殴られる痛みで目を覚ました。どこかでみたことのある顔に血反吐を吐くまでボコられて、土下座させられて奴隷になって、そこまでされてようやく思い出すなんて、だから俺は鈍いのだろう。
これを、運命の悪戯とでも呼ぶのだろうか。電車に轢かれて死んだと思ったら、12年前に戻ってるなんて。いや、分かってる。どうせ走馬灯だろう。夢なんだろう、これも。
でも、もしもがあるなら、神様がいるならって、何度も願ってた。俺を、俺の時間を、中学2年の九月よりも前に戻してくれって。俺の初めての彼女……佐竹仁香が死んだ、あの日より前に。
順風満帆だった俺の人生に突如として塗りつけられた泥。俺の最大の後悔で、人生が狂ったきっかけ。
12年前、九月。彼女は殺された。
死体は原型を留めてなくて、俺は死に顔を見ることすらできなかった。知らないうちに彼女は地獄で死んでいた。
葬式で佐竹の両親が泣いていて、「お前みたいな不良と付き合ってたせいで……っ!」と佐竹のお父さんに殴られた。お母さんは止めてくれて、「花垣くんも辛いのにごめんなさい」と逆に気を使われた。
「俺のせい」
その一言が頭からずっと頭から離れなかった。後悔ばかりで、苦しくて、友達に慰めてもらって……支えてもらってたのに。
俺は逃げた。中学卒業と同時に、全部放り投げて地元から逃げ出した。誰も俺のことを知らない場所に行きたかった。
1人で生きるようになって三年。逃げた先で再開したのが橘だった。佐竹の友達で、俺の二番目の彼女。19歳の時だった。彼女のいる大学に清掃員として派遣されたのが再会のきっかけ。
情けない俺を「あんなことがあったんだから」と慰めてくれた。優しくて、それに甘えて、俺はヒナを拠り所にした。「仕方なかった」を言い訳にして、彼女の家に転がり込んで。まあ、ヒモだった。働いてはいたけど、経済力なかったし。でも、本気で橘が好きだった。二番目の恋だったと思う。
それでも結局、俺は逃げたんだけど。俺のことが彼女の両親にバレて、父親に頭下げられたから別れた。彼女の父親が警察の人で、佐竹の事件を知ってたのも逃げる理由だったかもしれない。そんな彼女も、死んでしまった。今朝のニュースで死亡の報を聞いた瞬間、自分が疫病神だと理解した。
逃げて、逃げて、逃げて、逃げて。背中を押されて線路に落ちて。電車に轢かれて……多分、即死だろう。
だから俺は、これが走馬灯だと理解してる。それでもよかった。だって、ずっと会いたかった。会って、謝りたかった。抱きしめたかった。好きだって言いたくて、助けられなくてごめんと言いたくて。彼女を殺した奴らが許せなくて、それ以上に俺自身を許せなかった。
俺の腕の中で佐竹が笑ってる。この一瞬を見ることが、どれだけ遠いのか。
「ほんと、急にどうしたの?」
「なんでもない」
「何でもなくないでしょ。
今日の花垣、変だよ、絶対」
「ほんと、なんでもないから」
なんでもない。そう言いながら脳内に浮かぶのは佐竹の遺影。死体を見ることもできなかった、あの葬式の記憶。
「だから、もうちょっと、10秒でいいから。
このままで居させて」
「……はぁ、もう」
仕方ないなあ、って。微笑む君が「何秒でもいいよ」と言う。
幸せだと思った。ほんとに、心から。
そうだった、佐竹はこういう子だった。バカをやったら叱られて、喧嘩したら嗜められて、そのあと「仕方ないなあ」って頭を撫でる。
飴と鞭の使い方が上手いやつだった。あと、勉強教えるのうまかったっけ。
走るのが好きで、部活に一生懸命で。気が強そうに見えて実は内気で寂しがり屋で。
