四葉真夜について、公開されている情報は驚くほど少なかった。
四葉家の現当主。十師族の一角。魔法技能師開発第四研究所の血統を継ぎ、当代でも屈指の魔法師と目される人物。
分かったのは、その程度だ。
経歴も、交友関係も、これまで表立って参加した仕事も、ほとんど記録に残っていない。公職に就いている形跡さえなかった。
それなのに名前だけは知られている。
輪郭がないまま、巨大な影だけが横たわっているような不自然さだった。
榊原伊織は自宅の机で端末を眺めながら、検索条件を変えた。
《四葉家》
《四葉真夜》
《四葉 アンタッチャブル》
最後の語句を入力したところで、検索欄の下に小さな通知が現れた。
――この端末は青嶺医療研究センターの情報管理規程に基づき、外部ネットワークへの接続履歴を保存しています。
普段から表示される、ごくありふれた注意書きである。
昨日までは、それ以上の意味を感じたことなどなかった。
伊織は入力した文字を消した。
代わりに《眩暈 心因性 遅発性》と検索する。
医学論文が並んだ。
ひどく安心した。
論文は検索者を殺さない。
少なくとも、伊織が前世を含めて二度生きてきた範囲では、そうだった。
表示された論文を一つ開いたものの、内容はほとんど頭に入ってこなかった。
やがて諦め、伊織は椅子の背に深く身体を預けた。
眠れそうにない。
患者には睡眠時間を増やせと指示しておきながら、担当医が患者の身元を知ったせいで不眠になる。診療関係として非常に望ましくない始まりだった。
翌朝、伊織の診察机には見覚えのない封筒が置かれていた。
糊付けも封蝋もされていない、無地の白い封筒。
中には紙の資料が二十枚ほど入っている。
表紙には《四葉真夜様・診療上必要と認められる公開情報》と印字されていた。
昨夜、伊織が調べようとしていた内容だった。
誰が置いたのかを示す記載はない。
伊織は封筒を持ったまま、しばらく動けなかった。
「早いな」
何が、とは声にしなかった。
仕事が早い。
把握されるのも早い。
こちらが何を調べようとしたのか、それに応じた回答が届くまで、おそらく十二時間もかかっていない。
昨夜の注意書きを思い出した。
接続履歴を保存しています。
今までは何の変哲もない一文だった。今朝からは、背後に人の顔が見える。
「榊原先生。院長がお呼びです」
開いた扉から事務職員が顔を覗かせた。
「ちょうどよかった。この封筒を誰が――」
伊織が持ち上げると、職員は中身も確認せずに首を横へ振った。
「私は何も存じません」
「まだ何も訊いていませんが」
「院長がお待ちです」
職員はそれだけ告げると、逃げるように扉を閉めた。
この病院に勤め始めて半年。彼女があれほど俊敏に動くところを、伊織は初めて見た。
院長室へ入ると、院長の佐久間は応接用の長椅子に座っていた。その向かいには、見知らぬ初老の男がいる
昨日、真夜を迎えていた人物だった。
濃灰色の三つ揃いを寸分の乱れもなく着こなし、白髪を綺麗に撫でつけている。年齢は七十を超えているように見えるが、背筋には若者以上の張りがあった。
「榊原先生。昨日は奥方様がお世話になりました」
男が立ち上がり、丁寧に頭を下げる。
「葉山と申します」
「榊原です。こちらこそ――と言っていいのか分かりませんが」
「普段どおりに診ていただけたと伺っております」
「患者の診察ですから」
「結構なことです」
「一つ、伺っても?」
「何でしょう」
「なぜ私だったんです。神経科医も精神情報科医も、この病院にはほかにいる」
「精神干渉による後遺症を、追加の精神操作なしに治療した症例報告。精神情報体と魔法演算領域の接続障害に関する論文。奥方様は、いずれも御存じです」
伊織は返事に詰まった。
専門の研究者なら題名を知っていても不思議ではない。しかし、四葉家当主が自分の論文を読む姿は想像したこともなかった。
「随分と詳しく調べられたんですね」
「医師を選ぶのに、評判だけを当てにするわけには参りませんので」
「それは、いつから?」
葉山は穏やかに微笑んだ。
「今回の診察に必要な御質問でしょうか」
答える気はないらしい。
物腰は穏やかだった。
だからこそ、伊織は警戒した。
昨日の女と同じだ。声を荒らげる必要がない人間の話し方だった。
「この資料は、葉山さんが?」
封筒を示す。
