“業務日誌
在ホグワーツ魔法魔術学校 日野道広
九月分
本日誌の作成はいかなる規程にも基づかないが、書く。日誌がないと月例報告が書けず、月例報告がないと役人は自分が何をしていたか思い出せないからである。”
九月七日(月) 晴れ
授業立ち上げ、二週目。全学年が一巡した。所感を記す。
一年生。素直である。母校の学生たちよりも精神的には健康優良児が多いようだ。三動作の吸収が早い。廊下で一年生同士が「動く床は、床じゃない」と唱和しながら階段を待っているのを見た。誰が流行らせたのか知らないが、いい標語だ。考えた奴は褒めてやりたい。
五年生。レイブンクローとハッフルパフ合同授業の初回、着席するなり最前列のレイブンクロー生が挙手して言った。
「先生。それ、O.W.L.に出ますか」
O.W.L.。普通魔法レベル試験。筆記と実技に分かれた、英国における五年次の全国統一試験である。知らんと正直に答えたところ、教室の温度が目に見えて下がった。まさか義務教育で温度を下げられるとは。
対応を検討した。試験があるなら当たるべきは過去問だ。過去問のない試験対策はなく、対策のない受験は事故だ。
まずフリットウィックに頼んで過去十年分の試験問題綴りを借りた。フリットウィックから何に使うのかと尋ねられた際には、率直に言って大変気まずかった。いくらなんでも、あんたのところの五年生が授業を聞く気がないからだとは言えない。週末で傾向を割り、月曜には分析表を刷って配った。
「試験に出るから覚えることと、命に関わるから覚えることは、別の話だから。両方やるし、両方できるように時間割は組んであるよ」
最前列の生徒が、表を胸に抱いて何かを拝む仕草をした。拝むなら過去問を作った歴代の試験委員を拝め。
九月十一日(金) 曇り
四年生。グリフィンドールとスリザリン合同授業の教室扉に、仕掛けがあった。
扉上部にインク瓶。浮遊術で固定し、開扉と連動して傾く構造。入室時に髪の毛一本分の魔力の張りを感じたので、半歩ずらして入った。インクは俺のいた場所に落ち、床で景気よく弾けた。教室の後方ではそっくりな赤毛が二人、露骨に肩を落としていた。ドレッドヘアの少年がそれを見てゲラゲラ笑っている。
古典的な面白さに免じて減点はしなかった。代わりに床のインク溜まりを教材にして講評をやる。
「はい注目。今の仕掛け、講評します。まず起爆位置はいいね。扉ってのは人の流れの首根っこだ。全員が必ず通って、必ず速度が落ちる。狙いどころとしては満点ね。魔力の張りが強すぎたのは減点。感度を上げるなら出力は絞るもんだ。それと一番の問題は観測位置」
俺は後方の赤毛二人をまっすぐ指した。
「犯人ってのは自分の成果を見たがって、現場に戻るか残る。具体的には一番無関係そうな顔をしてじっくり観察できる位置の――ほら、ちょうどそこの二人ね」
教室が沸いた。当の二人は観念するかと思いきや、立ち上がって深々と一礼した。片方が「質問です先生! 観測位置の正解は!」と叫んだ。「さっきの逆、現場に体を残すな」と答えたら、二人揃って手帳に書き取っていた。何のための手帳だ。
罰は後始末と、再発防止策の書面提出(様式自由)とした。翌日提出された書面は、犯行動機・手口・反省点・改善案が整理された、腹立たしいほど出来のいい報告書だ。これなら局長級の判も即座に押されるだろう。
日誌所感:四年生二名(F・ウィーズリー、G・ウィーズリー)、報告書作成の才あり。進路指導の参考とされたい。なお両名は以後、廊下ですれ違うたび敬礼してくる。やめてほしい。
同日、二年生のグリフィンドールとスリザリンの合同授業。例の髪を撫でつけた家柄の坊やが、実技の列に並びながら言った。
「僕の父上は理事会に籍があるんですが。この……逃げ回るだけの授業のことを、父上がどう思われるか」
「あー、保護者のご意見ね。文書で受け付けてます。様式は職員室前の棚。記名式」
坊やの顔が一瞬詰まった。記名式が効いたらしい。
家格のある家の子は、家の名前を杖より先に抜く。国が変わっても変わらない。日本の名門の坊やも、名門の種類に関わらずまったく同じ顔で、まったく同じ台詞を言う。「父が」「うちが」「分かってるんですか」。定型には定型で返すのが役所である。
なお当該生徒、実技の筋は悪くない。遮蔽の選択が的確だったので普通に加点した(スリザリンに五点)。褒められ方の分からない顔も万国共通だ。
