インバイトのリクエストが通ると、僕はトワのもとに向かった。
表示されたワールドは、ノクティスラの会場だった。ワールドのURLはイベントのメンバー全員が参照できる。もちろんインスタンスはインバイト形式だ。
僕はトワがいる場所に向かって、見慣れた、無人の通路を進んでいった。
トワはホールの壁際、星の灯るランタンの下にいた。普段着のアバターで、僕に気づくと深々と礼をした。
「すみません、あんなものを送ってしまって」
「謝らないで。……大丈夫だから」
本心だった。僕から提案したのだし、こういうことには、慣れている。
「いえ、あの」
トワは言葉に詰まり、しばらく黙っていた。
僕も急かさなかった。ここに来るまでに話すことはいくつか考えてきた。トワの様子を見て、何を話すか、触れずにいるか、決めるつもりでいた。
沈黙を破るのは勇気がいることだ。僕は、いちばん言いにくいことをまず口にした。
「トワくん。先に、謝らなきゃいけないことがある」
「はい」
「あの夜のことを、僕は覚えていない」
トワは静止したまま僕の言葉を聞いていた。
「三年前の、僕が一日だけ接客をした回だ。あの日、僕は何十人と話した。一人一人の名前も、何を話したかも、夢中になっていたから記憶に残っていないんだ」
でも、と僕は続ける。事務的だった口調に、温度を宿す。
「とても楽しい夜だった。君が救われたと言ってくれて、嬉しかった。そのことには、お礼を言いたいんだ」
「……知っていました」
トワの声は落ち着いていた。
「スタッフになってから、それとなく話を振ったことがあります。ウラタロさんが詳しくお話しにならないので、たぶんそうだろうと思っていました」
「そうか」
「怒っていません。接客イベントでは、珍しくないことは。あの夜よりも……ノクティスラに入ってからの時間のほうがずっと長いんですから」
おそらく彼はそれを、何度も自分に言い聞かせてきたのだろう。殊勝な口調が僕の胸を刺した。それに、今日まで僕はトワと一対一で話す時間を作ってこなかった。
「トワくん、提案があるのだけど」
「はい」
「君さえよければ、これからも時々二人で話さないか。ノクティスラのことでなくてもいい。なんでもない話を君としたい」
「え」
トワは僕を見つめて固まった後、慌てて言った。
「だめです、ウラタロさんはお忙しいのに」
「心配しないで」
僕は笑む。
「僕が、トワくんと話したいんだ。君は、僕だけが本気と言ってくれたね。僕も……トワくんは、昔の自分に似ていると思っていたんだ」
失礼だったら申し訳ない、と言い添えると、トワは大きく首を振った。
「どういう点がか……聞いてもいいですか」
「僕も、夜の街で働いていたことがある」
沈黙するトワに、僕は話し始めた。
「新卒で入った会社を過労で辞めてね。繁華街のバーで、カウンターに立っていた。二年くらいかな」
「ウラタロさんがですか」
僕は頷く。
「君のいた場所とは違うよ。君のほうがずっと厳しいところにいたと思う。ただ、同じ通りにクラブはあった」
僕の意識は、その思い出のドアを開ける。氷の冷たさ、秘密めいた喧噪、噎せ返るような花の香り。今でも、手に取ることができる。
「カウンターの中って、いい場所なんだ。同じ部屋で一枚板を隔てて、こちらは客じゃない。飲む必要も、盛り上がる必要もない。ただ手を動かして、話を聞いていればいいんだ」
言いながら、僕は自分の手のひらを見た。白い、作り物の手だ。
「話を聞くのは、もともと得意だった。だんだん、僕がいる日を選んで来てくれる人が増えた。同業のお客さんも多かったよ。上がったあとに寄ってくれる子たちがね。だから、ああいう喋り方は見慣れていたんだ」
「……あの夜、褒め方が上手いって言われたとき」
「あれは本当に感心したんだよ」
僕が微笑むと、トワは顔を背けた。
「辞めた理由はいくつかある。体が持たなくなったのもあるし、昼の仕事に戻りたいのもあった。いちばん大きかったのは」
言葉を選ぼうとして、うまくいかず、そのまま言った。
「あそこで僕が渡していたものにも、値段がついていたことだ」
トワが俯いたまま小さく頷く。脳裏で、シャンデリアの輝きを閉じ込めた泡が昇っていく。
