プロメシュースの悔恨 ―新エリー都、その記録の外側で― 作:jolend
研究所を見下ろす斜面で、アンビーは足を止めた。かつての制服の裾が、湿った風に揺れる。
斜面へ足を踏み出した時、頬に冷たいものが触れた。
見下ろした手袋に、一滴。続いて、足元の石にも黒い点がついた。
雨だ、まだ足元の枯れ草をときおり鳴らす程度の。
研究所の外壁へ近づくにつれ、雨粒の間隔が詰まっていく。アンビーは濡れ始めた手すりから手を離し、作業員用の入口に張り出したひさしの下へ身を寄せた。
イアスが入口の前で止まる。
『ここから下りられる。前回の入口は封鎖されたけど、こっちの荷物を運ぶ道は今も使われているみたいだ』
アキラの声が届いたとき、入口の奥で警備機の砲塔が旋回した。
アンビーはイアスを背後へ下がらせ、砲身の下へ踏み込む。
振り上げた刃が、露出した駆動部を断った。砲塔が傾き壁へ衝突する音を背に、アンビーは先へ進んだ。
『次の角を右! 左は搬入区画へ繋がっている』
「分かった」
戦うのは自分だ。
それでも、帰る道を確かめている声がある。
先へ進むほど、頭上の雨音が大きくなった。配管の継ぎ目から落ちる水が、通路の端を細く流れている。
奥の扉を開けると、横殴りの雨が吹き込んだ。
その先は、研究棟に囲まれた屋外の搬入広場だった。照明に照らされた雨筋が、濡れたコンクリートへ絶え間なく突き刺さっている。
斜面で落ち始めた雨は、もう制服の肩を重くするほどになっていた。
屋外の搬入広場、建物のひさしの下にいた少女がこちらを見た。
その後ろにも、何人も同じ顔がある。
武器を向ける者はいなかった。逃げる者もいない。ただ、誰の指示を待てばよいのか分からないように、互いの顔を見ていた。
ひさしの奥で、人影が動いた。
ツイッギーだ。少女たちの間を抜けると、雨の中へ歩み出てくる。昨日彼女の袖を掴んでいた黒いマスクをした子が、一人だけ後を追った。
空が稲妻で白く裂けた。
ツイッギーの顔と、その背後の外壁が一瞬だけ浮かび上がる。遅れて鳴った雷が、広場を打つ雨音を押し潰した。
アンビーは足を止めた。雷鳴が遠ざかるのを待って、ツイッギーが口を開く。
「来てくれたのね……あら」
ツイッギーの視線が、制服の襟から肩へ移った。
「捨てずに持っていたのね、その制服。ふふ……やっぱり、あなたにはそれが似合うわ。隊長……」
メンテナンス用の通路を出て、広場の端へ回ったイアスも、その一瞬だけは目に入っていないようだった。
アンビーは刃を下げたまま、周囲を見る。
「ツイッギー、その子たちもここから連れ出すわ」
「……会って早々、お引っ越しの話?」
笑みを残したまま、ツイッギーは少女たちを振り返った。
「連れていって、どこに寝かせるの? 何を食べさせるつもり? ここでは全部、私が用意してきたのよ。まさか、外へ出れば誰かが面倒を見てくれるなんて言わないでしょうね」
アンビーは、ツイッギーの肩越しに搬入口を見た。
開いた戸の奥には、寝台の並ぶ部屋がある。その隣の窓越しに何かしらの採取設備が見えた。
☆
クラムは外周の車両置き場に停めたトラックへ戻り、搬入車の端末から回収した搬出番号を並べた。
車体の屋根を雨が叩いている。研究棟の裏手にある搬入広場はここからは見えない。アキラから届く位置と進行状況を画面の端に残し、取引記録へ目を戻した。
薬剤の納入に使われた仲介先が、帰りの荷も引き受けている。
行きは補修部品と医療用品。
帰りは検体。
その言葉の下に、重量と保存温度が記されていた。
既に押さえた納品控えから、仲介が扱った取引の閲覧記録へ辿る。
見れたのは市場の全体ではない。それでも一覧は画面に収まらなかった。
出品
落札
引き渡し完了
臓器の名称が、繰り返し現れる。
別の闇市場へ渡ったものもあれば、闇オークションへ回されたものもある。
「……こんなにか」
クラムはスクロールを止めた。
ラボの搬出番号と一致する記録を保存する。まだ結びつかない取引は別へ分けた。
今、施設にいる人数を数えても、ここへ戻る数にはならない。
個別回線を開く。
「アキラ君、イアスから保冷容器の番号は見えるか。過去の引き渡し記録と照合したい」
『確認できたものから送るよ。……クラム、何が運ばれていたんだ?』
「臓器だ。売買は成立してる。数も少なくない」
返答がなかった。