九月十二日(土) 晴れ
逃走車両、捜索第四回。ハグリッド立ち会い。森の入口から半里、轍と、車高の分だけ折られた下枝を確認。獣道ならぬ車道ができつつある。いや林道か? これが登山なら、正規ルートと間違えて先に行きたくなる雰囲気があった。
遭難原因の量産者は例によって、こちらの気配で逃げる。エンジン音が煽るように二度吹けて、消えた。
「ありゃあ、先生よ。もう森のもんだ」
ハグリッドは楽しげにそう言った。所有権の自然放棄と、無主物先占の成立。法的整理としては一考の余地があるが、業務では簡潔にこう書く。
車両、依然未確保。次回に期す。
なお帰路、木立の奥に弓を持つ人影を視認。会釈したところ、返礼なく消えた。ハグリッドは次のようにコメントした。
「ありゃケンタウルスだ。あいつらは、そう、ちぃーとばかし気難しい連中でな。気にせんでいい」
気にせんでいい相手が弓を持っているか。要情報収集。
九月十四日(月) 雨
負傷事案の記録整理を一件。土曜朝、クィディッチ競技場にて生徒間の口論があり、その最中、二年生男子(R・ウィーズリー)の杖が暴発、本人がナメクジを嘔吐し続ける事態となった由。手当はハグリッド小屋にて。快復済み。
事実関係を拾いに行って、聞き慣れない単語に会った。口論の発端で、スリザリンの生徒(D・マルフォイ、例の坊や)がグリフィンドールの生徒(H・グレンジャー)に投げた言葉だ。直訳は「泥の血」。前後の口論を加味して意訳すれば「穢れた血」あたりだろうか。ロックハート本の読みすぎをまだ引きずっている。
綴りを確認して、意味をマクゴナガルに訊いた。マクゴナガルは眼鏡の奥の目を一度伏せて、それから抑えた声で説明した。魔法族の血統を持たない家の出身者への、最も卑しい侮辱であること。口にすることすら憚られる言葉であること。この学校で、決して聞きたくなかった言葉であること。
「野蛮に聞こえるでしょう。恥ずかしいことです」
俺は礼を言って職員室を出た。
生憎、聞こえなかった。
血で人を格付けする悪意の型を、俺は知っている。縁談の席で囁かれる「あちらの家は御一新の前に」を知っている。私塾の入塾面接で家系図の写しを求める塾を知っている。戦国から捏造され続けて、いまさら誰も本物を知らない系図の値打ちを知っている。語彙が違うだけだ。マッドブラッドと、あの囁きと。マクゴナガルは自分の国の言葉として怒っていた。俺は――
そこまででやめた。日誌には書くことだけ書く。生徒間の侮辱表現一件。指導は寮監に一任。以上。日誌のいいところは、書式があることだ。書式のあるものには、書かなくていいことが最初から決まっている。
事案の技術的な核心は別にある。破損した杖の暴発だ。聞けばウィーズリーの杖は、例の九月一日の墜落で折れたきり、スペロテープ巻きで使用継続中だという。折れた杖は直らない、買い替えるしかない、というのが英国の常識だそうだ。そして杖は安くない。
問題は目前に迫っている。二年生はそろそろ呪文の授業に入る。折れた杖は教室で必ずまた暴発する。ナメクジで済んだのは運だ。
学校に予備の杖はないか、ダンブルドアに照会した。ないとの回答である。「必要なら、わしのを貸そうかの」とも言われた。丁重に断った。国際魔法戦士連盟に属していた校長の杖を十二歳に貸す学校が、俺の知る限り、この世に一つあるらしい。あってたまるか。
武器を日常的に携行させる学校に、予備の武器の備蓄がない。武器という認識がそもそもないのだろう。次に予算請求を検討した。教材費の費目一覧を確認したところ、杖の費目が存在しなかった。各家庭の負担という百年来の建て付けらしい。費目のないものは、この世に存在しないのと同じである。役所とはそういうものだ。英国も役所だった。安心した。安心してから、腹が立った。
最後の手段として、備品の物置を当たることにした。
九月十九日(土) 曇り ※二十一日(月)までまとめて記す
備品管理の主は飛行訓練のマダム・フーチだった。鷹のような黄色い目の、きびきびした人である。
競技場脇の物置は箒の柄油の匂いがした。手入れされた箒が年式順に並び、クアッフルの木箱が積まれ、そして最奥の棚に埃をかぶった細長い箱があった。
「杖? ここにあるのはガラクタだよ」
箱の中身は十数本。歴代の落とし物、没収品、退学者の置き土産。どれも古傷持ちで、ひび、芯の露出、柄の欠け。要するに死にかけの群れだ。
