5話:マムシ、バブみに覚醒す
――俺の股間には、戦国大名・斎藤道三が宿っている。
意味が分からないと思うが、俺にも分からない。分かっているのは、昨夜そいつを死闘の末に納刀したはずだった、ということだけだ。
そう、はずだったのだ。
完全なる「賢者」となり、穏やかな眠りについていた俺は、その翌日の深夜、己の精神世界(脳内)で発生した「異常事態」によって叩き起こされた。
そこは、昨夜のような漆黒の戦場ではなかった。
一面にピンク色の綿菓子のような雲が広がり、空からは哺乳瓶の雨が降り注ぎ、背景では巨大なガラガラが、誰も見ていないのにゆっくりと揺れ続けている……狂気と甘やかしに満ちた異空間――『バブみ世界』であった。
「な、なんだここは……!? 俺は無事に道三を納刀して、賢者になったはずじゃ……!?」
俺が困惑していると、空間の向こうから、とてつもなく情けない、けれど聞き覚えのある大声が響き渡った。
『うわぁぁぁぁぁぁん!! ママぁぁぁ! ママはどこなのじゃぁぁぁぁぁッ!!』
「ひぇっ……!? ど、道三……!?」
光の中から現れたのは、昨夜あれほど勇ましかった戦国大名・斎藤道三……のはずだった。
だが、今の道三は……黄金の甲冑の上に【大きなピンク色のスタイ(よだれかけ)】を着用し、手に持った太刀を【巨大なガラガラ】に持ち替え、床にひっくり返ってバタバタと手足を暴れさせていた。
『ぬはぁぁぁん! もう苦しい戦いなど嫌なのじゃ! 厳しい修行も、賢者モードの冷たさもコリゴリなのじゃ! 我は……我はよしよしされて、でちでち甘えたいのじゃぁぁぁぁぁッ!!』
「な、なんだってええええええッ!?」
俺は己の目を疑った。
昨夜、確かに納刀したはずだった。決着はついたはずだった。
それがどういうわけか、【限界突破(バブみ化)】という最悪の異常進化(エラー)を起こしていた。
『昨夜は……あんなに呼んでおったくせに……』
ぽつり、と。
ガラガラを振り回す手が、一瞬だけ止まった。甘ったれた裏声が抜け落ちて、聞き覚えのある低い声が漏れる。
『……納刀、と申したな。鞘に収めるとは、よう言うたものよ。』
「え?」
『刀は鞘の中で、何をしておると思う。研がれもせず、抜かれもせず。……ただ、次に呼ばれるのを待っておるのじゃ』
道三は、床に転がしたガラガラを見ていた。
『朝が来たら、誰も我を呼ばぬ。……よい朝じゃったろう、小僧。我のおらぬ朝は』
「……道三、お前」
『ぬはぁぁぁん! ママーッ! 乳を寄越せーっ! 頭を撫でて「えらいでちゅねー」と言ってくれぇぇぇぇッ!』
一瞬で元に戻った。聞き間違いだったのかもしれない。
……いや。今のは、聞き間違いにしてやったほうがいい類のやつだ。
「で、なんで賢者モードを超えた先が『赤ちゃん返りした美濃のマムシ』なんだよーーーッ!!」
股間から伝わってくるのは、イキリ立ちとは全く違う、「ぬくもりと甘やかしを求める謎のバブみ波動」!
このままでは、俺の脳と理性が道三のバブみパワーに汚染され、俺自身が「ばぶー」と叫びながら近所を徘徊する変質者になってしまう!!
「くそっ……! 誰か……誰かこのバブみ化した道三を……ママになって鎮めてくれぇぇぇぇッ!!」
俺の悲痛な叫びが精神世界にこだまする。
するとその時――現実世界の薄い壁の向こうから、地響きのような怒声が轟いた。
『ドンドン!!!』
「ちょっとおれちゃんッ!! 深夜三時に『バブー! ママぁぁぁ!』って叫びながらベッドでバタバタするの、マジで怖すぎるからやめてもろていいッスかーーーーッ!!?」
壁一枚を隔てた隣の部屋から響く、我がマネージャー――大空スバルの、恐怖とドン引きが混ざり合った絶叫であった。
◇
「す、スバル……ッ!? 助けてくれッ!」
俺は必死の思いで、隣の部屋に通じる薄い壁に向かって叫んだ。
返事は、すぐには来なかった。
「……おれちゃん」
壁の向こうの声が、妙に静かだった。
「スバル今、抱き枕抱えてるッス。震えてるッス。……これ、警察と引越し、どっちッスか」
「どっちも待ってくれ!」
「だって『ママぁぁぁ』ッスよ? 『でちでち』ッスよ? 昨日の『イキリ道三』のほうが、まだ男子高校生として理解できたッス……」
無理もない。深夜三時に隣の部屋から幼馴染のバブみ叫びが聞こえてきたら、通報するか引っ越すかの二択だ。
「違うんだスバル! 俺が甘えたいんじゃない! 昨夜あいつ、俺のこと『合格じゃ』って認めて消えてったんだ。それがなんで今さら泣いてるんだよ!」
「知らないッスよ! ……ていうか、消える前に何か言ってなかったんスか?」
