――そこは、無の領域であった。
色も音も存在しない、漆黒の精神世界。
その中央で、俺――佐藤おれちゃんは、一本の木刀を携えて佇んでいた。
対峙するのは、黄金の甲冑を身に纏い、眼光をギラつかせた巨漢――己の煩悩が実体化した姿、戦国大名・斎藤道三その人であった。
『ぬはははは! よくぞ来た小僧! ここは貴様の精神の奥底……遮るものは何も存在せぬ!』
「道三……お前、さっきは黙ってただろ。何のつもりだ。」
『我は貴様の”若さ”そのものよ。欲望も、蛮勇も、みっともない見栄もな』
『……だが今宵、貴様が抱えておるアレは、我の手には余る』
『ゆえに試す。それを持って明日を迎えるに値する男か――応じぬと申すなら、その想いごと我が喰ろうてやるまでよ!!』
道三が巨大な太刀を引き抜き、激しい暴風が吹き荒れる。
その圧倒的な圧力は、俺の理性を一瞬で押し潰そうとしていた。
「断る……ッ! 俺は……逃げも隠れもしない! スバルと約束したんだ……胸を張って『おはよう』と言える賢者になると――」
『アーーーアーーーッ!! 何も聞こえないッスーーー!! 賢者とか道三とか素数とか何も聞こえないッスからねーーーーッ!!』
「ッ!?」
静寂と重厚さに満ちていた精神世界に、壁を貫通したスバルの全力の叫びが容赦なく突き刺さった。
『ナ、ナニッ……!? この天より降り注ぐ謎の爆竹のごとき怒声は……ッ!?』
「す、スバル……ッ! 両手で耳を塞ぎながら全力で叫んでるから、俺の精神世界にまで声がダイレクトに貫通してきてやがる……ッ!」
『ヌオォォッ! 怯むな小僧! 男の本能を否定して何が賢者か! 散れぃッ!!』
道三が大地を蹴り、一瞬で間合いを詰めてくる! 一閃!
頭上から振り下ろされる凄まじい一撃!
ガキィィィィィンッッ!!
俺は木刀でそれをギリギリ受け止めた。
(くっ……! 強い……! これが……男子高校生が抱える深夜の煩悩の……重み……ッ!)
『ぬはは! どうした小僧! 貴様の欲望はそんなものか!?ほら見よ、あの温泉回のアングルを! あのフェロモン溢れるマリン船長を!そして……健気なスバルの制服姿を!!』
脳内に次々とフラッシュバックする煩悩の映像。
その度に俺の足元が揺らぎ、木刀に亀裂が入っていく。
(ダメだ……誘惑に意識を向けたら……呑み込まれる……!)
その時、脳裏に蘇ったのは――部屋を出る間際、ドアの隙間から投げつけられたスバルの声だった。
『明後日の遠征バスで、中学んときの眼帯の話、部員全員に聞かせるッスからねーーーッ!!』
「うぐぁっ! 出がけの脅迫(エール)が、今ごろ効いてきやがる……ッ!」
『な、なんという苛烈な追い打ちッ!? マムシたる我すら一瞬気圧されるほどの圧倒的圧迫感……ッ!』
(だけど……そうだ……スバルは壁の向こうで、俺を信じて待ってくれている……! 俺が戦うのは、欲望を否定するためじゃない。己の理性を勝ち取り、大切な約束を守るためだッ!)
呼吸を整え、深く、深く息を吐き出す。
『すー……すー……(スバルの耳を塞ぎ疲れた安らかな寝息)』
「(寝るの早ッ!!?)」
心の中でツッコミつつ、俺は木刀を下ろした。
『どうした小僧。数えぬのか』
道三が太刀を担ぎ直し、口の端を上げた。
『二、三、五、七——そら、続けよ。数えて我を消してみせい。いつもそうしてきたであろうが』
「……ああ、そうか」
数えている間だけは、何も考えずに済んだ。雑念を、別の雑念で塗り潰していた。消そうとして——だから、消えなかったのだ。
「数えない」
『ほう?』
温泉回のアングルも、船長のフェロモンも、汗で頬に張り付いたスバルの髪も、全部そこに置いたままでいい。
塗り潰さない。逸らさない。ただ、揺らさない。
波が引くように、脳内の水面が凪いでいく。
「――『明鏡止水(めいきょうしすい)』。」
曇りのない鏡。波立たない水。
そこには何も映っていないのではない。全部が、そのまま映っているだけだ。
俺の全身から、蒼い光が静かに立ちのぼった。
「道三。お前は『我の手には余る』と言ったな。上等だ。余った分は、俺が持って帰る」
『――ぬはっ』
道三は、太刀を下ろした。
「……おい。構えろよ」
『断る』
「そうかよ」
俺は踏み込み、木刀を真っ直ぐに構え直した。
振りかぶらない。力まない。
ただ、水面に映った月をなぞるように。
「今夜は、ここまでだッ!」
「喰らえ道三ッ! 秘技・朧月夜・マムシ一閃ーーーーッ!!」
「(技名だけめちゃくちゃうるさいーーーッ!!)」
ズバァァァァァンッッ!!