しっかりしてそうに見えて割と抜けている。たまに家まで迎えに行くと「いい加減に部屋片しなさい!!!」っておばさんの怒鳴り声が聞こえたっけ。
頼りになった。でもほっとけない子だった。強がってたのか恥ずかしがってたのか、帰り際に「また明日」って、小さく言う。小さなことだけど、彼女のそんなところが好きだったんだって、思い出した。
佐竹の家を出て、その近くの公園になんとなく入る。ブランコに腰掛けてぼーっとする。本当はこんなことしてる場合じゃない。俺が今やるべきなのは、なんだろうか。今のうちに、佐竹を殺した奴殺すべきか? あの、佐竹に惚れてたとかいう暴走族の不良。名前は知らないけど、同じ中学だったはずだから探せば見つかる。でも、殺した後は? 俺が人を殺したら、佐竹はどう思うんだろう。
「(どうすればいい。どうすれば、よかったんだよ……)」
暗い衝動と、佐竹の顔が浮かんでは消える。俺の人生がフラッシュバックして、いろんな光景が連続的に浮かんでは消える。最後に浮かんだのは、目の前に迫る電車の排障器……
「これで全部じゃねーーだろ!」
大きな声に、思わず顔を上る。よくあるカツアゲの光景だ。昔はよくあったけど最近じゃこういうの減ったよな。いや、見かける機会が減っただけか。とか、どうでもいいことを考える。そうしないと、あの棺の光景が頭から離れなかったから。
「……っ、はぁー」
……人が、涙を堪えて感傷に浸ったてると言うのに。
なんでわざわざ子供が恐喝される光景を見なきゃいけねーんだ。
俺をボコったやつとか、佐竹を殺したやつだとか、暴走族とか。いろんなもので苛立っていると言うのにうるさくてうざくてイラついて。気づけば俺はそこら辺に転がってた瓶を手に取っていた。
「うっせぇんだよボケェェェエ!!」
殴って、割った瓶向けた程度で逃げ出したカツアゲ集団に小さく鼻を鳴らす。こんぐらいの脅しで引くなら最初からやるなよ。
「あ、ありがとうございます…」
久しく聞いてなかった言葉を聞いた。ありがとうなんて、前に言われたのはいつだったか。
なんかほっとけなくて、あれこれ言ってみる。「あーゆーのを相手にするとには度胸だ」とか、「殴られる覚悟をしろ」とか、「殺すつもりで立ち向かえ」とか。度胸とか、覚悟とか、俺の人生に足りないものばかり。
「オマエ……名前は?」
なんとなく名前を聞いてみたら、「橘直人」と返ってきて、思わず声が裏返る。
早く言えといったが、今の俺は橘と顔見知りぐらいだった。橘と本格的に関わるのは19の時。佐竹の時みたいになるのが嫌で、傷つく前に逃げた。でも、その橘も死んで……。
「っ!」
そうだ、佐竹だけじゃない。橘もだ。橘も、12年後に死んでしまう。今目の前にいる橘直人と一緒に、東京卍會の抗争に巻き込まれて死ぬのだ。
なんで忘れてたのだろう。佐竹だけじゃないのだ、俺の彼女は。守らなくては。2人とも。
……いや、何考えてるんだよ。最低だな、俺。
「なー、直人」
「はい?」
「姉ちゃん好きか?」
「え!?」
驚いた顔で俺を見る。それからつま先に視線をおとして「嫌いですよ」と直人は言った。
「嫌いですよ、自分の姉ちゃん好きな奴いませんよ」
「……そっか、そーだよな」
そりゃそうか。中学生だ。そんな時期に自分の姉が好きなんて言ったらシスコン呼ばわりされてずっと揶揄われる。
「姉ちゃん、大事にしろよ」
「え?」
「俺はオマエの姉ちゃん大好きなんだ……いや、違う。佐竹と同じぐらい好き」
「はあ……?」
橘を好きだと言った時、脳内の佐竹がすごい悲しそうな顔して唇を噛んでたもんで、言い訳みたいに追加する。いや、脳内の佐竹ってなんだって話なんだけど。