「……言いかけてたけど、聞かずに寝た」
「そこーーーッ!!」
「頼むスバル! 道三のこの『バブみ要求』を満たしてやらないと、俺の精神が呑み込まれて、俺自身が赤ちゃんになっちまうんだ!! 頼む……一回だけでいいから……俺のママになってくれぇぇぇッ!!」
「なっ!?女子高生に向かって『ママになってくれ』って直球で頼んでくるヤツがあるかーーーーッ!!」
だが、俺の脳内(精神世界)では、よだれかけを着けた巨大な道三が、ガラガラを振り回しながら涙と鼻水を撒き散らしていた。
『うわぁぁぁん! ママの声が聞こえるのじゃぁぁぁ! ママぁぁ! 我を『でちでち、強いでちゅねー』って褒めて、頭をなでなでしてくれぇぇぇぇッ!!』
「ぐあぁぁぁっ……! ダメだ……道三のバブみエネルギーが……強すぎる……ッ!『バブみバリア』が展開されて、俺の意識が……『ばぶー』になりかけている……ッ!」
俺の口から「あー……ばぶ……」という危険すぎる音声が漏れ出始めた。
「お、おれちゃん!? ちょっと待つッス! マジでヤバい顔になってるッスか!?」
壁越しに俺の異変(言語能力の崩壊)を察知したスバルは、悲鳴を上げた。
「くそっ……! なんでスバルがこんな目に……! 分かったッスよ! おれちゃんが本当の変質者(赤ちゃん)になるくらいなら、スバルが腹を括るッスーーーッ!!」
『ドンドン!!』
スバルが壁を拳で力強く叩いた。
「おいッ! そこにいる斎藤道三ッ! 聞こえるッスかーーーッ!!」
精神世界の道三が、ピタリと泣き止んで耳をすませた。
『ぬ……? ママの声……?』
「スバルが……いや、大空スバルママが言ってやるッス! 道三! でちでち、よく頑張ったでちゅねー!……もう頑張らなくていいから、いい子でねんねするッス」
最後だけ、声が急に小さくなった。
魂を削った渾身のお母さんボイス。
薄い壁を突き破ったその言葉に、よだれかけ姿の道三がピタリと泣き止んだ。
「よし……! 効いたか……!?」
『ぬはぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!! 効くッ! 効くぞママぁぁぁぁッ!! ……じゃが足りぬ! 語尾が逃げておるわッ! 最後まで、腹の底から言うてみよ! 『でちでち、偉いでちゅね〜❤️』と、頭を撫でまわしながらじゃぞぉぉぉッ!!』
「増長しとるーーーーーーッ!!??」
甘えの味を覚えたマムシが、さらなる甘やかしを求めて狂乱し始めた。
「ダメだスバル! 一発目が中途半端だったせいで、道三が味を占めた!」
壁の向こうが、無言になった。
「……スバルの犠牲、裏目ッスか」
「裏目だ」
「裏目じゃねぇかーーーーッ!!」
脳内では道三がまだ「もっと褒めよ」と喚いている。だが不思議と、耳がそっちを向かなかった。
昨夜、この壁の向こうからは黒歴史の爆撃が飛んできた。散々な目に遭ったが、あのときスバルは笑っていた気がする。今夜は、笑い声を一度も聞いていない。
「……スバル。悪かったな、二晩続けて」
返事はなかった。
代わりに、壁がコン、と一度だけ鳴った。
それが「聞いてるッス」なのか「うるさいから寝ろ」なのかは、分からなかった。
ただ、その音は俺の枕のあたりから聞こえた。
昨夜まで、壁を叩く音はいつも部屋の真ん中から響いていた。壁の向こうのどこにいようが、こいつには関係なかったはずだ。
◇
壁の向こう側。
大空スバルは、明日の遠征の持ち物を三度数え直して、三度とも同じ数になったので、諦めて電気を消した。
布団に入ってから、枕を壁際まで引きずってきたことを、自分でうまく説明できずにいた。
声が近いほうがツッコミを入れやすい。そう思ったことにした。
抱き枕は足元に転がしたままだった。さっきまでは、あれを抱えていないと怖かったはずだ。壁の向こうで幼馴染が「ばぶー」と言っている。怖い。怖いのに、部屋の真ん中には戻らなかった。
昨夜、この壁越しに黒歴史を投げつけたときは、笑っていられた。
今夜は、一度も笑っていない。
理由を考えかけて、やめた。考えなくても明日の遠征バスは出るし、部員は集合するし、自分はマネージャーとしてそこに立つ。それでいい。
――なのに、耳だけが壁に張り付いていた。
向こうで、何かが動く音がする。ベランダのサッシが開く音。それから、聞き覚えのある甘ったるい声。
スバルは、目を開けた。
起き上がらなかった。マネージャーが顧問の部屋の訪問に文句を言う筋合いはない。そう思ったことにした。今夜、そう思ったことにしたのは二度目だった。
◇