BLEACH Can't Satiate the Void 作:かにかまん
De profundis clamavi ad te, Domine; Domine, exaudi vocem meam.「主よ、深き淵より、われ汝を呼び給う。主よ、我が声を聞き入れ給え。」――『詩篇』第130編1-2節
白銀の血河
虚圏――そこは、生芒の光すら届かぬ寂滅の世界。
頭上に架かる月は、温もりを削ぎ落とされた氷の円盤のように冷たく輝き、どこまでも続く白銀の砂丘を蒼白く照らしている。
吹き抜ける風が静かに白砂を揺らし、地平線の彼方まで遮るもののない静寂が広がっていた。
生きとし生けるものの気配はなく、魂の破片すら乾いた砂粒へと還っていくような、死と孤独だけが満ちる荒野。
その静寂を薙ぎ払うかのように、白銀の砂の上には黒く濁った血と肉の痕跡が撒き散らされていた。
かつては名の知れた虚として幾多の魂魄を貪食したであろう異形の悪鬼が、原形を損なって砂の上に転がっている。
ある者は胸を穿たれ、ある者は内臓を天に曝している。
手脚を異様な方向へ折られ、あるいは頭部を半ば断ち切られた骸は数知れず、散らばる仮面の破片は月光を受けて虚ろに光っていた。
そこから漏れ出る霊子のもやは、屠殺場の樋を伝う血水のごとく砂の中へと静かに吸い込まれ、失われていく。
――そんな無数の骸の中に、ひとりの男が立っていた。
男の纏う衣は破れ、黒い装束を模した布地は粘ついた泥と干上がった血膏で重く黒ずんでいる。
右腕に握られた一振りの刀は、刃先から滴り落ちる黒赤の滴によって濡れており、男の足元に規則的な斑点を作っていた。
男の視線は、一切の揺らぎなく正面を見据えている。
その視線の先――数丈ほど離れた白砂の上に、異彩を放つ巨躯が佇んでいた。
見上げるような異形の巨躯。
その正体は、中級大虚と呼ばれる高位の虚であった。
無機質な白仮面の中央には、過去の惨劇を刻み込んだ不吉な赤き紋様が、消えぬ血の痕のように浮き彫りとなっている。
かつて流魂街の果てでひとりの少年を絶望の淵へ突き落とし、その希望を噛み砕いた化け物であった。
虚は、男の足元に転がる同胞たちの惨状を一瞥することすらなく、目の前に立つ男へ凄絶な殺気を向けた。
仮面孔の奥に宿る暗い光には、怯えの色など微塵も存在しない。
むしろ、男の全身を這う不快な傷痕――肉と肉が無理やりに縫い合わされ、異質な霊子同士が不揃いに結合した、まるで金属を溶接したかのような生々しい傷跡を見つめ、不気味な低音で嘲笑を漏らした。
「……死神の真似事か、壊れ物め。幾年かの時を経て、その身がどれほど歪もうとも、我が記憶からは消えぬ。あの時、我が足元で泥を舐め、友を喰われて泣き叫んでいた羽虫の成り果てよ。死に損ないの肉を異物の霊力で縫い合わせ、刀を振るうか。片腹痛い戯れだわ。」
虚の声は地鳴りのように響き、白砂を微かに震わせた。
言葉の一端に混ざる侮蔑混じりの生臭い息が、夜の冷気を汚していく。
だが、男の表情には何の波紋も生じなかった。
憤怒に顔を歪めることも、過去の恐怖に身を震わせることもない。男はただ、氷のごとく澄んだ瞳で虚を見つめ返していた。
その目には激情ではなく、どこか深く、底の知れぬ憐憫の光すら漂っている。
己の存在を脅かす脅威を見る目ではない。
己の過ちすら理解できぬ哀れな存在を、静かに見下ろすかのような眼差しであった。
虚はその視線を感じ取った瞬間、不快感に身を捩らせた。
羽虫と見下していた存在から向けられる、言葉なき憐れみ。それは虚の持つ歪んだ自尊心を、何よりも苛烈に傷つけた。
「……その目が気に食わぬ。」
低い唸り声と共に、巨大な足が地面を削り取り、白銀の砂煙が空中に舞い上がる。
虚独特の高速移動―響転によって巨体に似合わぬ無比の速度で威圧的な霊力の奔流を撒き散らしながら、鋼刃のごとき爪を振りかざして男へと襲いかかった。
男も静かに斬魄刀を低く身構え、地を蹴った。
互いの距離が一瞬で無となる。