「ガラクタで結構です。頂けますか」
「好きにしな。……あんた、直せるのかい、それ」
「多少は」
「ふうん」
フーチは俺の顔をしばらく見た。
「箒の整備予算もね、年々削られてるんだ。備品ってのは命を預かるのにさ。直せるってんなら、箱ごと持っていきな。ついでに言っとくと、うちの練習用の箒も三本、癖が出てる。いつか見とくれ」
話が早い。この学校で話の早い相手はこれで三人目である。副校長、森番、飛行訓練教師。役職に共通点があるとすれば、全員、現場の人だ。
さて。
杖は管轄外だ、と俺は先日、生徒に言った。言ったことに嘘はない。管轄外である。管轄外と専門外は違うし、そもそも管轄外の仕事を予算なしでやるのが日本の役人だ。
日曜、中庭の隅に石壁を背にした作業場を作り、箱を開けた。
杖の闇修理は母校で流通していた。正規の修理、つまり正規の杖職人に出す修理は、高い。買うよりもっとだ。歴史と伝統のある鎌倉や西陣の杖職人なら目玉が飛び出る。博多や酒田、七戸、大阪でも扱いはあるが、やはり高い。要するに我が母校の寄宿舎には、杖を折っても親に言えない生徒が毎年一定数いる。受験期の親に「杖を折った」と告げるのは、家によっては留年を告げるより重い。
だから非公認の整備法は規則のどこにも存在しないまま、消灯後の寄宿舎の洗い場や実技棟の裏手の石段、要するに教員の巡回が薄い場所で、たぶん俺が入る前から受け継がれてきた。折れた本人には見せずに直してやるのが作法だということまで含めて、先輩から後輩へ、口伝と実演だけでだ。
俺も受け継いだ側だ。二十五年前に。俺自身の杖を直した先輩から。
記憶と格闘した。蜜蝋。芯には――触れさせない、だったはずだ。いや、髪の毛一筋分だけ触れさせて「呼び水」にすると言った先輩もいた。麻糸の巻きは時計回り。北半球では。南半球の話は聞いていない。ここは北半球だ、よし。継ぎ目に朱を一点。朱は何でもいいわけではなく――何だったか。
あの先輩は確か「気持ちの問題だ」と言った。気持ちの問題で杖が直ってたまるか、と当時は思った。今は先輩の気持ちが少し分かる。
半日やって、蜜蝋を溶かしすぎて一本駄目にし、糸の巻き向きを間違えて一本を左巻きの癖物にし、指を二回焼いた。
それでも夕方までに三本が実用域に入った。石壁に向けて試射を重ねる。発光呪文、良好。武装解除、威力七割だが素直。浮遊、問題なし。癖物の一本も撃つたび左に曲がるだけで、曲がり幅が一定なので使いようはある(曲がると分かっている杖は、曲がるかもしれない杖より安全だ)。残りは薪とした。
月曜、二年生の教室で告知した。
「連絡。今後の呪文の授業では、教材杖を使えます。自分の杖の調子が悪い者、体に合ってない気がする者は、授業の前に申告ね。理由は訊かない。申告は毎回でいい」
理由は訊かない、のところで、教室の一角の赤毛が微動だにしないままこちらを見た。目が合う前に、俺は黒板に向き直った。
制度というのは名指しをしないためにある。
九月十四日(月) ※※後日追記分
夕食の大広間で、定点観測を一件。
グリフィンドール卓の端、一年生の赤毛の娘。ウィーズリー家の末子だ。顔色が悪く、食が細い。周囲との会話も少ない。
職業柄、順番に当たる。九月の一年生としてはよくある像だ。初めての寄宿、初めての集団生活、兄が四人もいる家の末っ子が初めて一人になる九月。ホームシックと疲労の範疇。経過観察、優先度・低。
良美と、同い年か。
娘の九月もこんな顔色だったろうか。南硫黄島の食堂の隅で。俺はそれを見ていない。見られる場所にいなかった。
観察を終える。日誌に一行。一年生女子一名、経過観察。
物差しに娘を使うのはやめだ。観察が濁る。
九月二十五日(金) 雨
夜間巡回中、二階(そういえば、英国は階数表記が日本と違う。慣れるのには少し時間がかかった)で異音。
東側廊下の女子トイレ(故障中の掲示あり)から水音。誰何して立ち入り。床は冠水。個室、無人。手洗い場、異常なし――と判断した直後、一番奥の便器から、水柱とともに何かが噴出した。
幽霊だった。分厚い眼鏡の、若い娘の幽霊である。
「出たわねッ! ここは私のトイレよ! 誰なの、あなた! ……あら」
幽霊は空中で急停止し、俺をしげしげと眺めた。
「……見ない顔。新しい先生? ふうん。で、あなたも私を笑いに来たの? 嘆きのマートルを?」