「そっちの生きてるヤツを数えてくれ。こっちは運び出された先を調べる」
☆
イアスから、アキラの声が届いた。
『……アンビー、クラムが搬出記録を確認した。ここから運ばれた臓器が売買されている』
アンビーは返事をしなかった。
ツイッギーの背後には、雨を避けて身を寄せる少女たちがいる。その奥に積まれた保冷容器へ、一度だけ視線を落とした。
「その子たちの身体を売っていたの!?」
ツイッギーはアンビーだけを見ていた。
「ええ。研究にはお金がかかるもの。部品も薬も、お願いするだけじゃ貰えないのよ」
ためらいのない返事だった。
「そんな顔をしないで。ずっと続けるつもりじゃないわ。設備を増やさなくても、前よりずっと多く作れるようになったの。あとは、ちゃんと戦える姉妹さえ……」
そこで言葉を切り、アンビーの顔を覗き込む。
「私でも、ハリンでも駄目だった。でも、あなたは違うでしょう? ねえ、アンビー。今度はきっとうまくいくわ」
アンビーは答えなかった。
「もう一度、私たちの隊長になってくれない?」
ツイッギーが手を差し出した。
「兵士は私が揃えるわ。あなたが先頭に立ってくれれば、それでいいの。今度は小隊を使い捨てにする命令なんて、誰にも出させない」
少女が、再び彼女の袖へ触れた。
雨の中までついてきた、あの子だった。
ツイッギーは腕を差し出したまま続けた。
「軍だって私たちに手を出せなくなるわ! もっと増えれば新エリー都さえ……私たちを追い出せる人なんていなくなる……! もうどこかへ行かなくてよくなるのよ……!」
「その軍隊を作るまで、その子たちを売り続けるの?」
差し出された手が揺れた。
「だから、あなたが手伝ってくれれば──」
「手伝わなければ、次の子を作って売るの?」
「そうならないようにあなたに頼んでいるんでしょう!」
叫びのあとを、激しい雨音が埋めた。ツイッギーは息を吸い、頬を伝う水を拭おうともしなかった。
袖を掴む少女の肩が縮む。
ツイッギーは息を整え、笑い直そうとした。
「……そうね。そこが気に入らないのね。だったら、研究が完成したあとで私を殺せばいいわ。使ってしまった姉妹の分も……いえ、殺した分も。あなたの手でなら、文句なんて言わない」
アンビーは、ツイッギーの顔を見た。
冗談ではない。頷けば研究を続けるつもりなのだ。
「それならいいでしょう? 私がいなくなったって、あなたと小隊は残るもの。みんな帰ってこられるわ」
アンビーは、差し出された手を取らなかった。
「あなたを殺せば済む話じゃないわ。この研究には協力できない」
「……どうして、そっちの話ばかりするの」
ツイッギーの声が低くなった。
「戻ってきてって、言ってるの……隊長」
指先が、アンビーの手へ近づく。
「また、私たちのところにいて。ここをあなたの帰る場所にしてよ!」
アンビーの視線が、その手から背後の少女たちへ移った。
「姉妹の身体を売って作った場所に、帰ろうとは言えないわ」
ツイッギーの手が止まる。
「……私が好きで、こんなことをしてきたと思ってるの!?」
「好きかどうかを聞いているんじゃない。もう、この子たちを傷つけないで」
ツイッギーはゆっくりと手を下ろした。
「あはは……また『やめろ』なのね。隊長は、私が何をしてきたかよく分かってるのね」
笑い声が途切れた。ツイッギーは、自らの手のひらへ目を落とす。
「売られる方がどんな気分か知らないとでも思った? ……知ってるわよ、嫌になるくらい。でも、ここまで来たの。もう少しで……あなたさえ……」
アンビーが何かを言いかける。
ツイッギーは、その言葉を待たなかった。
「だったら何をしに来たの、その服まで着て。私が喜ぶ顔でも見たかった?」
「終わらせに来たの。研究も、この子たちが売られていくことも」
「それで、全部壊すのね」
「みんなを連れ出してから。あなたもよ」
ゆっくりと近づくアンビーから差し出していた手を見て、ツイッギーは笑った。
「……そう、連れに来ただけなのね。帰ってきてくれたわけじゃないのね」
アンビーの制服へ、もう一度だけ目を向けた。
「なのにそんなものまで着てくるなんて、意地が悪いわ、隊長」
ツイッギーは、袖に縋る少女の手をほどいた。指を一本ずつ外す仕草は丁寧だったが、一度も少女と目を合わせない。
空いた手が上着の内側へ滑り込む。
アンビーは、彼女の手元から目を離さなかった。
「待って。まだ話は終わっていないわ」