「診療に必要かと存じまして」
「私が何を検索したのか、ご存じだったんですね」
「病院が管理する端末です。機密指定患者に関係する情報へ接続しようとすれば、情報管理部門へ通知されます」
「自宅の端末ですよ」
「病院から貸与された端末では?」
そのとおりだった。
住居手当だけでなく、最新型の端末まで無償で貸し出されたことを、半年前の伊織は待遇の良さだと喜んだ。
無料ほど高いものはない。
二度目の人生になっても、理解するのが遅すぎた。
「今後、奥方様について確認したいことがございましたら、私にお申しつけください。診療上必要と認められる範囲で、資料をご用意いたします」
「必要かどうかを判断するのは、誰です?」
「私と、奥方様です」
「医師ではないんですね」
佐久間院長が落ち着かなげに身じろぎした。
葉山は微笑を崩さない。
「安全保障に関わる情報もございますので」
「患者の生活歴や既往歴が分からなければ、正確な診断はできません」
「その都度お尋ねください」
「質問したことしか出てこない資料では、質問そのものを作れません」
知らない情報について質問することはできない。
医療記録を小出しにするという方針が、患者を守るためのものなのは理解できる。しかし、それで誤診が起きれば責任を負うのは医師だ。
「それなら、私には担当できません」
「榊原君」
院長が低い声で制した。
葉山は怒らなかった。
伊織を値踏みするように、しばらくその顔を見つめただけだった。
「先生は御自分の安全を心配して、担当を辞退なさるのですか」
「当然、それもあります」
否定はしなかった。
ここで勇敢な医師を演じる必要はない。危険を理解していることと、患者を粗末に扱わないことは両立する。
「ですが、今申し上げているのは診療の安全です。情報を制限したまま結果だけを求められても、私は正しい診断を保証できません。それでも構わない医師をお探しなら、ほかを当たってください」
葉山の微笑が、ごくわずかに深くなった。
「承知いたしました。奥方様には、そのようにお伝えいたします」
「……それだけですか」
「何かほかに?」
もっと圧力をかけられると思っていた。
あるいは契約書を持ち出され、拒否権などないと告げられるものだと。
「いえ」
「では、私はこれで」
葉山は立ち上がると、院長へ一礼し、伊織の横を通って部屋を出ていった。
扉が閉まる。
数秒待ってから、伊織は佐久間院長へ視線を向けた。
「本当に帰りましたね」
「帰ったな」
「担当を外してもらえるんでしょうか」
「そんなわけがあるか」
院長の返答は即答だった。
「では、なぜ」
「君の要求を奥方様へ報告するためだろう。判断なさるのは奥方様だ」
「患者本人に、医師へ開示する情報を決めてもらう。医療としては正しいですよ」
「なら問題ないな」
「問題しかありません。決める患者が、病院の実質的な所有者です」
翌日の午後、伊織のもとへ新しい資料が届いた。
今度は封筒が厚かった。
過去の検査歴、投薬歴、負傷歴、魔法演算領域の定期測定結果。情報の一部は黒塗りされていたものの、診断に必要な医学的記録は十分にそろっている。
表紙には真夜本人の署名があった。
その下に、短い一文が添えられていた。
――先生がお知りになりたいことは、次回、私に直接お尋ねください。
逃がす気はないらしい。
ただし、医師としての要求は受け入れた。
伊織は署名を見つめたあと、諦めたように資料を開いた。
一週間後。
四葉真夜は、予約時刻の五分前に診察室へ現れた。
今日も黒を基調とした服装だった。ただし前回のドレスより簡素な、身体の線を拾いすぎない長袖のワンピースに、薄手の上着を羽織っている。外来診察を意識して選んだのかもしれない。
「こんにちは、榊原先生」
「こんにちは、四葉さん」
後ろに控えていた葉山の視線が、伊織へ向いた。
咎めるほどではない。ほんのわずかな確認。
それでも、当主を姓だけで呼ぶのが四葉家の慣習に反していることは伝わった。
「診察中は患者さんですので、四葉さんとお呼びします」
誰に向けた説明か、自分でも分からなかった。
真夜は伊織を一瞥した。
「構いません、葉山。診療上の判断には耳を傾けましょう」
「かしこまりました」
葉山は一礼して退室した。
扉が閉じた途端、伊織は肩から力を抜いた。
