ミサトの動きは速かった。
彼女はクレハに連絡を取り、事実確認ではなく、話を聞かせてほしいという形で場を設けようとした。僕も同席する用意があることを伝えてもらった。
返事は短かった。
話すことはありません。
二度目の連絡にも、同じ文面が返ってきた。三度目には、返信がなかった。
「これ以上は、私からは難しいです」
通話で報告するミサトの声は、珍しく沈んでいた。
「連絡を重ねると、こちらが圧力をかけている形になります」
「そうだね」
「申し訳ありません」
「ミサトさんが謝ることじゃない」
僕は記事のことを考えていた。
説明しようとすれば、トワと個別に話していた理由を明かすことになる。それは彼の個人的な事情で、僕が勝手に開示していいものではない。
説明しなければ、認めたことになる。
結局、僕は無言を貫いた。公式のアカウントでも、個人のアカウントでも、何も書かなかった。聞かれたときだけ、個別で回答した。事実を必要な範囲に絞って説明すれば、それ以上詮索されることはなかった。
記事は一週間ほどSNSで拡散され、VRChatユーザーから言及された。
書き手の嫉妬だと切り捨て、晒しを咎める声がほとんどだった。表だってどこのイベントか推測する者はいなかったが、記事の話題の近くで、ノクティスラのことを匂わせる者もいた。同情や擁護、揶揄の反応は、イベントとはまったく関係のないアカウントに見られた。
名指しは最後までされなかった。
ノクティスラのメンバーは誰もこの記事について触れなかった。サーバーは、業務連絡以外では動かない。雑談チャンネルは示し合わせたように沈黙していた。以前ならばなんでもない投稿をするクレハが、今はいない。あの記事を書いたのは、クレハで間違いない。
全員があの記事を読み、それがうちのことだと、認めている。
僕は触れられない。トワと、そして原因とはいえクレハを守るためにも、平静を装い続けた。
会議や、イベント本番の空気が変わった。スタッフは必要なことだけを話して、早々に場から抜けていく。接客担当の欠席が相次ぎ、残った人員でインスタンスを回した。客の顔ぶれは同じになり、以前のような賑わいが戻ることはなかった。
トワは講習会を中止にした。理由はリアルが忙しいから。誰も彼を責めず、感謝の言葉を数人が送った。目立った能力はなくても、場を和ませる明るい人間がいないこと、彼が恨みを残して去ったことの影響が、イベントを蝕んでいた。
スタッフは一人ずつ抜けた。人生の節目を迎えたり、他にやりたいことが見つかったりといった理由を述べた。どれも本当のことだったのだろう。しかし、雑談チャンネルを埋める別れのメッセージは短かった。何も書かないスタッフもいた。僕は一人一人の働きに感謝する返信を書き、またどこかで、と締めた。
あんなことがあってなお、僕はまだ、またどこかがやってくると、信じていた。
トワが面談を断ったのは、六月の終わりだった。
「もう大丈夫です」
灰色の画面の向こうで、彼が明るく言った。
「ウラタロさんのおかげで、ずいぶん楽になりました。今までありがとうございました」
「こちらこそありがとう」
僕は動揺を隠して言った。まだ伝えたいことがある。話したいことがある。触れずにいることが、ある。
「何かあったらいつでも言ってね。僕も……トワくんと話せて楽しかった」
僕が言えたのはそれだけだった。本当は、クレハのことがあっても、僕たちの過ごした時間は損なわれないと、僕は気にしていないと、伝えたかった。
「はい」
トワの声が揺れて聞こえたのは、僕の願いだったかもしれない。
「お世話になりました。ウラタロさん、いつまでも元気でいてくださいね」
そうして、通話が切れた。
その明るさと台詞に違和感を覚えながら、僕にはどうすることもできなかった。
パソコンをシャットダウンして、椅子を引く。机の上に、読みかけの本が置かれたままになっていた。次にトワと会ったときに話すつもりで、読み進めていたものだ。
