明鏡止水の儀   作:佐藤二時

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第一章:武将納刀録
 1話: 抜き身の天下人と、薄い壁


 

 

――静寂。

 

世界が深い闇に包まれ、草木も眠ると言われる深夜二時。

 

都市の喧騒が嘘のように消え去ったこの時間、東京郊外に佇む築年数不詳の木造アパート『あけぼの荘』の二〇一号室では、人類の存亡をかけた(と佐藤おれちゃんが勝手に思い込んでいる)壮絶な死闘が繰り広げられていた。

 

「くっ……! 静まれ……静まるんだ、道三……ッ!!」

 

パイプベッドの上で、俺は全身から滝のような汗を流しながら己の股間を必死に抑え込んでいた。

 

薄い掛け布団の下で、今まさに天地を揺るがさんばかりの猛威を振るっている存在。

 

それこそが、俺の身体に宿りし暴走武将・美濃のマムシこと――『斎藤道三(さいとうどうさん)』であった。

 

『ぬはははは! 見よ、この天を突くがごとき鋭鋒を! 今こそ天下布武の刻(とき)! 抜き身のまま城を打って出ようぞ!!』

 

脳内に直接響き渡る(ような気がする)道三の猛々しい雄叫び。

 

原因は分かっている。

 

寝る直前に、何気なく観てしまった深夜アニメの「温泉回」だ。

 

ほんの十数秒、湯気に包まれたヒロインのチラリズム。それだけで十分だった。

 

「だ、ダメだ……このまま道三の赴くままに城(パンツ)を突き破らせたら、俺は人として大事な一線を越えてしまう……! 納刀しろ! 頼むから鞘に収まってくれ……!」

 

俺は必死にブレーキをかけるべく、脳内で冷徹な計算を始めた。

 

『ふー……落ち着け俺。素数だ。素数を数えるんだ……。2、3、5、7、11、13、17、19、23……!』

 

数学の神秘によって脳の興奮を冷まそうと試みる。

 

数えている間だけは、確かに何も考えずに済んだ。

 

しかし、暴走する美濃の蝮(マムシ)にとって、素数などただの数字の羅列に過ぎなかった。

 

『甘いわ小僧ッ! 素数などという小細工で、この戦国乱世を駆け抜けた我が野望が止まると思うてかーッ!!』

 

「ひえっ!? 逆に勢いが増してる……!? だったらこれならどうだ! 今月のスマホの通信制限! クレジットカードの口座残高、残り二八〇円!!」

 

現実の生々しい絶望を叩きつけ、テンションを削ごうとする俺。

 

だが、道三は嘲笑うかのように、その刀身の硬度と熱量をさらに増していく。

 

『ハハハ! 貧窮など武士(もののふ)の誉れ! 腹が減っては戦ができぬというならば、己の欲望という名の兵糧を食らい尽くすまでよ!!』

 

「ダメだあああッ!! 現実の厳しさすら燃料に変えてやがるッ!!」

 

ギシ……ギシ……と、俺の体重移動に合わせてベッドのパイプが悲鳴を上げる。

 

額から流れる汗が目に入り、視界が滲む。

 

このままでは、俺の理性が道三の暴力的な欲望に屈し、欲望のままに『自家発電』という名の破滅的エネルギーを暴発させてしまう。

 

「くそっ……誰か……誰か俺のこの……道三を止めてくれ……ッ!!」

 

俺の悲痛な心の叫びが、深夜の自室に虚しく響き渡る。

 

だが、その時――。

 

『ドンドン!!!』

 

自室の壁から、まるで地響きのような鈍い衝撃音が打ち鳴らされた。

 

「ちょっとおれちゃんッ!! 深夜二時に『道三! 道三!』ってうなされながらベッドギシギシ言わせるのやめてもろていいッスかーーーッ!!?」

 

壁一枚を隔てた隣の部屋から聞こえてきたのは、大空スバルの、容赦のない怒声であった。

 

 

「ひぇっ……!? す、スバル……ッ!?」

 

壁から響いた怒声と『ドンドン!』という拳の衝撃音に、俺は思わずベッドの上で跳ね上がった。

 

そう、隣の二〇二号室に住んでいるのは、俺が所属する『熱血総合格闘技部』の女子マネージャーであり、幼馴染でもある大空スバルだ。

 

このアパート『あけぼの荘』は、家賃が破格の安さである代わりに、壁の厚さが「厚紙三枚分」と揶揄されるほど薄い。隣の住人がくしゃみをすれば「お大事に」と返せるレベルの防音性能なのだ。

 

「ち、違うんだスバル! これは事故なんだ! 俺は決して怪しいことをしていたわけじゃなくて、ただ己の中に潜む武将と戦っていただけで……!」

 

俺は慌てて壁に向かって言い訳を叫んだ。だが、壁の向こうから返ってきたのは、呆れ果てたような、しかしどこか容赦のない深い溜め息だった。

 

