BLEACH Can't Satiate the Void 作:かにかまん
地獄の灯華
死後、多くの魂が流れ着く場所――尸魂界。
平和と安寧が約束されたはずの死後の世界は、あまりにも残酷なまでに切り分けられている。
貴族たちが豪奢な邸宅を構え、四季折々の美しい花々に彩られた瀞霊廷。飢えも乾きもなく、高潔で美しい死神たちが統制する安寧の都であった。
だが、その壮麗な壁の向こう側に広がる流魂街は、数字が増えるごとにその容貌を凶悪なものへと変えていく。
東・西・南・北。四方に配された街区は、一番から八十番までの数字によって区切られる。数字が増すほどに法の光は遠のき、暴力と狂気が支配する混沌の地へと落ちていく。
その最奥。南の最遠端に位置する、第八十区「艸尽(くさつき)」。
そこは、生きとし生けるものの生存を根底から拒絶する、呪われた荒野であった。
土は乾ききって亀裂が走り、かつて草木が生い茂っていたことなど微塵も感じさせない赤茶けた不毛の大地。
風が吹けば目を開けることすら叶わない砂塵が吹き荒れ、見上げる空は常に鉛色の雲に覆われている。
水は泥を含み、汚泥のように濁った僅かな溜まり水を奪い合って住人たちが殺し合う。
ここには秩序など存在しない。
あるのは「奪うか、奪われるか」、そして「生きるか、死ぬか」という極めて原始的で苛烈な法則だけであった。
「……ハッ……ガハッ……!」
赤茶けた土の上に、一人の少年が這いつくばっていた。
年格好は十代前半に見えるが、まともな食事など一度も摂ったことがないその体は骨が浮き出るほどに痩せこけ、肌は土汚れと乾いた血に塗れていた。
ボロボロの布きれを巻きつけただけの衣服からは、細すぎる手足が覗いている。
藤菜の頭の中では、絶え間なく激しい「頭痛」が渦巻いていた。
脳を内側から錆びた釘で殴りつけられているかのような、鈍く重い痛みが彼の意識を常に苛んでいる。
そして、それ以上に彼を苦しめているのが――激しい「空腹感」であった。
本来、流魂街の住人の多くは、霊力をほとんど持たないため、水さえあれば生きることができる。
食べ物を必要とするのは、体内に高い霊圧を秘めた「素養」を持つ者だけのはずだった。
しかし、彼には霊力を扱う術など何一つなかった。鬼道はおろか、霊圧を感じ取ることすら満足にできない。
それにもかかわらず、その胃袋はまるで底の抜けた桶のように、絶え間なく猛烈な飢餓感を訴え続けていた。
内臓が自らを絞り上げ、肉を内側から喰い破ろうとするかのような激痛に苛まれる。
「う、あ……ぐ……っ……」
喉からは掠れた呻き声しか漏れない。視界がグラグラと揺れ、視界の端が黒く霞んでいく。息を吸うたびに、乾いた砂が肺にへばりついて猛烈に咳き込んだ。
(痛い……頭が、割れそうだ……)
地面に突いた指先が、死に絶えた土を引っ掻き血が滲むが、そんな痛みすら腹の虫の鳴き声と頭痛の激しさに比べれば蚊に刺された程度のものでしかなかった。
このまま、誰にも気づかれず、この乾いた土の一部となって消えていくのだろうか。
此処では、そんな死は日常茶飯事だ。
朝に転がっていた死体が、夕方には他の飢えた者たちに、文字通り身ぐるみを剥ぎ取られ、夜には風化して骨すら残らない。
意識が遠のきかけた、その時だった。
「――おい! 藤菜! しっかりしろ、藤菜!!」
力強い声と共に、ぐっと肩を抱き上げられた。 薄開きの目で視界を持ち上げると、そこには見慣れた少年—甚吾の顔があった。
藤菜より幾分か背が高く、短い黒髪を短く刈り込んだ、精悍な顔立ちの少年。
この世の中において、唯一、藤菜が「兄貴分」と慕い、心を許している存在だった。
甚吾の表情には焦燥が滲んでいたが、その瞳には強い意志の光が宿っていた。
