明鏡止水の儀   作:佐藤二時

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3話:追放、そして凪いだ夜

 

「させないッスよーーーーーッ!!」

 

バンッ!とドアが勢いよく開かれ、仁王立ちで突入してきたのは――隣の部屋の大空スバルだった!

 

「ス、スバル……! 部屋に入ってきたらダメだ! 船長がカメラを向けたせいで、道三が『完全体』になっちまった……ッ!」

 

俺は必死に布団を胸元まで引き上げながら警告した。

 

だがスバルは鬼の形相で、カメラを構えて事態を悪化させ続けるマリン船長へと一直線に向かっていく!

 

「おれちゃんの黒歴史はともかく! 人の黒歴史を勝手にドキュメンタリーにして全世界に晒そうとするなんて、いくら顧問のマリン船長でも許されないッス!! マリン船長、覚悟ッスーーーーッ!!」

 

「あら〜〜ん? スバルちゃんったら、そんなに角を立てなくてもいいじゃない〜❤️ あたしは顧問として、おれちゃんの『特訓(自家発電)』の成果を暖かく見守ってあげたいだけよ〜? ほら、カメラ目線で『......俺の右目が、疼く』って言ってみなさいよおれちゃん〜〜〜❤️眼帯はあたしが持ってきてあげたわよ〜ん❤️」

 

「準備が良すぎるだろッ!!どこで手に入れたそれッ!!」

 

マリン船長はカメラを構えたまま、ヌルリとした動きで俺のベッドへと近づこうとする。

 

その妖艶なフェロモンと、大人の女性としての圧が、部屋中に充満していく。

 

(くっ……! マリン船長のこの『生暖かい視線』と『淫靡な空気』……! 危険すぎる……! 萎縮したはずの道三が、逆に刺激されて『ぬははは! 熟れた果実よ、天下統一の生贄となれ!』とか言って、猛烈な勢いで息を吹き返そうとしてやがる……ッ!!)

 

股間の『美濃のマムシ』が、再び凶暴な鎌首を持ち上げ始める。

 

俺の額から、だらだらと冷や汗が吹き出した。

 

「ダメだ……スバル、逃げろ……! 船長の刺激が強すぎて……俺の道三が……理性を食い破って爆発してしまう……ッ!!」

 

「させないって言ったッス!! マリン船長、二度は言わないッスーーーッ!!」

 

スバルが短距離走の選手並みのダッシュで飛び出した。

 

「スバル・ドロップキックッッ!!」

 

「きゃぁぁぁっ!?」

 

宣言とは似ても似つかない、跳躍ゼロの平手打ちが、マリン船長の構えていた4Kカメラのレンズを的確に叩いた。

 

「痛ぁぁぁい!? 手が痛ぁぁぁい!! ちょっとスバルちゃん、これ高いのよ!? 部員が顧問の私物に暴力を振るうなんて、体罰で訴えちゃうわよ〜〜〜!?」

 

「体罰の意味が逆ッスよ!」

 

「あら、そう?」

 

「そうッス! ……だいたい深夜二時に部員の部屋のベランダから侵入して、男子高校生の中二病を全世界に生配信しようとする17歳(自称)があるかーーーーッ!!」

 

スバルはそのままマリン船長に組み付き、まるでラグビーのタックルのように廊下へと押し出し始めた。

 

「嫌よ〜〜〜っ! あたしはおれちゃんの『明鏡止水の儀』の全貌を見るまでは帰らないわ〜〜〜っ! 」

 

マリン船長は扉に指をかけて踏ん張りながら、それでも一度だけカメラを俺のほうへ向け直した。

 

「……ねぇおれちゃん。キミの今のその顔ね。いつか自分で見たくなる日が来るわよ〜ん❤️」

 

「意味が分からないッスーーーッ! 帰るッス! 今すぐ船にお帰りッスーーーーッ!!」

 

「ぬおおおッ! スバル、負けるな! 俺の道三も『スバルの男気あふれるツッコミ』にちょっと引いて、勢いが衰えてきたぞッ!」

 

「喜んでいいのか分かんないッスよーーーッ!!」

 

廊下で繰り広げられる、女子マネージャーと危険な顧問の凄惨なキャットファイト(?)!

 

揉み合ううちに、船長の手からカメラが弾かれ、廊下の床を滑っていった。

 

スバルはマリン船長を廊下の突き当たりまで押し込むと、力任せに非常階段の扉を叩きつけ、鍵をガチャリと回してロックした!

 

「ふぅ……! ふぅ……! つ、追放完了ッス……!!」

 

息を荒くしながら、部屋へと戻ってくるスバル。

 

その髪は少し乱れ、制服の袖も捲れ上がっていた。

 

「助かった……ありがとう、スバル……。お前が来てくれなかったら、俺は今頃『黒歴史を全世界に生配信された悲劇の武将』として一生を終えるところだった……」

 

「お礼なんていいッスよ。スバルはマネージャーッスからね。部員のピンチを救うのは当然ッス!」

 

スバルはフッと鼻で笑うと、乱れた髪を手ぐしで整えた。

 

――静かだった。

 

道三が、何も言わない。

 

あれほど騒がしかった脳内が、嘘のように凪いでいた。マリン船長という劇物が消え、深夜の部屋には俺とスバルの息遣いだけが残っている。

 

終わったのだ。俺は自力で、道三を鎮めきったのだ。

 

……なのに。

 

心臓だけが、うるさかった。

 

廊下での激闘を終えたスバルが、目の前に立っている。荒い呼吸で上下する胸元。汗で首筋に張り付いた髪。少し赤くなった頬。普段は男友達みたいに小突き合っている相手のはずなのに、今はどこを見ればいいのか分からない。

 

(……あれ?)