「俺さ、本気で辛いことあって逃げまくってた時、オマエの姉ちゃんに助けられたんだ」
「?」
あたまにクエスチョンマークを浮かべる直人に、思わず笑う。なんか、誰かに話したかったのかもしれない。
「ぶっ飛んだ話だけどよ……」
そう、前置きを置いて言いたいことを全部話す。意外なことに直人はそういう、オカルト的なやつに詳しいみたいで「タイムリープですか?」と俺に起きた現象の名を当てたり、突拍子もない話を信じた。
そして、直人と握手をして_______
「気が付いたか!!?」
目の前にいたとは駅員。俺はベットで寝ていた。死んだかと思ってたら無傷で生きてて、そして……
「僕に協力してください。君なら姉さんたちを救える!!」
2017年7月4日。俺の人生のリベンジはこの日から始まった。
「佐竹仁香を救いつつ、姉さんも救う。君は同時に2つのミッションを行わなければなりません」
直人はぶっ飛んでる。
「姉さんと佐竹さん。2人の死には両方東京卍會が関係してる。」
相当、ぶっ飛んでる。
「つまり、君がすべきことは東京卍會についての情報をひたすら詰めこむこと」
「……おう」
眠い。ひたすらに眠い。もう二日も監禁されてる。飯食う時間も寝る時間もなくひたすら暗記、暗記、暗記。一回寝かせてくれと頼んだが「まだそれ覚えてないですよね?」と凄まれて「ハイ」としかいえなかった。たまにの仮眠も三時間で叩き起こされる。眠い。
直人が言ってることは正しい、だけど眠い。頭が回らない。一周回って効率落ちてんじゃねーの?
「姉さんはともかく佐竹さんは時間がない。ぐずぐずしてる暇はありませんよ」
「そういや、ナオトは佐竹のこと知ってんの?」
「ええ、彼女は姉と仲が良かったので。たまにうちで勉強会してたんですよ。僕もたまに混ぜてもらってました。」
佐竹さんには随分よくしてもらいました。そう、俺の顔を見ずにいう直人……なんだこいつ。
「なので、僕とタケミチくんの思いは一致してます。……佐竹さんが大好きな彼氏が武道くんだったとは思いもしませんでしたが」
「まさか、直人、オマエ……」
ぼそりと、後半を小声かつ早口で言った直人に胡乱な眼差しを向ける。まだあらぬところを向いている直人が眠気覚ましのコーヒーを啜った。
「なんですか、悪いですか?
正直僕はいまだに事実を受け止められてないんですよ」
遠い目をする直人。「まさか初恋?」なんてふざけてた聞いたら沈黙が返ってくる。まじか、初恋だったのか。なんかごめん。
「謝らないでください。余計に惨めになります」
「えぇ…」
どん!とデスクに資料が増えた。八つ当たりだろコレ。
***
「言っときますけどね、タケミチくん。うちの姉さんと付き合うなら佐竹さんと別れてからにしてくださいよ。二股とか最低ですから」
「しねーよンなコト!!」
ようやく直人から合格もらえて、いざ!と言うときに釘を刺された。直人は俺をなんだと思ってんだ。
たしかに佐竹のことも橘ことも好きだ。好きに差をつけることもできないぐらい、別のベクトルで。
が、それとこれとは別だろう。二股が最低なことぐらいわかってる。じとりと見つめられながら、差し出された手に手を向ける。
「……姉さんと佐竹さんをお願いします、タケミチくん。」
「ああ、絶対ェー助ける!」
ぐ、と手を握った瞬間、ドクンと雷に打たれたような衝撃を感じる。視界が暗くなって、目の前にいたのは不良っぽい中学生。
「は? え?」
しかもなんか囲まれてる。野次もうるせえ。何この状況? 直人は? てかこいつ誰?