指の間に透明な筒が覗いた瞬間、アンビーは地面を蹴った。
広場の脇で、重い留め金が外れる。その時を待っていたかのように、荷物の積み下ろしに使う設備の陰で待機していた防衛機が身を起こし、二人の間へ鋼の腕を差し入れた。
装甲に溜まっていた水が、アンビーの顔へ飛ぶ。
咄嗟に刃で受けた。濡れた靴底がコンクリートを滑り、踵が舗装の継ぎ目にかかって、ようやく止まった。
「ツイッギー!」
腕の継ぎ目へ刃を食い込ませる。その向こうで、注射器が持ち上がった。
針が向いたのは、アンビーではない。
ツイッギー自身の、白い首筋だった。
「アンビー……私はね、誰よりも私が一番憎いの」
アンビーが鋼の腕を押し返すより早く、針先が肌へ迫る。
首筋に針が突き刺さる、その直前⸺
横合いから飛び込んだ光の粒が、ツイッギーの手首にぶつかった。間を置かず、もう一筋の光が同じ場所を打つ。針を持つ手が首筋から弾き離された。
「──っ!」
注射器が指をすり抜け、少女たちから離れた広場の端へ転がる。浅い水を跳ね、作業用の扉の足元にある段差に当たって止まった。
手首を打った二つの光点が、宙で弧を描いた。減速した光に、金属の小さな輪郭が覗く。エーテルをまとった超小型ドローンだ。
「これは、アイツの……!」
広場脇の作業用の扉から、さらに幾つもの光点が追いつく。群れは雨の中へ扇状に広がったかと思うと、再びあるじの場所へと戻り、その周囲を円球上に回り始めた。降り続く雨粒の間に、小さな光の輪郭が明滅している。
ツイッギーが注射器を追う。だが、その扉から広場へ踏み込んだ人影が、先に屈み込んでいた。
「それは、使わせないわ」
オペラだった。裂けた袖から義手と、その外側に固定されたカイトシールドのような細長い盾を着けている。
背後では、こじ開けられた扉がまだ小さく揺れていた。
オペラが通ってきたメンテナンス用の通路は、途中から配管と崩れた足場に塞がれていた。そこを抜け、外へ通じる扉の隙間から広場を捉えた時には、既に注射器が持ち上がっていた。
「オペラ……?」
呼ばれても、オペラは手元から目を離さない。
「話はあと、先にこの子たちを」
ツイッギーの目は、彼女の顔ではなく、注射器を握る生身の左手を追っていた。伸びてきた手を義手で押さえ、オペラは針先を二人の身体から遠ざける。
「放しなさい!」
「……!」
袖を離された少女が、二人の間へ入ろうとした。
「触らないで、危ないわ」
少女へ注意を向けた隙に、ツイッギーの蹴りが脇腹へ入った。オペラの息が詰まる。それでも、注射器を持つ手は開かなかった。
金属の軋む音が頭上でした。アンビーと組み合った防衛機、テューポーン・デストロイヤー・カスタムが、砲口だけをこちらへ向けている。
浮かんでいた光の群れが、左右にほどけた。一方は腕を回り込み、もう一方は防衛機の頭上へ駆け上がる。
稲光が空を走った。
その白さが消えるより早く、別々の角度からドローンが突っ込み、照準器と砲塔の継ぎ目を立て続けに貫いていた。
硬い衝突音が重なり、覆いが砕け散る。砲口が横へ振れた隙に、オペラはツイッギーを抱え込んで身を伏せた。砲撃が背後の研究棟の外壁を抉り、降ってきた大きな破片を、戻り際のドローンが横から打ち落とす。破片が水溜まりへ落ちる音に雷鳴が重なった。
ドローンの群れは少女たちのいる側を避けて旋回し、再びオペラの周囲へ集まった。
戻ってくる間隔も、向きを変える瞬間も、身体が覚えていた。
グレースへ渡した設計図。再現できるかと尋ねた時、彼女は食い入るように図面を覗き込んでいた。
あの約束が、今、目の前を飛んでいる。
ただ、引き戻した数機が思った位置をわずかに越えた。オペラが念じて軌道を修正する。今の身体で扱う感覚までは、昔のままとはいかなかった。
群れを搬入口の側へ回す。
『ひさしの下へ! 荷下ろし台の陰に入るんだ!』
アキラの声だ。
イアスが少女たちを搬入口側へ下がらせる。オペラはツイッギーを引き起こし、低いコンクリート台の裏へ押し込んだ。袖を離されたマスクの少女も、その後へ駆け込んでくる。
背後で、アンビーの刃が防衛機の脚部を切り裂いた。
傾いた機体を、広場の車両用ゲートから飛来した銃弾が打つ。
銃声に続き、防衛機の胴から炎をまとった刃が突き出した。
「そこを退いて。私が仕留めるわ!」
