壁際がいちばん効率がいい、というのは店で覚えたことだ。
自分から輪に入る労力が要らず、それでいて放っておかれることもない。こういう場所には必ず、一人でいる客に声をかけて回る人間がいる。待っていれば向こうから来る。声をかけてもらったという形から始めれば、こちらが下手に出る手間も省ける。
指名の付かない日、僕はいつも壁際にいた。ここでも同じことをするだけだ。
ワールドは、思っていたよりも静かだった。
動画ではもっと派手な場所に見えたのに、実際は照明が落としてあり、客もスタッフも声を張らない。低い音楽と、あちこちの会話が混ざって、アーチ型の天井に吸い込まれていく。ランタンの下に立つ僕の足元に、暖色の光が溜まっていた。
金を持っていそうなのはどれだろう、と僕は視線を動かす。改変されたアバターを着ている人。装飾の多い人。誰かに囲まれている人。目星をつけ、声をかける順番を組み立てる。
あのとき誰にも見つからなければ、僕はたぶん、予定どおりのことをしていただろう。
「こんばんは」
声をかけてきたのは、黒いワンピースの女性アバターだった。
袖口と襟が白く、頭には澄んだ青色の髪飾りを付けている。特別に手の込んだ改変には見えない。ただその青色が、暗い店内で一瞬僕の意識を縫い止めた。
「お一人ですか」
「はい。初めて来ました」
「ようこそ。ゆっくりしていってくださいね」
僕は口を開く。ここからは手順がある。相手を褒め、自分を小さく見せ、相手に喋らせる。喋った分だけ人はその相手を好きになる、というのが店で教わったことだった。
「すごく綺麗なワールドですね。細かいところまで作り込まれていて」
「ありがとうございます。作ったスタッフが聞いたら喜びます」
「僕、こういう雰囲気大好きです。その方がデザインされたんですか?」
「デザインをしたのはオーナーですね。世界観をお客様とスタッフに共有して思い思いに過ごしてもらう。ここはそういうコンセプトのイベントです」
僕の目論見は外れた。彼はずっと、別の人間を褒め続けている。彼の欲しいものが分からない限り、付け入る隙がない。
僕は角度を変えて質問した。
「オーナーさんって、どういう方なんですか」
「僕です」
言われて、初めてその人の名前を見た。ウラタロ、と表示されている。
目の前にいるのがオーナーだと分かれば話は早い。金も人望も彼にはすでにある。それでは、自ら彼がインスタンスを回っているのは、承認がほしいからだ。そこを突けばいい。
「そうなんですか! オーナーさんとお話しできるなんて光栄です」
「いえいえ、僕は何もしていません」
「またまた、イベントをデザインされて、こうして僕にも声を掛けてくれたじゃないですか」
「たまたま今日はそういう日なんですよ。普段は、あそこ」
そう言って、彼は白い指でカーテンの掛かった一室を指す。
「バックヤードから、皆さんを見ています」
「どうしてそんなことをされているんですか?」
おそらく指示役をしているのだろう。あえて踏み込まず、シンプルな質問で攻めようとした。彼から語らせれば、頷いているだけで距離が縮まっていくはずだ。
ウラタロは照れくさそうに、しかし確かな響きで答える。
「他人が楽しそうにしているのを見るのが好きなんです」
続きを待った。しかし、ウラタロはそれ以上言わない。
「それだけですか?」
「はい。それだけです」
沈黙を埋めるように、彼は微笑んだ。
「昔からそうなんですよ。混ざるのが苦手でね。作ったり、教えたりするほうが向いてるんです」
ここまで来ても、彼に取り入る手がかりさえつかめない。
天然なのか、わざとなのか、分からなかった。欲しがっているものの見えない相手からは、何も奪えない。少なくとも、僕はそこで、この夜の予定が崩れたことを理解した。
「あなたは?」
「え」
ウラタロに問われ、素の声が出る。
「お仕事、されてるんですか。学生さんかな」
用意していた嘘を話すつもりが、僕は少しだけ本当のことを言ってしまう。
「……夜に、接客の仕事をしています」
「そうなんですか」
彼の声は変わらなかった。驚きも下世話な興味も、同情さえ感じられない。
「大変でしょう」
「まあ、はい」
「僕も営業なんですよ。同じではないけど、喋って売る仕事という意味では、少し近いのかな」
不意に、青い瞳がこちらを向いた。
「さっきの褒め方、上手かったですよ」
呼吸が止まる。見抜かれていた。穏やかな口調だったとしても、僕の体は恐れに強ばる。優しいふりをして近づいてくる人間が、多すぎた。
「……怒らないんですか」
「どうして?」
「いや」
僕が口を噤んだのも気にしない様子で、ウラタロが言う。温もりの宿った声は、かすかに弾んでいた。
「上手な人に会うと嬉しいんですよ。僕も長くやってるので」
それから二十分ほど、僕はほとんど一方的に喋っていた。
何を話したのか、はっきりとは覚えていない。高校を辞めた理由、店のこと、家のこと。全部を話すことはできず、順番はめちゃくちゃだった。こんなに長く自分の話をしたのは初めてだった。
ウラタロは僕の話を一度も遮らなかった。正確に相づちを打ち、的確に質問を挟んだ。それが技術だと分かっていても、会話から抜け出せなかった。
「僕、たぶん来月にはいなくなってると思うんですけど」
最後にそう言ったのは、試したのだと思う。
こういうことを言われた人間がどうするかを、僕は知っている。慌てるか、諭すか、聞かなかったことにするかだ。
ウラタロは、少し黙った。
「次の開催、第四土曜なんです」
そして、何でもないことのように続けた。
「夜のお仕事だと土曜は厳しいですよね。次から、閉める時間を遅くしておきます。上がってからでも間に合うと思うので」
僕は返事ができなかった。
「来られたら来てください。無理ならまた今度で」
彼は、僕の言ったことに何も答えなかった。否定も肯定もせず、ただ僕のために、予定を変更すると約束した。
「お話、面白かったです。また聞かせてください」
微笑みを残して、イベントのオーナーは他の客のほうへ歩いていく。
僕は壁際に立ったまま、動けなかった。
ウラタロの髪にきらめく青色が、暗いフロアを横切っていく。
その夜、僕は誰からも何も取らずにログアウトした。
第四土曜、僕は再びノクティスラを訪れた。