【本日の作業】
第3機械加工棟 天井水銀灯のLED化更新工事
【重点安全目標】
高所作業における墜落・転落防止および規定昇降設備の完全使用
【指差呼称】
サビハラ「昇降設備ヨシ! 墜落防止用器具ヨシ! 7メートル高所作業、足元注意、ヨシ!」
全員「「「7メートル高所作業、足元注意、ヨシ!!」」」
* * *
猫山工業株式会社の朝は、油煙と錆の匂い、そして形骸化した安全唱和の乾いた響きとともに幕を開けた。
朝礼看板に掲げられた「ゼロ災で行こう、ヨシ!」のスローガンを背に、設備保全課の一同は意気揚々と第3機械加工棟へと足を踏み入れたのである。
天井を見上げれば、そこは遥かなる高みであった。
巨大なH鋼が縦横に走るスレート屋根の直下、およそ7メートルの暗がりに、長年放置されて笠にびっしりと油埃を纏った旧型水銀灯が整然と並んでいる。
水銀灯の真下には、事前に回送しておいた鮮やかな黄色塗装の自走式高所作業車が鎮座していた。作業床を垂直に持ち上げるシザースリフトの頑強なフレームを前に、見習い猫のミケノは首から提げた作業手順書を熱心にめくり、三毛柄の耳を緊張でピンと立てていた。
「うわあ……高いなあ。これ、落っこちたら本当にひとたまりもないですね。でも、ちゃんと規定通りの高所作業車を使うし、バスケットの手すりもあるし、手順書通りにやれば僕でも――」
「おいミケノ、余計な心配してねぇでさっさとLEDの箱降ろせ! 午前中でパパッと終わらせて午後は詰所で甲子園見るんだからよ!」
トラジマが真新しい段ボールを雑にフォークリフトのパレット脇へ放り投げる。黄色いヘルメットのあご紐は、当然のようにプラプラと遊んでいた。
「あ、トラジマ先輩、あご紐緩んでますよ。あと高所作業車の鍵、シライさんが持ってるんですよね? 作業計画書だと、まずは作業半径のカラーコーン設置と、アウトリガーの張り出し確認からって書いてありますけど……」
「おうシライさん! 鍵頼むわ! チャッチャとバスケット上げて電球引っこ抜いちゃおうぜ!」
トラジマの威勢のいい呼びかけに、ツールバッグを肩にかけたシライが、人当たりのいい笑みを浮かべながら近寄ってきた。その白い毛並みはいつも通り手入れが行き届き、いかにも温厚で仕事ができそうなベテランの風格を漂わせている。
シライは作業着の胸ポケットに手を突っ込んだ。
そして、首を傾げた。
「あれ?」
シライは次にズボンの右ポケットを探った。続いて左ポケット、尻ポケット、果てはツールバッグの奥底まで手を突っ込み、やがて視線を虚空へと泳がせた。
「……あ、忘れちゃった」
「はい?」
ミケノの耳がピクリと跳ねる。
「高所作業車の鍵ね、本館事務所のキーボックスから出して……ホワイトボードの前に置いたところまでは覚えてるんだけど、そのあと持ってくるの忘れちゃった」
「ええ! ここから本館事務所まで徒歩で往復30分くらいかかりますよ!? 構内連絡用の自転車も昨日トラジマ先輩がパンクさせたまま放置してるから、歩くしかないです!」
ミケノの悲痛な叫びを、傍らで腕組みをしていたクロブチが煙たそうに遮った。火のついていない咥えたタバコをもごもごと動かしながら、だるそうに事務所の方角を睨みつける。
「あー……だりぃ。こんなクソ暑い中、往復30分も歩いてられるかよ。戻ってくる頃には午前中終わっちまうぞ。シライさんよぉ、ドライバー突っ込んで回せねぇのかあの作業車」
「直結はちょっとねえ。 盗難車みたいに始動させて壊れちゃったらイヤだし」
「何を騒いでおるんじゃ、若造どもが」
重々しい足取りで割って入ってきたのは、現場の生ける化石、勤続40年のサビハラであった。擦り切れて地の色が抜け落ちた作業服に、安全帯の代わりに腰に巻かれた謎のトラロープ。歴戦の主は、呆れたように鼻を鳴らした。
「鍵がないなら無いで知恵を絞らんかい。ワシが若い頃はな、高所作業車なんぞという軟弱なハイテク機械は現場に無かったわい。遊んどる暇があったら体を持ち上げるんじゃ。現場で一番大事なのは『段取り八分』と『あるものを活かす応用力』じゃぞ」