再び体勢を立て直した防衛機へ11号が踏み込んだ。トリガーとともに車両用ゲートを抜けてきた彼女の制服は、雨を吸って身体に張りついている。
裂けた装甲の内側に刃を返し、機体を少女たちのいない広場の端へ押し倒す。
オペラはひさしの下でツイッギーを外壁に押さえたまま、注射器を確かめると携帯容器へ収め、蓋が閉まる音を聞いて、ようやく息を吐いた。
その音に、マスクの少女が一歩近づく。
「そこにいて。今は手を出さないで」
少女は立ち止まった。ツイッギーはその顔を見ず、オペラがしまい込んだ容器を見つめていた。
☆
アンビーがひさしの下へ駆け込んできた時、ツイッギーはまだオペラを睨んでいた。
広場では11号とトリガーが残る防衛機を抑えている。ひさしの縁から落ちる水の幕が、三人のすぐ横で舗装を打っていた。
「間に合ったのね?」
「大丈夫、使っていないわ」
オペラは答え、アンビーへ目を向けた。
「このまま連れ出したい。歩かせるのは危険だから搬送具を使う」
後退の手間が増える。守る場所も、使える手も足りなくなる。
オペラは、押さえた手首を見た。
「ごめんなさい隊長。これは私のエゴよ」
ツイッギーが笑った。
「これで助けたつもり? あなたのしていることは、ただの偽善よ」
オペラは何も返さなかった。
「ここから連れ出したら、私の身体が元に戻る? ここにいない子たちも戻ってくるの?」
握っている腕の下で、駆動部が軋む。
「何もできないくせにっ!」
「……えぇ、だから、エゴ」
それだけ答えて、オペラは手首への力を緩めた。
逃がすためではない。固定具へ持ち替えるためだった。
「でも、もうあなたを傷つけることもしない、薬を返すこともできないわ」
アンビーが膝をつき、もう片方の固定具を取った。
「オペラ。こっちは私が」
留め具を受け取っても、すぐには閉じなかった。ツイッギーの手首を支え、捻れていた帯を直す。
「私も、あなたを連れて帰るわ」
「……今度は、二人がかりで面倒を見てくれるのね。ずいぶん大事にされるようになったものだわ」
アンビーの指が止まった。
ツイッギーは、その手を振り払おうとした。アンビーは腕を引かず、固定具が食い込まない位置へ持ち替えた。
「今さら隊長らしくしないで。戻ってきてほしかった時には、いなかったくせに」
「……ええ」
「大丈夫、こんなものを付けられたらもう逃げないわ。安心した? これで隊長のお仕事もおしまいね」
アンビーは顔を上げた。
ツイッギーが目を逸らしても、その前から動かなかった。
「終わりにはしないわ」
「今度はお説教? もう十分聞いたつもりだけれど」
「研究は止める。あなたがしたことも隠せない。でも、ここを出たあとも会いに来たいの」
ツイッギーの口元が歪んだ。
「何を話すの? 昔の思い出? いなくなったあとのこと? それとも、あなたがいなかった間に、私が何をされたか……聞いたら、きっと嫌な気分になるわよ」
「聞くわ。あなたが話してくれるなら」
「私が何も話さなかったら? 黙っているだけの相手に、いつまで付き合えるかしらね」
アンビーは少し黙った。
「……何を話せばいいか、私にも分からないかもしれない。それでも、会いたい」
ツイッギーはアンビーの濡れた襟元を見た。
「またその格好で? 私が何を言っても隊長でいてくれるつもりなの?」
アンビーも、自分の襟へ目を落とした。
「あなたの小隊を率いることはできないわ」
「ええ、よーく分かったわ。さっき嫌というほど──」
「次はいつもの服で来る」
ツイッギーが口を閉じた。
アンビーは、支えていた手首へ視線を戻した。
返事はなかった。やがてツイッギーは顔を背け、低く言った。
「……私が待ってるなんて思わないことね」
アンビーはしばらくその横顔を見つめ、それから留め具を閉じた。
「痛むところは?」
「あなたの顔を見ていると、何もかも全部痛むわ」
アンビーは一度だけ唇を結び、それから固定具の位置を確かめた。
オペラが手を離しても、彼女はツイッギーのそばに残った。
『搬送用の経路を出す。少し遠回りになるよ』
アキラが告げる。オペラは少女へ向き直った。
「歩ける?」
少女はツイッギーを見てから頷いた。許可を求める目だった。
ツイッギーは最後まで何も言わなかった。
☆
広場の銃声と金属音が途切れた。
しばらく耳に残っていた雨音も少しずつ弱まっていく。ひさしから落ちる水の幕が薄れ、その向こうに倒れた警備機の輪郭が見えるようになった。