「随分と緊張していらっしゃるのね」
「患者さんの付き添いとしては、少し威圧感があります」
「葉山が?」
「葉山さんも、廊下にいる方々もです」
「今日は少ない方です」
廊下には、目視できただけで六人いた。
少ないという言葉の定義について、あとで確認する必要があるかもしれない。
「睡眠時間は増やしましたか」
「四時間に」
「本当に?」
「記録をご覧になります?」
「いえ。患者の自己申告を信頼します」
「昨日、先生が病院の端末で私の睡眠時間を確認できるよう、医療情報への接続許可を出しておきました」
「今の言葉を撤回します。記録を確認します」
端末を操作すると、過去一週間の睡眠時間が表示された。
四時間十二分、三時間五十八分、四時間七分。
確かに増えている。
「守ってくださったんですね」
「先生が、一時間増やせとおっしゃったので」
従順な患者の言葉に聞こえる。
だが、一時間より一分でも多く眠らないという意志も同時に感じられた。
「食事は?」
「一日三度」
「量は」
「必要なだけ」
「その答えは前回も聞きました」
「私も同じ質問を聞きました」
伊織は端末へ《要確認》と入力した。
「目眩はどうです?」
「二度ありました」
「前回より減っていますね」
「ええ。どちらも仕事中でした」
「書類を読んでいるとき?」
「そうです」
「以前、精神的な負担になる出来事を尋ねました。今日は、もう少し具体的に伺います」
「資料を開示させたのは、そのため?」
「診断に必要だからです」
「先生は、四葉についてどこまでお調べになったのかしら」
「ほとんど何も」
「ご遠慮なさらなくても」
「調べようとした翌朝、必要な資料が机の上に置かれていました。それ以上調べると、次に何が置かれるのか分からないのでやめました」
「まあ」
真夜は口元へ指先を添え、可笑しそうに笑った。
「葉山ったら。先生を怖がらせてしまったのね」
「あれで怖がらせる意図がなかったなら、そちらの方が問題です」
「あとで注意しておきましょう」
何をどう注意するつもりなのか。
検索履歴の確認をやめさせるのではなく、気づかれないようにしろと命じる可能性の方が高い気がした。
「四葉さん」
「はい」
「治療を続けるために、一つ約束していただきたいことがあります」
真夜は笑みを残したまま、わずかに姿勢を改めた。
「お聞きしましょう」
「この部屋では、御自分が四葉家の当主であることを、私への命令に使わないでください」
空気が静まった。
防音された室内に、医療端末の稼働音だけが微かに響いている。
「私に、当主であることを忘れろと?」
「無理なのは承知しています。私も、あなたが誰かを忘れることはできません。ただ、診察に必要な質問へ答えるかどうかを決めるのは、患者としてのあなたであってほしい」
「断った場合は?」
「その質問には答えたくない、と言ってください。それなら次の方法を考えます。ですが四葉家当主として、訊くなと命令された場合、私は治療を続けられません」
「病院も先生の雇用も、私の一存でどうにでもなると知ったうえで?」
「だから、約束が必要なんです」
伊織は、自分の掌に汗が滲んでいることへ気づいていた。
声だけは平静を保っている。
真夜は、伊織の顔を見つめていた。
長い沈黙の後、その唇に再び柔らかな笑みが浮かぶ。
「条件付きで認めましょう。答えたくない質問には、患者として拒否すると申し上げます」
「それで結構です」
「ただし、私が四葉家当主でなくなるわけではありません。診察室の安全と機密については、私の命令が優先されます」
「医療行為に関することでなければ」
「先生は、条件を付け返さずにはいられないの?」
「条件を確認する仕事ですので」
「ありがとうございます」
「その代わり、先生も一人の医師としてお話しください。四葉を恐れて質問を変えることは許しません」
「……努力します」
「約束、ではないのね」
「医療行為で不可能な保証はしない主義です」
「正直な先生」
真夜が受け入れたのは対等な関係ではない。
診察を継続するために、必要な裁量を一時的に貸し与えただけだ。その裁量が不要だと判断されれば、いつでも取り上げられる。
少なくとも伊織は、その程度に考えておくことにした。
「では伺います。目眩が起きたとき、どのような書類を読んでいましたか」