甚吾はこの地劣悪な環境にあっても、どこか他者を惹きつける力強さを持っていた。
何より、彼には微弱ながらも明らかな「霊圧」の素養があった。
体力を消耗すれば腹が減り、動くためには食べ物を必要とする。それは本来ならこの地において死を意味するハンデであったが、甚吾はその強い気概と腕っ節で、これまで何度も危機を乗り越えてきたのだ。
「甚……吾……」
「喋るな、無駄な体力を使うんじゃねえ。……くそっ、また頭痛か? 顔色が紙みたいに真っ白だぞ」
甚吾は自分の着物の袖をちぎり、溜まり水で濡らしてきた布で藤菜の汗まみれの額を優しく拭った。
その手つきには、粗野な見た目からは想像もつかないような深い慈愛が込められていた。
「ごめん……な……。また……足を、引っ張って……」
「バカ言え。お前が足を引っ張ったことなんて一度もねえよ。ただお前は……人一倍、食い意地が張ってるだけだ。なあに、すぐ良くなる」
甚吾はそう言ってニッと不敵に笑ってみせたが、その笑顔の裏に隠された不安を、藤菜は見逃さなかった。
藤菜の異常な空腹と頭痛は、日に日に悪化していた。
この数日、まともな食物など何一つ口にしていない。このままでは、藤菜の体力が限界を迎えるのは時間の問題だった。
「藤菜ちゃん……!」
もう一つの、鈴を転がすような繊細で清らかな声が響いた。
駆け寄ってきたのは、一人の少女だった。
砂埃に汚れた薄桃色の小袖を纏い、肩の下まで伸びた黒髪を後ろで結ねた少女。その肌は、この太陽の照りつける荒野にあって不思議なほど白く、透き通っていた。
そして何より、彼女の大きな瞳は、濁りきったこの世界の中で唯一、清流のような澄んだ光を叩えていた。
蓮華は藤菜の側にひざまずくと、躊躇することなくその小さな手で藤菜の痩せた手を包み込んだ。
「藤菜ちゃん、ごめんなさい……。私が、もっと早く力を使っていれば……!」
「蓮華……ダメだ……。お前、また……そんな力を使ったら……」
藤菜は振り絞るような声で止めようとした。だが、蓮華と呼ばた少女は首を横に振った。
「いいの。藤菜ちゃんが死んじゃうかもしれないに比べたら、こんなの全然平気だから!」
蓮華がすっと目を閉じ、集中するように深呼吸をする。 次の瞬間、藤菜の目にもはっきりと見えた。
彼女の小さな手足から、淡い、青白い光が揺らめき立ったのだ。
それは「回道」――本来であれば、長年の修行を積んだ死神だけが扱えるはずの、霊子を紡ぐ高等技術。 教えてくれる者など誰もいないこの最悪の流魂街において、蓮華は生まれながらにしてその才覚を有していた。
だが、蓮華の持つ力は、単なる回道の発動だけに留まらなかった。
彼女が光を帯びた手を、地面に置かれた小さな木箱にかざす。その箱の中には、甚吾がどこからか拾ってきた、干からびてカビの生えた僅かな「干し芋の欠片」が入っていた。
本来なら一口で終わるような、惨めな食べ物だ。
蓮華が光を強くしていくと、奇跡が起きた。
ぶわっ、と周囲の空気が心地よく揺れ、物質を取り巻く「霊子」が集まり始める。 カビが生え、乾燥しきっていた芋の欠片が、まるで時間を巻き戻すかのように瑞々しさを取り戻し、さらにはその大きさをぐんぐんと増していったのだ。
一個だった干し芋が、二個、三個――。 ふっくらとした、甘い匂いを漂わせる立派な芋へと「復元」され、「増殖」していく。
これこそが、蓮華という少女が持つ、流魂街の誰一人として持たない「特異な力」であった。
物質を元あった完全な状態へと戻し、さらにはその存在感を何倍にも増やしてみせる力。この荒涼とした艸尽において、水も食料もない絶望の中で、三人の中を今日まで繋ぎ止めてきたのは、他でもない蓮華のこの奇跡の力だった。
「……はい、藤菜ちゃん。食べて」