「さっすが、サビハラ師匠! 足りぬ足りぬは工夫が足りぬ、っすね!」
トラジマがパチンと指を鳴らし、工場の片隅をギラついた目で見つめた。そこには、出荷場から回収されてうずたかく積まれた、無数の木製パレットの山があった。
「なぁなぁ、水銀灯の高さって7メートルっしょ?」
「え、あ、はい。図面ではフロア面から6.8メートルですけど……」
「このパレット、厚みどれくらいある? 1枚15センチくらいあんじゃね?」
「まあ、標準的なJIS規格パレットなら14.4センチですけど、それが何か……」
トラジマは満面の笑みを浮かべ、両手を広げてみせた。根拠なき全能感に満ちあふれた、いつもの「ひらめき」の表情であった。
「簡単な算数だろ! 15センチのパレットをよぉ、40枚くらいダーッと積み上げたら……ほら、それだけで6メートルじゃん! あとはフォークリフトでちょいと持ち上げりゃあ、7メートルなんて余裕で手が届くっしょ!!」
「……は?」
ミケノの思考が完全に停止した。
今、この先輩は何と言ったのだろうか。パレットを40枚。積み木のように。工場の中で。7メートルの高さまで。
「待って待って待って! ヤバいヤバいヤバすぎる!! 40枚の木製パレットタワーなんて自立するわけないでしょ!? ちょっと重心がズレただけでジェンガみたいに崩落しますよ! そもそもフォークリフトを高所作業の足場にするのは安衛法でガチガチに禁止されてます!!」
「おいおいミケノ、教科書通りのことばっか言ってっと現場じゃやっていけねえぞ? パレットなんてもんは元々重たいモンを載せるために作られてんだから、俺たちが一人や二人乗ったところでビクともしねぇっての!」
「そういう問題じゃないです!!」
ミケノが必死に制止を試みるが、すでに周囲の空気は最悪の方向へと加速し始めていた。
「ほう……積みパレか。悪くねぇな」
クロブチが顎をさすりながら、手際よく近くのフォークリフトのスイッチ類を弄り始めている。
「うーん、そうだねぇ」
シライが穏やかに微笑みながら頷いた。
「事務所まで鍵を取りに往復する移動時間と外の気温を考えたら、今ここにあるパレットを使った方が圧倒的にラクだし合理的だよね。私も手伝うよ。フォークリフトの運転、だいぶ久しぶりですけど覚えてる……と思いますし」
「『思います』って、大丈夫なんですか?」
「ガハハ! 決まりじゃな!」
サビハラが豪快に笑い、トラジマの背中をバシバシと叩いた。
「ワシら昔の職人はみんなそうやって工夫して現場をこなしてきたんじゃ。足元がグラついたら重心移動でバランスを取れば落ちん! 落ちるのは気合が足りんからじゃ! トラジマ、お前が一番身軽じゃ、上に乗って電球をひねってこい!」
「よっしゃ任せてください師匠! いけるいける、大丈夫だって! パレットは天下の回りもの! 崩れるわけがない! パレットタワー昇降作戦、ヨシ!!」
トラジマが力強く指差呼称を繰り出し、クロブチがガチャリと爪にパレットを突き刺す。シライは呑気に荷締めベルトを探し始め、サビハラは腕組みをして満足げに頷いている。
目の前で急速に組み上がっていく、地上7メートルの木製バベルの塔。
ミケノはヘルメットを押さえ、絶望に震える声で叫ぶことしかできなかった。
「どうして……どうして誰も鍵を取りに行こうとしないんですか?」
* * *
フォークリフトの爪が木製パレットの差し込み口を乱暴に抉る鈍い音が、静まり返った第3機械加工棟の鉄骨に反響した。
パレットを地上から積み上げ始めて早々に、トラジマは根本的な物理的限界にぶち当たっていた。手元のパレットを1枚、また1枚と重ねていくものの、8枚を超えたあたりでパレットの天面はトラジマの胸の高さを越え、10枚目になると顔の高さに達したのである。
「あ、あれ……? なあクロブチさん、問題発生だわ! 40枚どころか、もう手元がおぼつかねぇ! 11枚目を持ち上げようとしたら腰がピキッていったし、そもそもこれ以上高くなったら手が届かねえっすよ!」
「ばかやろー、問題ねえよ」
