ただのユーザーに戻るつもりだった。
戻れると思っていた。最終回のあの夜、僕は久しぶりに人と交ざって話をした。楽しいと、口に出して言えた。それができたのだから、あとは昔のように、適当なPublicに入って、知らない人と喋って、笑ってログアウトすればいい。
四年前の僕は、それで満たされていたのだから。
初めて入るインスタンスで、僕は名乗る。
「あ、もしかして、あの」
相手はイベントの名前を出す。悪気はない。むしろ好意だ。
「行きたかったんですけど、間に合わなくて」
「復活の予定とかないんですか?」
僕は笑みを貼りつけて、ありがとうございます、と答える。それから、いろいろありまして、と言う。会話はそこで一区切りつき、次の話題に移る頃には、僕はもう「ノクティスラの人」になっている。
世間の話題一つ、趣味の話一つとっても、彼らから一目置かれている、感覚がする。
僕がこの世界を好きになった理由は、初対面の相手と、何者でもないまま話せることだった。ここでは誰も、昼の僕を知らない。数字も、ノルマも、名刺も持ち込まなくていい。それが嬉しくて、毎晩入り浸っていた。
現在では、名乗るたびに、肩書きがつく。
終わったイベントの、終わったオーナーという肩書きが。
最終回に覚えたことが、何一つ使えなかった。交ざろうにも、僕が近づくと、その場が少しだけ姿勢を正す。
古いフレンドに声をかけた。四年前、毎晩のように顔を合わせていた相手だ。
近況を尋ねると、彼はまずイベントお疲れ様でした、と言った。それから、大変だったでしょう、と続けた。
他意はない。親切で品のいい会話だ。けれども労いは、こちらから何かを差し出す隙をくれない。
三十分ほど話して、また今度、と挨拶して別れた。また今度は来なかった。
フレンドリストを開く。オレンジステータスが増えた。灰色も増えた。四年の間に、僕は千人近い名前を集めていた。そのほとんどが、イベントを介して繋がった人たちだ。イベントがなくなれば、繋がっている理由もなくなる。
そんなの、ずっと続くわけない。
トワの言ったとおりだった。彼は自分のことを指して言ったが、当てはまっているのは僕のほうだった。
彼らが悪いのではない。僕が、イベントの外側で誰とも関係を作ってこなかったからだ。
忙しかったと、言い訳をするのはたやすい。けれども他のイベントスタッフたちは、それぞれのフレンドのところで遊んでいる。帰る場所がある。ミサトやユノでさえ、時折VRChatに入っている。
けれども元メンバーに会えば、またノクティスラの話をしてしまう。
四年間、僕は全員を見ていた。全員に声をかけ、全員を平等に扱い、誰も特別扱いしなかった。
平等に扱うということは、誰とも二人きりにならないということだ。
一度だけ、例外を作った。その一度が記事になり、その一人は、もういない。
トワのアカウントは残っている。ステータスは、ずっと灰色のままだ。
僕は季節の挨拶を送り続けた。年が明けても、桜が散っても、返事はなかった。彼とのチャットが僕からのメール以外で動くことはない。
もう、そこに彼はいないのだろうか。
そう思ったとき、僕は筆を執るのをやめた。
ホームワールドにログインして、鏡の前に立つ。メニューを開き、行き先を選ぶ。
確かめる前から、それが無駄な行為だと分かっていた。みんなイベントに参加中か、別の界隈にいるかだ。プライベートワールドにいるユーザーはずらりと並ぶ。今夜も僕の居場所はない。
メニューを閉じ、ため息を吐く。誰かの視線を感じ、正面を向く。
鏡の中で、たおやかな女性のアバターが微笑みを浮かべている。
はて、これは誰だろう、と僕は思った。イベントの告知画像の隅にいつも載っていたイラストのキャラクター。絵の得意なスタッフが描いてくれた、ノクティスラの看板娘。
僕が片手を上げると、鏡の中で彼女が、同じ動作をする。
そう。これはオーナー、ウラタロのアバターだ。トレードマークの青い髪飾り。
切りそろえられた黒髪、黒いワンピース、白い襟と袖、丸いパンプス。僕の好きな要素が詰まった分身。僕が僕だけのために改変した、夜の顔。色を変えるのにも、アイテム一つ付けるのにも、大変な手間と時間をかけた。愛着が湧き、この四年間ずっと使っていた。この世界で僕がコミュニケーションを取る助けになってくれた。