流れるような一連の連動の中で、虚の太い腕から伸びる鋭利な爪が襲いかかると、男は握る鋼の刃を僅かに傾け、正面から受け止めることなくその軌道を滑らせて受け流す。
硬質な霊子同士が擦れ合い、火花が夜空を焦がした。
滑り落ちた爪が白砂丘を深く引き裂く。
その隙を突き、男は沈み込むような不規則な足さばきで間合いを詰め、刃先を虚の胸元へ向けて突き出す。
しかし、中級大虚の全身を覆う鋼皮は極めて堅固であった。刃先が仮面の胸部に接触した瞬間、硬質な手応えと共に進行が阻まれる。
男は即座に柄を押し込み、刃に自らの霊力を乗せて推力を増させたが、虚は力任せに腕を払い、男の刀を弾き飛ばした。
男は腕の振りに合わせて体を一回転させ、遠心力を利用して払いを受け流すと、今度は下段から弧を描く斬り上げを繰り出す。
爪と刃が交錯し、休む間もなく攻防が連続していく。
虚の振るう爪は掠めるだけで肉を切り裂き、新たな血を撒き散らさせた。
対する男の刃は、流れる大河のように淀みなく、寸分の狂いもなく虚の隙を的確に穿ち続ける。
凄まじい風切り音と共に虚の爪が男の肩口をかすめ、肉を削ぎ落とさんとする。
激痛を経てもなお、男の表情は変わらない。
返しの刀で関節の隙間へ刃を突き刺した。
「ぐぬぅっ」
鋼皮の薄い箇所を的確に捉えた一撃に虚は不快な声を漏らして後退する。
しかし、間髪容れず、虚は力任せの打撃から変幻自在の突刺へと攻撃を切り替えた。
数本の鋭利な爪が、幾多もの死線を潜り抜けてきたことを裏付けるような、卓越した精度で男の死点を襲う。
男は退くことなく、脚の運びに霊子を収束させて踏み込み、刀身を交差させながら全ての突きを擦り上げて弾き返した。
だが、地力の差は明白であった。
虚が全身の霊圧を爆発させ、両腕を重ねて力任せに振り下ろした瞬間、それを受け止めた男の全身に凄絶な重圧が押し寄せる。
脚が白砂の中に深く沈み込み、骨が軋む重い感触が体を駆け巡った。
力比べにおいて、巨躯を誇る虚に軍配が上がるのは自明であった。
男の足元が完全に崩れ、弾き飛ばされるようにして後方へと大きく距離を取らされた。
砂煙を巻き上げながら、男は低く滑り、数丈先で体勢を立て直した。 呼吸は荒く、膝をつきかける。
身体のあちこちから血が流れ落ち、白砂を赤く染めていた。
それを見た虚は、仮面の奥で高らかな嗤いを漏らした。
「やはり見掛け倒しか。死神の真似事を重ねたところで、貴様の根底にあるのは惨めな人間の弱さよ。我が鋼皮に傷一つつけられぬその鈍刀で、何が成せるというのだ。」
虚は悠然と歩みを進め、男との距離を詰めていく。その足音は、死の宣告のように重く響く。
「思い出せ、あの日の恐怖を! 貴様の目の前で、あの男がどのように骨を砕かれ、どのような声を上げて我の腹へと消えていったかを! 貴様は何も守れぬ。何も救えぬ。あの時と同じように、ここで我らが糧となるのが貴様の定めなのだ!」
過去を掘り返し、男の魂を失意と恐怖で塗りつぶそうとする虚の挑発。
その言葉が空間に溶け切った瞬間。
男の雰囲気が、唐突に一変した。
何かを起こしたわけではない。構えを変えたわけでも、霊圧を膨れ上がらせたわけでもない。
ただ、底の存在しない暗澹たる深淵が開いたかのような、不気味なほどの「無」が男を中心に広がった。
荒れていた呼吸が、音もなく止まる。
全身から溢れ出ていた血の勢いが失われ、傷口から漏れる不揃いな霊圧の揺らぎが、静水のごとき滑らかさで沈静化していく。
底がない。
感情の揺らぎも、生への執着も、死への恐怖すらも存在しない。
ただそこに「絶対的な無」として立ち尽くす異質な存在感。
あまりの変貌に、虚は一瞬、無意識のうちに後退りをした。
己の体感温度が急激に下がったかのような錯覚。白銀の砂上から風の音が消え、頭上に架かる満月の光すらも硬直したかのように思えた。
――刹那、世界が静寂へと沈み込んでいく。
男はゆっくりと、左足を一歩前へ踏み出した。
握る斬魄刀の刃先が、静かに地を指す。
その眼差しから憐れみすらも消え去り、ただ底知れぬ深淵だけが残されていた。
男の唇が、ゆっくりと開く。
「慄け――我が名は」