クロブチは手袋を口でくわえて外すと、呆れたように吐き捨て、フォークリフトの油圧レバーに手をかけた。
「アタマ使えよ。10枚くらい積んだらリフトでそいつを丸ごと持ち上げる。浮いた隙間に、下から5枚くらい新しいやつを突っ込んで重ねる。そしたら爪を抜いて、一番下からまた全部持ち上げて下に突っ込む。その繰り返しだ。これなら延々と作業できるだろ」
「……て、天才かよ!!」
トラジマの目が爛々と輝いた。まるでエジプトのピラミッド建設を支えた古代の叡智を目の当たりにしたかのような、純粋無垢な感銘であった。
「すげえ! 逆転の発想ってやつだ! さすがクロブチさん、保全課のIQ担当! これなら何枚でも無限にタワーが組めるじゃん!」
「馬鹿なことを言わないでください!!」
ミケノの絶叫が炸裂した。額から冷や汗が滝のように流れ落ち、被り直したばかりのヘルメットの隙間から耳が完全にペタリと伏せられている。
「それ、ただの不安定な積み木の底上げじゃないですか! パレットってのは平らな地面に水平に置くから安定するんであって、歪んだ廃パレットを何十枚も重ねて下からジャッキアップしたら、重心がずれた瞬間に全部横滑りして木っ端微塵になりますよ! そもそも、仮に40枚積み上げたとして――」
ミケノは組み上がりつつある不安定極まりない木材の塔を見上げ、震える指を突きつけた。
「あとからどうやってその頂上に乗るんですか!? はしごも階段もないんですよ!?」
トラジマとクロブチは一瞬顔を見合わせ、それから「何を当たり前のことを」と言わんばかりの表情でミケノを見下ろした。
「あ? 爪刺す用の穴を足場にして、ボルダリングみたいに登りゃいいだろ。パレットなんだから四方に穴が開いてんだ、手掛けも足掛けも選び放題じゃねえか」
「木製パレットの隙間には釘とかササクレがびっしり出てるんですよ!? 刺さりますって!」
「チッ、細かいことばっかギャーギャーうるせえな……。爪の穴を登るのが嫌なら、今のうちに乗っとけ」
「……え?」
ミケノの脳裏に、KYTで見たどんなイラストよりも不吉なヴィジョンが浮かび上がった。
「え、今……なんて?」
「だからよぉ! 今のうちに一番上のパレットに立っときゃ、リフトで下からパレットを継ぎ足すたびに、エレベーターみたいに自動的に7メートルの天井まで運ばれるって寸法だ! 手も足も痛くねぇし疲れない! なあシライさん、合理的だろ?」
「うん、とってもスマートだねぇ。移動の手間が省けるのは素晴らしいカイゼン活動だよ」
シライがどこから持ってきたのかもわからない缶コーヒーをすすりながら、菩薩のような笑みで頷いた。すでに彼の頭の中から「高所作業車の鍵を取りに行く」という選択肢は完全に消滅していた。
「カイゼンが必要なのはいまこの状況です! やめて、押さないで! トラジマ先輩、背中を押さないでくださいッ!!」
「ほら乗った乗った! 若いうちは何でも経験だぞミケノ! 男を見せろ!」
「ぎゃあああああ!!」
トラジマの強引な手引きによって、ミケノは10枚重ねのパレットの天面へと登らされた。
最上段で四つん這いになったミケノの肉球に、ささくれ立ったスギ材のざらついた感触と、錆びた丸釘の頭の冷たさがダイレクトに伝わってくる。
「ガハハ! 男を上げたのお、ミケノ!」
下から見上げるサビハラが、煙管代わりに咥えた割り箸をもてあそびながら豪快に笑った。
「昔の職人はな、足場の丸太が一本あればその上で昼寝をしたもんじゃ。それに比べりゃパレットの上なんぞ畳敷きの大広間みたいなもんじゃろ! さあクロブチ、ドカンと持ち上げてやれ!」
「へいよ! じゃあ、シライさん、運転交代。フォークの爪を一番下まで差し込んでくれ。おれが横から次のパレットを蹴り込むからよ」
「了解です〜。ええと、爪を上げるレバーは……これだったかな?」
シライが運転席に座り、おぼつかない手つきでレバーを握りしめた。
プシューッという不穏な油圧の解放音とともに、フォークリフトのマストがギシギシと悲鳴を上げ始める。
「ちょっと待ってシライさん、 そのレバーはチルトレバーじゃ……」