「行くぞオラァァァ!」
状況把握もままならないまま頬にいいのがキマッて、暗転。
「はっ!」
……殴られて気絶してたのか? 頭が痛い。地面に寝転がりながら辺りを見回す。あれだけいた人はもういなくて、数人残ってるだけ。
「オーイ、花垣起きたぞー」
「テメー、ワンパンでのされてんじゃねーよボケ」
タバコを吹かした奴が俺に近づいてくる。試合がどうとか言っている。試合? 試合ってなんだっけ……?
「なぁ? キヨマサ」
パラパラ、紙を捲る音がする。後ろに誰かいる。首だけ動かして、音の方を見た。
「!」
そうだ、思い出した。こいつだ。
額に傷、渋谷三中のトップ____清水将貴‼︎
「そうだな」
とても中学生には見えない男がゆっくり立ち上がり、ズカズカと近付いてくる。
「ギャラリー集まんなくなったらこの喧嘩賭博も終わりだ」
髪をひっぱられて、無理やり顔を上げさせられる。タバコ臭い口臭に眉を顰めた。
「そんで、どうする」
「え?」
「お前の彼女。佐竹仁香だっけ?」
佐竹の名前に、体が凍る。ぶわりと、記憶が次から次へと蘇ってくる。固まる俺をよそに、キヨマサは話を続ける。
「彼女と別れんなら奴隷解放。別れねーなら奴隷でファイター。最初からそういう条件だったろ」
「!!」
そうだ、そうだった。思い出してきた。
ここは喧嘩賭博の会場。俺はこいつらの奴隷だった。中2の夏、俺は同中の不良に目をつけられてシメられた。目をつけられた理由は俺が佐竹と付き合ってたから。佐竹に惚れたソイツは手っ取り早く破局させようと俺に目をつけた。
そうだよ、なんで忘れてたんだ。
知らねーヤツにいきなり「別れろ」とか言われて、「気に食わねェ」とか言われて呼び出され。まあ、佐竹可愛いしなとか。「そんな可愛いカノジョと付き合ってる俺」みたいな、優越感とか持ってて。「ケジメをつけに行く」とカッコつけて1人で向かって、大人数でシメられた。
ボコボコになった俺は誰か……いや、キヨマサくんに引き渡され、それからはずっと
溝中の仲間はみんな俺を助けようとしてくれたけど、東卍の連中にフクロにされて負けた。仲間を道連れにした奴隷生活。
佐竹と別れれば解放してやると言われたのに、別れなかったのはただの我儘。佐竹が大好きだったから、別れるのは嫌だった。
俺のせいで仲間を巻き込んだのに、「俺たちのことは気にすんな」とみんなは背を叩いてくれた。だれも俺を責めなかった。
耐えて耐えて_____俺が知らないうちに
部活帰りに攫われて、マワされたらしい。佐竹が攫わたという事件当日、いつもより念入りにボコられたのをなんとなく覚えてる。
九月とはいえ暗い夜道を1人で帰らせたから。ファイターになってたから時間がなくてとか、俺の事情に巻き込みたくなくてとか、そんなん全部言い訳だ。
俺が彼女を家に送るのを辞めなければ、今も佐竹は生きてたかもしれない。そもそも、最初にボコられた日に別れてれば、強姦なんてことにはならなかったかもしれないのに。
手のひらで土を握る。ぐらぐらと、腹の底で煮えたぎる憎悪。そんな俺には目もくれず、
「キヨマサくん、コイツの女に気があんの?」
「いや、俺のイトコが惚れてるらしいんだわ。ホラ、この女」
「ケッコーイケてんじゃん。
ほんとにコイツのカノジョ?」
「マジ?」
「!」
……キヨマサくんのイトコ。きっとソイツだ、佐竹殺してネンショー行った犯人。燃え盛った復讐の炎が殺意に転じる。
「(……今、ソイツを殺せば)」
いや、違う。そうじゃねぇ。殺しはダメだ。一瞬考えた暗い衝動は見なかったことにして、キヨマサを睨む。
「で、どーする?」
「……別れねぇ」
舌打ち。俺に唾を吐き付けた男は「だってよ、キヨマサ」と振り向きざまにそう言った。
「……とりあえずそのカスにヤキいれとけ」
「おう」
「ゔっ!」
間髪も入れず腹を蹴り上げられて、中身を吐く。汚ねえと言って頭を踏み潰された。触りたくないのか、殴るより蹴る方向に暴行がシフトして、四方八方から寄ってたかって蹴り付けられる。
痛い、苦しい。早く終われと願って……だから逃げたんだ。こんな生活を一生続けるのかと、奴隷のまま、言いなりのままの人生なんて嫌だと、だから俺はーーっ!