「はぁ〜〜〜……。おれちゃん、あのッスねぇ……。スバルは明日も朝から部活の遠征準備があって早起きしなきゃいけないんスよ? 隣で絶叫されたら、眠れるわけないじゃないッスかーーーッ!」

 

「うっ……! す、すまん……!」

 

「だいたい『道三』って何ッスか! 戦国武将の斎藤道三ッスか!? 意味が分からないッスよ!!」

 

ごもっともすぎるスバルのツッコミが、薄い壁を貫通して俺の胸に突き刺さる。

 

だが、俺だって好きでこんな奇行に及んでいるわけではないのだ。

 

「スバル……笑うかもしれないが、聞いてくれ。俺の中の道三(煩悩)は今、完全に『抜き身』の状態なんだ……! 昼間見たアニメの温泉回のアングルが頭から離れなくて、このままじゃ俺……俺の理性が負けて、自家発電の最終詠唱(あやしい行為)に入っちまう……ッ!」

 

「なっ……!!?」

 

壁の向こうで、スバルが息をのむ気配がした。

 

数秒の静寂の後、爆発的な怒声がアパート全体を揺らした。

 

「じ、自家発電の最終詠唱ーーーッ!? ちょっと待つッスおれちゃん!! 健全な男子高校生が自室でそういう『特訓』に取りかかるのは百歩譲って理解するッスけど、それを隣の部屋に住む女子マネージャーに実況・宣言しながら実行しようとするバカがどこにいるんスかーーーーッ!!?」

 

「叫んで気を紛らわせないと道三の天下統一の野望が爆発しそうなんだよッ! 頼むスバル、何か冷める言葉をくれ!」

 

「なんでスバルがそんなサポートを!! スバルはマネージャーであって、おれちゃんの煩悩の冷却装置(クーラー)じゃないッスよ!!」

 

「このままじゃ俺は……ただの『深夜に負けた男』になっちまう……! 助けてくれスバルーーーッ!」

 

俺は必死の思いで、壁にしがみつくように懇願した。

 

壁の向こうからは、頭を抱えてのたうち回っているであろうスバルの、苦悶の唸り声が聞こえてくる。

 

「うぐぐぐ……! なんでスバルがこんな不憫な目に遭わなきゃいけないんスか……! ……はぁ、分かったッスよ! これ以上近所迷惑になっても困るし、おれちゃんが賢者になって寝てくれるなら、スバルも腹を括るッス!」

 

「スバル……ッ! 本当か!?」

 

「えーっと……冷める言葉ッスよね……? ……本当は、もっとすごいのを一個知ってるッスけど」

 

壁の向こうで、スバルが言葉を選ぶ気配がした。

 

「……あれはダメッス。思い出すとスバルのほうが怖くなるッスから。じゃ、じゃあ……おれちゃんが中学二年生の時、学級新聞の『将来の夢』の欄に【闇の血族(ヴァンパイア)として世界を裏から支配する】って書いて、担任の先生に職員室に呼び出された時の話をするッス!!」

 

「ぐはっっっーーーーーーーッッ!!??」

 

俺は胸を強力な鈍器で殴られたような衝撃を受け、ベッドの上で崩れ落ちた。

 

「な、なぜそれを……ッ!? あの黒歴史は、俺が実家の庭に穴を掘って封印したはず……ッ!」

 

「スバル、あの時クラス委員だったからバッチリ覚えてるッスよ! 『俺の右目が疼く……』とか言いながら眼帯して学校に来てたことも、全部知ってるッスからね!!」

 

「やめろ……! やめてくれスバルーッ! 俺の精神(HP)はもうゼロだーッ!」

 

「どうッスかおれちゃん!! これで少しは道三も鎮まったッスか!?」

 

スバルの容赦のない『黒歴史の爆撃』。

 

俺の脳内に吹き荒れていた煩悩の嵐はピタリと止まり、股間の道三も「ぬぅ……これは痛い……」とばかりに急激に萎縮していった。

 

「す、すごいぞスバル……! 道三が引いていく……! このままいけば、俺は自力で納刀できるかもしれない……!」

 

「よかったッス……! これでようやく静かな夜が戻ってくるッスね……!」

 

壁越しに、安堵の溜め息が重なる。

 

俺たちはやり遂げたのだ。黒歴史という痛烈な犠牲を払い、深夜の煩悩がようやく鞘に収まったのだと、誰もがそう信じた。

 

――だが、世界はそれほど甘くはなかった。

 

ガチャリ。

 

突如として、俺の部屋のベランダのサッシが、外側から静かにスライドして開く音がした。

 

「アハハハハハハ!! 楽しそうな『深夜の秘密特訓』の気配を感じて、ベランダから忍び込んできたわよ〜〜〜ん❤️」

 

冷たい夜風と共に部屋の中に吹き込んできたのは、赤い海賊服を身にまとい、怪しい笑みを浮かべた学校一の危険人物――我が部の顧問、宝鐘(ほうしょう)マリン船長であった!

 

 

 

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