「一度目は、ある魔法師の処遇に関する報告書。二度目は、子供の教育方針に関する決裁書です」
「その二つに共通点は?」
「どちらも、その者の将来を本人以外の人間が決める内容でした」
伊織は視線を上げた。
「それを、あなたが承認した?」
「一度目は。二度目は保留しています」
「承認したとき、何を感じましたか」
「必要な処置だと判断しました」
「それは考えです。感情を訊いています」
「何も」
迷いのない答えだった。
「本当に?」
「ええ」
「ですが身体は目眩を起こした」
「身体と意見が一致しないこともあるのでしょう」
「あります。だから調べます」
伊織は心理評価用の質問票を端末へ表示した。
「幾つか質問します。正しい答えを選ぶ試験ではありませんので、深く考えずに答えてください」
「得意ではない試験ね」
「満点を取ろうとしないでください」
「善処します」
その返事を信じてはいけないことは、一週間前に学んでいる。
伊織は質問を進めた。
睡眠、食欲、意欲、集中力。不安、焦燥、希死念慮。
真夜の回答は滑らかだった。
不自然なほどに、すべてが正常範囲へ収まっている。
「他人を傷つけたいという衝動を覚えることはありますか」
「衝動で傷つけたことはありません」
伊織の指が止まった。
「衝動では、ですね」
「ええ。必要性を十分に検討したうえで」
端末に表示された回答欄を見る。
《ない》《時々ある》《頻繁にある》
三択だった。
計画的、という項目はない。
「どうかなさいまして?」
「回答欄に当てはまる選択肢がありません」
「柔軟にお考えになって」
「人を傷つける判断に柔軟性を求めないでください」
真夜は声を立てずに笑った。
結局、伊織は《衝動性なし・計画的行為については診療上の評価対象外》と記録した。
こんな注記を心理評価へ入力したのは初めてだった。
「四葉さん。質問の意図を読んで、最も正常に見える答えを選んでいませんか」
「深く考えずに答えるよう努力したつもりです」
「努力が裏目に出ています。模範的すぎる」
「健康ということ?」
「心理検査で満点を取ろうとする人は、だいたい要注意です」
「先生は採点が厳しいのね」
「あなたが試験に強すぎるんです」
伊織は質問票を閉じた。
数値化された結果には、ほとんど意味がない。真夜は質問の目的を理解し、どのような人間に見せるべきかを選んでいる。
だが、それ自体が一つの所見でもあった。
「次回以降、精神情報体の状態を調べる検査を提案します」
「魔法を使うの?」
「必要なら。ただし、精神へ直接干渉する検査ではありません」
「同じことではなくて?」
「違います。私の術式は、患者の精神構造を書き換えない。表層に現れる反応と接続状態を、私自身の精神情報体を基準に観測する――少なくとも、これまでの症例ではそうでした」
「『精神情報体の非侵襲的相対観測』」
伊織は言葉を失った。
三年前に発表した自分の論文の題名だった。
「お読みになったんですか」
「医師を選ぶのに、何も調べないとお思い?」
葉山の言葉が事実だったことだけは確認できた。
「でしたら、論文に書いた限界も御存じですね。過去に大規模な精神処置を受けている場合、安全性は保証できません」
「それでも、接続をご希望?」
「いいえ」
真夜の返事には、一瞬の迷いもなかった。
「私の精神へ触れることは許可しません」
柔らかな声だった。
交渉の余地がないことだけは、どんな命令口調より明瞭だった。
「分かりました。精神情報体の検査は行いません」
「随分と簡単に引き下がるのね」
「患者が拒否した検査をする医師にはなりたくありませんので。代わりに、自律神経と想子活動の表層反応を追います。皮膚電位を測りますが、装置は御自分で着けていただきます」
「手袋を外す必要は?」
「右手だけ。私は触れません」
真夜は伊織を見つめたあと、右手の手袋を自分で外した。
白い手が診察机の上へ置かれる。
伊織は接触端子の位置を画面に示し、真夜自身に指先と手首へ装着してもらった。
測定中、伊織は仕事の決裁、子供という言葉、医療処置という言葉を順番に提示した。
真夜の表情にも声にも変化はない。
だが、「本人の同意を得ない処置」という文言を表示した瞬間だけ、皮膚電位と想子活動が同時に跳ね上がった。
