三日後、僕はユノに面談を申し込んだ。
敢えてVRChatの中を選び、彼の作った会議室のワールドで、インバイトリクエストを待った。
入り口にユノが現れ、明るい部屋を横切って、スクリーンの前にいる僕のもとへやってくる。
挨拶を交わす。ユノが先に、穏やかな声で言った。
「この前は、悪かった」
僕は胸の前で小さく手を振る。
「いや。ユノさんは正しいよ。僕のほうこそ、申し訳なかった」
二人とも、どちらからともなくその場に座った。僕はユノに尋ねる。
「まず、訊きたいことを先に訊いてもいいかい」
「いいよ」
「前に、何か言いかけてやめたことがあったよね。今の僕には重すぎるって。今、聞かせてもらえないかな」
ユノはああ、と漏らしてしばし沈黙する。思い出すのではなく、決心するための間だった。
「あのとき言おうとしていたのは、トワくんはウラタロさん目当てでここにいる。きつい言い方をすれば、ウラタロさんの背中を見てああなったんだ、ってことだった」
「そうか」
今となっては、自明のことだ。トワも手紙の中で、本気の僕だから話すと、打ち明けていた。彼がああなったのは僕のせいだと、責任を感じ、トワのケアに努めた。そうしてノクティスラの、進退の決断を迫られた現状がある。
もう、通り過ぎたことだ。トワは目立たないように、僕は誰も特別視しないように、頭上を通り過ぎる崩壊の影をやり過ごしている。
「あのとき言っておけばよかった。結果的にウラタロさんの重荷を増やした」
「ユノさんは悪くない。たぶんあのとき言われても、僕は止まれなかった」
ユノが微笑む。諦観を宿して、そうだね、と呟く。
「ウラタロさんは目の前の相手に寄り添う人だ。俺も結構それで救われた。だから、この話はこれで終わり」
ああ、ありがとう、と僕は床に視線を落とす。ユノが言った。
「他に、話したいことがあるんでしょ」
「ユノさんは容赦ないな」
僕はそれが嬉しくて笑う。ユノは僕の言葉を待った。
「ミサトさんの後任候補三人に、声を掛けた」
うん、とユノが言う。低い響きを保ったまま、僕は続けた。
「一人は力不足、一人は多忙を理由に断った。最後の一人は条件付きで引き受けると言ってくれたけれど……」
「辞めたの?」
「ああ」
誠実な接客担当の、丁寧に一線を引く口調が蘇る。
「彼は業務の属人化を避けたがっていた。代案として、部署を作って決定権を分散させるのはどうかとまで言ってくれた」
「正しい判断だと思う。ノクティスラの問題は、組織の構造から起きたことだ。個人の負担を減らさないことには楽しむ余裕も戻ってこない」
ユノの冷静な分析に、僕は自分の考えを言い添える。
「でも……それは現実的じゃない」
彼の視線に促され、僕は理由を口にした。
「部署を作るほどの人員がいない。メンバーは全部で二十人。アクティブメンバーはその半分だ。彼ら一人一人に幹部並みの働きを強いることはできない。経験値があるとは言え、彼らは元々接客を楽しむためにここに来たのだから」
「そうだね」
ユノは明瞭に肯定した。上を向き、声に出してため息を吐く。
「他のイベントに声を掛けて、教育を手伝ってもらうのはありだと思うけど。それくらいの恩は売ったでしょ」
「ユノさん、この間はああ言ったのに」
「だって」
ユノは天井を見上げたまま言った。
「俺だって寂しいよ。ウラちゃんのイベントがなくなるの」
「ありがとう」
ありがとう、ユノさん。そう繰り返すと、彼は目の下を拭う動作をした。
「次の会議で、僕の意志を全員に伝える。意向は個別で伺って、続けたい人がいれば別のイベントへの移動を提案する。話は付けておく」
用意していた段取りを述べる。ユノは晴れやかに言った。
「それでいいと思う。ま、余所じゃやらんって子もいると思うけどね」
トワくんとか。僕は内心胸がちくりとする。
「ウラタロさん、最後まであの子のこと、面倒見るんだよ」
「ユノさん、トワくんと仲良かったっけ」
ふと疑問を投げかけるが、軽やかな笑いで躱されてしまう。
「ユノさんは頑張ってる若者が大好きなんだよ」
物事に頓着しないように見えて面倒見のいいユノだから、本当のことかもしれない。
もっと早く、いろんな人に頼るべきだった。
「じゃあまた、会議で」
「時間を作ってくれてありがとう。またね」
ほぼ同時に、僕たちはインスタンスを退出した。するべきことはたくさんある。
僕はまず、ミサトに連絡した。
◇
ミサトとも、VRChatの中の会議室で話した。
これまでの経緯を理由として説明し、結論として、ノクティスラを畳むことを伝えた。
マニュアルをお蔵入りにしてしまうことに対する謝罪、判断が遅れたことに対する懺悔も。
話を聞き終えると、ミサトはすらりとしたアバターの、腰を折って視線の高さを合わせた。
「ご報告ありがとうございます。マニュアルのことは気になさらないでください。むしろウラタロさんのお悩みを増やしてしまっていたようで心苦しいです」