「いや。水音の点検です。あなた、ここの住人?」
「住人!」
幽霊は水柱の上で胸を張った。
「住人よ! 五十年! 誰も認めてくれないけど!」
「五十年。じゃ、この設備の経緯に詳しいね。少し話を聞かせてもらえる?」
幽霊が、ぴたりと止まった。
「……話を、聞く? 私の?」
「うん。差し支えなければ」
「差し支えないわ!!」
以下、聴取記録の要旨。ただし要旨にできた部分だけである。実際は二時間だった。翌朝のコーヒーは地獄のように濃くする必要があった。
証人はマートル(姓は「思い出したくないの」とのこと。要再確認)。五十年前の在校生。当時、オリーブ・ホーンビーなる同級生に眼鏡を嘲笑され、この個室で泣いていた。そこへ誰かが入ってくる音がした。男の声だった。何か喋っていたが、言葉が分からなかった。英語ではなく「作り話みたいな、変な言葉」だったという。ここは女子トイレなのにと思い、出ていきなさいと言うために個室の鍵を開けた。
「それでね、それでね、私、死んだの!」
証人は心底楽しそうにそう言った。五十年間、この話を聞いてくれる相手を待っていた顔だった。
「覚えてるわ、はっきり。扉を開けたでしょ。そしたら、目が見えたの。大きな、大きな黄色い目玉。手洗い場のあっちの方に。それでね――それだけ! 次の瞬間、体がふわーっと軽くなって、浮かんでて、下に私が倒れてて。素敵じゃない? 痛くも痒くもなかったのよ。私、そこは運が良かったと思うの」
「その目玉、高さは。あなたの目線より上? 下?」
「知らないわ。だってすぐ死んだんだもの。ねえ、私のお葬式の話、する?」
「後で聞く。高さの話に戻ろうか」
「誰も泣かなかったのよ、私のお葬式」
死んだ場所はここ、と証人は一番奥の個室を観光案内のように指し示した。それから問わず語りに、死後、件のオリーブ・ホーンビーに憑いて回った五年間の顛末(妹の結婚式まで追跡した由)、魔法省の指導で付き纏いを禁じられた無念、以後この便器で暮らしている経緯を、涙と水飛沫とともに詳述した。
聴取を終えると、証人は名残惜しそうに水面から半分だけ出て言った。
「あなた、聞き上手ね。五十年で初めてよ、私の死に方を最後まで聞いた人。……また来てくれる?」
「来るよ。仕事柄、また訊きたいことが出ると思う」
「素敵! 待ってるわ! 死ぬほど暇だから! ――あら、私もう死んでるんだったわ! あはははは!」
宿舎に戻り、日誌の前に、手帳へ整理した。
五十年前。校内で生徒が一名、死亡している。
外傷なし。苦痛なし。即死。直前に「変な言葉」の男声。死の間際に視認したのは「大きな黄色い目」。目線に対する高さは、証人の関心の外。現場は二階女子トイレ。そしてこの死の記録を、俺はまだ校内のどこでも見ていない。
前任者の死に紙がなかった。五十年前の生徒の死にもたぶん紙がない。書類にされなかった死は、原因が潰されないままそこに残る。
日誌にはこう書いた。
通番六十三、二階東・女子トイレ。故障常習、慢性冠水。居住者一名(幽霊、協力的、ただし情緒に難あり、聴取は時間に余裕を持つこと)。当該居住者は五十年前、当所において死亡した由。死亡記録の有無、要照会。
九月三十日(水) 晴れ
月末である。
就寝前の手入れをする。小皿に塩を盛り、水を替え、袖の呪符を新しいものに通す。手順は父から、父は祖父から。海を渡っても変えていない。
うちのは、静かだった。皿の塩は、朝にはほんの少し減っている。二十年それで済んでいる。行儀がいいと折居の婆様は言った。行儀よくさせているのが誰の何のためかは、婆様はたぶん、あれも全部見えていた。
手入れを終え、机で業務日誌の月末総括を書いた。五分で書けた。
それから便箋を出した。
『良美へ』
書いて、止まった。授業の話は自慢のようだ。英国の話は、遠回しに「父は大変だ」と言っているようだ。体調を訊けば尋問のようだし、勉強を訊けば母さんと同じ小言だ。
『良美へ。調子はどうだ。』
『良美へ。ここの秋は日本よりも早く来るようだ。』
二時間の間に三度試みた。試みの残骸は睡眠時間と共に屑籠へ積み上がった。業務日誌は五分で書ける。書けない紙ほど時間を食う。
便箋は抽斗に戻した。また今度にする。今度がいつかは、追って定める。
日誌の総括欄には、こう書いて九月を締めた。特記事項なし。平常運転。書いてから、少し考えて括弧を足した。
(当社比)