蒼く澄んだ月光のような刀身が閃き、道三の巨体を一閃する。
受けなかった。避けもしなかった。
『……あのやかましい声の中で、これほどの静けさに至るとはな。……よかろう。合格じゃ、小僧』
道三は太刀を杖のようにつき、光の粒になりかけた手で、何かを言いかけた。
『……のう、小僧。我は、これで――』
その先は、聞こえなかった。
道三は清々しい(?)笑みを浮かべると、光の粒子となって精神世界へと溶けていった――。
甲冑の崩れ去る音と共に、漆黒の世界が穏やかな白光に包まれていく――。
◇
「……ふぅ。」
現実世界。
ベッドの上で、俺はゆっくりと目を開けた。
全身は滝のような汗でびっしょりだったが、その心はまるで澄み切った秋の空のように晴れ渡っていた。
股間の暴走武将・道三は、何も言わなかった。
完全なる納刀。静寂。
勝ったというより、あいつが引き下がってくれた、という感触だった。まあいい。結果は同じだ。
俺は掛け布団を直し、横たわった。
薄い壁の向こうからは、耳を塞ぎ疲れてそのままスースーと気持ちよさそうに眠りについたスバルの寝息が、かすかに聞こえていた。
「ありがとう……スバル。」
俺は感謝の言葉を呟き、深い深い、安らかな眠りへと落ちていった。
◇
チュンチュン……。
小鳥のさえずりと共に、爽やかな朝の光がカーテンの隙間から差し込む。
「……ん……ふぁ。」
目を覚ました俺は、ゆっくりと体を起こした。
昨夜の激闘が嘘のように、頭は驚くほど冴え渡り、体は羽のように軽い。
何も数えなくても、頭の中は静かだった。
コンコン。
薄い壁を、小さく叩く音がした。
「……おれちゃん? 生きてるッスか……?」
壁の向こうから聞こえる、少し眠たげで、けれど心配そうなスバルの声。
俺はフッと口元を緩め、壁に向かってハッキリと答えた。
「ああ。おはよう、スバル。」
「っ……!!」
息をのむ気配。そして――。
「おはようッス、おれちゃん……! 勝ったんスね……!!」
声が、思ったより大きかった。
スバルは壁から少し顔を離して、もう一度、今度は小さく言った。
「……よかったッス」
「ああ。無事に納刀完了だ。……たぶん、しばらくは静かにしててくれる。」
「たぶんって何ッスかーーーッ!!」
(……最後に、道三は何か言いかけてなかったか?)
聞こえなかったし、聞き返しもしなかった。まあいい。そう思って、俺は忘れた。
壁越しに伝わってくる、最高の達成感と爽快感。
俺たちは言葉を交わさずとも、分かち合っていた。
一人の男が試練を乗り越え、真の勇者(賢者)となったのだということを。
顔を洗おうと部屋を出た俺は、廊下の隅で足を止めた。
昨夜スバルに叩き落とされたマリン船長の4Kカメラが、レンズを天井に向けたまま転がっていた。
「……あの人、これ忘れて帰ったのか。」
拾い上げてみると、ボディには派手な擦り傷。だが電源ランプは、まだ静かに緑色を灯していた。
「……切り忘れか。船長らしいな」
俺はそれを部屋の隅の段ボールの上に置き、ドアを閉めた。
「さ!! おれちゃん、朝ごはんしっかり食べて、今日も元気に部活行くッスよーーーッ!!」
「おう!!」
朝の光の中、俺たちの『深夜の熱血総合格闘技部』の長い戦いは、最高のフィナーレを迎えたのだった。