「すみません」
「いいよ」
トワは鼻をすすると、落ち着きを取り戻して言った。
「みっともないところを、お見せしました」
「そんなことはない」
僕は先ほど思い出したことを口にした。
「トワくん。さっき、あの夜のことは覚えていないって言ったけれど」
「はい」
「一つだけ、あの夜に変わったことがある」
トワが顔を上げた。
「うちは元々一時間制のイベントだったけれど、僕がスタッフとして出た回を機に、二時間開くことにしたんだ。遅い時間にしかVRCに入れない人が来られるように」
「そう、だったんですね」
「それからずっと恒例だよ。イベントの規模が大きくなったから、二時間でちょうどよくなった。僕はそれを、決めたことは覚えているんだ」
かすかな祈りと悔しさが、声から温度を奪う。
「でも、きっかけになった誰かのことは、思い出せない」
トワは無言で頭を下げた。長く下げたまま、上げなかった。
それから、実務の話をした。バックヤードからペンを持ってきて、壁にメモを取る。
「講習会は、月に一回にしよう。内容も、一緒に考えさせてくれないか」
「そんな、ウラタロさんはお忙しいのに」
「忙しいのは事実だけど、だからって君に丸投げにはしておけない。イベントのためなのだから、僕もやるべきだ」
トワは小さく、「ありがとうございます」と言った。僕は次の行を書く。
「それから、参加率のことは評価に使わない。サーバーに明記する。誰が来ても来なくても、講習会の価値は変わらない。トワくんの価値もね」
「……はい」
決定事項を確認したあと、トワの顔を覗き込んで言った。
「決して無理をしないで、負担を抱え込まないこと。君は大切な、僕の友達だ。迷ったときは、僕のことを思い出して」
トワは僕を見つめ返して、初めて、微笑んだ。
「いつも、思い出していましたよ」
帰り際、トワはもう一度深く頭を下げた。
「今日は本当に、ありがとうございました」
「こちらこそ。また話そう。いつでも連絡して。僕も連絡する」
「分かりました」
トワが手を振る。いつもの、ノクティスラのトワとして。
「僕のこと、ちゃんと見ていてくださいね、ウラタロさん」
僕は手を動かせない代わりに、上下にジャンプした。
「もちろんだ。これからもよろしく」
「よろしくお願いします。おやすみなさい」
「おやすみ」
トワが消える。しんと静まりかえったホールに、壁の文字だけが今夜二人が話した痕跡として残った。
息を吐き、トワの立っていた場所の上を見上げる。星の灯るランタンは、変わらず周囲を照らし続けている。孤独な夜に寄り添う星をイメージして、最初期にモデリング担当に作ってもらったインテリアだ。とても、気に入っている。
ひとまずは、一件落着だろう。追い詰められていたトワが回復するのに、時間が掛かるかもしれない。それでも、僕らのわだかまりは解消された。僕が一方的に気づかないでいたわだかまりだ。だからこれのために、僕が今後時間を割くのは必須のことだ。
それに、今夜癒やされたのはトワだけではない。僕も、彼と話ができて、嬉しかった。
「久々に、いい時間だった」
呟いて、VRChatからログアウトする。その夜は、深く眠ることができた。
◇
それからの数ヶ月は、僕の記憶の中でいちばん穏やかな時間として残っている。
トワとは月に一度、都合の合う日に話した。ノクティスラのことが半分、それ以外が半分だった。彼が受けている授業のこと、僕の仕事のこと、お互い好きなもののこと。トワも実は小説好きで、教室では浮くため周囲に隠れて読んでいるという。本の話で盛り上がると、僕は本来の自分に近づく感覚がした。
講習会は月一回になった。構成は二人で決め、資料の叩き台は僕が作った。参加率を評価に繋げない旨は、サーバーに明記してある。
効果は目に見えて表れた。参加者は十二、三人に落ち着き、トワを取り巻いていた緊張や焦りの空気は立ち消えた。雑談の中、彼が参加者と笑い合っているのを見た。
イベント本番でも、他のメンバーの口からトワの名前が自然に発せられるのを聞くようになった。
ミサトが「最近トワくんはとても聞き分けがよくなりました」と報告したとき、少し言い方に引っかかりを覚えながらも、僕は素直に喜んだ。
僕とトワは間違っていなかった。二人だけの会話は、確実に組織と個人に良い影響を及ぼしている。
回り道をしたけれど、手遅れにならなくて本当によかった。
問題が起きたのは、五月の連休明けだった。
クレハというスタッフから、退会の連絡が来た。
規模拡大のときに入った接客担当で、三年目になる子だ。出席率はスタッフの中でも高く、会議にも講習会にも毎回顔を出していた。明るく、挨拶を欠かさず、後輩の面倒見もいい。誰かが落ち込んでいれば冗談を言って場を和ませるのはよくある光景だった。
メールに、理由は書かれていなかった。
僕はすぐに慰留の返信をした。二年以上いてくれた子だ。急なことで驚いたこと、これまで支えてくれたことへの感謝、もし何かあったのであれば聞かせてほしいことを綴った。
返事はなかった。
二日後、ユノからリンクが送られてきた。
「これ、うちのことじゃない?」
noteの記事だった。タイトルは『あるVRイベントを辞めた話』。投稿者名はありきたりなものだ。
冷静な筆致から始まり、徐々に恨み節に変わるそれを僕は読んだ。
筆者は、三年続いている接客型イベントのスタッフだった。そのイベントは数十人のメンバーを抱えていて、オーナーは表に出ず、いつもバックヤードから全体を見渡している。ロールプレイをベースにした接客に定評があり、技術を高めるために講習会が開かれていた。
講習会で、自分はいつも結果を出すことができなかった。褒め言葉よりも、改善点のほうを多く受け取っていた。
そして、その講習会を取り仕切るスタッフが、会議で他のスタッフの姿勢を批判し、能力を判定できると発言した。オーナーは彼の言い方だけを注意して見過ごした。
講習会は今も開かれている。そして、そのスタッフとオーナーは懇意で、二人だけで話をしている。
彼らがオレンジステータスにして、同じ時間にログインしているところを何度も見たから分かる。
僕のほうが先にイベントに入ったのに、オーナーに憧れたのに、彼は横入りしてオーナーを奪ったのだ。
許せない。
最後まで、イベントの名前は書かれていなかった。
けれども、読む人が読めばこれはノクティスラの、オーナーとトワの話だと察せられるだろう。
筆者の見方は歪んでいる。匿名とは言えうちのイベントを非難されていい気持ちはしない。
しかし、書かれていることはすべて、実際に起きたことだ。
彼の蔑ろにされたという想いを、否定することはできなかった。