プロメシュースの悔恨 ―新エリー都、その記録の外側で―   作:jolend

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これがやりたかった その3


#11 デッドエンドホロウ

「修行の時間だ」

 

 クラムの声が、騒然とする演説会場へ響いた。

 ほんの一瞬だけ、雅の動きが止まり、長い前髪の奥で、青白い炎に侵された赤い瞳がクラムを見据えていた。

 おそらく言葉が届いたわけではない。彼女の視線はクラムではなく、その手にある七陽へ吸い寄せられている。

 鞘の中で無尾が鳴った。

 同時に、七陽の内部からも鼓動が返ってくる。

 互いの存在を確かめ合うように、二振りの武器が同じ間隔で脈打っていた。

 クラムのARへ、二つのエーテル波形が表示される。

 無尾から溢れる鋭い波とそれに呼応するように七陽の内部から立ち上がった七つの反応。

 波形が重なるたび、雅を包む狐火が一段ずつ勢いを増していく。

 通信越しに、オペラが叫んだ。

 

『マズイ……アナタが近づいてから、雅の同期率が急上昇している。サラだけが原因じゃない。無尾が七陽に反応しているわ!』

「だろうな。こっちもさっきから喧嘩を売られてご機嫌だ」

 

 七陽のガードに刻まれた瞳の紋章が僅かに開き、掌の中で震える。

 

 ―我らが敵

 

 ―我らの簒奪者

 

 ―そして壊劫⸺

 

「うるせぇポンコツ! テメェの出番はもう一生無ぇよ!!」

 

 次の瞬間、雅が消えた。クラムも駆け出し、反射で七陽を抜き放つ。

 七陽を最小出力で展開する。青白い刀身と淡い桃色のエーテルブレードが激突する。

 甲高い衝突音。

 二つの武器から弾けた光が混ざり合い、周囲の照明を一斉に明滅させた。

 

「ぐうっ……!」

 

 受け止めた瞬間、クラムの両足が舗装を削る。

 単純な腕力の差だけではない。

 無尾が七陽の力を引きずり出し、七陽もまたその呼びかけへ応じようとしている。

 衝突するたび、双方の出力が際限なく引き上げられていく。

 クラムは刃を横へ滑らせ、斬撃の軌道を逸らした。

 青白い一閃が壇上の端を掠める。

 演説用の大型モニターが斜めに断ち切られ、火花を散らしながら崩れ落ちた。

 会場の声が、悲鳴一色へ変わる。

 

「全員、ホロウと反対側へ逃げろ!」

 

 クラムが叫ぶ。

 しかし、混乱した群衆は互いに押し合い、規制柵の前で詰まっていた。

 ブリンガーが警備の治安官たちへ怒鳴る。

 

『な、何をしている! あの武装した男を拘束しろ! 星見課長を襲撃した犯人だぞ!』

「どの口が言ってんだ! クソ野郎!」

 

 ブリンガーは表面上怒鳴り散らしながらも、冷や汗を流していた。

 

(サラめ……! 聞いていた話と全然違うぞ……!)

 

 治安官たちは銃を上げたものの、引き金を引けない。

 なにせ、ほんの数十分前に長官自身が拘束した星見雅が今、尋常ではない様子で刀を振るっているのだ。

 さらに、彼女と群衆の間へ割って入った少年を撃てと命じられている。

 誰を守り、誰を捕らえるべきなのか。

 すでに告発で揺れていた指揮系統は、完全に機能を失っていた。

 混乱の中、クラムは会場の構造図をARへ呼び出す。舞台裏の搬入口のさらに奥には、デッドエンドホロウの外縁へ通じる廃線路がある。

 市民を守るには、雅をそこまで連れていくしかないが、問題はどうやって誘導するかだった。

 クラムは試しに蜃気楼を起動する。

 姿が景色へ溶け、同時に三体のホログラムが別方向へ駆け出した。だが、雅の瞳はそのどれも追わず、迷うことなく迷彩を起動している本物のクラムへ刀を振り抜く。

 

「うわおっ!」

 

 寸前で身を捻る。

 狐火を纏った切っ先が上着を裂き、背後の規制柵をまとめて両断した。

 

『蜃気楼を見破った!?』

「違う! 見られてるのは俺じゃない!」

 

 無尾は視覚で標的を追っているわけではなく、七陽の存在そのものを感じ取りそれへ食らいついている。ならばやりようはあるというものだ。

 

「オペラ! 廃線路から最も近い裂け目まで案内しろ!」

『まさか、アナタが囮になるつもり!?』

「それ以外に雅さんを人混みから引き離す方法がない!」

『アナタ達の武器が近づくほど暴走が強くなるのよ!』

「だから、限界が来る前にホロウへ入れる!」

 

