ホロウの裂け目を抜けた瞬間、視界が一気に開けた。
肌を刺すようなエーテルの圧迫感が薄れ、代わりに頭上から吹きつけたのは、離陸していくヘリコプターの風だった。
スコット前哨基地
巨大な零号ホロウを背景に、無数のテントや調査用コンテナが並び、大型輸送車が絶え間なく行き交っている。
重厚な防護服を着た兵士や調査員たちは、戻ってきた二人へ目を向ける余裕もなく忙しなく動き回っていた。
「ハァ~……疲れた」
「ようやく戻ってきたか。君たちに限って、断層の中でくたばるとは思っていなかったが」
聞き覚えのある声に、クラムが顔を上げる。
こちらへ歩み寄ってきたのは、眼鏡の奥から冷静な視線を向ける女性だった。
ホワイトスター学会の研究員にして、スコット前哨基地で零号ホロウ対応の統括を行うレイ・エリツィンだ。
「あれだけ道中が長ければ、そりゃ時間もかかりますよ。ほとんど休みなしで動きっぱなしだったんですから」
前哨基地のテントへ入り、クラムは空になったデータポスト用のバッグをレイの机へ置いた。
「持っていったデータポストを……使い切った?」
レイはバッグの中を確認し、怪訝そうに眉を寄せる。
「まさか、最奥の第4研究所まで行ったのかい? 二人だけで?」
「おかげで相方の足はオシャカだし、俺の肩はゴリゴリですけどね」
「誰のせいだと思っているの?」
近くの椅子へ腰を下ろしたオペラが、軋む音を立てる義足をさする。
「ああ、それと。外周部にしては異様に高いエーテル反応があるって言われてたやつ、デッドエンドブッチャーのドッペルゲンガーでしたよ」
「……君がここへ戻ってきたということは、それも倒したのだろう?大したものだね…」
「エッヘヘ、褒められちゃった」
「引かれているのよ」
クラムは丸眼鏡を押し上げ、満面の笑みを浮かべるが、オペラは義手で銀髪のはえた頭を抱える。
レイは深く追及することなく、受け取ったデータ端末を自分のコンソールへ接続した。
「環境データはすぐに学会のサーバーへ保存しておこう。これで断層深部の探索も進めやすくなる」
転送状況を確認しながら、レイが眼鏡の位置を直す。
「それと、私から君たちの本当の素性や、『深部』で何をしていたのかを追及するつもりはないよ。研究に必要な情報を持ち帰ってくれた。それで十分だ」
「相変わらず話が早くて助かります」
「ただし学会の名を使う以上、最低限の報告は忘れないでくれ。協力には感謝している。また何かあれば頼むよ」
「はいよ~。レイさんも何かあれば呼んでください」
クラムは無邪気な笑顔を崩さず、ひらひらと手を振った。
レイもそれ以上踏み込まず、手際よくデータの引き継ぎを終える。
研究第一である彼女らしい、割り切った距離感はクラムたちにとってもありがたいものだった。
「ふぅ……これで表向きの仕事は完璧、と」
テントを出たクラムは、基地の奥まった区画へ停めていたトラックへ向かった。
荷台には
『ホワイトスター学会 大崩壊前史研究部門 WSI:R.E.L.I.C』
と白い塗装で文字が刻まれている。
「ほら、手を貸すよ」
運転席へ荷物を放り込み、助手席の扉を開ける。
「……情けないわね」
「そう自分を責めるなって。整備を怠ったわけじゃない。あそこのエーテル濃度が異常だったんだ」
クラムは、歩くたびに義足を軋ませるオペラへ手を差し出した。
彼女は僅かに躊躇したあと、その手を取って助手席へ乗り込む。
「……アナタがいなかったら、私はあそこで死んでいたかもしれないのよ」
安全地帯で限界を迎えたオペラを、クラムは帰路の途中から背負って運んできた。
自力で歩けなかったことが、彼女のプライドに触れたのだろう。
オペラは生身の左手で、機械化された右腕を強く握る。
クラムはそれを一瞥したが、何も言わなかった。
からかうことも、慰めることもせず、ただトラックのエンジンを始動させる。
エンジンの低い振動が車内を満たし、二人を乗せたトラックはスコット前哨基地をあとにした。
⸺
「帰りに六分街へ寄ろう。『TURBO』で義体を見てもらわないと」
ハイウェイへ入ったところで、クラムが言った。