過去の……今となっては未来の記憶がフラッシュバックする。強烈なトラウマとなったアレコレが連続的に浮かんできて、現状と重なり強烈な恐怖となって俺を襲う。
「(いやだ、もうあんなのは嫌だ! 逃げたい、逃げたい、逃げたいっ!)」
解放されたくて、逃避に思考が揺れる。葬式の映像と、佐竹の両親。見たこともない佐竹の死に顔が頭に浮かぶ。
……だめだ。逃げちゃダメだ。あの死に様をもう一度? 冗談じゃない。
「(なんで、あいつらが死ななきゃダメなんだ)」
なんで俺みたいな社会のゴミじゃなくて、あいつらが死ぬんだ。ふざけんな、そんな世界は認めない。
佐竹も救って、橘を救う。俺が逃げたら誰があいつらを助けられるんだ。痛みに呻きながら、ありったけの勇気を振り絞って体を動かす。
そして、俺は去っていくキヨマサくんの背に声をかける。
「あの……っ!」
数分後、俺はバットで殴られていた。佐野万次郎について聞いただけで。それだけの理由で。
頭が割れて、関節が外れたのか体が変な方向に曲がった。死んだと思った。殺されると思った。意識がとんでも痛みで起こされて、何度も繰り返して、気絶して、蹴り起こされて……心が折れた。
「次、テメーの口から佐野くんの名前が出てきたらわかってんな?」
心臓が軋む音が、確かに聞こえた。ベコりと金属がひしゃげるような音を立てながら、狂ったリズムで脈を刻む壊れた心臓。耳のすぐそばで鳴っている。胸の辺りに異物感があって、何かよくわからないものが迫り上がってくる。嘔吐感。俺は今、心臓を吐きそうになってるんじゃないか、と。そんなあり得ない妄想が脳を支配する。
ただ、ひたすら。俺は、俺の体は。恐怖というただ一つの感情に支配されていて、指一本動かすことなどできない。
キヨマサのイカれた顔が視界いっぱいに映る。人を殺すのも躊躇わない、薬物中毒者じみた表情。見たことないけれど、ラリったやつはこんな顔をしてるだろうと思わせる、そんな
「殺すぞ」
「___っ!」
体のあちこちが勝手に震え出して、呼吸が荒くなる。顎が痛い。歯がガチガチ音を立てる。全身痛くて仕方ないのに、俺は負け犬のように走ってた。外れた肩を無理やり戻したせいでめちゃくちゃ痛い。腕がだらりと下がって、でも足は勝手に逃げ惑う。
「(なんだよコイツ、なんだよコイツ!!
話になんねぇ!名前出したら殺すって、じゃあ会えねぇじゃん!こいつほんとに中学生かよ! )」
無理だ、会えるわけない。最初からできるわけなかったんだ、奴隷みたいな俺が東京卍會のトップに接触なんて!
意味もなく走って、行く当てもなく彷徨う。ここ、どこだよ。でも今はただ逃げ出したくて、走ることしかできない。
遠く、どこか遠くに行きたかった。希望なんて何一つない未来に戻りたかった。
全部諦めて、「俺には無理だった」とナオトに頭を下げれよう。アイツは怒るかもしれないけど、俺に過去を変えるなんて大それたことは無理なんだと土下座すれば「君に期待した僕がバカだった」とか言って、そしたら辛いのも痛いのも全部終わりにできるだろう。
走って、走って、走って、疲れて、口の中が血の味になって。それでも俺は止まりたくなかった。今止まったら、誰にだかわからないけれど見つかりそうで怖いんだ。犬みたいに舌を出して、洗い呼吸で前のめりで転がるように走る。
こんな走り方してるのを見られたら「なってないっ!」て言われてしまう。「腰ひけてるよ! 腕は前に降るんじゃなくて後ろに引くの!」って……あれ、コレ、誰に言われたんだっけ?