 クラムは七陽の出力制限を、一段だけ解除した。

 七つの砲口へ桃色の光がより強く輝く。

 雅を包む狐火が爆発的に膨れ上がった。

 無尾が、歓喜するように鞘の中で鳴る。

 

「ほら、こっちだ雅さん!」

 

 クラムは舞台裏へ向かって駆け、雅が追う。

 その一歩で舞台の床が砕け、二歩目には残像だけを残してクラムの背後へ迫った。

 振り下ろされる刃に対して、クラムは七陽を扇状に変形させ、散弾状のエーテルを放ち、爆風で自分の身体を横へ弾き斬撃の軌道から逃れた。

 直後、地面へ巨大な亀裂が刻まれる。

 

「まともに打ち合えないのは反則だろ……!」

 

 雅から返事はない。

 きっと聞こえているのは、無尾に重なる無数の囁きだけなのだろう。

 クラムは搬入口を抜け、デッドエンドホロウにむかう廃線路へ飛び込んだ。

 背後から迫る斬撃が壁と天井を切り裂かれ、落下する瓦礫を潜り、開きかけた隔壁の隙間へ身体を滑り込ませた。

 

『そこから先に、安定した裂け目があるわ!』

「了解!」

『クラム』

 

 オペラの、通信越しの声が、僅かに揺れた。

 

『死なないで』

「あぁ!」

 

 振り返る余裕はない。

 七陽を背負ったクラムが裂け目へ飛び込む。

 その直後、青白い狐火が廃線路内を満たした。

 雅もまた、迷うことなく彼を追ってホロウの中へ踏み込んだ。

 

 二人の姿が歪んだ空間へ呑み込まれる。

 直後に裂け目が縮み、演説会場から青白い炎が遠のき、群衆から雅を引き離すことには成功した。

 朱鳶も、アキラのイアスも、まだ到着していない。クラムはたった一人で暴走した虚狩りとともにデッドエンドホロウへ入っていった。

 

 ☆

 

 上下の感覚が入れ替わる。

 空中へ浮かんだ線路の残骸と、横倒しになったビルの間、紫黒色の空を、桃色のエーテル光と青白い狐火が一筋の双星となって駆け抜ける。

 いくつかのビルを経由し、クラムは着地の直前、七陽の反動で斬撃を避ける。一瞬前まで立っていた地面が、音もなく十数メートル先まで割れた。

 

「洒落にならんな……アキラから聞いてた話より明らかに酷い」

 

 途切れかけた通信越しに、オペラが怒鳴る。

 

『二つの波形が共振している! 七陽と無尾の出力が更に増しているわ!』

「やっべえぞぉ! こっちの制御まで持ってかれそうだ!」

 

 クラムは七陽の出力を落とそうとする。だが、命令を拒むように七陽の炉心が脈打った。

 

 ―無尾を、打ち倒せ。

 

 ―我らが敵、戎⸺

 

「ワンパターンなんだよ! それしか言えねぇのかお前!!」

 

 七陽から流れ込む衝動に、クラムは柄を強く叩いて声にならない意思を押し返した。

 雅が迫る。

 クラムは七陽で刃を受け流すが、接触しただけで双方のエーテルが炸裂する。

 身体が吹き飛ばされ、浮遊した道路へ背中から叩きつけられる。

 

「ぐえっ!」

 

 肺から空気が抜ける

 

 丸眼鏡の片側へ亀裂が走る

 

 それでも、止まるわけにはいかない。

 だが、騒ぎを聞きつけて周囲からエーテリアス達が集まり始めていた。

 雅はクラムへ向けていた刃を翻し、近づいたエーテリアス達を一閃して消し飛ばす。だが次の瞬間には、再び七陽を目がけて踏み込んでくる。

 

(完全に理性を失っているわけじゃない。おそらく本当に暴走していたら、俺はとっくに切り刻まれている。無尾に呑まれながらも、雅の中には無辜の者を斬るまいとする意志が残っていんだ)

 

「そうだ! まだ聞こえてるんだろ!」

 

 クラムは斬撃を紙一重でかわし、雅の横をすり抜ける。

 

「星見雅ィ!! 刀じゃなく自分で戦う相手を選べッ! 俺を見ろォーッ!!」

 

 狐耳が僅かに動いた。

 しかし無尾の炎は収まらない。

 むしろ呼びかけへ抗うように、さらに激しく燃え上がった。

 

 ☆

 