ミケノの警告が響き渡るのと同時に、パレットの土台がガクンと前方に5度傾いた。
足元の木製タワー全体がメキメキと音を立ててたわみ、ミケノの体が重力に引かれて斜面を滑り落ちかける。
「おっといけない、こっちがリフトだったねぇ」
シライが穏やかにレバーを戻すと、今度はガクンと垂直方向に跳ね上がった。
浮き上がった10枚のパレットの底に、トラジマとクロブチが「せーのっ!」と息を合わせて廃パレットを力任せに5枚突っ込む。ガコン!と噛み合わない木材同士が衝突し、乾いた木屑が粉雪のように周囲へと舞い散った。
「ヨシ! 15枚入ったぞ! 次いくぞ次!!」
「もっと突っ込め! 40枚まであと25枚じゃ!!」
「ひ、引き返して……! 今ならまだ高さ2メートルです! 骨折くらいで済みますから、今すぐ降ろしてくださーーいッ!!」
パレットのタワーは、一段、また一段と、確実に狂気の高みへと迫りつつあった。
油圧シリンダーが唸り、フォークの爪が鈍い金属音を響かせるたび、木製パレットの塔は確実にその異様な高さを増していった。
15枚、20枚、25枚――。
地上では、トラジマとクロブチが息の合った連携でフォークリフトが持ち上げた隙間に廃パレットを力任せに蹴り込み、運転席のシライがおぼつかない手つきで昇降レバーを操作していた。サビハラは腕組みをし、「うむ、柱が少し西に傾いとるぞ! 30枚目は反りのあるヤツを逆向きに噛ませて帳尻を合わせんかい!」などと、独自の建築力学で現場を指揮している。
そして、ついにその時が訪れた。
「よっしゃあーーッ! 40枚ジャスト! 完成だオラァ!!」
トラジマの勝ち誇った雄叫びが、がらんとした第3機械加工棟にこだました。
そこに出現したのは、JIS規格パレットをひたすら垂直に積み重ねただけの、全高およそ6メートルに達する「木製ジェンガタワー」であった。経年劣化で黒ずんだ木材、ささくれ、飛び出した丸釘、そして油を吸って歪んだ板材が織りなすそのシルエットは、近代的なメーカー工場内において明白に異形であり、ピサの斜塔も裸足で逃げ出すほどの不気味なしなりを見せていた。
そしてその最上段、フロア面から6メートルの虚空に取り残されたのが、全身の毛を逆立てたミケノであった。
「……ひ、ひぃ……ッ! た、高すぎる……! 風が吹いてる……屋内なのに隙間風でタワーが揺れてるぅぅ……ッ!」
ミケノはパレットのすのこ板に四肢の爪を限界まで突き立て、這いつくばったまま一歩も動けなくなっていた。見下ろせば、地上の4人は親指ほどの大きさにしか見えない。ヘルメットのあご紐を締め直す余裕すらなく、冷や汗が鼻先から滴り落ちて、木パレにシミを作る。
「おーいミケノ! 何ビビってんだ、さっさと立ち上がって作業終わらせようぜ!」
下からトラジマの呑気な声がメガホンのように響いてくる。
「水銀灯の真下だぞ! 手を伸ばせばすぐそこだ! チャチャッと笠の留め金外して電球回せ!」
「む、無理です!! 立てません!! 足元がグニャグニャたわんでます! そもそもこれ、重心が完全に僕の体重だけで保たれてる状態ですよ!? 1ミリでも動いたら死にます!!」
「何を弱音を吐いとるか若造が!」
サビハラがメガホン代わりに丸めた安全ポスター越しに怒鳴り散らした。
「四肢で踏ん張るから怖くなるんじゃ! 爪先立ちでスッと背筋を伸ばせば、体幹が一本の芯になってグラつきなど気にならんわい! ほれ、ワシの若い頃は鉄骨の上でワルツを踊ったもんじゃぞ!」
「踊れるわけないでしょ!!」
「ミケノ君、早くしないと10時の休憩が始まっちゃうよ〜」
シライがフォークリフトから身を乗り出し、穏やかな笑顔で手招きしている。
「大丈夫、私がいい感じにフォークを操作してあげるからね。万が一の時も安心だよ」
「全然安心じゃないですよね!?」
「チッ……しょうがねぇな、おれがちょっとリフトのチルトを前傾させて、水銀灯に近づけてやるよ」
クロブチが運転席のシライの横から手を伸ばし、乱暴に油圧レバーを引いた。
「あっ、クロブチさんダメ――」
ガクンッ!!
