【本日の作業】
第3受変電棟 400V動力幹線用低圧配線(150sq)更新作業
【重点安全目標】
確実な元電源遮断と無電圧確認の徹底・感電災害の撲滅
【指差呼称】
サビハラ「元電源遮断ヨシ! 感電・短絡注意、ヨシ!」
全員「「「感電・短絡注意、ヨシ!!」」」
* * *
朝の澄んだ空気をつんざく気合の入った唱和が、猫山工業株式会社・地方製作所の薄暗い詰所に響き渡った。
壁面には「ゼロ災で行こう ヨシ!」「急ぐときほど一時停止」といった色褪せた安全スローガンが所狭しと貼られ、ホワイトボードには完璧な作業フローと、見目麗しいKYT(危険予知訓練)シートがマグネットで固定されている。書類上、この保全課は全国の事業所でも指折りの「安全優良職場」であるはずだった。書類上は、である。
一行が向かったのは、敷地の片隅に鎮座するコンクリート造りの第3受変電棟。
本日のミッションは、6600Vの特高・高圧ラインから降圧された400V動力回路の主幹線ケーブル――断面積150平方ミリメートル、猫たちの手首ほどもある極太のCVケーブルを新品へと引き直す重作業であった。400V・数百Aという電力は、一般家庭用の電気とは桁が違う。触れればアーク放電が炸裂し、即座に生命活動を「休止」させかねない、工場内でも指折りの危険地帯である。
分厚い扉の前に立ち、見習い猫のミケノは首から提げたチェックリストを小刻みに震わせていた。
受変電設備のトランス本体は、ここから数十メートル離れた別棟のキュービクル内に収容されている。油冷トランスの「ヴーン」と唸るような励磁音はここまでは届かない。完全な静寂が漂っているが、それが「電源が確実に切れているから静か」なのか、それとも単に「壁の遮音性が高いだけ」なのかは、音だけでは絶対に判別できない構造になっていた。
「あの……シライ先輩、トラジマ先輩。元電源の遮断器は、本当に落としてあるんですよね……? 施錠とタグアウトも、ちゃんと……?」
ミケノの引きつった問いかけに、入社10年目のベテラン・白猫のシライは、菩薩のような温和な笑みを浮かべて頷いた。胸ポケットには、鮮やかな朱肉の印鑑が美しく並んだ安全作業許可証が収まっている。
「大丈夫だよ、ミケノ君。ほら、このチェックシートを見てごらん。『主幹VCB開放確認』の欄に、トラジマ君のハンコがバッチリ押してあるだろう? 彼は元気があって現場の確認も早いからねぇ。私がサインをする前に、もうチェックを済ませてくれていたんだよ」
「えっ! いやいやシライさん、何言ってんすか!」
すかさず入社3年目のトラ猫、トラジマが白い牙をキラリと輝かせながら親指を立てた。
「俺はシライ大先輩が朝イチで配電盤の鍵を持って歩いていくのを見たから、『あ、流石は百戦錬磨のシライさん、もう遮断器を開放してくれたんだな』って思って、先輩への信頼と敬意を込めてハンコ押したんすよ! シライさんが見落とすわけないじゃないすか! 完璧なダブルチェックっす!」
「おや、そうだったのかい? 私はてっきり、君が先に走って現場の一次側を落としてくれたものだとばかり思っていたよ。あはは、奇遇だねぇ」
「あっはっは、息ぴったりっすね! チームワーク!」
「二人とも確認してないじゃないですか!?」
ミケノの全身の毛が、静電気を浴びたように逆立った。
ダブルチェックという名の責任の押し付け合い、二重の盲点。二人が満面の笑みで頷き合うその手元にあるチェックシートは、実質ただの「白紙の免罪符」と化していた。
「え、ちょ、待ってください! だったら今すぐ確認に……!」
パニックになりかけたミケノの肩を、だるそうにM12用ラチェットを担いだ黒猫、クロブチがポンと叩いた。
「おいおいミケノ、騒ぐなよ。新人はこれだから視野が狭くて困るぜ」
クロブチは首をコキコキと鳴らし、第3受変電棟の鋼鉄製ドアの枠を顎でしゃくった。
「仮によお、万が一VCBが落ちてなかったとしてもだ。この部屋のドアには最新鋭の安全機構、『インターロック』が付いてんだよ。ドアを開けた瞬間にリミットスイッチが離れて、自動で強制遮断される仕組みだ。大企業様が金かけて作ったフールプルーフ設計だぞ。事故りようがねぇだろ」
「そ、そうでした……インターロックがあるなら、最悪の事態は……」
胸を撫で下ろしかけたミケノの視線が、ふとドア上部の小さな突起に吸い寄せられた。
そこには、本来ドアが開いた瞬間に飛び出すはずのリミットスイッチのレバーが、使い古された針金と結束バンドによって限界まで締め上げられ、その上から念入りに銀色のダクトテープで何重にもぐるぐる巻きに固定されている姿があった。
「あ、あれ……なんですか……? なんでスイッチが押された状態で固定されて……?」
「あぁ、そういやそうだった」
クロブチは事も無げに鼻を鳴らした。