 雅は、果てのない幻の中にいた。

 身体を焼く狐火。

 斬れば一瞬だけ苦痛は和らぎ、止まれば無数の声が意識を食い破ろうとする。

 

 斬れ

 

 目の映るものを、すべて斬れ

 声に従うたび、景色は形を変えた。

 

 エーテリアス

 

 過去に斬った敵たち

 

 失った者たちの影

 

 そして今、幻の中心には、黒く歪んだ太陽を背に人影が立っている。

 あれこそ、我らの厄災。

 あれを斬れば、対立する力を呑み込める。

 あれを斬れば、もっと強くなれる。

 あれを斬れば、苦しみから解放される。

 雅は刀を振り上げる。

 

 そんな太陽の向こうから声がした。

 

「修行の時間だ」

 

 不遜な声だ。

 だが敵へ向けるものとは思えない愚直なまでの信頼が滲んでいる。

 

「……五月蝿い」

 

 雅は呟いた。

 それが無尾へ向けた言葉なのか、人影へ向けたものなのか、自分でも分からなかった。

 

 ☆

 

 現実のホロウでは、クラムの限界が近づいていた。

 腕は痺れ、呼吸をするたび脇腹が痛む。

 七陽と無尾が切り合うたび、エーテルの奔流が肉体を、神経を焼く。それでも七陽を捨てれば、雅が何を次の標的に選ぶか分からない。

 どこからか、金属同士が激しく擦れ合う音が近づいてくる。

 空中で途切れた線路の向こうから、列車が紫黒色の霧を突き破った。

 速度を落としきれないまま地面へ乗り上げ、瓦礫を跳ね飛ばしながら停止する。

 開いた扉から飛び降りたのは、拳銃を構えた朱鳶。

 その片腕の中には、アキラの意識が接続されたイアスがいた。

 

『クラム!』

「クラムさん!」

「遅ぇ! 死んだらどうする!!」

『キミはこのくらいじゃ死ぬような人間じゃないだろう!』

「相手虚狩りだぞ!?」

 

 軽口を叩いた直後、雅の斬撃が三人の間を走った。

 朱鳶がイアスと共に後方へ跳ぶ。

 クラムも七陽の砲撃で小柄な身体を後方へ飛ばし、辛うじて回避した。

 

『星見さんの反応が、郊外で暴走した時より強い!』

 

 イアスを通したアキラの声が響く。

 

「分かってる! コイツと七陽が引き合ってるんだ! 俺が近くにいるだけで、互いに出力を上げ続ける!」

 

 クラムは咆哮する七陽の柄をガンガンと叩きつける。

 

「なら、一度その武器を手放して離れるしか……!」

「そう簡単じゃない! 今いきなり俺が七陽を捨てれば、無尾が次に誰をターゲットに選ぶか分からないんだ! だから俺が雅さんを引きつける。朱鳶さんは群がってくるエーテリアスを片づけてくれ! アキラ君は雅さんへ声が届く距離まで肉迫しろ!」

『それで、どうするつもりなんだ!?』

「七陽を強制的に完全停止させる! 共鳴が切れたその一瞬に、お前らで雅さんを正気に戻せ!」

『……なら、ここだ! この場所なら……!』

 

 アキラがH.D.D.を通じて瞬時に周囲の地形を解析し、クラムの視界へデータを叩き込む。

 AR上にハイライトされたのは、少し先にある三方を高層ビルの廃墟に囲まれた広場だった。

 演説会場へ通じる裂け目からは十分に離れている。だが同時に、群がるエーテリアスの密集反応で画面が赤く染まっていた。

 朱鳶もARからその解を確認し、思わず息を呑む。

 

「そんな大勢のエーテリアスの中で……! クラムさんが危険です! そんな無茶なこと!」

「だから朱鳶さんに背中を頼んでんだよ! 七陽砲門炉心両開放!」

 

 クラムは七陽の全砲口を完全展開した。七つの砲門から桃色の光が爆発的に噴き出す。

 それに呼応し、雅の身体から立ち上る狐火が巨大な尾の形を取って膨れ上がった。

 

「さあ、来い!」

 

 クラムは広場へ向かって走る。

 雅が追いすがる。

 

「あぁ、もう!」

 

 朱鳶がイアスを抱えたまま、クラムの脇を高速で跳び越えていく。

 広場へ滑り込むや否や、群がっていたエーテリアスを正確な連射で一瞬にして片づけ、クラムの着地スペースを確保した。

 

「クリア! クラムさん!」

 

 広場の中央へ辿り着くと、クラムは振り返り、迫る無尾へ七陽の切っ先を向けた。

 このまま打ち合えば、どちらかが折れるまで止まらない

 あるいは、使い手の方が先に壊れる

 だが、そうはならない。

 クラムは、七陽を地面へ突き立てた。

 