いや、違う。そうだ、思い出した。佐竹だ。
中1の、マラソン大会。アイツ、陸上部だから。「ダルいから大会サボる」って言った俺に「もったいない!」とかなんとか言って参加させたんだ。「ね、一緒に走ろうよ。入賞して一緒に表彰台のろ? 花垣ならやれるって」とか言って煽てられて、柄にもなく頑張ったんだっけ。結局表彰台は逃したけれどギリギリ入賞して、「体育会系のカノジョを持つと大変だな」とかいろんなやつに揶揄われた。けど、嫌な気分じゃなかった。
ゆっくりと走る速度が落ちていって、とろとろと歩く速度まで落としてから、ようやく足を止める。膝に手をついて、肩で呼吸……あ、コレやると痔になるんだっけ。昔のことすぎて忘れた。そう、忘れてたんだよ、俺。
「(俺だって、めちゃくちゃ怖えぇのに……)」
ああ、なんで。ずっと思い出さないようにしたのに。
「(佐竹は、どんだけ怖かったんだよ)」
囲まれて、殴られて、ズタボロにされて。
俺でもあんなに怖かったのに、女の子が。殴られたこともない普通の子が。しかも、殴られるだけじゃない。もっと酷いこともされて。そんなの、そんなの……
「怖かったに決まってんだろ……っ!」
ふざけんな、ふざけんなよ!
逃げるのか? 俺が逃げたら、同じ未来になる。佐竹も橘も死ぬ。でも、立ち向かえるのか? 俺が、アレに?
無理だ、勝てるわけねぇ。ふらふらと、邪魔にならないように道路の端に寄る。誰か知らない人ん家の、玄関前の階段に座り込んだ。
膝を抱えて、頭を膝に擦り付ける。座ったらどっと汗をかいて、服の中が気持ち悪い。怪我も相俟ってコンディション最悪。でも、家に帰る気力も湧かな___
「花垣?」
知ってる声に名を呼ばれ、反射で顔を上げた。今一番聞きたかった声で、聞きたくなかった声だ。聞こえた方向を見れば案の定。部活着の佐竹が立っている。
「何で……」
「何でって……そこ、私ん家」
ちょい、と。指さされた先を見る。昔、何度も訪れた佐竹の家がそこにあった。
「(佐竹のこと考えてたから、無意識で佐竹の家まで来てたのか)」
ぼうっと、玄関を見る。石の表札になんとなく気が引かれた。そういえば、未来で
ぼうっと突っ立ってた俺の頬に、柔らかいものが触れる。フェイスタオルだった。キャラクター物の可愛いやつ。「あ、ごめん、汗臭かった?」と尋ねる彼女に首を横に振る。
「……また喧嘩? すごい怪我だよ」
とりあえず、手当するから入って、と。家の中に通される。家には誰もいなかった。そういえば、共働きだって言ってた気がする。
「そこ、座ってて。救急箱もってくる」
「おう……」
言われるがままに席に座る。ダイニングテーブルに椅子が三つ。
「濡れタオルで体拭いてから消毒するけど、痛かったら言ってね。ホントは洗った方がいいんだけど、お風呂に1人で入れないでしょ」
腕折れてなくて良かったね。そう、しかたない子どもを見る母親のような目つきで佐竹が笑う。
「いって…」
「沁みるよって言ったじゃん。
背中にも湿布貼るけど……範囲広いな。ズボン脱がしていい?」
「いや、自分で脱ぐから!」
「そ? じゃあ脱いでからこっち来て」
佐竹に促されて、血と砂で汚れた服を浴室で脱ぐ。パンイチなのは流石に、と言ったら「お父さんのだけど」とジャージを渡される。リビングに戻ると佐竹が湿布を用意してて、「早く」と椅子を叩いて座るよう促される。
