俺は必死に自我を保ち、バブみ沼の中で立ち上がった。
「道三……! 聞こえるかッ!」
沼の中で、道三の顔がうっすらと浮かび上がり、俺を見つめた。
「呼んだのは俺だ。イタい妄想で、勝手にお前に天下を背負わせた。……そのくせ、済んだら呼ばなくなった」
木刀は、とっくに沼が食っていた。
――ちょうどいい。
俺は空いた両手を伸ばし、ドロドロのバブみ沼の中で、道三の核を力強く抱きしめた。
『お、おれちゃん……っ!?』
「でもな。俺はもう、中二病の暗黒騎士でもなけりゃ、煩悩に流されるだけのバカでもない! 明日へ向かって生きる、男子高校生・佐藤おれちゃんだッ!」
「卒業の刻(とき)だ、道三」
俺は目を閉じ、道三の背中を、優しく叩いた。
トントン……。
トントン……。
それは技名すら存在しない、ただの寝かしつけ。
一定の間隔。意味のないリズム。かつて幼い頃に親から受けたような、そして己の痛々しい過去を優しく包み込むような、魂の拍。
昨夜の俺なら、これを雑念だと思って追い払っていただろう。数えて、消して、澄ませて、それで勝ったつもりでいた。
だが、澄ませた水面には何も残らない。残らないから、こいつは寂しくなったのだ。
腕の中で、道三の核がびくりと震えた。
『……やめよ』
トロけていた声に、ほんの一瞬だけ、あの夜の鋭さが戻った。
『やめよ、小僧。それは……眠らせる手つきじゃ。眠ってしもうたら、我は……』
語尾が溶けて、また甘え声に崩れる。それでも、そいつは俺の腕の中で身をよじって逃げようとしていた。
甘やかされたいと泣きわめいていた男が、いざ本当に甘やかされる段になって、初めて嫌がったのだ。
俺は手を止めなかった。
『……ええい、離せ! 我を誰と心得るか! 美濃一国を喰らい、天下に手をかけた斎藤道三ぞ! 寝かしつけられて終わる男ではないわ!』
ようやく武将らしい啖呵が戻ってきた。だが声は震えていたし、腕の中の重さは、駄々をこねる子供のそれだった。
手は止めない。同じ間隔で、同じ強さで。
「知ってるよ」
トントン。
「お前がどんだけすごいか、俺が一番よく知ってる。俺がそう決めたんだからな」
『……ならばなぜ寝かせる! 起きておればよかろう! 我はまだ……まだ暴れられるぞ! 温泉回でも制服でも、いくらでも吼えてやるわ!』
「うるさくなくていいんだよ、もう」
腕の中の抵抗が、ふっと弱まった。
「道三。ゆりかごってのは、沈むもんじゃない。」
トントン、と俺はもう一度背中を叩いた。
「揺らして、寝かせて――朝に、起こすためのもんだ。」
『……っ!! ああ……そうじゃった……。我は……貴様の青い野望そのものじゃったな……』
道三の目からボロボロと涙がこぼれ落ちた。
『満足じゃ……。我が生みの親よ……素晴らしい青春を、ありがとなのじゃ……(すやすや……)』
ドロドロのバブみ沼が、黄金の光の粒となって空へと弾けていく。
――だが、俺は動かなかった。
まだ、一人沈んでいる。
俺は光の中に膝をつき、崩れかけたピンク色の底へ、腕を突っ込んだ。指先が何かに触れる。掴む。細い。分かる。分からいでか。昨夜、廊下からマリン船長を追い出して戻ってきたときに、乱れた髪を整えていたその手だ。
力任せに引き上げた。
「――ぶはっ! ……ッスか……!? え、なに、なんスかこれ……!」
ピンク色にまみれたスバルが、目を白黒させながら光の中に浮かび上がる。
昨夜、こいつは壁の向こうから叫んで、俺をこの場所から引っ張り上げた。
今度は、俺の番だ。
「おかえり、スバル」
「ただいまッス……って、何がなんだか分からないッスよーーーッ!! ……ていうか船長は!?」
光の中を振り返る。ピンク色の底からせり上がってきた赤い塊が、両手でカメラを高々と掲げたまま、実に満足そうな顔で浮かんでいた。
「……あの人、自分で浮いてきたな」
「そこは心配して損ッスねーーーッ!!」
それでもスバルは、俺の手を離さなかった。掴んだままの指に、ぐっと力がこもる。
「……でも、一個だけ分かるッス」
「なんだよ」