蓮華は額に大きな汗の粒を浮かべ、少し荒くなった息を整えながら、出来立てのように温かい芋を藤菜の口元へと差し出した。
「蓮華……」
「いいから、早く! 冷めちゃうよ」
差し出された芋から漂う匂いが、藤菜の鼻腔をくすぐる。 その瞬間、藤菜の腹の底で眠っていた「猛獣」が暴れ出した。
「あ……がっ……!」
藤菜は半ば無意識に、蓮華の差し出した芋に飛びついた。 ガツガツと、噛み砕く間すら惜しむように喰らいつく。喉に詰まりそうになりながらも、なりふり構わず胃袋へと流し込んでいく。
「おいおい、慌てるな藤菜。逃げやしねえよ。」
甚吾が苦笑しながら、溜まり水を汲んだひょうたんを差し出す。
藤菜はそれをひったくるように奪い、水と共に芋を胃に流し込んだ。
食べ物が胃に落ちると、全身を苛んでいた猛烈な激痛が、ほんの少しだけ和らぐのが分かった。
脳を刺すような頭痛も、波が引くように少しだけ遠のいていく。
「はぁ……はぁ……っ……」
食べた。確かに食べたのだ。 だが――藤菜の胸の奥には、拭い去れない「違和感」と「恐怖」が残っていた。
(足りない……)
これだけ大きな芋を二個も平らげたというのに、胃の奥にある底なしの穴は、まったく塞がっていない。
それどころか、食べ物を流し込んだことで、かえって「もっと寄こせ」と魂の深層が叫んでいるような、凄まじい渇望感が渦巻いていた。
「……ふう、助かったよ、蓮華。お前がいなきゃ、俺たちとっくに干からびて野晒しだったな」
甚吾は蓮華から手渡された芋を一口かじり、心底嬉しそうに微笑んだ。
「ううん。私だって、甚吾兄ちゃんや藤菜ちゃんが守ってくれるから生きられてるんだよ。お互い様だよ」
そう言って可愛らしく笑う蓮華の顔には、隠しきれない疲労の色が濃く出ていた。
物質の復元と増殖――それはあまりにも絶大な力であり、幼い蓮華の魂魄に膨大な負担を強いていた。力を一回使うたびに、彼女の霊圧は大きく削られ、顔からは血気が失われていくのだ。
「蓮華……ごめん。俺が……俺が、こんなに腹を減らさなきゃ、お前に無理をさせずに済むのに……」
藤菜は拳を握りしめ、自分の不甲斐なさに血が滲むほど唇を噛んだ。
「何言ってるの、藤菜ちゃん。私ね、この力があって良かったと思ってるんだよ?」
蓮華は藤菜の横に座り直し、自分の膝の上に頭を乗せるように促した。膝枕の温もりが、藤菜の疲弊した心身を優しく包み込む。
「この力があるから、私は藤菜ちゃんと甚吾兄ちゃんのお役に立てるんだもの。もし私に何もなかったら、きっと二人の足を引っ張るだけの泣き虫だったと思う。だからね、自分を責めないで」
「蓮華……」
「それにね」
蓮華は空を見上げた。鉛色の雲の隙間から、ほんの僅かだけ差し込む薄光を見つめながら、穏やかな声で呟いた。
「いつか……ここを出ようね。艸尽じゃなくて、もっと北の方の、緑がいっぱいで、お花がたくさん咲いてて、毎日お腹いっぱい美味しいものが食べられる場所に……三人で行こうね」
「……ああ。約束だ」
甚吾が強く頷いた。
「俺がもっと強くなって、お前ら二人を絶対にそこへ連れて行ってやる。どんなヤツが邪魔しようと、俺が全員ぶちのめしてやるからな」
甚吾の力強い言葉に、藤菜も小さく頷いた。
そうだ。この二人がいるから、自分はこの地獄のような艸尽でも生きていられるのだ。
人一倍腹が減る役立たずの自分を、甚吾は一度だって見捨てなかった。蓮華は自分の命を削るようにして食べ物を作り出し、微笑みかけてくれた。
この二人こそが、藤菜にとっての世界の全てであり、暗闇の中に灯る唯一の光だった。
だが――この時の藤菜は、まだ本当の地獄を知らなかった。 幸福な時間というものはあまりにも脆く、儚い砂の城でしかないことを。
これまでの日常がいかなる奇跡のもとに成り立っていたか、ということを。