8月某日。
「おい」
違う場所、違う人、違う時間。同じなのはシチュエーション。あの時とは違ってよくわかんない工事現場に引き摺り込まれて。
「テメェら、誰の彼女に手ェ出してんだよ」
街頭と作業用ライトを浴びて。逆光で黒い影が落ちた花垣の顔。表情は伺えない。でも、その瞳の強さと輝きは変わらない。
「(ああ)」
私はまた、花垣武道に恋をした。
□□□
【2005.8/10】
《オンユアマーク、セット……》
パァン!
景気のいい空砲が高らかに響く。タータンに食い込む凸型のスパイク。団子集団から抜け出して、まだらな先頭集団に混ざる。先頭の選手をペースメーカーにしてその後ろにつく。いつもよりペースが早い。荒む呼吸と痛む心臓。鼻で呼吸するのを意識して無理やり息を整えて、重たい足を振り上げた。無意識に力む腕の力を抜いて、軽く揺する。
苦しくて仕方がなかった。ペースを落としたくてたまらない。けれど私の後ろにピッタリとつく足音があって、それに焦ってもっと早くと足を動かす。
銭湯と距離が開いてきた。カランカランとベルの音。残りは一周、四百メートル。先頭の選手は私よりも五メートルは前にいる。
いやだ、負けたくない。呼吸はいつのまにか口呼吸になっていた。飲み込んだ唾が血の味だ。
体が鉛のように重い。これ以上は無理だと心が弱音を上げるたび、意地で弱音をねじ伏せた。
そうやって、無理やり体を追い立てていたら何故か体が軽くなる。前しか見えない。呼吸もしやすくなって、視界はぐっと狭くなる。とにかく、前の人を抜かすことしか考えられなくて。
ラスト二百メートル。だんだんとペースが落ちていく先頭集団。ひとり、ふたり、さんにん。追い抜いて、追い抜かされたくなくて腹に力を入れた。
パァン!
私がゴールする前に響く空砲。それが死ぬほど悔しくて、それでもと私は走る。
「(ああ)」
それでも、メダルには届かない。2分25秒。標準記録を下回るそれが、二回目の都大会の成果だ。
***
「おつかれ、仁香」
差し出されたタオルは私のもので。膝に顔を埋めたまま、私はそれを受け取る。タオルで顔を拭った。汗なのか、他の何かなのか、わからない液体でぐちゃぐちゃになる。
「自己ベスト更新したじゃん。
「うん」
そうだね、ということすらできない。悔しい。どうしても勝ちたかった。私は二回目だから、一回目にできなかった記録更新という成果を上げたかった。でも、できない。届かなかった。彼女たちは正真正銘一回目の都大会で、私は二回目。ズルをしてるのに、それでも私は負けてしまった。
「グループ内では5位だったし。すごいじゃん!
来年頑張ろう、ね?」
「うん」
気を遣われてる。それが余計に情けなくて、私は膝に額を擦り付ける。
「いい加減、顔あげなよ」
首を振る。ため息が聞こえた。
「……いいじゃん、仁香は。都大会でれて。私は地区予選敗退だし」
「……」
「いい加減うざいよ、片付けだって代わってもらってるんだからメソメソすんのやめてよ」
「……ごめん」
「ん」
楓に腕を引っ張り上げられて、立つ。足に力が入らなくてよろけた。
「はい、ポカリ。これ飲んで落ち着きな」
「ありがと」
キャップが緩んだポカリはまだ冷たくて、まだ熱い目を冷やした。蝉がうるさい、8月の夕方。
満員電車に揺られること数十分。帰宅ラッシュに巻き込まれた中学生のエナメルバックに大人たちの嫌な視線が刺さる。タイトスカートのお姉さんが私の腕のすぐ近くにいて、揺れるたびに微妙にぶつかる。それを痴漢と間違えたのかとんでもなく睨まれ、中学生の女子だと気づいて気まずそうに視線をずらす。渋谷駅に着いて解散して、ようやく1人になって。すると、言語化にできない「どうしようもないきもち」になって。
「仁香」
ふと、呼ばれた名前に振り返る。きんきらの、目に優しくない痛んだ髪色になぜだかひどく泣きたくなった。
「お疲れ、家まで送るよ」
「武道……」
すん、と鼻を啜る。赤い目元を指摘しない、花垣の優しさが嬉しくて。街頭で明るい道を並んで歩く。ひたすら静かだった。渋谷の街に似つかぬ静寂は時の流れを遅くさせているようで。花垣を横目に見る。何か言おうとしてるのだろう、言葉を出そうと口を開いてはやっぱりやめて、口をぱくぱく開閉して、ぐるんと顔ごと脇にそらす。