「酒には値段がある。それはいい。けれども僕が話を聞くと、その人はまた来てくれる。また来てくれれば、店は儲かる。僕の給料もそこから出ている」
泡は弾け、紙幣になる。手渡しで渡されるそれを、僕は慎重に扱っていた。
「優しくすることが、売上に換わるんだ。誰も僕に、優しくしろとは言わない。言われなくても僕はそうする。そうしたいから。でも、そうすると……儲かるんだ。途中から、どこまでが僕の気持ちで、どこからが商売なのか、分からなくなった」
耳の中で反響するホールのざわめきが、いっそう高くなる。目の前に、もう顔も思い出せない客の、幻を見る。
「あるとき、常連さんに言われたんだ。あなたのおかげで救われた、って」
そのときと同じ表情を、僕はHMDの下で浮かべた。
「嬉しかったよ。本当に。でも、その人はカウンターにお金を置いて帰った。レジがある部屋で、僕はその言葉を受け取ったんだ」
音は消え、幻は去る。静かな部屋が、僕が今いる現実として帰ってくる。目の前にいるのは、俯いて座る少年のアバターだ。
「それからは、うまく笑えなくなった。自分が誰かを楽しませるたびに、値札が見えるようになってしまってね」
「そんな」
呟くトワに、僕は首を振った。
「僕の問題だよ。店にも、お客さんにも、何の落ち度もない」
言い切って、ノクティスラのホールを見渡す。ランタン、テーブル、カウンター。カーテンの向こうのバックヤード。みんなの協力で、三年をかけて作り上げたものが、暖色の光の下に並んでいる。
「だから、ここを作ったんだ」
トワも、追ってその一つ一つに視線を注いだ。
「誰からもお金を取らずに、同じことをやってみたかったんだ。僕らが力を合わせたとき、その壁を乗り越えられるかどうか、確かめたかった。ノクティスラは、そういう場所だよ」
言い終えてから、少し恥ずかしくなった。
「この話をしたのは、君が初めてだ」
「そうなんですか」
トワは少し驚いて聞き返した。
「誰にも言ってない。ミサトさんにも、ユノさんにも」
彼はしばらく動かなかった。やがて、掠れた声で名前を呼んだ。
「ウラタロさん」
「うん」
「手紙に書かなかったことがあります」
相づちを打ち、灰色の瞳を見つめる。
「僕、あの夜、盗みに行ったんです」
彼は決心した様子で、語り始めた。
「VRChatを始めたのは、稼ぐためでした。金を持ってそうな人を見つけて、仲良くなって、貢がせる。そういうことをしている人がいるのを知って、自分にもできると思いました。やり方は、学んでいたので」
手紙の口調と同じだ。過去の暗さに引きずられまいとする、平坦な声だ。
「あの夜、僕はランタンの下に立っていました。見つけてもらうためです。壁際で、明かりの近くにいれば、必ず誰かが来る。そう、店で覚えたんです」
「うん」
「来たのが、ウラタロさんでした」
彼は一度、息を吸った。
「褒め方が上手いですねって言われたとき、終わったと思いました。見抜かれたんだって。でも、あなたは怒らなかった。上手な人に会うと嬉しいって、言ったんですよ」
「……そうだったのか」
「そうです」
トワははっきりと言った。
「軽蔑されると思って、手紙には書けませんでした。今も、黙っていたほうがよかったのかもしれません。でも、ウラタロさんが自分の話をしてくださったので」
そうして、彼はまた床を見つめた。
驚きはなかった。この世界には様々な人が訪れる。互いの素性は知らない。楽しい時間を共有できれば充分。トワはスタッフになったけれど、その歪んだ動機はとっくに捨てていた。直に訊かなくても分かる。彼の一年間が、それを証明している。
僕が言うべきことは、一つだけだ。
「トワくん」
「はい」
「君は、何も取らずに帰ったよね」
息をのむ音が聞こえる。顔の脇で、青いピアスが輝いた。
「僕は何もしてない。話を聞いただけだ。あの夜、盗まずに帰ると決めたのは、君だよ」
「……違います」
トワは濡れた声で言った。吐き出すように叫んで、否定する。
「違うんです。違う。僕は、ウラタロさんが」
言葉にならない嗚咽を漏らす彼を、僕は黙って見守った。ふと、こんなことが前にもあったような気がした。誰かが心の中で泣いていて、僕はその隣にいた。
きっと、星の灯るランタンの下だった。