 

おかしい。

 

煩悩なら、道三が騒ぐはずだ。あいつは俺の欲望に一番忠実な男で、こういう時こそ「天下統一の好機なり!」と吼えるはずの武将だ。

 

その道三が、黙っている。

 

道三が騒がないということは――これは、煩悩じゃない。

 

じゃあ、これは、何だ。

 

「……おれちゃん?」

 

スバルが、きょとんとした顔で俺を覗き込んだ。

 

「どうしたッスか、さっきから黙りこくって。まさか道三、まだ暴れてるんスか……?」

 

「暴れてないッ!! 暴れてないから困ってるんだよッ!!」

 

「意味が分からないッスよーーーッ!!」

 

脳の奥で、腕を組んだ道三が薄く笑ったような気がした。

 

『……ぬはは。小僧。それは我の管轄ではないわ』

 

「出てくるなら助けろよッ! 丸投げかーーーッ!!」

 

 

 

 

「……スバル。」

 

俺は顔を背けたまま、絞り出すように言った。

 

「頼む。隣の部屋に、戻ってくれ。」

 

「なっ……! なんでッスか! スバル、せっかく助けに来たのに!」

 

「今の俺は……お前の前にいちゃダメなんだ。」

 

道三のせいにできれば、どんなに楽だっただろう。煩悩が暴れているから近寄るな、と言えば、それで済んだはずだ。

 

だが道三は、もう黙っている。

 

つまり、今この胸を焼いているものには、押し付ける相手がいない。全部、俺のものだ。

 

「このままここにいたら……俺は、お前に言わなくていいことまで、言っちまう気がする。」

 

ベッドのフレームを指が白くなるほど強く握りしめ、俺は必死に踏みとどまっていた。

 

目の前に立ち尽くすスバル。

 

その顔に、恐怖はなかった。何ひとつ分かっていないくせに、それでも動く気がないという顔だった。

 

「......おれちゃん。」

 

「来るなスバル! 今の俺に近づいたら……俺の中の化物が……お前を呑み込んでしまう……ッ!」

 

口に出してから、舌打ちしたくなった。

 

化物なんていない。さっき自分で認めたばかりじゃないか。それでも、そう言ったほうが楽だった。

 

「嫌ッス。」

 

スバルは首を横に振った。

 

「な、なんだと……!?」

 

「言ってることはさっぱり分からないッスけど……おれちゃんが今、一人で何かとめちゃくちゃ戦ってるのだけは分かるッス。ここでスバルが逃げたら……おれちゃんは一人で道三に負けて、ただの『欲望に敗北した男』になっちゃうじゃないッスか! そんなのおれちゃんじゃないッス!!」

 

スバルが一歩、前に踏み出す。

 

部屋の熱気で、彼女の額にも小さな汗の粒が浮かんでいる。

 

「スバルは……格闘技部のマネージャーッスよ? 部員が一人で苦しんでるのに、見捨てて自分だけ部屋に逃げ帰れるわけないじゃないッスかーーーッ!!」

 

「スバル……ッ!」

 

「おれちゃん! 自分で言ったッスよね!? 『賢者になって爽やかな朝を迎える』って! だったら……ここで諦めるなッスよ!! 道三だか何だか知らないッスけど、負けるなッスーーーーッ!!」

 

スバルの叫びが、俺の混濁した意識に一直線に突き刺さった。

 

そうだ……。俺は……俺は何のためにここまで耐えてきたんだ!?

 

スバルに呆れられながらも、黒歴史を直撃させられながらも、マリン船長の妨害を乗り越えてきたのは――全て、明日という朝を、胸を張って『賢者』として迎えるためじゃなかったのか!!

 

「ふ……ふはっ……。そうだ……その通りだな、スバル……!」

 

俺は自嘲気味に笑い、ガタガタと震える脚でゆっくりと立ち上がった。

 

「俺は……逃げない。」

 

道三に勝つ、じゃない。あいつはもう静かだ。

 

明日の朝、この壁越しに「おはよう」と言う。何食わぬ顔で、いつも通りに。そのために俺は、今夜のうちにこの胸のざわつきに、きちんと片をつけなければならない。

 

「ここから先は……俺と、俺自身のタイマンだ。誰の邪魔も入れさせない。俺の尊厳をかけた『明鏡止水の儀』を執り行うッ!」

 

スバルは俺の目を真っ直ぐに見つめ返し、しばらくして静かに……しかし深く頷いた。

 

「分かったッス……!」

 

スバルは素早くドアへ向かい、取っ手に手をかけた。そして、部屋を出る直前、振り向いて言った。

 

「おれちゃん! スバルは隣の部屋で……両手で耳をギューッと塞いで、何も聞こえないようにして……心の中で応援してるッス!」

 

「ああ……。」

 

「絶対に……絶対に勝って、無事にお布団で賢者になって……明日、笑顔で『おはよう』って言うッスよーーーッ!!」

 

「……もし言えなかったら?」

 

スバルはドアの隙間から、ぬっと顔だけを出した。

 

「明後日の遠征バスで、中学んときの眼帯の話、部員全員に聞かせるッスからねーーーッ!!」

 

バタンッ!

 

ドアが閉まり、スバルが隣の部屋へと戻っていく足音が聞こえた。

 

直後、薄い壁の向こうから、大きな声が響いてくる。

 

「アーアー! 何も聞こえないッスーーー! 素数も黒歴史も何も聞こえないッスからねーーーーッ!!」

 

俺は深呼吸をし、スマホの電源を長押しして完全に切り落とした。

 

部屋を包むのは、本当の静寂。

 

「さて……待たせたな、道三。」

 

俺は静かに目を閉じ、己の内なる精神世界へと深く深く潜入していった――。

 




次話は明日の2時
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