遠くで雷が鳴った。今度はすぐ近くの足音をかき消すほどではなかった。
『車両用ゲートまで確保しました。ひさし沿いに誘導してください』
トリガーの連絡に続き、11号が搬入口から空の搬送台を押してきた。
「奥にあったわ。これを使って」
アンビーとオペラが、ツイッギーの身体を台へ移す。固定具を台の留め金へ繋ぎ直す間も、彼女は顔を背けたままだった。
トリガーがそばへ来て、固定を一つずつ確かめる。
「この方は私が運びます。11号車までの警戒をお願いします」
「了解」
袖を掴んでいた少女が、搬送台へ近づいた。
「この子も一緒にお願い」
オペラが言うと、トリガーは少女へ頷いた。
「離れずについてきてください」
アキラがイアスを、残る少女たちの前へ進ませる。
『僕たちについてきて。車のあるところまで案内するよ』
搬入口から車両用ゲートまでは、荷下ろし用の屋根が道沿いに続いている。屋根の継ぎ目から雨は吹き込んでいたが、広場を横切らずに進める経路だった。
少女たちは、すぐには動かなかった。
オペラが一人に手を差し出す。視線がその手とツイッギーの間を往復し、やがて、細い指が触れた。
「ゆっくりでいいわ」
一人が歩き出すと、隣にいた少女も後へ続いた。
アンビーは搬入口をくぐり、寝台の並ぶ部屋へ向かった。
「奥にもいるわ。歩けない子がいないか、見てくる」
オペラは頷き、クラムへ外周の集合地点を確認した。
☆
外へ出す人数が増えるたび、クラムの画面にも項目が増えた。
歩行可能
介助が必要
搬送台が必要
クラムは柳への回線を開いた。
「例の件で進展があった。臓器売買に関わる施設から生存者を連れ出してて、それの受け入れ先を頼みたいんだ」
『……分かりました、保護された方の人数と容体を教えていただけますか?』
「今送る。ただ身元の確認は取れてない。そっちを待ってたら多分朝になっても動けない」
クラムは搬送一覧を送信した。
クローンという言葉は入れなかった。
それでも、柳なら何かを察するだろう。察したことをどこへ確かめに行くか。それが気にかかった。
被害者
身元未確認
必要な処置と、投与された薬剤の記録は添える。
『こちらで受け入れ先を調整します。ただ、これだけの人数となると、確認が必要なことも多くて……』
「調べるなとは言ってない。治療と寝床を身元が分かるまで待たせないでほしいんだ。そこは融通を利かせてくれ」
『……おっしゃるとおりですね。まず治療を受けられるよう、医療機関に伝えます。身元の確認は後回しになるよう進めましょう』
クラムは別の欄を開いた。
「研究を動かしてた女も生きてる。こっちは警備を付けて別に受け入れてほしい。被害に遭った経緯はあるが、今回やったことまで消すつもりはない」
『その方は、事情を伺える状態でしょうか?』
「今は治療が先だ。回収した証拠から渡す」
柳から、調整に入るという返答があった。
『軍を装った件との繋がりも、引き続き調べているのですね』
「ああ、この件は前に頼まれたやつの続きだ。だから、軍の書類が揃ってるというだけで引き渡すのは避けたい」
『そこは承知しています。搬送の担当者と受け入れ先は、こちらでも別々に確認します』
クラムは、送信済みの一覧へ目を戻した。
「それから、柳さん。あの研究の来歴まで照会するなら、先に俺へ連絡してくれ」
『……何か、伏せていることがありますね』
「治療に必要なものは渡してる。ただ、その先をどこまで知ったか、照会を出せば向こうにも分かるだろう」
回線の向こうで、入力の音が止まった。
「記録を消すだけで済ませてくれる相手なら、いいんだけどな」
柳はすぐには答えなかった。
『忠告は受け止めます。ただ、保護する方々に危険が及ぶ情報は必ず伝えてください』
「分かってる。そっちの安全も含めてだ」
『では、照会先の確認もこちらで進めます。搬送については、担当者が決まり次第連絡します』
☆
屋根付きの通路の陰で、最後のドローンがオペラのカイトシールドへ収納された。
オペラは裂けた袖を引き下ろし、少女たちを乗せた搬送台を追って車両用ゲートを抜けた。
車両置き場では、クラムがトラックの後部扉を跳ね上げ雨を避けて積み込めるようにしていた。足音に振り返ると、オペラが裂けた袖を押さえて立っていた。
「聞いてたのか」
「最後だけ」
「なら、今朝の腕の修理代の話はまだだな」