「先週、配線の導通テストで出入りが多かったろ? 開け閉めするたびにバチンバチン電源が遮断されてたら、復旧作業だけで日が暮れちまうんだよ。仕事になんねぇから、オレが『常時閉鎖』状態にバイパスしといてやったんだわ。効率化ってやつよ。これでドアを開けっ放しでも皆が作業できる。感謝しろよな」
「安全装置を殺してるゥーーッ!!」
ミケノの悲鳴が建屋の冷たいコンクリートに木霊した。インターロックは完全なる沈黙を保ち、侵入者を歓迎するかのように無効化されていた。
「せ、 せめて検電です! 検電器でこのケーブルが無電圧になってるかどうか、それだけは見ないと!」
半泣きになったミケノは、腰のツールポーチから黄色い低圧・高圧両用検電器を引っ張り出した。安全靴のつま先を震わせながら、テストボタンを押し込む。
――シーン。
赤色LEDは点灯せず、圧電ブザーの甲高い警告音も鳴らない。完全な沈黙。
「……鳴らない……?」
「おいミケノ」
背後からクロブチが、冷めた目で検電器のボディを指差した。電池ボックスの蓋の隙間から、青白い粉を吹いたボタン電池の残骸が見えている。
「それ、先月からずっと電池切れてるぞ。交換用のLR44、事務所の北側倉庫の引き出しにあるから取ってこいよ。歩いて往復30分ってとこか」
「今すぐ行ってきます!!」
「待たんかい!」
駆け出そうとしたミケノの首根っこを、ドスの利いたしゃがれ声が捕らえた。
サビ猫の長老、勤続40年のサビハラであった。
ヘルメットのあご紐を外し、安全眼鏡すら装着していないその顔には、数々の修羅場をくぐり抜け、運と偶然で生き残ってきた、老兵特有の、底知れない自信が刻まれている。
「お前さん、たかがボタン電池一個のために30分も作業を止める気か? 現場の1分は本社の1時間じゃ。昭和のプラント建設を支えたワシから言わせればのう、最近の若い奴は道具に頼りすぎて五感が退化しとるわい」
「し、しかしサビハラさん、検電器なしで400Vの活線確認なんてできるわけが……!」
「バカタレが。検電器なんぞ、昔は己の肉体ひとつで代用したもんじゃ」
サビハラは自らの右手を掲げ、不敵にニヤリと笑った。
「よーく聞け、見習い。トーシローはな、すぐに手のひらで触ろうとする。だが手のひらで電線に触れると、筋肉が電撃でビクンと収縮して、自分の意志とは無関係に電線をギュッと握り込んで離せなくなるんじゃ。そうなりゃ最後、こんがり焼き猫の出来上がりじゃな」
「ヒィッ……!」
「じゃからプロはこうするんじゃ」
サビハラは右手をグーの形に丸め、手首をスナップさせた。
「手の甲じゃよ。右手の甲で、コンコンと裏拳を入れるように軽く叩くんじゃ! 手の甲なら、万が一電気が流れて筋肉が収縮しても、手は勝手にグーを握って電線からパッと離れる! 衝撃でピリッとくる程度で済む! これぞ電工40年の知恵と工夫よ!」
「手の甲でコンコン叩く!? そういう問題じゃないです!!」
ミケノの喉が裂けんばかりのツッコミが入る。
「400Vですよ!? 一般家庭の感電レベルの『ピリッ』で済むわけないじゃないですか! アークで手が吹き飛ぶか、心臓が止まりますよ! 手のひらとか手の甲とか関係ないです! 電気を舐めないでください!!」
「いやぁ、流石はサビハラ師匠! 筋が通りすぎててぐうの音も出ねぇっす!」
だが、その狂気の理論に感銘を受けた男が約1名いた。トラジマである。
トラジマは腰の安全帯をガチャつかせ、ヘルメットの鍔をクイと押し上げると、元気いっぱいに150sqの極太幹線ケーブルへと歩み寄った。
「要は一瞬触れて、ビリッときたら『あ、生きてるな』って引けばいいだけの話っしょ! チェックシートにはシライさんの神聖な印鑑! ドアには最新鋭インターロック! そしてサビハラ師匠直伝の裏拳検電テクニック! これだけ安全マージンが重なってて事故るわけがないっすよ!」
「トラジマ君、頼もしいねぇ。怪我だけはしないようにね」
シライがのんびりと腕組みをして微笑んでいる。
「おい、早く終わらせて一服行くぞ」
クロブチがタバコを取り出しながら急かす。
「ちょっ……やめて……! トラジマ先輩、待って!!」
ミケノの絶望的な制止の声をBGMに、トラジマは右手を振りかぶり、蛇のように黒光りする150sqの極太端子部めがけて、勢いよく右手の甲を突き出した。
「いけるいける、大丈夫だって! 400Vライン無電圧確認――、手の甲コンコン検電、ヨシッ!!」
トラジマが力強く突き出した右手の甲は、迷うことなく150sqという極太幹線ケーブルの剥き出しになった銅端子部――本来ならば絶縁カバーで厳重に覆われていなければならない高圧受電トランス直下につながる二次側端子へと吸い寄せられていった。
――バチィィィィィンッッッッ!!!