「言う事聞けよポンコツ!! 強制放熱! 両炉心閉鎖!」

 

 七つの砲口から桃色のエーテルブレードが一本ずつ霧散していくが、最後に七陽は、クラムの命令へ抗うように激しく燃え上がった。

 

 ―我らの敵が、目前に⸺

 

「クソボケがぁーッ! いい加減にしやがれェーッ!!!」

 

 クラムの掌が裂け、グリップを伝って血が落ちる。そして、ついに最後の光が消えた。

 無尾と七陽を結んでいた共鳴が唐突に途切れ、雅の動きが止まった。

 ほんの一瞬。

 だが、その一瞬で十分だった。

 

「雅!」

 

 朱鳶が呼ぶ。

 イアスが雅の正面へ駆け込んだ。

 

『星見さん、聞こえるか! 僕たちは敵じゃない!』

 

 雅の刀が持ち上がる。

 

「イアス!」

 

 朱鳶が駆ける。

 クラムは七陽を地面へ残し、二人の間へ身体を滑り込ませた。

 無尾の切っ先が、クラムの肩口で止まる。

 

「ぐっ……」

 

 無尾の切っ先が、クラムの肩口で止まる。

 青白い炎がボロボロの上着を焦がし、皮膚を僅かに薄く裂いたが、刃が抵抗するように震え、それ以上進まなかった。

 クラムは雅の赤い瞳を見返す。

 

「修行は、終わりだ」

 

 朱鳶も、雅のすぐ傍まで歩み寄る。

 銃口は下げていた。

 

「雅。あなたは、誰も傷つけていない!」

『会場の人たちは無事だ。クラムが君をここまで連れてきた!』

 

 朱鳶が、アキラの声が、雅を包む狐火の中へ差し込む。

 

『お願いだ、僕たちの声に気づいてくれ……戻ってきてくれ、雅さん!』

 

 三人の強い叫びが、無尾の内部で鳴り響く無数の囁きを押し破っていく。

 

 ⸺

 

 幻の中で、雅は足を止めた。

 斬れと迫る声は、なおも消えない。

 目の前には市民の姿をした幻が並び、その背後では黒く歪んだ太陽が沈みかけていた。

 無尾は、すべてを斬れば楽になると囁く。

 だが、その言葉へ従うことだけはできなかった。

 

「私は、無辜の者へ刃を向けない」

 

 狐火が身体を焼く。

 歴代の使い手たちの影が現れ、力には犠牲が必要だと告げる。

 星見の宿命から逃れることはできない。

 強さを継ぐなら、何かを差し出さなければならない。

 その理屈が、母を奪った。

 雅は、無尾を握り直す。

 

「ならば、その宿命ごと私が変える」

 

 犠牲を重ねて力を継ぐのではない。

 誰を斬るかを、過去の亡霊にも刀にも決めさせない。

 自らの意志で悪を選び、自らの責任で刃を振るう。

 それができない力なら、天下無双など、名乗る価値もない。

 

「私の刃になれ、無尾」

 

 それは命令であり、同時にこれまで刃の内側へ封じられてきた者たちとの約束でもあった。

 

「お前たちが求める犠牲は、母上で最後だ。これから先は、私が選び、私が背負う」

 

 無数の影が沈黙する。

 やがて、そのうちの一つが笑ったような気がした。

 狐火が最後に大きく燃え上がり、幻の世界を焼き尽くす。

 太陽が消えた場所から、今度は柔らかな金色の光が伸びてくる。

 その向こうから、自分を呼ぶ声が聞こえた。

 雅は、光へ手を伸ばした。

 

 ☆

 

 無尾を、雅を包んでいた炎が消えた。

 雅の瞳から、異様な光が抜けていく。

 肩口へ触れていた切っ先が下がり、刀身は彼女自身の手でゆっくりと鞘へ戻された。

 鯉口が閉じる。澄んだ音が、静まり返った広場へ響いた。

 地面へ突き立てられた七陽も、最後に一度だけ震え、瞳の紋章は閉じ、それきり沈黙する。

 雅の膝から力が抜け、朱鳶が倒れかけた身体を抱き止める。

 

「雅!」

「……朱鳶?」

 

 掠れた声だった。

 雅は周囲を見回し、イアスと、肩から血を流すクラムを順番に見る。

 

「ここは……ホロウか。会場にいた者たちは?」

「全員無事よ。あなたは誰も……誰も傷つけていないわ」

 