花垣に私を笑わそうとか、そういう意図はないのだろうけど、面白おかしい仕草に思わず吹き出してしまう。
「……試合、負けちゃった」
するりと。思ったよりもすんなり出てきた言葉。「あ、と、えっと、」と何を言おうか視線を彷徨わせる花垣に「2分25秒、自己ベスト更新だよ」と微笑んだ。
「す、すごいじゃん!」
青い目が、キラキラ瞬く。星が目の前に現れたのかと思った。ピカピカの青い目に私を映して、大きく口を開けて、全身で「すごい!」と言ってるみたいで。
「うん、地区予選より10秒早い。まあ、元々一年の標準記録ギリギリだったから、予想はついてたけどね」
「でも! ほんとすごいって!」
ぎゅ、と流れで手を握られる。両手を包み込む花垣の手は私より大きくて、手のひらの厚さがダイレクトに伝わる。ドキドキと心臓が跳ねる。
でもそんなことには一切気づいてませんっ!ていう顔で、花垣が晴れやかに笑う。
「仁香、マジですげぇよ。おめでとう、頑張ったな」
ポロリと、思わず涙がこぼれた。「あれ?」と指先を目元に当てる。ポロポロ涙がこぼれ落ちて、止まらない。
「おかしいな、なんで」
「仁香」
ぎゅう、と抱きしめられる。誰が見てるんだかわかったもんじゃない道端で、胸が痛くなるほど熱烈に抱きしめるから。私も思わず、花垣の背中に手を回してしまう。
「お疲れ様、仁香」
「……うん」
走っている時のような気分だ。夢中で走ってるときの、胸が苦しくて死にたくなるのに、どこまでも走っていけそうな時の、ランナーズハイになった時みたいな感覚だ。声援も、足音も、ベルの音も。全部置き去りにして1人夢中になってる時の、あの感覚に似ている。
花垣家の柔軟剤の匂いをいっぱいに吸い込んで、幸せと共に彼女の顔が浮かぶ。
「(ああ)」
湿ったTシャツに文句一つ言わずに。花垣はただ抱きしめていた。こんなどうしようもない私を、一心に。
私の幸福は、彼女の不幸と共にある。二週目の人生は死にたくなるほど甘美で、押しつぶされそうなほどに幸せだ。
「俺、走ってるときの仁香がすきだけど、笑ってる仁香が一番好きだ」
「……走ってる時なんてブスじゃん。見ないでよ」
「かっこいいじゃん」
ああ、なんて罪深い。
「……家、着いちゃった」
「そうだな」
花垣が名残惜しそうに私を見てる。私も離れがたくて、花垣の指に自分の指を未練がましく絡める。さすがに家の前でずっといちゃつくのは無理だ、恥ずかしい。親だって家の中にいる。
「じゃあ、また」
するり、と花垣の指が私の指の間をすり抜けてぬるい風が手のひらにあたる。
「ねえ!」
猫背気味の背中に声をかけたのはなんでだろう、寂しかったからかもしれない。振り返った花垣に、かける言葉なんて用意してなくて。何か言わなければとモゴモゴと唇を動かしながら呼び止めた口実を即席で作る。
「……明日は午前練だけなんだけどさ。午後遊びに行けたり、する?」
「す、する……」
のぼせたみたいな赤い顔。それが私のせいだと思うのは流石に思い上がりだろうか?
でも、そうだったらいい。私はこんなにも花垣に振り回されてるんだから、少しくらい振り回したっていいじゃないか。
バイバイ、と手を振って。それでも花垣は踵を返さない。
「なあ!」
「デート、いっぱいしよう! 一緒に帰ったりするだけじゃなくてさ、もっと、ずっと、この先さ、いろんなところで思い出作ってさ!
十二年後もずっと!」
「ちょ、何言ってんの急に!」
「何言ってんだろうな俺!」とか、声量デカめのぼやきを間に挟みながら、真っ赤な顔の花垣が叫ぶ。あんまり叫ぶもんだからご近所さんが窓からこちらを覗いてる。多分、うちの親も見てる。これではせっかく家の手前で別れた意味がないじゃん、なんて。心の中ではそう言って、熱くなる顔を両手で隠す。
「だから、何が言いたいかというと、佐竹が好きってことで。
今日の俺もだけど、明日の俺もめちゃくちゃ佐竹が好きなのは本当だから!」
「もーやめてよ!」
顔を隠して叫んだ。こんな道端で、なんでもない日に、今生の別れみたいなこと言い出すなんて何考えてるんだバカ。いや、わかってる。私が柄にもなく落ち込んでたから、なんか励まそうとしてくれたんだと思う。でも、これはあんまりだろう。
「ちゃんと聞けよ!」
「聞いてるよ!