受変電棟の窓ガラスがビリビリと激しく共振するほどの、破裂音に近い激烈な短絡アーク音が狭い空間に炸裂した。
青白く発光するプラズマの閃光が、薄暗い室内を一瞬にして白昼以上の輝度で塗りつぶす。それは家庭用コンセントの「パチッ」という可愛らしい火花などとは根本的に次元が異なる、工場用400V低圧大容量トランスが解き放った純粋な暴力であった。
「ぎゃあああああああビビビビビビビビッッ!?」
接触した瞬間、トラジマの絶叫は奇妙な周波数の電子音へと変貌した。
60Hzの無様な悲鳴が響き渡る。
全身の神経系を駆け巡る猛烈な電流。トラジマの全身の骨が、漫画のごとく青白くピカピカと点滅し、瞳は真ん丸の渦巻きを描いて飛び出しかけている。被っていた黄色の保安帽は頭頂部から噴き上がった電気の衝撃波によって垂直に吹き飛び、トレードマークの美しいトラ柄の毛並みは、一瞬にして爆発したような巨大な漆黒のアフロヘアーへと変異を遂げた。
手の甲で触れたはずだったが、地絡の大電流が巻き起こす強烈な感電は、サビハラの「裏拳なら離れる」という昭和の物理学をあざ笑うかのように、トラジマの肉体を端子板の前で硬直させ、ガタガタと高速で振動させていた。
「あわわわわわ! トラジマ先輩が! トラジマ先輩がマリカの無敵スターみたいに発光して踊ってるーーーッ!!」
ミケノはヘルメットを両手で押さえ、絶望のあまり飛び跳ねた。
「やっぱり電源生きてるじゃないですか! ドア開けてもブレーカー落ちてないじゃないですか! インターロックがダクトテープでぐるぐる巻きだからですよ!」
「お、おいおい、派手に踊ってんなぁアイツ……。ナイトクラブのミラーボールかよ」
クロブチが咥えたタバコをポロリと落とし、だるそうに呟く。
「あれぇ? おかしいねぇ」
シライは胸ポケットから取り出した受電系統図をまじまじと見つめ、首を傾げた。
「私、一応ちゃんとブレーカー落としたんだけど……あ、この鍵、『第3食堂の大型冷蔵庫と換気扇』って書いてあるや。あはは、棟の番号を間違えちゃったみたいだねぇ」
「昼飯が腐るだけで現場は全電圧生きてるじゃないですか!!」
ミケノの咽喉を破るようなツッコミが木霊する。
だが、事態は一刻を争っていた。このままではトラジマがウェルダンを通り越して黒い炭猫になってしまう。
パニックに陥ったミケノが、無我夢中でトラジマの作業服の裾を掴んで引っ張ろうと手を伸ばしたその刹那――
「やめい若造ッ! 巻き添えを食らう気かッ!!」
雷鳴のような怒号が轟いた。
突如として背後から突風が吹き抜ける。見れば、勤続40年の老兵サビハラが、年齢を感じさせない驚異的な脚力でコンクリートの床を蹴り上げていた。安全靴の靴底が風を切り裂き、サビハラの巨躯が空中へと跳ね上がる。
「感電災害救助の鉄則その一! 身体を介してアースを形成してはならん! すなわち――」
サビハラは空中で両足を美しく揃え、プロレスラーも顔負けの完璧なフォームで跳躍した。
「己が完全に空中に浮いておれば、大地への回路は断たれ、電流はワシを流れんのじゃあぁぁッ! 『必殺・無接地絶縁ドロップキック』ッッ!!」
サビハラの両足の裏が、高速振動するトラジマの横っ腹に寸分の狂いもなくクリーンヒットした。
凄まじい衝撃波とともに端子とトラジマの接触が強制的に引きちぎられる。トラジマの身体は弾丸ライナーの打球のように受変電棟の壁面へと射出され、安っぽい壁材にめり込むような鈍い音を立てて激突したあと、スルスルと重力に従って床へとずり落ちた。
ズサッと見事な受身をとって着地したサビハラは、ヘルメットの鍔を押し上げ、フッと鼻から息を吹き出した。
「ふん……見よ。ワシには一筋の電流も流れとらん。空中に浮いておれば回路は繋がらんのじゃ。これが昭和を生き抜いた男のレスキュー技術よ」
サビハラは床に転がるトラジマを見下ろし、腕組みをしながらしみじみと頷いた。