重機特有の容赦ない衝撃がタワーの最下層を揺らした。
パレットの隙間という隙間から、長年堆積していた木屑と乾いた粉塵がブワッと噴煙のように吹き上がる。
「ぎゃああああああああっ!?」
ミケノの悲鳴とともに、木製タワー全体が弓なりにしなった。
だが、その揺れによって奇跡的にも天面のパレットが水銀灯の直下数十センチの距離まで押し出されたのである。
頭上には、直径50センチほどの巨大なアルミ製の水銀灯の笠。その中央に、白熱して冷め切った巨大なガラスバルブが鎮座していた。
「ほら見ろ! 届くじゃねぇか!」
「手を伸ばせミケノ! 掴めッ! 一発でキメろ!!」
クロブチが自慢気に鼻を鳴らし、トラジマが手を叩いて囃し立てる。
極限の恐怖と、地上の先輩たちからの無慈悲な同調圧力。思考が完全に焼き切れたミケノは、もはやこの地獄から生還するには電球を外して降りるしかないという狂気の結論へと追い詰められた。
「う……うわあああああッ!!」
ミケノは意を決し、両足の肉球でささくれたパレットを踏みしめ、スクッと立ち上がった。
そして、水銀灯の強固な鉄製アームへと、すがるように両手を伸ばした――。
その瞬間であった。
ミケノが体重を前方へと預けたことで、40枚のパレットタワーの極限の重量バランスが、決定的な臨界点を突破した。
メキ……メキメキメキッ……と音を立てて、最下層から12枚目、油で腐食していたリサイクルパレットが、凄まじい圧縮荷重に耐えかねてひしゃげるようにへし折れた。
「あ」
シライが呟いた。
「おい、なんか変な音が――」
トラジマが言い終わるよりも早く、物理法則の神が猫山工業に鉄槌を下した。
折れたパレットを起点に、上下のパレットが互い違いに横滑りを起こす。フォークリフトの爪が「キキキッ!」と泣き喚き、摩擦係数を失った木材同士が、まるで巨大なトランプの塔をぶちまけたかのように、ズザザザザザザザッ!!と、スライドを始めたのである。
「うわああああっ!? 崩れるぞッ!!」
「逃げろッ! 退避ィィィーーッ!!」
地上の4人はパニック映画のエキストラよろしく四散した。
クロブチはフォークリフトの陰へダイブし、トラジマは近くの工作機械の隙間に頭から突っ込み、シライはフォークリフトの中で身をかがめ、サビハラは「ぬおっ!?」と叫びながら転がり出たパレットに足を取られてドリフのように派手に尻餅をついた。
ガラガラガラッ! と。
凄まじい轟音とともに、40枚の木製パレットが一瞬にして地上へと雪崩れ落ちた。
工場内はもうもうたる黄土色の木屑の煙に包まれ、割れた木片が雨あられと降り注ぐ。
やがて――。
粉塵が徐々に晴れていく中、瓦礫の山から4つの埃まみれの猫頭がポコポコと這い出てきた。
「ゲホッ、ゲホッ! ……おい、生きてるか……?」
クロブチが頭に乗っかったパレットの破片を払い落としながら呻く。
「い、生きてるっす……。あぶねぇ……完全に下敷きになるとこだった……」
トラジマが黄色いヘルメットを斜めにかぶり直しながら、埃だらけの顔を見合わせた。幸いにも彼らに外傷はなく、全員が等しく毛を逆立て、顔面を真っ黒に染めているだけであった。
「ふん……だから言うたのじゃ、ワシの指示通り西側に反った板を噛ませておかんからこうなる……ゲホッ」
サビハラが腰をさすりながら無茶苦茶な悪態をつく。
そこへ、シライがキョロキョロと周囲を見渡しながら、いつもの気の抜けた声を出した。
「あれ? そういえば……ミケノ君は?」
全員の視線が、一斉に上方へと向けられた。
タワーが完全に消滅し、だだっ広い空間が広がる天井付近。
地上6.8メートルの虚空。
そこには――。