栞を挟んだまま、僕はそれを本棚に戻した。
◇
七月の頭、ミサトから通話の要請が来た。
共有事項の確認を済ませたあと、彼女は少し間を置いて言った。
「異動が決まりました」
咄嗟に理解できず、「異動」と鸚鵡返しする。
「総務から人事に移ります。四月付けで、係長です」
僕は遅れて、それが意味するところを悟った。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
彼女の職場が定時で終わることも、だから三年間ノクティスラに時間を割けたことも、知っていた。総務課の主任として、備品の管理から社内規程の運用まで一人で回していることも聞いていた。
人事に移れば、人を見る仕事をする。部下も持つ。
ノクティスラで無償で行っていたことが、彼女の職業になるのだ。
「年内で、マネージャーを降りさせて下さい。引き継ぎは、余裕を持って進めます」
「分かった」
他に言えることはなかった。本当に、めでたいことだ。代わりに、一つ尋ねる。
「クレハくんのこと、気にしてる?」
「いえ」
ミサトは即答した。
「関係ありません。話はもっと前から来ていました」
そうか、と僕は言った。
事実かどうか確かめる方法はないし、その必要もない。ただ彼女の引退が、ノクティスラにとって大きな欠落になることは確かだった。
問題ない。リアル優先なのだから、こういうことはある。準備の時間はたっぷりある。後任を育てることもできるだろう。
僕は報告してくれたミサトに感謝して、通話を閉じた。
後日彼女から送られてきた引き継ぎ資料は、完璧だった。
業務の一覧、年間スケジュール、外部イベントとの連絡窓口、使用素材の管理表、新人教育のチェックリスト。ドキュメントは整理され、必要なリンクが貼られていた。後任の候補を三人挙げ、それぞれの適性と懸念まで添えている。
僕は彼女にマネージャーを頼んだ日を思い出して、胸が熱くなった。
相談役については、精緻なマニュアルを読んでも完遂できるものではない。彼女の冷静さと判断の的確さが、組織のトラブルを未然に防いできた。これについては、後任にミサトの仕事をよく見て、ノウハウを身につけてもらうしかないだろう。ここまでマニュアル化しては、それこそ仕事だ。
メンバーは抜け、ミサトもいなくなる。これを機に、イベント運営を一からやり直そう。
新しく人を入れ、風通しのよい組織に再生しよう。誰も特別扱いしない。業務の属人化はしない。楽しくやるという方針を徹底し、誰もにとって居心地のいい場所にする。
まだ、やり直せる。ノクティスラを、ここで終わらせるわけにはいかない。
しかし、ユノとの久々の通話が、その希望を揺るがした。
「ワールド担当、降りていい? 本業がきつい。申し訳ないけど、これ以上は力になれない」
ユノは疲労を滲ませて言った。申し訳ないというのも本心だろう。
「そうか。今までありがとう、ユノさん」
僕は肩を落としたことを悟られないよう、礼を言った。言い慣れていた。
「もう一人の担当にメインになってもらえないか頼んでみるよ。ここのところ顔を出していないけれど、反応があれば三者で話す場を設けたい」
「そのことなんだけど……そのことでもないか」
言葉を濁すユノに、なに? と問う。彼はしばらくして重たげに口を開いた。
「ウラタロさん。言いにくいし、答えたくないかもしれないけど、ぶっちゃけノクティスラ続けるの?」
「……続けるさ」
僕は機械的に答える。そうする以外考えてこなかった。けれども、ユノが何故そう言うか理解はできた。
「そう? ウラタロさんがそのつもりならいいけど」
これは友人として言う、と前置きしてユノは話した。
「うちのメンバー、結構抜けたよ。講習会はなくなって、それは前の状態に戻っただけだけど、新しくスタッフ入れるにしても育てるリソースが足りないよ。前みたいに教育できる人がいないんだ。それじゃスタッフも定着しない。要のミサトさんも年内で辞めることになってる。俺も、いなくなる」