私も大好きだよ、ばーーーか!」
もう、悔しいのとか情けないのとか、そういう気持ちは吹き飛んでいた。
花垣が隣にいて、私を好きだと言って、そして「頑張れ」と声をかけてくれる。そんな罪深い幸福の中で、私の感傷は些細なものだ。
今、この場で、「別れよう!」と言えたら。勢いに任せて「花垣はさ、ヒナと結婚するはずだったんだよ」といって、未来から来た私が君を略奪したんだって話したら。
多分、花垣は「未来の俺はそうだったかもしれないけど、今の俺は佐竹が好きだから」とか言ってくれるとおもう。絶対ダメだ。
ヒナへの罪悪感を昇華して、厚顔無恥に振る舞うことなんてできない。実際に言ってみないとどうなるかわからないのに、あれこれ理由をつけて先延ばしにする自分。
なんて、恥ずかしい人間なんだろう。
「そういえばさ、佐竹は夏休みの宿題やった?」
「あー、ほとんど終わってるよ。現代文だけ残ってるかな」
「読書感想文のやつだろ? 本一冊読んでこいって無茶だよな」
「……そうだね」
本当に、そうだ。現代文の宿題で一人一冊配られた夏目漱石の『こころ』を、読み進めることができない。
どう言う話で、どう言う結末を迎えて、どんな罪の話なのか、知っているから。
夏休みが終わって、新学期が始まる。私は結局休み期間中に文庫本のページを捲ることができなかった。
私は、逃げた。見たくないと遠ざけた。逃げたところでいつかは追い付かれるというのに。
「それでは、『奥さんは東京の人であった』から音読してもらいます。今日は9月2日だから出席番号2番の人から」
そんな教師の一言から、私の地獄は始まった。最初はまだよかった。でも段落ごとに読む人が変わっていって……5人目が読み始めたあたりで気分が悪くなってきて。
「ただ一つ私の記憶に残っている事がある。或ある時
脳裏に浮かぶ、二人の姿。ウエディングドレスを試着した日向に寄り添う照れ笑いの花垣。いつかの未来で、本当にあったこと。
「『新婚の夫婦のようだね』と先生がいった。
『仲が好よさそうですね』と私が答えた。」
もう、勘弁してほしい。私が悪かったから、許してほしい。
「君は恋をした事がありますか」
あります、先生。苦しいくらいの初恋を。
「恋をしたくはありませんか」
できるものなら、したくなかった。
「したくない事はないでしょう」
いいえ、先生。だって、恋には『していい人』と『してはいけない人』がいる。
「しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。解わかっていますか」
わかっているに、決まってるじゃないですか。
「……仁香ちゃん、大丈夫? 顔真っ青だよ」
ヒナが小声で私に囁く。相当ひどい顔をしていたのだろう。教師が「保健係の人、佐竹さんを保健室に連れていってあげて」と授業を中断してまでして言う。私は「一人で大丈夫なので」と勝手に立ち上がって、後ろのドアから廊下に出る。
階段を下り、保健室の扉を開く。誰もいない。デスクに利用記録をつけるバインダーだけ残されていて、具合が悪ければ勝手に休んでいいと部屋が語っていた。
私は、記録をつけずにベットに寝転ぶ。指一本動かしたくない。
【恋は罪悪ですよ。解わかっていますか】
頭で言葉がぐるぐる回る。ねえ、
あなたの罪を知ってるから、私は余計にそう思う。
「私は、最低だ」
何度も何度も繰り返した自己否定が、憎悪を超えて悲嘆になる。左手で両目を多い、右手で額を抑える。赤子のように足を曲げて、布団の中で横向きに丸まる。
タイムリープなんて、しなきゃ良かった。走馬灯だからって、余計な勇気を出すんじゃなかった。
私の罪は、恋を終わらせられなかったこと。恋を続けてしまったこと。その先を、願ってしまったこと。
夏目漱石が、先生が、こころが、私をひどく責め立てる。
「もう、死にたい……」
今、この状況が神様が私に与えた試練なのかもしれない。多分私は、ヒナと花垣の結婚式を見ても恋を捨てられないんだ。むしろより一層狂って、狂い果てて、犯罪史に名を残すような事件を起こしてしまうのだろう。
だから、神様はまだ取り返しのつく私に、過去の世界で恋を清算しろと言っているのかも。
「無理ですよ、そんなの」
たった一つの恋を諦める。もしくは忘れて、次の恋をする。そんなことができたら、こんな風になっていない。
「(……ああ、なるほど。だから「こころ」なのか)」
最後、先生がどうなるのか。どうしてそんな行動を取ったのか。私と同じ、罪悪の奴隷が行き着く結末。それを、神は私に求めているのだろうか。
「もう、死ぬしかないじゃん」
私の安寧は、もう現世に存在しない。