測定器が示したのは、二つの反応が同時に起きたという事実だけだった。
それが現在の真夜の感情なのか。身体に残った反射なのか。あるいは、過去に受けた精神処置の痕跡なのか。機械は数値を並べても、その反応が誰の、どの時点のものなのかまでは教えてくれない。
本来なら、そこを識別するために相対観測を行う。
しかし、そのためには真夜の精神情報体を観測基準へ接続しなければならない。そして彼女は、明確に拒否している。
「今、何か感じましたか」
「何も」
嘘をついている反応ではない。
本人が何も感じていないのに、身体と精神情報体の表層だけが拒絶している。
「結果については、解析してから説明します。次回も精神へ触れない範囲で続けます」
「次回があることは決定なのね」
「目眩が治っていませんから」
真夜は答えず、右手の端子を外した。
外した手袋は、まだ診察机の上に置かれていた。
「本日の診察は以上です。睡眠時間は、次の一週間でさらに三十分増やしてください」
「五分ではいけません?」
「三十分です」
「交渉の余地は?」
「ありません」
「先ほど、当主として命令しないと約束したばかりなのに、先生は随分と一方的なのね」
「医師としての指示です」
「便利な言葉ですこと」
真夜は右手の手袋を取り、立ち上がった。
その瞬間、細い身体がわずかに傾いた。
演技ではない。
焦点が外れ、膝から力が抜ける。伊織が診察で待ち続けていた、本物の発作だった。
伊織は反射的に手を伸ばした。
手袋をはめる前の、真夜の右手首を掴む。
冷たい。
同時に、真夜の左手が伊織の前腕を掴んだ。
倒れかけた人間の動きではない。
伊織の手を振りほどき、そのまま関節を壊せる角度だった。扉の外でも、複数の足音が一斉に動く。
そう認識した直後、診察室が消えた。
白い天井。
鼻を刺す消毒薬の臭い。
硬い寝台に押しつけられた背中。
手首を締めつける金属の冷たさ。
逃げなければ。
叫ばなければ。
姉さん。
喉の奥までせり上がった声を、伊織は息と一緒に呑み込んだ。
視界が戻る。
目の前に真夜が立っていた。
時間にすれば、一秒にも満たなかったはずだ。
伊織は自分の手が、真夜の手首を強く握っていることに気づいた。
真夜の左手も、伊織の腕を掴んでいる。
指先に込められた力だけで、彼女の身体が先ほどの接触を攻撃として処理したことが分かった。
「失礼しました」
すぐに手を放す。
真夜は倒れていない。もう目眩も収まっているようだった。
扉が開き、護衛が二人、音もなく診察室へ入ってくる。
真夜は左手をわずかに上げ、彼らを止めた。
だが、伊織の顔を見つめる彼女から、微笑が消えていた。
「先生」
「何でしょう」
「今、何を見ました?」
心臓が強く脈打った。
伊織は答えなかった。
答えられなかった。
精神情報体へ接続する魔法など、使っていない。
ただ転びそうになった患者の手首を掴んだだけだ。
それなのに、まだ鼻の奥には、現在の病院では使われていない古い消毒薬の臭いが残っている。
そして何より。
あの一瞬、助けを求めて呼ぼうとした名前を、伊織は知っていた。
――四葉深夜。
昨日受け取った資料のどこにも、記載されていなかった名前だった。
前世の記憶が蘇ったわけではない。
その区別だけは、誰よりも確かにつけられた。
一度目の人生の記憶は、今とは違う身体に属している。それでも、どの場面にも途切れることのない“自分”がいた。古い身体で感じた痛みも、喜びも、自分が経験したことだという所有感がある。
先ほど流れ込んだものには、それがなかった。
痛みも恐怖も一人称だった。寝台へ押しつけられていたのは確かに自分だと感じた。けれど、その経験をした“私”だけが抜け落ちている。残された感覚へ、伊織の精神が自分の身体と意識を貸し、一つの出来事として組み直したような不自然さがあった。
別の身体に属する記憶を、現在の自己へ結び直して生きてきた精神だからこそ、所有者を失った感覚にも同じ処理をしてしまったのだとしたら。
それは、医師として興味深いなどと言って済む現象ではなかった。
見えたものが真夜の記憶なのか、それとも彼女の中に残された別の何かなのか。
その区別さえ、伊織にはまだつかなかった。
「――四葉深夜」
榊原伊織は、浮かんだ名前をそのまま口にしていた。
診察室から、音が消えた。