中身が朝とは変わっていた。五百人逮捕も血の判も、誰も言わなくなっている。代わりに新しいのが一つ増えた。「肩に手が置かれるまで、足音が一度も聞こえなかった」。これは与太ではない。教室にいた全員が証人だった。
もっとも全員が先生を褒めていたわけではない。スリザリンの生徒は一様に面白くなさそうで、マルフォイは顔をしかめ、ザビニは露骨に馬鹿にした表情をしていた。グリフィンドールでも、ラベンダーとパーバティはあからさまにやる気がなかった。
「くたびれたおじさんだもの」
と文句を言っていたのがラベンダーだ。
「ロックハート様の足元にも及ばないわ」
「逮捕された人を様付けするのはどうかと思うけど。それに――」
ハーマイオニーのお説教がガミガミと飛んで、女の子たちは姦しく言い争い始めた。その脇を足早に通り過ぎるネビルの耳には、前を歩くハリーとロンの会話が届いていた。
「……あのさ。あの先生、僕らのこと一回も『あの夜の二人』って扱いしなかったよな」
「うん」
「柵とか車とか、授業で一言もネタにしなかった。スネイプなら十回は言ってた」
「二十回だね」
ロンは制服の内側を軽く押さえた。
「……それに杖なしがあと二回ある。あと二回は隠し通せる」
大人はふつう、一度やらかした生徒をずっとやらかした生徒として扱う。ネビルはそうでない大人を初めて見た気がした。
その夜、グリフィンドールの談話室でネビルは宿題をやった。肘をつくでも天井を仰ぐでもなく、羽根ペンが動いた。談話室の逃げ道。一つ、肖像画の穴(正規の出入口)。二つ、窓(三階だが、真下に屋根の張り出しがある。降りられるかは要検討と正直に書いた)。三つ、暖炉――
「三つ目、暖炉は無理だと思うわ」
いつの間にか、ハーマイオニーが隣から羊皮紙を覗き込んでいた。
「二年生の体格でも途中の曲がりで詰まるもの。先生が言ってたのは、たぶん一階の広い煙突のことよ。寮の煙突は細いの」
「で、でも、体格次第なら通れるって」
「その体格の子でも曲がりは通れない。太さの問題じゃなくて形の問題なの。……ちょっと待って、私、寮の煙突の構造を調べてくる」
ハーマイオニーは本気の顔で階段へ消えていった。ネビルは羊皮紙を見下ろした。三つ目の候補を考え直さなければいけない。男子寮の窓はどうだろう。あそこの下は――
途中で羽根ペンが止まった。いま自分はハーマイオニー・グレンジャーと宿題の中身の話をしていた。訂正はされた。馬鹿にはされなかった。
ネビルは羊皮紙をもう一枚出した。宿題用ではない。手紙用だ。
書き出しを三回失敗した。おばあちゃんへ、ぼくは元気です。違う。おばあちゃんへ、新学期が始まりました。違う。おばあちゃんへ、心配しないでください。ぜんぜん違う。
四回目に短く書いた。
『おばあちゃんへ。
新しい防衛術の先生に、「いい判断だ」と言われました。
ぼくにです。』
インクが乾くのを待つ間、ネビルは暖炉の火を見ていた。懐の中でトレバーが身じろぎした。三動作のうち二つができる、減点なしのヒキガエルだった。