けれども今は、ただの記号だ。それどころか、僕をかつての役割に縛り続ける錨だ。
僕は腕を振り下ろし、彼女を睨みつける。
ノクティスラを知る者たちに、僕はこの姿で記憶されている。この姿でいる限り、僕はあのイベントの人だ。鏡の中の彼女は、とっくに僕のものではない。
ノクティスラが終わり、バックヤードは消え、スタッフたちは散っていった。僕の愛した砂場はなくなり、指示役はその任を解かれた。
今度はプレイヤーとして、別の砂場で遊べる。そう思った。最後の三十分、僕はそれができたのだから。
けれども他のプレイヤーたちは、僕をかつての指示役と認識する。役割は名前の代わりになり、いつの間にか一人歩きして、僕が話す前にその場所での僕の振る舞いを定義する。
僕は四肢から力が抜けて座り込んだ。
鏡の中の彼女も、膝を折って、同じように座る。青い髪飾りが涙のように揺れた。
あの子は今、どうしているのだろう。耳に付けた青いピアスは、外してしまっただろうか。
外しただろう。僕はもう、ノクティスラのオーナーではない。僕の色を、真似る理由がない。
そうか。トワと僕は、僕がノクティスラをやっていなければ出会うことがなかった。
君は何も返せないと言った。僕がただのウラタロであれば、君は興味も惹かれなかったはずなのに。
疲れたサラリーマンに。僕の持っている技術も、知識も、ありふれたものだ。
砂場での役割と姿のために、とんだ思い違いをさせてしまった。
そして今も、僕はそれで周囲を欺き続けている。
本当は何者かになんて、なりたくなかった。
願わくば、この錨を外して。あの古城に、思い出とともに埋葬して。
僕を、かつてのような何者でもない僕に戻してください。
メニューを開いた。アバターの項目を開き、パブリックアバター一覧を表示する。
誰でも使える、どこにでもある、誰のものでもない姿が並んでいる。動物、ロボット、丸い塊。名前も知らないものばかりだ。
その中に、黄色い顔をした、緑の包装紙にくるまれた一体があった。
バターだ。
生き物ですらない、名前からして冗談みたいなそのアバターは、以前から見かけていた。この姿をしていれば、どこの誰かなど、興味を持たれることはないだろう。
僕はそれを選んだ。
鏡の中で、彼女が消える。読み込みの数秒ののち、同じ場所に人間大のバターが立っていた。
それに僕と結びつく要素はない。表情はただ、笑っているだけ。針金の先の小さな手を、開いて、閉じた。
悪くない。
これなら誰も、僕を見つけられない。
頭の上を見なければ。
ネームプレートは、変わらずそこに表示される。相手がユーザーインターフェースをいじらない限りは、消すことができない。この世界の仕様だ。
ひとまずはこれでいい。
ウラタロという名前を、捨ててしまおうかとも考えた。けれども突然いなくなってしまうのは、これまで縁を繋いでくれた人々に対する不義理に感じて、やめた。
突然いなくなられる悲しみは、痛いほどよく知っているから。
代わりに、ステータスをオレンジにした。
ウラタロに会いに来る人間がいなくなるように。
誰にも見つからない場所にいれば、安らぎだけは守れると、信じていた。
◇
この世界でバターの姿をとるようになり、半年が過ぎた。
僕はまだVRChatにいる。週に一度か二度、仕事が早く終わった夜にログインして、人の少ないワールドを選ぶ。行き先はいつも適当だ。隅のほうに座って、周囲の話を聞いて、何も言わずにログアウトする。
声はほとんど出さない。出せば、誰かが頭の上を見るかもしれない。
バターは楽だった。この姿を着ている人は他に何人もいて、みんな同じ顔をしている。誰が僕を見ても、そこにいるのはバターであって、僕ではない。
半年の間、僕に声をかけた人はいなかった。
当たり前だ。話しかけたくなるような姿ではない。冗談みたいなアバターで、隅で黙って座っている人間に、用のある人はいない。
それでよかった。孤独を選んだのは僕自身だ。
トワが最後にログインした日が、遠ざかっていく。
その夜も、人の少ないインスタンスに入った。
素朴な造りの、夜の公園のワールドだった。生け垣に囲まれ、遊具と、街灯が一本立っている。三人いて、みんな別々の場所にいた。