 朱鳶の答えを聞き、雅の表情が僅かに崩れた。

 

「そうか……よかった」

 

 張り詰めていたものが切れたように、深い息を吐く。

 

「私は、怖かった。もし、あのまま親しい者や、罪のない者へ刀を振り下ろしていたらと……」

 

 朱鳶は何も言わず、雅の身体を強く抱きしめた。

 イアスの向こうから、アキラの安堵した声が届く。

 

『戻ってきてくれてよかった、雅さん』

 

 雅は小さく頷いた。

 

「あの金色の光は、お前だったのか、声が聞こえた」

 

 それから、クラムへ顔を向ける。

 

「お前の声もだ、随分とうるさかった」

「えぇー? こっちは思いっきり刀振り回されてたんですよ? 命の恩人へ最初に言う言葉がそれ〜?」

「手合わせをすると言っただろう」

「今のを手合わせに数える気ですか? 俺は会場から逃げ回ってホロウにあなたを誘い込んだだけですよ」

「それで皆を守ったのだろう? それは貸しにしておこう」

「……でかい貸しですよ。あっ、ついでに眼鏡と上着と治療費も追加で」

「あぁ、分かった。柳に伝えておこう」

 

 いつもの平坦な返答。

 それを聞いて、クラムはようやく肩の力を抜いた。

 途端に全身の痛みが戻り、その場へ尻餅をつく。

 

「あ゛いてぇ〜! 虚空狩り相手の修行割に合わなさすぎる!」

「だから一人で無茶をしないでくださいと言ったんです!」

「朱鳶さんだって! さっき『誰も傷つけてない』って言ってたじゃないですか!」

「あれは……その……ええと……しかたなく…………」

 

 朱鳶がしどろもどろに答える。

 

「あっ、ごめん。無尾を煽った俺が悪いです……」

『確かに、知人の肩の薄皮一枚だけ切っちゃったけど、とか言ったら締まらないからね』

 

 その時、辛うじて維持されていた回線へオペラの声が再び飛び込んだ。

 

『クラム、雅は!?』

「正気に戻ったよ。全員だいたい生きてる」

『そう、よかった』

「俺俺! 誰か俺の状態の心配もして!?」

 

 クラムの軽口に雅が小さく微笑んだ後、オペラの声が再び緊張を帯びる。

 

『白祇重工で証拠が見つかった後に六課が直ぐに監察官へ提出して、ブリンガーには停職と治安総局への出頭命令が下っている』

「上手くいったか」

『ええ、ただし本人は命令へ従わなかった。会場周辺の混乱に乗じて、その隙に逃げだしたわ』

「クソッ、騒ぎを大きくし過ぎたのが裏目に出たか……怪我人は?」

「大丈夫、今の所は報告は出てないわ」

「そうか、はぁ……」

 

 クラムは亀裂の入った眼鏡を押し上げる。

 疑惑の告発によって燃え上がった会場と正式な証拠による停職命令。その両方に追い詰められ、ブリンガーはついに表の立場を捨てた。

 

『パールマンの証言と、あるタレコミによれば逃走先はポート・エルピスよ。ヴィジョン名義で特殊なエーテル物品を運び込んでいた場所だって』

「なるほど、おそらくサラと薬もそこか」

 

 逃げた赤い服の女

 

 第四研究所から持ち出された薬剤

 

 そして、無尾の力を奪おうとした一連の計画。

 切れかけていた糸が、港へ向かって一本に繋がる。

 クラムは地面へ突き立てた七陽を見た。

 少し前まで無尾を求めて暴れていた武器は、今は何事もなかったように沈黙している。

 

「クソボケ……二度と出てくんな……」

 

 雅もまた、鞘へ収めた無尾へ手を添えた。

 二振りの武器が、もう一度だけ低く鳴る。

 今度の音に、狂気じみた衝動はなかった。

 互いの存在を認め、次の機会を待つような静かな余韻だけが残る。

 

「……手合わせは延期だ、雅さん」

 

 クラムは立ち上がり、七陽を引き抜いた。

 

「あぁ、私はブリンガーを片づける。お前はあの女を追え」

 

 雅も立ち上がり、僅かに赤くはれた目元を拭い、普段の鋭い眼差しを取り戻す。

 クラムが、雅と同じ目線の高さで頷いた。

 

「了解だ」

『近道をいこう、皆と合流できるよう僕が案内する。僕自身もリンと一緒にポート・エルピスに向かうよ』

 

 デッドエンドホロウの奥で、遠く港へ続く空間が歪み、新たな裂け目が、紫黒色の闇の中へ口を開ける。

 

 頼むぞ、パエトーン

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