オペラは搬送一覧を見た。
「それで、受け入れてもらえる?」
「受け入れさせる。後のことは後で考えるさ」
彼は空欄になった氏名欄を閉じた。
「コイツらがどこから来たかで、今夜のベッドの数は変わらんだろ」
☆
ラボの奥ではまだ装置が動いていた。
アンビーは操作卓の前に立っている。
全区画の確認が終わり、最後の搬送台が出口を通ったという報告が届いた。
通路から小さな足音が近づく。車両置き場まで少女たちを案内したイアスが戻ってきたのだ。
アンビーの足元で止まり、顔を上げる。
『生存者の投与履歴と処置記録は保全した。取引の証拠も別に確保してる』
クラムの声がする。
『そこの製造設備を止めても、今運び出した連中の治療を止めることにはならない』
アンビーは、暗い観察窓を見た。
ガラスの向こうには誰もいない。
「取り残された子は、いないのね?」
『トリガーが確認した。オペラの観測とも一致してる』
足元のイアスが顔を上げる。
『アンビー、出口は確保できているよ』
彼女はしばらくその場を動かなかった。やがて操作卓から手を離す。
「これで終わりにするわ」
最初に落ちたのは、製造系統の電源だった。
続いて、再起動用の制御部が刃で断たれる。
白い照明が順に消えていき、ついに最後の装置が停止した。
稼働音が消えると、屋根を打つまばらな雨音が聞こえた。入ってきた時にはひと続きだった音を、今は一粒ずつ聞き分けられる。
アンビーはイアスとともに、暗くなった通路を引き返した。
☆
11号は跳ね上げた後部扉の下でトラックにもたれ、武器の水気と汚れを拭っていた。
オペラが近づくと、11号は手を止めた。
「さっきのドローンは、あなたが操っていたのね?」
「ええ。作り直してもらったの」
「動きに見覚えがあったわ」
「私もそのつもりで動かしていた。昔と仕組みが違うから、少し練習が要りそうだけれど」
11号は頷いた。
オペラは彼女の顔を見た。言葉ははっきりしている。それでも、合間に浮かぶ疲労までは隠せていなかった。
「どうして来られたの?」
11号は車内へ目を向けた。
座席の上に、小さな人形がある。
「目を覚ましたら、あれが棚にあったの。アンビーが持っていたことは、覚えていなかった」
11号は布を握り直した。
「頭の中にカメラが入っていたわ。トリガーに確認してもらったら映像が残っていた」
「部屋で話していた時の?」
「ええ、私が忘れた話が」
オペラは人形が置かれていた向きを思い出した。
「それを見て追いかけてきたのね」
「全部分かったわけじゃない。でも店で待っているつもりはなかったの」
トリガーが車内から降りてきた。
「出発する前に店長さんへ連絡しました。経路を教えていただけたので追いつけたのです」
「止めなかったの?」
「止めても一人で向かうでしょう? でしたら、私も一緒に」
11号は否定しなかった。
アンビーが車両用ゲートから歩いてくる。濡れた前髪から落ちる雫を指で払い、トラックの明かりへ顔を上げた。
11号は布を畳み、武器を収めた。
「私が忘れることを当てにしないで。言いたいことがあるなら次も私に言いなさい」
「……うん」
トリガーが車内へ戻り、席を空ける。
「11号、どうぞこちらへ。帰還するまでが任務です。休める時に休んでいただかないと私も困ってしまいますから」
11号は反論しかけたが、座った。
アンビーも、その隣へ腰を下ろした。
オペラは空を見上げた。冷たい風が濡れた頬を撫でる。新しい雨粒はもう落ちてこなかった。
足元の水溜まりで、最後の波紋が広がって消える。遠くに聞こえていた雷も、いつの間にか途絶えていた。
残ったのは、車体から滴る水の音と、搬送車のエンジン音だった。
☆
夜明け前、受け入れ先の裏口に搬送車が着いた。
H.A.N.D.の職員たちが乾いた毛布を持って近づいてくる。
クラムは担当者の名前を確認し、柳から届いていた情報と照合する。
担架が一つずつ建物へ入っていった。
少女たちは、同じところを見てはいなかった。
入口の灯りを眩しがる子
靴の先から目を上げない子
差し出された毛布をいつまでも返そうとする子
オペラはその手へ毛布を戻した。
「使っていていいのよ」
少女は答えず毛布の端を握った。
別の搬送車から、ツイッギーが運び出される。
オペラと目が合った。
「これで満足?」
ツイッギーの声は小さかった。
「……アナタを連れ出せたことには」