「とんでもない。僕が頼んだことだ。僕が優柔不断だったから、こうなった」
「言いっこなしですよ、ウラタロさん」
柔らかい口調だ。もしかして、マネージャーを降りることになって肩の荷が降りたのだろうか。
「難しいご決断だったと思います。会議については、ウラタロさんから告知されるのがいいでしょう。重要な話だと伝わりやすくなります」
「そうだね。いつもありがとう」
ミサトから言いよどむ気配がした。
「どうしたの?」
「いえ……ウラタロさんは、いつもお礼をおっしゃいますね。とても気持ちのいい方だと思っているのですが」
「ああ」
彼女がそんなことを言うのは初めてだったので、僕は聞くのが怖くなった。
「お世話になっているのはこちらなのに、と恐縮してしまいます。悪い気はいたしません。ただ」
ミサトの柔和なアバターの視線が、窓を通り抜けていく。
「大したものを返せない自身の至らなさを、省みるばかりでした」
僕は驚いて、なんと聞き返したらいいか分からなかった。ミサトの気持ちを否定することはできない。たった今、感謝されることが苦しかったと、打ち明けたばかりだ。
「僕のほうが、ミサトさんにもらってばかりだったと思っていたよ」
正直に言うと、彼女は微笑んだ。
「ありがとうございます。最後にそれが聞けて、安心しました」
もしかしたら僕は、多くのものを取りこぼしていたのかもしれない。
こんなに近くにいたミサトの本心にも気づかなかったのだ。完璧なマネージャーは自分の仕事に誇りを持っていると勝手に決めつけ、その苦しみに焦点を合わせなかった。
感謝が足りなかったわけではない。では、どうすればよかったのだろう?
「ミサトさん」
名前を呼ぶと、彼女のスカートがふわりと揺れ、振り返る。
「こんな機会は最後だろうから訊く。僕たちは、僕は、どうすればよかったと思う?」
「そうですね」
ミサトは少し考えた後、丁寧に前置きして答えた。
「これは私の欲で、不可能だったことは承知しています。けれども、それを述べてもいいのならば、私はウラタロさんに表に立ち続けてほしかったです」
初期の開催日。僕がバックヤードから出た回。セピア色の思い出が点となり、繋がっていく。
「私だけではなく……少なくとも立ち上げメンバーは、ウラタロさんと一緒に何かしたくて、このイベントに入ったのですから」
それが、答えだった。
「ははは……」
「ウラタロさん?」
乾いた笑いを漏らす僕を、彼女は当惑して見つめた。僕は顔を覆い、感情に蓋をする。
「ごめん。似たようなことをユノさんにも言われてね」
「ああ……」
僕は咳払いをする。
「大丈夫だ。僕はここをノクティスラのまま、終わらせるよ」
ミサトは頷き、普段の声で約束した。
「最後まで伴走します」
◇
僕が二人で話したいと言ったときから、彼は僕が何を話すつもりでいたか、分かっていたのだと思う。
「こんばんは、ウラタロさん」
その声は朗らかで、かすかにうわずっていた。耳に青いピアスを付けて、ホールの入り口で、僕を待っていた。
「こんばんは、トワくん」
「少し、一緒に歩いてくれませんか」
奥の扉から、僕たちは外へ出る。弦楽器の演奏は消え、風の音に包まれる。ノクティスラの舞台は古い城だ。バルコニーから満天の星と、その下に横たわる深い海を見渡すことができる。
「こっちに行きましょう」
トワが、無骨な石の階段を降りていく。この先は砂浜だ。時折ワールドに興味を持ってくれた客を案内することがあった。客だけで来てもいいのだが、遠慮からかスタッフに声を掛ける客が多かった。
「以前ユノさんが細かく案内してくれたことがあって」
時々振り返りながら、トワが話す。僕は適当に、相づちを打った。
「教えてくれたんです。静かに過ごしたいときや秘密の話をしたいときなんかは、こっちに来るといいよって。……この先の洞窟が、お気に入りで」
僕はトワとともに、小さな洞窟に入った。砂の上に絨毯が敷かれ、隅に置かれたランタンが低い天井を照らす。正面には群青の波が、穏やかに打ち寄せていた。
「いつか、ウラタロさんと来てみたいと思ってたんです」
そうして目を細め、少年は、幸せそうに笑んだ。
「ノクティスラを解散する」
トワの動きが止まる。僕は決めていた台詞を言う。
「これ以上このイベントを続けることはできない。秋に最終回を行う」
感情を込めては、僕が壊れてしまう。動揺を隠すと、冷たさが残った。
え、とトワが漏らす。
波の音が高くなる。視界の端で光が揺れる。自分のものでなくなった声を聞く。
「トワくん、今まで本当にありがとう。君が望むなら、他のイベントへの紹介もできる。最終回はセレモニーを行うから、ぜひ参加してほしい」
トワの手が、彼の頭に伸ばされる。うめき声は聞こえなかった。彼は僕を向くと、浅い呼吸で訊いた。
「どうしてですか?」
僕は心の水面を揺らさないよう、慎重に答える。