「おれちゃん、ちゃんと起きてるッスね」
沼の底で、こいつは俺の顔を見て「中二んときとおんなじ」と言った。あの時と同じ顔をした男が、今度は自分で立って、自分で手を伸ばしている。
それだけを、こいつは確かめていた。
「……ああ」
「うッス」
スバルは満足そうに頷いて、それから思い出したように俺の手を振り払った。
「ってか離すッス! なんか照れるじゃないッスかーーーッ!!」
「お前が握ってたんだろ!!」
精神世界が崩壊し、眩しい光が俺たちを包み込んだ――。
「……ハッ!!」
目が覚めると、そこは朝焼けの光が差し込む俺の部屋だった。
ベランダの手すりに、マリン船長がもたれかかっていた。手の中の4Kカメラを、朝日にかざすように持ち上げている。
「船長……撮れたんですか、それ」
「さぁ、どうかしらね〜ん❤️」
船長はカメラを胸に抱え直すと、ひらりとベランダを乗り越えた。
「今夜のは配信しないわ。……あれはキミが自分で見るためのものだもの」
手すりに足をかけたまま、船長は振り返った。
「まぁ、昨夜の分はとっくにクラウドに上がってるけどね〜ん❤️ 配信用カメラだもの、電源さえ入ってれば勝手に飛ぶのよ〜❤️」
「あの緑のランプ、そういうことかーーーーッ!!」
「返せーーーーッ!!」
赤い背中が、手すりの向こうへ消えた。
――ポン、とスマホが鳴った。
船長からだった。動画のリンクが一本と、短い一行。
『パスワードはキミしか知らないやつにしといたわ。ヒント、中二の夏に右目に封印してたモノ』
「闇の血族(ヴァンパイア)……って、なんで知ってるんだーーーーッ!!」
俺は入力欄に、その恥ずかしい六文字を打ち込んだ。
『パスワードが違います』
「……は?」
もう一度打ち直した。同じ表示が出た。
——ポン、と続けて一行。
『……あたしの見立てが外れてたら、ごめんね〜ん❤️』
右目に封印していたモノ。俺が四月に眼帯を買った理由。
……ああ。
俺は画面を伏せた。指は、動かなかった。
今日は、見ない。
部屋の中に向き直る。
「ふぅぁぁぁ……。終わった……ッスね……」
床にへたり込み、クマを作ったスバルの姿があった。
ピピピピ! ピピピピ!
スマホのアラームが鳴り響く。時刻は早朝6時。
「あ……ッ!? やばいッス!! 格闘技部の遠征バスが出発しちゃうッスーーーーッ!!」
スバルが跳ね起きた! そうだ、今日スバルは朝から部活の遠征準備で早起きしなきゃいけなかったのだ!
「おれちゃん! 着替えてすぐ出るッスよ! 遅刻したら監督に殺されるッスーーーッ!」
「おうッ! すぐ行く!!」
激しい徹夜の死闘を終えた俺たちは、カバンを引っつかんで部屋を飛び出した。
アパート『あけぼの荘』の階段を、二人で二段飛ばしで駆け下りる。
二、三、五、七。
数えているつもりはなかった。隣を走る足音と自分の足音が、勝手に数を刻んでいるだけだ。あの夜は、これで何かを消そうとしていた。今は、何も消えていない。
朝の澄み切った空気が、寝不足の体に心地よく突き刺さる。
「おれちゃん!」走るスバルが、隣で眩しそうに振り返った。「道三は……もう大丈夫ッスか!?」
振り返ったスバルの頬を、朝日が照らしていた。汗で張り付いた髪も、昨夜と同じだった。
「……ああ」
声が、一拍遅れた。
「完全納刀だ。ちゃんと寝かせて、ちゃんと起きた。それだけだ!」
スバルは前を向いた。数歩、黙って走った。
「……今の、遅かったッスね」
「何が」
「返事」
俺は走る速度を落としそうになって、慌てて足を出した。
「寝不足だよ」
「ふーん」
追及は、来なかった。
代わりにスバルは、少しだけ歩幅を広げて、俺の半歩前に出た。
「まあ、いいッス。おれちゃんが自分でちゃんと起きたなら、それで」
顔は見えなかった。見えないように走っているのだと、少しして気づいた。
「よく分かんないッスけど……最高の賢者たちの朝ッスね!」
分かんないままでいい。
——今日のところは。
朝日の中、俺たちは笑顔で並んで走り出した。
胸を張って、新しい一日を迎えるために——。