「……すごい怪我だね」
背中にヒヤリと冷たい感触。大判湿布のフィルムを剥がす音がやけに耳につく。
「……喧嘩、別に
でも、こんな大怪我するのはやめてほしい……心配する」
ぺたり。二枚目の湿布を貼りながら呟かれる。
「……なんで、心配すんの」
「はい?」
傷を見ていた佐竹が俺を目を覗き込んだ。内側まで見透かされるような灰色の瞳に、なぜかギクリとした。無言の追求を逃れたくて、口が回る。言わなくていいことまでペラペラ言ってしまって、「何言ってんだろ」と、どこか冷静な俺が自分の醜態を冷めた目で見てた。
「俺、全然いい彼氏じゃねーよ。
オマエのこと守れねーし、喧嘩も負けっぱなし。
……そもそも、オマエが好きな理由だって、佐竹が俺のこと好きだったからだし」
「……」
ぺたり。今度は頬の傷に絆創膏が貼られる。
「いざとなったらオマエ見捨てて1人で逃げるかもしんねぇ。
佐竹なら、俺よりいい
「花垣は逃げないよ」
言葉を遮って、まっすぐな目が俺を見る。灰色の瞳に見つめられると何もいえなくなって、俺は口を硬くつぐんだ。
「花垣は私を見捨てて逃げたりなんてしない。
そりゃ、花垣は喧嘩弱けりゃ頭も弱いし、いいとこあるなーって思ったらすぐチョーシ乗る。
デートに誘われたかと思ったらゲーセンかワック。まあ、私が部活ばっかで時間取れないのが悪いんだけど」
「あの、佐竹さん……?」
つらつらと並ぶ俺の悪口に顔が引き攣る。え、そんなこと思ってたの?と不安に駆られる一方で、「やっぱ別れた方がいいんじゃないか」という考えが頭をよぎる。
「でも」
真剣な眼差しが、ふ、と。柔らかく破顔して、歯に噛んで。眉間によってた皺がほどけてちょっとだけ目が細まる。赤い頬にどきりとして、変に唾を飲み込んだ。
「それでも、私は花垣が好き。
花垣、やる時はやる男だからね。約束は破らないし、守ると決めたら意地でも守る。私のこと送るために部活おわるまで待っててくれるし、大事にしてくれてるの、わかるよ。」
「そんなことで……」
「そんなこと、でいいんだよ」
盛大な惚気に俺のほうが熱くなる。気恥ずかしさを感じるのが申し訳なるぐらい、真剣に恋してる。
「まあ、つまり、なんというか。
馬鹿でかっこい花垣武道くんに、仁香ちゃんはベタ惚れなんです」
なんかすごいこと言ってるってようやくわかったのか「えへへ」と照れ笑いを浮かべて、茶化したように言った佐竹が綺麗で……。
「俺、仁香ちゃんのヒーローになれっかな」
「もうすでにヒーローなんだってば」
恥ずかしー、って手で顔を仰ぐ。俺もと右手で顔を仰いだ。
「というか今、名前呼んだ?」
「え、」
「仁香ちゃんって、聞こえた気がしたんですが」
「あ!」
数秒前の失言を思い出して、口籠る俺を見つめる佐竹。なんか座りが悪くて、佐竹の顔が見れない。
「いや、その、つられちゃって……」
「ふぅん……ま、私もちょっとふざけてたし」
すこし、俯いた佐竹の耳は真っ赤で。こんなことで、と思うと同時に、「まじで佐竹って俺のこと好きなんだよな」って嬉しくて。
数秒の静寂。気まずい沈黙を割いたのは「ねえ」と言う佐竹の甘い声。
「名前で呼んでよ、花垣。私も花垣のこと……その、武道って呼ぶから」
「わ、わかりました」
「ん、よろしい。コレからよろしく、武道」
語尾に、音符がつくような。嬉しそうに弾む声音。
