「あら〜〜〜〜ん❤️ なにやら隣の部屋から『もっと甘やかせ』という切実な赤ちゃんの叫びが聞こえてきたわよ〜〜〜ん❤️」
ガチャリ。ベランダのサッシが開き、乱入してきたのは宝鐘マリン船長だった。
だが、その手には何も握られていなかった。
「船長!? またベランダから……ッ!」
「忘れ物を取りに来たのよ〜ん❤️」
船長は部屋の隅へすたすたと歩いていくと、段ボールの上に置かれた傷だらけの4Kカメラをひょいと拾い上げた。
「あったあった。昨夜スバルちゃんに叩き落とされたヤツ。高かったんだからね、これ」
そしてそのまま、机の上にコトリと置いた。録画ランプは点かない。
「安心なさいおれちゃん。今夜は撮らないわよ〜ん❤️」
「……なんでですか。昨夜あれだけ撮りたがってたのに」
船長は少しだけ目を細めて、机の上のカメラを指先で撫でた。
「昨夜あたし、言ったでしょ〜❤️いつか自分で見たくなる日が来るって」
言われて、思い出した。廊下に押し出される寸前、この人は一度だけレンズをこっちに向け直した。あのとき言われたことの意味を、俺は考えもしなかった。
「昨夜のキミは、みっともない顔を必死に隠そうとしてたでしょ。あれは撮る価値があったの。……でも今夜のキミ、隠すものがないんだもん」
船長の指は、まだカメラの上にあった。置いたのに、離していない。
ぐっ、と喉が詰まった。
「あたしは今、顧問としてじゃなくて……一人の『母』として、ここに来ているんだから」
マリン船長が両手を広げ、圧倒的な包容力(大人のフェロモン)を解放しながら近づいてくる。
危険だ。昨夜の船長は邪魔者だった。今夜の船長は、善意だ。
『……ママ』
あれほど喚き散らしていた道三が、そこで言葉を止めた。
欲しかったものが目の前に置かれた子供の顔だった。それきり、何も言わない。
……ああ。道三が黙るやつは、いつも俺の宿題になる。
「ダメだ船長! 来るな! 船長の包容力が強すぎるッ!!」
マリン船長が俺を抱きしめた瞬間、脳内の道三が「ふにゃぁぁぁ❤️」と溶け始めた。
あたたかい。
何も考えなくていい。戦わなくていい。誰も何も要求してこない。
(……ああ、そうか。楽なんだ、これ)
昨夜、俺は必死に己と戦って、勝って、朝に「おはよう」と言った。あれには全部、意志が要った。
ここには、それが一つも要らない。
「……ぁ」
力が抜けていく。道三と一緒に、俺自身の輪郭も、ゆっくりとピンク色に滲んでいく。
「あ……あ……ばぶ……。ま、マリンまま……しゅき……❤️」
壁の向こうは、しばらく前から静かだった。
叫び声も、ツッコミも、何も聞こえない。ただ静かに――そして急に、廊下を走る音がした。
壁を破らんとばかりに突入してきたスバルが目撃したのは、マリン船長の膝の上で、完全に目がトロンとして「赤ちゃん退化」し始めている俺の姿だった!
「おれちゃーーーんッ!! 人格が溶けてるッス!! 意識を保つッスーーーッ!!」
「だめよスバルちゃん、邪魔しちゃ❤️ おれちゃんは今、あたしの愛で完全に満たされて、自我ごと『無』になろうとしているの……❤️」
「満たされすぎて存在ごと消滅しかけてるじゃないッスかーーーーッ!!」