世界が滅びた。
みんなが精一杯頑張った。
本当に、頑張ったのだ。
先生も。
先輩も。
後輩も。
桜も。
健も。
あの胡散臭い教祖ですら、最後には死に物狂いで世界を救おうとしていた。
でも、ダメだった。
空を覆った巨大な妖魔。
何千、何万と湧き出した眷属。
僕達はそれを殺して、殺して、殺し続けた。
腕が上がらなくなるまで武器を振った。
力が尽きるまで術を使った。
それでも足りなかった。
最後に見たのは、真っ黒に染まった空だった。
それで終わり。
世界は滅びた。
◇
真っ暗な場所で、僕は微睡んでいた。
死んだのだと思う。
痛くはない。
苦しくもない。
ただ、後悔だけがあった。
もっと強ければ。
もっと早く気づいていれば。
あの時、ああしていれば。
先生を死なせずに済んだかもしれない。
桜を助けられたかもしれない。
黒影だって――。
――黒影?
『こら! そっち行くなって!』
誰かが叫んだ。
小さな犬が走っている。
黒い毛並み。
ふさふさの尻尾。
草の上を転げるように走って、僕のところへ戻ってくる。
めちゃくちゃ可愛い。
『よーし。いい子だ』
僕の手が犬の頭を撫でた。
犬が嬉しそうに目を細める。
尻尾がぶんぶん振られていた。
ぺろぺろと手のひらを舐めるのがくすぐったかった。
なんだ、これ。
知らない。
僕は犬なんて飼っていない。
場面が変わる。
森。
木漏れ日。
僕の足元を、さっきの犬が歩いている。
少し離れたところに、奇妙な生き物がいた。
人間ではない。
妖魔――。
違う。
精霊。
なぜか、その言葉が自然に浮かんだ。
『大丈夫』
僕がしゃがむ。
『怖くないよ』
何してる。
離れろ。
危ないだろ。
なのに僕は笑っている。
犬も警戒していない。
奇妙な生き物が、そっと僕の手に触れた。
僕の指に嵌められた指輪が輝く。
精霊は安らかな顔をして溶けて消えていく。
知らない。
こんなこと、したことがない。
場面が変わる。
雀が飛んでいる。
その下で、一人の男が笑って手を差し出した。
知っている。担任の先生だ。
雀がその指に止まる。
僕はその顔を知っている。
知っているはずなのに。
おかしい。
僕の知っている先生は、こんな服を着ない。
こんなふうに雀に向かって微笑んだりしない。
また変わる。
夜。
黒猫。
血の臭い。
暗い服を着た男が、月の下に立っている。
足元に黒猫。
その周囲に倒れているのは――妖魔。
男が笑う。
楽しそうに。
ぞっとするほど楽しそうに。
こいつも知っている。
でも知らない。
知らない。
知らない。
なのに。
どうしてこんなに懐かしい。
おかしい。
僕は誰だった?
どこまでが僕だ?
世界が滅びて。
僕は死んで。
それから――。
『うん』
声がした。
知らない声だった。
男とも女とも分からない。
なのに妙に楽しそうだった。
『ちょうどよく混じったね』
混じった?
『さあ、二周目と行こうか』
待って。
何をした。
聞きたいことが山ほどある。
なのに、何かが頭の中へ流れ込んできた。
熱い。
痛い。
知らない。
知らないものが入ってくる。
僕じゃない。
でも。
これは――。
僕だ。
最後に、僕は二つに割かれて投げられた。
◇
「――以上をもって、入学式を終了します」
「うわぁっ」
目を開けた。びっくりして叫んでひっくり返る。
体育館だった。
制服姿の少年と少女。
たった二人の同級生。
壇上。
校旗。
教師。
僕も制服を着ていた。
「…………え?」
隣から肘で小突かれた。
「はぁぁ。入学式で居眠り? 先が思いやられるわね」
女の子が呆れた顔で僕を見ている。
肩まで伸ばした髪。
ちょっとつり上がった目。
「桜……」
「何よ。名乗ったっけ?」
生きている。
「桜」
「だから何」
「…………桜」
「怖い怖い怖い。何? 寝ぼけてんの?」
生きてる。
桜が生きている。
喉の奥が詰まった。
「おい、大丈夫か?」
今度は反対側から声をかけられる。
男子。
会った数は数回。でも絶対忘れなかった顔。
「今日から任務だぞ。しっかりしろよ」
「健」
「おう。初めまして。お前は名前なんて言うんだ?」
「琥珀。…………今日の任務」
「今日の任務?」
思い出した。
「健死ぬわ」
「なんでだよ!?」
思ったより大きな声が出たらしい。
担任の先生はため息をついて原稿を片付けた。
桜が口元を押さえている。
「ぷっ」
「笑うな! おい、なんで俺死ぬんだよ!」
「妖魔の死んだふりに騙されて」
「騙されねーよ!」
「本当でござるかぁ?」
「なんだその喋り方!?」
生きてる。
健がうるさい。
信じられないくらいうるさい。
ああ。
僕は。
「……よかった」
「何が!?」
思わず笑ってしまった。
「お前が馬鹿で」