「そう、よかったわね? あなたは」
ツイッギーは眼帯で覆われていない右目を閉じた。
礼も、別れの言葉もなかった。
ラボでツイッギーの袖を掴んでいた少女が担架へ近づいた。肩の毛布を引きずりそうになりながら、同じ袖へ手を伸ばす。
ツイッギーが目を開けた。
「……まだ、私についてくるの?」
少女の手が止まる。
「私が、あなたたちに何をしていたか……見ていたでしょう」
返事はなかった。ツイッギーは顔を背けかけ、少女の指が小刻みに震えていることに気づいた。
「……A、寒いの?」
少女は小さく頷いた。それでも、毛布を握り直すより先に、袖の端をつまんだ。
ツイッギーは腕を引きかけた。
ラボでは、一本ずつ外した指だった。
「毛布を……ちゃんとかけなさい」
少女が空いた手で毛布をたぐり寄せる。ツイッギーはその間、袖を動かさなかった。
職員が、別の病室へ搬送すると告げた。Aと呼ばれたマスクの少女は袖をつまんだまま、オペラを見上げる。
「ツイッギー……ドコ……二……イクノ……?」
「治療を受けるわ。アナタたちとは、別の部屋」
「アエ……ナイノ……?」
オペラは開きかけた口を閉じた。
「それは、確認してから伝えるわ」
少女は、ツイッギーのそばから動かなかった。
オペラは隣に屈み、職員と一緒に少女が休む部屋のことを説明した。
やがて、袖から指が離れた。
ツイッギーは何も言わなかった。担架が動き出しても、その手を毛布の下へ引っ込めずにいた。
少し離れたところで、クラムが受領書を受け取っている。
運び込んだ人数と、受け入れた人数、双方の数字を確かめてようやく端末を下ろした。
☆
六分街へ戻る途中、クラムは取引記録の画面を開いた。
「仲介先は、一つじゃなかった」
「施設を止めても、外の取引は止まらない?」
「向こうから見れば、仕入れ先が一つ消えただけだろう」
記録の端に、例の音声照合結果が残っていた。
ハルトマン
72.6パーセント
「この名前までは届いたの?」
「まだだ、声が似てることと、臓器が売られてたことを、証拠なしで繋ぐわけにはいかない」
クラムは候補の画面を閉じた。
「ただ、次に調べる相手は増えた」
「仕事熱心ね」
「誰かさんが、先に仕事を増やしたからな」
オペラは窓の外を見た。
雲の切れ間から空が白み始めていた。濡れた路面にも、薄く明かりが戻っている。
「クラム」
「ん?」
「受け入れ先のこと、ありがとう」
彼はしばらく前を向いたままだった。
「礼なら全部終わってからにしてくれ。まだ取り消せるぞ」
「取り消さないわ」
それ以上は話さなかった。
☆
数日後の昼、オペラはトラックの脇に出した折り畳みテーブルで、ピザの箱を開けた。
焼けたチーズの香りが立ちのぼる。一切れを持ち上げたところで、向かいから声がした。
「それが昼食なの?」
11号だった。
記憶は負傷する前の状態まで戻ったと、トリガーから聞いていた。あの夜の出来事まですべて思い出したわけではない。それでも、今はオペラの顔を見て、誰だったかと尋ねることはなかった。
「座る?」
「その前に、食事の内容を見直した方がいいわね」
オペラは持ち上げたピザを戻した。
「まだ一口も食べていないのだけれど」
「食べる前で良かったわ。脂とチーズに偏りすぎている。もっと栄養の摂れるものを選ぶべきよ」
「小麦に肉、トマト、乳製品。ちゃんと入っているでしょう」
「入っていればいいというものではないわ」
11号は向かいの椅子を引いた。
「ラーメンなら、一杯で食事を済ませられる。肉も野菜も摂れて、水分も補えるわ」
「ピザだって食事は済むわ。水は別に飲めばいい」
「ジャンクフードを食事の中心に据えることに、問題があると言っているの」
「ラーメンはすべて丼に入っているから許されるの?」
11号の手が止まった。
「……同じものとして扱わないで」
「先に私の昼食を否定したのはそちらでしょう」
オペラは箱を少し自分の方へ引いた。
「私はピザが好きなの。今日はこれを食べるつもりで、朝から楽しみにしていたのよ」
「そう。なら、今から変えろとは言わないわ」
「最初から、そう言ってほしかったわね」
「次の食事で改善すればいい」
オペラは紙皿を一枚取り、ピザを載せた。
「食べたことは?」
「なくても、成分くらいは──」
「じゃあ、一口食べてから聞くわ。その長い報告」
皿を差し出され、11号はオペラとピザを交互に見た。