何か言わなければ。そんなことはないと、まだノクティスラは続けられると、ユノにはっきりと告げなければ。
言えない。メンバーの時間を預かる組織の長が、閉じた場とはいえ根拠のないことは。
「客も減ってる。俺は現場に行かないけれど……集合写真見れば分かるよ。それに、ノクティスラに似たイベントが増えた。知ってる? ノクティスラの元スタッフが新興イベントに移ったこと」
「……知らない」
そうか、とユノが漏らした。後悔しているような口調だった。
「俺からすれば、ノクティスラは充分やったよ。いろんな人に居場所を与えた。楽しい時間を提供した。まだ人が来てくれるうちに、幕を引いてもいいんじゃないか」
「オーナーは僕だよ」
ユノの声が憐憫を帯びる。
「そのオーナーの君が、パンクしないでいられる?」
「ミサトさんの後任は、三人考えている」
「もう声は掛けた?」
「……まだ」
忙しくて、メールを送れていなかった。完璧な引き継ぎ資料だけが、僕の手元にある。
「でも、ミサトさんはノクティスラが続くと信じて、資料を書いて、候補者を考えてくれたんだ。彼女の頑張りを無駄にするわけには」
「ウラタロさん」
ユノがはっきりと、僕の名前を呼んだ。
「俺はノクティスラが好きだよ。ここのみんなは善意で動いていた。ウラタロさんが最初にそれを掲げたからだ。みんなウラタロさんと一緒に何かしたくて、このイベントに入ったんだ。でも」
彼の本音が、粗いポリゴンでできた日々を蘇らせる。いつもいた人。もういない人。温もりは遠く、声も思い出せない。
「ウラタロさんが忙しくなって、ミサトさんが仕切るようになって、空気が変わった。ミサトさんのせいじゃない。ただ、そのときからイベントの質は変わっていたんだよ」
ウラタロさんが楽しそうじゃなくなってから。
「僕はずっと楽しかったよ」
こんな空虚な声では、ユノを騙すことはできない。彼は無視して、話を続ける。
「トワくんのことも、記事のことも、大した問題じゃない。ごっそり人は抜けたけれど、もうずっと前から、彼らはきっかけを待っているように見えた。それまでは、ウラタロさんへの義理で続けていただけだ」
心臓がどんどん冷たくなっていく。もう聞きたくない。
「VRChatは、変わったんだ。俺たちのリアルも、変わっていくんだ。ずっとこれを続けることはできない。もしもノクティスラだけを続けたいなら、ウラタロさんがオーナーから降りるしかない」
僕は一度通話を切り、すぐに受話器のボタンを押した。
「ごめん。一瞬回線が落ちたみたい」
「ああ」
ユノは熱から醒めたように、落ち着いて言った。
「今決めなくていい。他の人の意見を聞いても、聞かなくてもいい。ただ」
その冷徹さは優しさだと知っていた。知っていて、受け入れたくなかった。
「これ以上リソースを無駄にしたくないなら、考えないといけないよ、ウラタロさん」
僕は極めて事務的な声で答える。
「分かった。忠告ありがとう」
そういえば、以前ユノが何か言いかけて言わなかったことがあった。当時の僕には重すぎると、抱えたままにしていることがあるはずだ。
聞ける空気ではなかった。同時に、そんなふうに大事にしてくれる友達の前で頑なになっている自分が、情けなかった。
「また話そう」
ユノはそう言って、通話を切った。昔は一緒にいろんなワールドに行って、悪ふざけをしたりデバッグをしたりした。ユノも、忙しくなって、VRChatを遊べなくなって、辛いだろう。
自分の作ったイベントワールドがなくなってしまったら、とても寂しいだろう。
「なのにどうして……」
誰かと話したかった。誰の名前も思い浮かばなかった。仕事の文脈ではなく、なんでもない話を。
一人名前が浮かんだが、遙かに年下だ。弱っているところを見せて、幻滅されたくない。自分のせいであれば尚更。
読みかけの本は変わらず、本棚に置かれたままだった。