旧型水銀灯の円錐形の笠に、四肢の爪を「ガリガリガリッ!」と全力で食い込ませ、セミのようにペッタリとしがみついたミケノの姿があった。
「あ」
「あ」
「あ」
「……お見事」
下からの呑気な感嘆の声を聞きながら、ミケノは白目を剥き、プルプルと痙攣する前足でアルミの笠を必死に抱きしめていた。
下を見れば、そこには何もない。ただただ、粉砕されたパレットの残骸が散らばる冷たいコンクリートの床があるだけである。
「た……」
ミケノの喉から、空気の抜けたような悲鳴が絞り出された。
「たすけてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!」
「おーいミケノ! ナイスつかまり!」
トラジマが両手を口に当てて叫んだ。
「で、電球はどうした!? ちゃんと外したか!?」
「外せるわけないでしょ!! 指が! 爪がもう限界です!! 早く、早く脚立か何か持ってきてえええええ!!」
「脚立じゃ届かねぇ高さだからパレット積んだんだろ!」
クロブチが腕組みをして首をひねる。
「おいシライさん、高所作業車の鍵、やっぱ取ってこねぇとダメだなこれ」
「そうだねぇ。じゃあ私、ちょっと本館事務所まで歩いて行ってくるよ。30分くらいで戻れると思うから、ミケノ君、それまで耐えれそう?」
「走って取ってきてッ!!」
ミケノの絶叫がスレート屋根に虚しく反響する中、シライはとことこと平和な足取りで事務所へと歩き出し、トラジマとクロブチは「落ちてきたらワンチャン、キャッチできますかね?」「鍛えてるからいけるいける」などと無責任な賭けを始めるのであった。
* * *
労働災害・ヒヤリハット報告書(速報)
【事象】
第3機械加工棟における天井水銀灯のLED更新作業中、規定の高所作業車を使用せず、木製パレット40枚を無許可で多段積層させた仮設作業床を構築。作業員を最上部に搭乗させて、フォークリフトにて、作業位置(約6.8m)へのアプローチを試みたところ、積層パレットの破断および重心ズレによりパレットタワーが全壊・崩落した。搭乗していた作業員はとっさに水銀灯の笠部および配管にしがみつき、地上約7mの空中に孤立状態となった。なお、直下にいた作業員4名は幸運にも崩落したパレットの直撃を免れ、軽微な打撲程度で済んだ。
【要因】
近道行動および規則の軽視(直接要因):
高所作業車の鍵を本館事務所に失念した際、取りに戻る手間(徒歩にて往復30分)を嫌い、現場にあるフォークリフトと廃パレットで代用するという不安全行動を選択した。
用途外使用および無資格・不適切作業:
フォークリフトを高所作業の昇降設備として使用(安衛則第151条の14違反)。安全性を完全に無視した木製パレット40枚の多段積みという行為に及んだ。
安全管理機能の完全な形骸化:
朝礼における指差呼称が完全に形骸化しており、ベテラン層が過去の経験則や事なかれ主義から不安全行動を制止するどころか積極的に助長・煽動した。
【再発防止策】
高所作業車の鍵の管理徹底:
高所作業車の鍵を紛失・失念しないよう、鍵に「光るキーホルダー」を取り付け、いかなる場合でも事務所外への持ち出しを視認できるようにする。
安全意識向上のための緊急教育:
全課員を対象に、「パレットはジェンガではない」と題した特別教育(15分)を実施する。
危険意識の再徹底と注意喚起:
「パレットの上には乗らない」旨を太字・赤色で記載したパウチっ子を作成し、すべてのパレット側面にタッカーで針打ち留めする。
* * *
「……よし、報告書は完璧じゃな。これで監査が来ても『対策済み』で通るわい」
サビハラが満足げに書類へ認印を押した。