「……まあ、強いて言えば、トラジマの足元にベーク板をあらかじめ敷いておらんかったのが、今回の唯一の敗因じゃな」
「そういう問題じゃないです!!」
ミケノの絶叫が、アーク放電の残響が漂う室内に炸裂した。
「そもそもVCB切ってない! インターロック殺してる! 検電器の電池切れてる! 手の甲で突っ込む! 全部間違ってます! ベーク板敷いてても死にますよ!!」
床の上では、巨大なアフロの塊になったトラジマが、ピクピクと痙攣しながらゆっくりと起き上がった。顔面は煤で真っ黒に染まり、白目と牙だけがやけに白く輝いている。口からポッと一筋の黒煙を吐き出しながら、トラジマは震える右手の親指を力なく天へと突き上げた。
「……ぜ、ぜんぜん……効いて……ないっす……! 400Vライン、無電圧確認……ヨシッ……!」
バタリと再び倒れ込むトラジマ。
「トラジマ先輩ーーーーッ!?」
かくして、作業開始からわずか数分で現場は盛大にお釈迦となった。
夕暮れ時、設備保全課の詰所では、全員が頭を突き合わせて本社安全衛生部へ提出する「災害速報」の作成に追われていた。
* * *
労働災害・ヒヤリハット報告書(速報)
【事象】
第3受変電棟内における低圧幹線更新作業中、作業者A(3年目)が無電圧確認を実施しようとした際、400V低圧幹線端子部との接触により感電。
付近にいた作業者B(40年目)による「ドロップキック」による緊急救出が行われ、被災者は端子から分離された。
人的被害:
作業員の毛皮が爆発的アフロ形状に変異、全身煤まみれ、腹部側面に打撲痕。なお、本人は明日からも通常の定時出勤の意向を示している。
設備被害:
受変電棟内壁面に猫型のめり込み跡。150sqケーブル端子部にアーク痕。
【要因】
直接要因:
受電トランスの電源が投入された状態の活線に対し、被災者が徒手で直接触れて確認を試みたため。
作業的要因:
検電器の電池切れを認識しながら、事務所へ交換用電池を取りに行く手間(往復30分程度)を惜しみ、経験則に基づく不安全な接触確認を優先したこと。
設備的要因:
扉の開閉に伴う作業効率低下を避けるため、安全用のインターロックスイッチが針金およびダクトテープにより恒常的に短絡され、常時無効化されていたこと。
管理的要因:
作業前の電源遮断確認において、作業者A(被災者)と作業者Cの間で「相手が遮断作業を実施したはずである」という過信に基づく相互未確認の、形骸化したダブルチェックが行われていたこと。なお、実際に遮断されていたのは第3食堂の冷蔵庫であった。
【再発防止策】
朝礼時における「感電注意ヨシ!」の指差呼称の唱和回数を、毎朝3回から「力強く10回」に増大させ、安全意識の更なる高揚を図る。
安全チェックシートの承認印欄を従来の2枠(ダブルチェック)から3枠(トリプルチェック)へと増設する。
「手の甲による検電」は非常に危険であるため、今後は無電圧確認まで決して触れないよう、現場のノウハウを改訂・周知する。
※作業者「検電器の電池を現場保管用に買ってほしい」という意見具申については予算の都合上、しかるべきタイミングにて検討する。
現場の詰所壁面に、新たな標語『急ぐとも 必ず検電 ビリリなし ヨシ!』の横断幕を掲示する。
* * *
「……よし、完璧な報告書が書けましたねえ」
シライが満足げに判子をポンと押し、微笑んだ。
「これで本社への言い訳もバッチリだな」
クロブチが煙草を吹かしながら頷く。
「うむ! 安全の基本が網羅されておるな!」
サビハラが豪快に茶をすする横で、頭と腹に包帯を巻いたトラジマが「次からは肘で行きます!」と元気に敬礼している。
雑に書き上げられた提出用のペラ紙を抱えさせられたミケノは、虚空を見つめながら深く長いため息をついた。
「……これ、僕が本社に持って行かなきゃダメなんですか……?」