「俺も借りてたビデオを返さないといけないし」
「…いつも思うのだけれど、ビデオを借りるのは『Random Play』じゃないと駄目なの?」
オペラは銀髪を束ねたローポニーテールを指先で弄りながら、窓の外へ視線を向けている。
「サブスクじゃ見られない作品があるんだよ。最近は昔のヒーロー映画が俺の中で熱くてね」
「それって、邪兎屋のビリーがいつも言っているやつ? ほら、スターライトナイト」
「いや、それじゃない。あれも面白いんだが……あ゛ぁ、しまった!」
「何!?」
オペラが反射的に身構える。
「前哨基地で昼飯を食えばよかった!11号から、基地のカレーは美味いって聞いてたんだよなぁ……」
「…もしかして、スターライトナイトの赤色からカレーを連想したの?」
「うん」
「アナタ、よく天然って言われない?」
「失敬だな! 俺の身体は百パーセント天然由来だよ!」
「そういう話はしていないわ」
オペラが呆れたように溜息を吐く。
ラジオが14時を回ったことを知らせた。
交通状況を考えれば、六分街へ着く頃には夕方になっているだろう。
「一応、夕方には着けそうだってエンゾウおじさんへ連絡しておくわね」
「頼むよ。監視映像の復元処理は荷台の端末で走らせてるから、頑張れば明日には結果が出るはずだ」
「…まさか、そのまま二徹するつもり?」
携帯端末で修理の連絡を入れながら、オペラが眉をひそめた。
「今日すぐ解析したところで、状況が変わるわけではないでしょう」
「いやいや、さすがの俺でもそこまで不健康な生活はしないって」
クラムは運転席の背もたれへ身体を預ける。
「お前もずっとナビゲートしてたんだ。六分街へ着くまで寝てていいぞ」
「丸一日近く荷物を背負ってホロウを歩き回って、あの化け物と戦ったのよ。私よりアナタの方が疲れているでしょうに」
「フッ。タフって言葉は俺みたいなヤツのためにあるんだよ」
「寝不足の人間が言っても説得力がないわ」
「いいから寝た寝た」
軽口の中に、拒否を許さない柔らかな強さがあった。
オペラはしばらくクラムの横顔を見つめていたが、やがて諦めたように目を閉じる。
「分かったわ。お言葉に甘えさせてもらう。……ねぇ、クラム」
「ん?」
「アナタも無理は駄目だからね。運転中に眠くなったら、すぐに休憩所へ停めなさい」
僅かに言葉を切る。
「…絶対に、事故なんて起こさないで」
「はいはい。分かってますよ」
クラムは前方から視線を逸らさず、穏やかに答えた。
「安全運転で送り届けるから、余計なことを考えずに休みな」
それで安心したのか、隣からほどなく静かな寝息が聞こえ始める。
義体の幻肢痛に耐え、ホロウ内で神経を削り続けたオペラが、ようやく訪れた安らぎの中で眠りについた。
「なんだ。やっぱり限界だったんじゃないか」
クラム自身も、身体の奥に重い疲労を感じていた。
眠気覚ましのエナジードリンクを開け、単調なハイウェイを進んでいく。
車内ラジオから流れてきたのは、『千面相』と呼ばれるプロキシ集団の主要メンバーが、対ホロウ六課によって一斉に摘発されたというニュースだった。
「柳さんが主導したやつか」
クラムとオペラも、表向きはホワイトスター学会の調査員として捜査へ協力している。
連中の通信を妨害し、ホロウ内外に散らばっていた構成員の位置を割り出す。
月城柳たち六課が主犯格へ辿り着けたのも、その支援があったからだ。
「でも、このニュースは少し前から何度も流れてたよな。市長選が近いから、ホロウレイダーへの牽制も兼ねてるのか?」
少なくとも、六課へ協力した身としては、もう少し報奨があってもいいような気がするが。
そんなことを考えながらラジオの音量を下げ、アクセルを僅かに踏み込んだ。
エンジンの重低音が一段高くなり、トラックが滑らかに速度を上げる。
六分街へ近づくにつれ、サイドミラーに映る西日が橙色を帯び始めていた。
ハイウェイの防風壁の隙間から、遥か遠くに新エリー都の高層ビル群が見える。
黄金色の光を浴びてそびえ立つ都市を眺めながら、クラムは呟いた。
「さて。今度は何を借りようかな」
誤字脱字等あればご指摘ください。