僕は街灯の近くの椅子に座った。
座って、光を見ていた。暖色の明かりが、呼吸するように大きくなったり小さくなったりする。微妙な変化だが、不思議と見飽きなかった。
どのくらいそうしていたか分からない。
そろそろ移動しようかと腰を浮かせたとき、砂を踏む足音がした。
街灯とは反対の方向に、人影が立っていた。若い男性のアバターで、見覚えはなかった。ネームプレートを読もうとして、やめた。読めば、向こうも僕のを見る。
「こんばんは」
その人が言った。ボイスチェンジャーを噛ませている。
「こんばんは」
久しぶりに出した声は、掠れていた。ミュートにして咳払いをする。
その人は、隣にある椅子の端に手を掛け、迷うようなそぶりを見せたあと、言った。
「一人ですか」
僕は動けなかった。
その言葉を知っている。似た場所で幾度となく同じ言葉をかけてきた、あの日々を覚えている。
明かりの下にいた、あの子のことを。
「はい」
僕が答えると、彼はほっとしたように声をほころばせた。
「隣、いいですか」
「どうぞ」
小さな手を差し出した先で、彼が座る。端正なフルボディトラッキングが、彼のリラックスした姿勢を反映する。
「そのアバター、久しぶりに見ました」
しばらくして、彼が言った。聞き取りやすい話し方だ。
「よく着てる人、いるでしょう」
「いますね。でも、ちゃんと座ってる人は初めてです」
僕も、つられて笑った。笑ってもよかったのだと気づいた。
二人並んで話すのは、このワールドのことだ。手の込んだワールドが増えたが、ボクセルでできた場所は過ごしやすいこと。ここは見た目の他に音に凝っていて、虫の鳴き声や足音がするところが気に入っていること。
イベントの話も、お互い何をしているのかという話もしなかった。聞かれたら答えようかとも思っていたが、彼は一度も触れなかった。僕も聞かなかった。話をするのは心地よく、訪れた沈黙さえ苦ではなかった。
「最近、何かありました?」
彼が、こちらに顔を向けて尋ねた。世間話の常套句だが、僕はその質問に素直に答えた。
「本を、一冊読み終えました」
表紙に少女が描かれた文庫本は、栞を抜かれ本棚に収まっている。トワと話す機会がなくなってそのままにしていたものを、先月掃除のついでに取り出して、一気に読んだ。今この瞬間まで、誰にも話さずにいた。
「どんな本ですか」
僕は彼の反応を見ながらあらすじを話し、気に入った場面について語った。なぜその場面を気に入ったかを説明するうちに、昔聴いた音楽の話になり、学生の頃の思い出に繋がった。
順番はめちゃくちゃだった。
途中で、これは僕の話だ、と気づいた。本の話に見せかけて、自分の話をしている。仕事のこと、疲れていること、長く続けたものを終わらせたこと。固有名詞は一度も出さなかったのに、全部打ち明けていた。
彼は一度も遮らなかった。正確に相づちを打ち、的確に質問を挟んだ。それが技術だと分かっていても、会話から抜け出せなかった。
四年間、僕は弱音を吐かなかった。吐いたら他の人が背負ってしまうからだ。そうして、誰にも何も渡さないまま、全部一人で抱えていた。
抱えていたものは、案外、大したものではなかった。
言葉にすると、ずいぶん短い。
僕はこの人に何も返していない。この人も、僕から何も受け取っていない。
それでも、この時間は成り立っている。
そんなの、ずっと続くわけない。
トワの声が、耳の奥で鳴る。
続かなくていいのだと、僕は答えた。
話し終えたとき、どのくらい経っていたかは分からない。
おそらく、二十分くらいだったと思う。
「すみません、長々と」
「いえ」
彼は長い髪を揺らして首を振った。
「面白かったです」
僕は彼をまっすぐに見つめる。街灯の光が、彼の輪郭を縁取っていた。
「そろそろ落ちます」
座ったときと同じ滑らかさで、彼は立ち上がる。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。また聞かせてください」
言ってから、自分の発言のおかしさに気づいた。話していたのは僕のほうだ。
彼は黙ったまま、深く頭を下げた。
そのとき、見慣れた色が光彩を放った。
公園を横切っていく彼を、呼び止めようとして、僕は口を開いた。