「喧嘩売ってんのか!?」
桜がとうとう吹き出した。
僕も笑った。
笑ったら、少しだけ泣きそうになった。
◇
夢じゃなかった。
日付を確認した。
十年前。
僕達が入学した日だ。
世界が滅びる十年前。
僕は15歳。
体も15歳。
術の出力も15歳。
ピッチピチの高校一年生。
最悪だ。
いや。
最高だ。
10年もある。
10年もあるのだ。
先生もいる。
桜もいる。
健もいる。
まだ誰も死んでいない。
世界だって青空の下にある。
だったら。
今度こそ。
絶対に。
「聞いてんの?」
「聞いてる」
「絶対聞いてなかったでしょ」
桜に睨まれた。
僕達は入学式と先生から武器を下賜される儀式を終えて、そのまま初任務の説明を受けていた。
今考えると、とんでもない学校だと思う。
入学式当日に武器を与えられて実戦。
でも当時は疑問にも思わなかった。
妖魔はいる。
人を襲う。
だから僕達が殺す。
それだけの話だ。
「対象は低級妖魔一体。廃ビルに住み着いている」
担任が地図を広げる。
若い。
先生が若い。
当たり前だけど。
「住民の避難は終わっている。君達には実戦を経験してもらう。危険と判断した場合は僕が処理する」
そうだ。
この任務。
簡単な仕事だった。
低級妖魔。
僕達三人でも十分倒せる。
問題は――。
「健」
「なんだよ」
「死んだふりするからな」
「まだ言ってんの!?」
「絶対近づくな」
「分かったって!」
「本当に?」
「分かった!」
「目を潰して、首を落として、それでも十秒待て」
「怖えよ!」
先生が僕を見る。
「……慎重なのはいい事だね。でも僕の話も聞いてね?」
「すみません」
「よろしい」
先生が頷いた。
この時の僕達は知らなかった。
妖魔の死んだふりなんて。
僕も知らなかった。
健が死んで初めて知った。
だから今度は大丈夫だ。
未来を知っている。
僕は世界が滅びることを知っている。
誰がいつ死ぬかも、全部ではないけれど知っている。
10年。
10年あれば変えられる。
変えてみせる。
――そう思った時だった。
『わん!』
「…………」
犬の声がした。
振り返る。
いない。
「どうした?」
「……いや」
気のせいだ。
◇
廃ビルは記憶通りだった。
割れた窓。
剥がれた壁。
黴と埃の臭い。
「うわー、出そう」
健が言う。
「出るから来たんでしょ」
「雰囲気の話!」
桜が先頭。
健が真ん中。
僕が最後尾。
先生は少し離れたところから僕達を見ている。
懐かしい。
全部覚えている。
三階。
階段を上がる。
右側の廊下。
三番目の部屋。
「来るよ」
「え?」
壁が吹き飛んだ。
「うおっ!?」
黒い塊が飛び出した。
四本足。
犬より大きい。
猿にも似ている。
顔の半分が口。
低級妖魔。
「散れ!」
桜が叫ぶ。
三人が別方向へ跳ぶ。
健が武器を抜いた。
僕も抜く。
体が重い。
遅い。
10年後の体じゃない。
でも。
動きは全部知っている。
「右!」
「おう!」
健が避ける。
「桜、三秒後に跳ぶ!」
「はぁ!?」
「いいから!」
一。
二。
三。
妖魔の尾が床を薙いだ。
「うわっ!」
桜が跳ぶ。
「なんで分かったの!?」
「後で!」
知っている。
こいつの動きを。
何度も夢に見た。
健を殺した妖魔だから。
僕達は追い詰めた。
桜の術が足を焼く。
健の刃が脇腹を裂く。
僕が前脚を落とす。
妖魔が倒れた。
動かなくなる。
「やった?」
健が言った。
「健」
「分かってるって」
動かない。
一秒。
二秒。
三秒。
「…………」
健がじりじり近づく。
「おい」
「確認だけ」
「近づくなって」
「もう死んで――」
妖魔の目が開いた。
「うわぁぁぁぁぁ!?」
大口が健に迫る。
健が死に物狂いで後ろへ転がった。
牙が鼻先を掠める。
先生が動こうとする。
その前に、僕が妖魔を蹴り飛ばした。
「言っただろ!!」
「わ、分かってた! 分かってたから!」
「完全に騙されてたじゃん!」
「騙されてねえ!」
「嘘つけ!」
「うるせえ! 生きてるからいいだろ!」
生きてる。
健が。
生きている。
「…………そうだね」
「なんだよ急に」
「生きてるからいいや」
「お、おう……?」
桜が変な顔をしていた。
先生も。
でもいい。
本当に、それだけでいい。
僕は武器を握り直した。
「終わらせよう」
妖魔が唸る。
前脚一本。
脇腹に傷。
もうまともには動けない。
僕は知っている。
ここからこいつを殺す。
前回もそうした。
今度も。
武器を振り上げた。
――怖い。
「…………え?」
手が止まった。
怖い。
違う。
僕じゃない。
僕は怖くない。
何百、何千と妖魔を殺してきた。
こいつだって一度殺した。
怖いのは――。
こいつ?