「……そこまで言うなら」
一口かじる。伸びたチーズを噛み切るまで、二人とも黙っていた。
「どう?」
「辛味が足りないわ」
「辛くしないと食べられないわけではないでしょう」
「もっと良くできるという話よ」
オペラは小瓶のホットソースを皿の横へ置いた。
「自分の分だけにしてね」
11号は頷き、ためらいなく瓶を傾けた。オペラは残りのピザを守るように、箱の蓋を立てる。
「それでチーズの味が分かるの?」
「分かるわ」
「なら、さっきの感想を訂正して」
「食事としての評価は変わらない」
11号はそう言って、空になった紙皿を置いた。
それから、箱へ手を伸ばす。
「……二切れ目?」
「冷めるわよ。話すばかりで食べていないでしょう」
「だからといってアナタが食べる必要はないわ」
オペラも手を伸ばした。二人の指が、同じ一切れの端で止まる。
「それは私の分」
「まだこんなに残っているわ」
「そこが一番チーズの多いところなの」
11号は一度ピザを見下ろし、隣の一切れへ手を移した。
「次はラーメンにしましょう」
「次のピザなら、別の店に頼むわ」
「聞いていた?」
「ええ、聞いたうえで言っているの」
「おいっ! 俺の分も残しとけよ!」
☆
アキラから解析の連絡が来たのは、その日の夕方だった。
オペラは一人でRandom Playを訪ねた。
店内には返却されたビデオが積まれており、アキラはその一番上に伝票を挟み奥の部屋へ案内した。
「先に伝えておくよ。君が望んでいた答えとは違うかもしれない。それでも聞くかい?」
「ええ、聞かせて」
画面に、2通の指令が並んだ。
その下へ、照合に使われた記録が表示される。
兄妹が指令の番号から辿り着いた、別保管の発行記録と受領控えだった。オペラが持ち込んだ照会の回答とは分けて画面に並べられている。
『照合が完了しました。別保管の受領控え、および、当時の発行記録との一致を確認。二通とも、本文に相違はありません』
Fairyの声は、最初に聞いた時と変わらなかった。
『救出指令、処分指令、どちらにも正式な発行の裏づけがあります。受信後に本文を差し替えた形跡もありません』
「片方が偽物というわけではないのね」
『肯定。今回の照合で、偽造を示す証拠は検出されませんでした』
オペラは処分という文字を見た。次に救出という文字を見る。
『確認できた受領控えは、中継部署のものです。現場の担当者がどちらを受け取り、何を実行したかは、今回の資料には含まれていません』
アキラが、画面の下に並ぶ記録を指した。
「二通が出されたことまでは確かめられた。でも、クラムが受け取った命令までは分からない」
「両方を見たのかどうかも?」
「ああ、そこも分からない」
オペラは、指令の末尾まで目を通した。知りたい名前は、どちらにもなかった。
「今来ている通知は?」
『別件としての検証が必要です。過去の記録を所持していても、その発行者本人である証明にはなりません』
オペラは頷いた。
「……ありがとう。十分よ」
アキラが解析画面を閉じた。機材の低い稼働音が戻る。
「少し、休んでいくかい?」
「ええ」
差し出されたカップを、右手で受け取る。指は、思ったところで止まった。
熱を持つ陶器を落とさずに持てる。アキラが正面へ座る。
「結果を知らせておきたい相手はいるかい? 君がいいと言わなければ、こちらから伝えることはしないよ」
「今は、私だけでいいわ」
オペラはカップを机へ置いた。
「アナタは、今のクラムを知っているでしょう」
「君と一緒にいるところは何度も見ているからね」
「私はあの人に身体を直してもらったの。歩く練習にも付き合わせた。だから今もこうして普通に生活できている」
右手を開く。アキラはその手を見た。
「でも、その前が分からない」
オペラは、膝の上へ視線を落とした。
床
赤い灯り
腕へ触れる手
姉妹たちの悲鳴
その先を思い出そうとしても、記憶は続かなかった。
「考えられる話は、二つあるわ」
オペラはアキラを見た。
「私たちを殺しに来て、最後に私だけ気まぐれで助けた」
アキラは口を開きかけ、閉じた。
「助けに来て、私しか助けられなかった」
カップから、細い湯気が上がっていた。
オペラは答えを待つように、ほんの少し首を傾けた。
「どっちがいい?」
次回シーズン1のアウトロを予定しております。
少々お待ちください。