「イベントを辞める理由であれば、人員不足だ。ミサトさんもユノさんも辞める。新しい人を入れても教育できる人がいない」
「それなら、また僕が教えます」
間髪入れずにトワが言った。
「だめだよ、もう君に無理はさせたくない」
「でも!」
トワが叫ぶ。彼の答えは予想ができる。できてしまうことが嫌だった。
「ノクティスラがなくなるくらいなら、僕は壊れたっていいんです」
僕は一つ息を吸って、ゆっくりと言い聞かせる。本当のことなのに、祈りに聞こえた。
「トワくんは若い。将来がある。ここはね、みんなの気晴らしの場なんだよ。楽しく続けられなくなったら、終わりなんだ。だから、ノクティスラはここまでなんだよ。とても残念だけどね」
「ウラタロさんが?」
トワが低く、声を震わせた。自分でも気づいていないのだろう、僕ににじり寄る。
「ウラタロさんが、そんなことを言うんですか?」
僕の言葉を遮って、彼は僕を責め立てた。
「ずっと本気だったでしょ。仕事で大変でも続けたでしょ。いろんな人を巻き込んでおいて」
「だから、僕が終わらせるんだ。これ以上みんなに付き合ってもらうわけにはいかない」
戻ってきた静寂を、波の音が埋める。残響が消えると、僕は静かに言った。
「イベントスタッフを続けたい人には、別のイベントを紹介する。それで勘弁してくれないか」
頭がくらくらとして、画面を見ていられない。目蓋で閉じた闇の中、トワのか細い声が聞こえた。
「僕は、ノクティスラがいいんです。ここじゃないと、だめなんです」
「どうして?」
少し遅れて問う。トワは迷わず答えた。
「ウラタロさんと、出会った場所だから」
僕は理解する。彼の中で、ノクティスラとウラタロは不可分の存在なのだ。
そして僕の色を分身に取り入れた彼自身さえも、この場所と地続きなのだ。
少なくとも彼はそう思っている。けれどもそれは間違いだ。
トワをしがらみから切り離せるのは僕だけだ。
君だけの足で、胸を張って、立ってほしいと。
僕は目を開くと、親しみを込めて彼の名前を呼んだ。
「よく聞いて。……イベントが終わっても、僕たちは会えるよ。何もVRChatを辞めるわけじゃない。今度はフレンドとして、前に二人で話していたときみたいに一緒に遊ぼう」
あの時間が、僕たちが何者でなくても、仲良くなれることを証明してくれる。目的はなくとも会うのが友達だ。これからはそうすればいい。
「いやです」
しかし、トワはきっぱりと断った。心から疑わしげに、いっそ敵意を込めて、灰色の瞳で睨む。
「僕はただのトワに戻って、いったい何をウラタロさんに返せるって言うんですか?」
「別に、トワくんはトワくんだろう。ノクティスラはなくなるけど、友達だよ」
驚いて、素の声が出た。それで充分、説得できると思った。
しかしトワは俯いて言った。
「そんなの……ずっと続くわけない」
「君は……」
僕は、トワが何を求めているのか理解した。それは、誰にも与えることができない。この世界の何にも備わっていない。強いて言うならば、意志だけがそれを可能にする。
ユノは、トワの面倒を見ろ、と言った。けれども同じ口で、すべては変わっていくとも。
続けるなんて軽々しく言ったら、またトワを傷つける。
僕はどうすればいい。
「無理なんですよ」
トワがわらう。顔を上げて、初めて会った日と同じ声で言う。
「ウラタロさんと僕が、友達になるなんて」
「トワくん」
彼は勢いよく立ち上がったかと思うと、打って変わって頭を下げた。
「すいません! もう大丈夫なんで、気にしないでください」
「トワくん、僕は」
「わがまま言ってすいませんでした。最終回、僕参加しないんで」
歯切れ良く言い、洞窟の外に出る。手元を操作して、移動するつもりなのだろう。
「待って」
呼び止めようとして、それを言う資格がないと噤んだ。
大波が打ち寄せる。星空を背に、がらんどうの微笑みが焼き付いた。
「今までありがとうございました。お疲れっした!」
先ほどまで話していた少年のアバターが消える。静かな浜辺に、僕だけが立ちすくんでいる。
「……トワ」
行ってしまった。波音は心の火照りを奪い、先ほどの会話は夢だったのではないかと錯覚させる。
夢ではない。彼が放ったのは、突発的に出る言葉ではない。前々からトワは苦しんでいたのだ。何者でもないために、何も返せないこと。この場所にいるために身を粉にする彼に寄り添ってきたつもりだった。実際には何も、できていなかった。
いや、他人に対してそこまでの干渉ができるというのが思い違いだった。一度彼が救われたと言ったから、僕はもっと、彼を癒やせるのではないかと勘違いをした。
救われたいのは、僕のほうだったのだ。
もしかしたら、トワから連絡があるかもしれない。こちらからメールを送ってはプレッシャーになる。彼を待とう。会議。通常の、イベント開催。まだ時間はある。
けれども、いつまで経ってもトワから連絡はなかった。
静かな夜を重ね、ついに僕たちは会議の日を迎えた。