妖魔が僕を見ている。
唸っている。
牙を剥いている。
でも。
違う。
威嚇。
痛い。
怖い。
逃げたい。
来ないで。
殺さないで。
「…………は?」
何だこれ。
頭の中に、知らない感覚が流れ込んでくる。
妖魔を見る。
いや。
違う。
この子を見る。
「…………この子?」
自分で言って、自分でぞっとした。
誰だ。
今の。
誰の言葉だ。
「どうした!」
先生の声。
妖魔が跳んだ。
「琥珀!」
桜が叫ぶ。
僕は反射的に手を伸ばした。
武器ではなく。
左手を。今の僕には指輪はないのに。黒影だっていないのに。
「――伏せ」
妖魔が。
伏せた。
「…………」
「…………」
「…………」
全員が固まった。
僕も固まった。
妖魔が床に腹をつけている。
震えていた。
僕の左手からは力が注がれている。
何度も使った。黒影と一緒に。
そう、◾️◾️◾️は使い魔から力を汲み上げて使う。
媒体も源もなしに出来ることなんて、ちょっと鎮めるくらい。
それでも、ずっと僕はこれを使ってきた。体が覚えてる。
森で。
川で。
傷ついた精霊に。
「……力を抜いて」
言葉が勝手に出る。
「もう大丈夫だから」
妖魔から黒い靄抜け出て、僕の手のひらで丸まった。
その、嫌な感じを凝縮した石の名を、僕は知っていた。
黒泥石。悪意を固めたもの。
妖魔は核を失ったかのように溶けて消えてしまった。
「何やったの、お前」
僕の手には、黒泥石が嫌な感じを振り撒いていた。
「えーっと。これ、どうすればいい?」
「何やったの?」
先生が問いかける。
「なんなんでしょうね?」
どうやって処理してたっけ、これ。
ええと、邪念の塊、なんだよね。これ。
処理方法1。食べて瞑想で邪念を散らす。
処理方法2。使い魔に合成して悪の使い魔を作る。
処理方法3。封印する。
うーん、うーん。
「食べます!」
「食べない」
ペチンっと頭を叩かれ、回収された。
「それ、悪意の塊というか、危ないもので」
「尚更食べちゃダメでしょ」
「それはそう。なんで食べるって話が出たんでしょうね?」
「君が食いしん坊だからでは?」
「そうかも」
「変なの食うなよ、琥珀」
そうして、その日の任務は終わった。
石については、先生が調べてくれる事になった。
「よーし、初任務祝い行こっか! クレープ奢るよー」
「やったー!」
「先生大好き!」
「甘いの大好きー!」
なんて事ない日常。
いや。
僕にとっては、10年前の三人。
取り戻した光景。変えた選択肢。書き換わった歴史。
嬉しい。けれど証明されてしまった。
もう一人の、僕の記憶。
退魔師じゃない。
調霊師。
もう一つの、滅びを迎えた世界の記憶。
なんだっていい。
なんだって利用して、僕は世界の滅びを回避する。
なら、やるべきことも決まっている。
死んだ人を生かす。
足りなかった力を集める。
そして――。
僕は一人の男を思い出した。
胡散臭く、誰より危険視されて、妖魔との融和なんてものを唱えていたイカれた教祖。
正義を振り翳し、誰より傲慢に、精霊に反旗を翻した総裁。
いつだって世界に背を向けて、いつだって世界の破滅をあと一歩で救いかけた異端児。
山彦 鏡佳。
「…………あの男は使える」
かつての歴史で、あの男の計画は失敗した。
当然だ、あの男すら理想を信じてなかった。
ただ妖魔を操ろうとしただけ。だから妖魔を鎮めきれなかった。
それでもいいところまでは行った。
最後には、先生達が戦うしかなかったけれど……。
僕なら、山彦の知識を使えば、妖魔を鎮められるんじゃないか?
完全に操る必要はない。弱体化と封印さえできればとりあえずいい。
以前、僕は迷える子羊だった。
世界を救うためなら、教祖だって導いてやる。
僕こそジョーカー。世界の切り札だ。
遥か彼方から、楽しそうな声がした。
『その調子で二つ目をものにしてね』
僕の心臓が、一度だけ大きく鼓動を打った。