「あ、ご飯食べてく?」とキッチンから顔を出した佐竹に「食べてく」と思わず答えた。
「カレーでもいい?」
「別になんでも……」
「じゃ、中辛にする。とりあえず着替えてくるから、はな……武道は座って待ってて」
慣れるみたいに、何回も俺の名前を呼ぶ佐竹。ああ、俺、やっぱ佐竹が……仁香が好きだ。こいつを守るためなら、俺はなんだってできる。
アイツはあんな死に方していい女じゃねぇ。
□□□
「タケミチ!」
翌日、廊下を歩いていたら声をかけられた。明るい茶髪のロン毛。久しく見ていなかった懐かしい顔が、記憶のままそこにある。
「何であんな奴に負けたんだよ!普段のオマエらしくねーじゃん!」
「タクヤ……」
昨日、を思い出して苦い顔になる。色々な意味で。言葉が見つからず口籠っていたら、扉の向こうのアッくんが顎をしゃくる。
「オーイ、みんな集まれー」
号令に頷き後ろをついていく。男子トイレに集合しまた顔はどれも懐かしいものばかり。山岸、マコト、アッくん、タクヤ。12年前に俺が捨ててしまった友達。
彼らにまつわるエピソードをひとつひとつ思い浮かべる。記憶の中のみんなは笑顔が多かったのに、今の顔は皆沈痛な面差しで脳がバグりそうになる。
「今日もやるってよ、喧嘩賭博。
キヨマサくんから連絡があった」
目が合わない。だれも、目を合わせられない。顔を上げられない。
「……今日のファイター、タクヤだってさ」
「え」と小さな声が上がって、わっと声量があがる。
「無理だよタクヤは!」
「喧嘩得意じゃねーし!」
「文句あんならキヨマサくんに言えよ! 出来んのかよ!?」
山岸とマコトが必死な顔で言い募って、アッくんが下を向きながら声を荒らげて答える。
そうだ、タクヤは体が弱かった。喧嘩賭博なんて絶対無理に決まってる。でも、キヨマサくんには逆らえない。意を唱えた山岸たちも押し黙って、静寂が場を支配する。
「……俺だって代われるなら代わってやりてーよ」
「……」
固く握った拳が震えてる。アッくんの気持ちが痛いほど伝わる。マコトも山岸も、みんな言葉を出さずとも気持ちは同じで……。
「ちょっと待った!!」
放課後、喧嘩賭博の会場。ギャラリーの中から立ち上がって、声を上げる。一気に集まる視線に後悔したのは一瞬。逃げたくて、足がすくむ。理不尽すぎる暴力の日々が脳裏をよぎる。
『花垣は逃げないよ』
思い浮かべるのは少女の顔。照れ笑いをして、綺麗な瞳で俺をみる彼女。
ああ、そうだ。俺は逃げない。もう、逃げたりなんかしない。
「毎回毎回似たような試合じゃつまんなくないっすか?
もっとおもしれーもんみたいっしょ」
「おもしれーもん?」
逃げるな、逃げるな逃げるな逃げるな逃げるな!
今逃げたら、俺は何も変わらない。ここで立ち向かわなければ、俺は一生負け犬だ。
葬儀場の記憶がかわるがわる目の前を過ぎる。「オマエのせいで」「なんでこの子が」ウルセェ、そんなの俺が一番わかってる。
だから、変えるんだよ!
「そう、たとえば……」
唾を飲み込む。震えを誤魔化すために、精一杯笑ってやった。
「
俺が、キヨマサくんに勝てば。キヨマサくんのイトコが仁香を殺すこともない。仁香があんな死に方をする必要はない。
「俺とタイマン買ってくれよ、キヨマサ先輩」
仁香も助けるし、橘も助ける。だから、今ここでキヨマサを倒す。
俺は、もう逃げねぇ。