「――四葉深夜」
榊原伊織は、浮かんだ名前をそのまま口にしていた。
その名が落ちた瞬間、診察室の音が遠のいた。
左右へ回った護衛の衣擦れも、医療端末の駆動音も聞こえている。だが、ひどく遠い。真夜の右手には既に黒い手袋が戻され、二人の護衛が伊織の退路を塞いでいる。つい先ほどまで医師と患者が向かい合っていた部屋は、名前一つで尋問室へ変わっていた。
真夜の顔から、優雅な微笑が消えている。感情を失ったのではない。こちらへ見せる必要がなくなったのだ。
「その名前を、どこでお知りになったの?」
声は穏やかで、問い詰める響きさえなかった。だからこそ、一つでも言葉を誤れば、この診察室から二度と出られなくなる気がした。
「知りませんでした」
「けれど、今おっしゃいましたね」
「頭に浮かんだんです」
「何もないところから?」
「あなたの手首に触れた直後です」
伊織は自分の手を見た。
すぐに放したはずなのに、掌にはまだ真夜の皮膚の冷たさが残っている。
「白い天井が見えました。消毒薬の臭いがして、手首を何かで固定されていた。誰かを呼ぼうとしていました。その名前が……四葉深夜です」
口にしながら、胃の奥が冷たくなる。
自分が見たものを説明しているはずなのに、自分の記憶について話している感覚がなかった。
真夜は何も言わない。
「彼女は、あなたの関係者ですか」
「姉です」
葉山から渡された資料に、その名はない。
双子の姉がいるという記載もなかった。
「その名は公開資料にありません。先生の閲覧履歴にも、接触記録にもない」
「調べられるだけの情報が公開されていませんでした。それに、調べようとしたこと自体を把握されましたから」
「だからこそ、外から知った可能性は低い。けれど、ないとは申しません」
真夜の視線は緩まない。弁明を聞いているのではなく、説明のつかない情報漏洩経路を調べている目だった。
「ほかに何を見ました?」
「一瞬だけです。今お話しした以上のことは」
「痛みは?」
予想していなかった質問だった。
「ありました」
「どこに?」
「手首と、背中です。実際に怪我をしたような痛みではなく、痛かったという感覚だけが流れ込んだような……うまく説明できません」
「恐怖は?」
「ありました」
真夜の瞳が、わずかに細められた。
「誰の?」
伊織は答えようとして、言葉に詰まった。
映像は自分の視点だった。
寝台へ押しつけられていたのも、逃げようとしていたのも、自分だと感じた。
だが、あれは伊織の過去ではない。
記憶にあるどの病院とも違う。前世で入院したときのものでも、この世界で医師になってから見たものでもなかった。
「分かりません」
「先生御自身が感じた恐怖では?」
「そう感じました。ですが、そうではないと分かっています」
「不思議な答えね」
「私が一番そう思っています」
真夜は軽く目を伏せ、しばらく黙考したあと、診察机の呼出装置へ手を伸ばした。
「葉山」
扉が、ほとんど間を置かずに開いた。
「お呼びでしょうか、奥様」
外で会話を聞いていたのではないかと思うほどの早さだった。
「榊原先生に検査を受けていただきます。神経系、薬物反応、想子波形、精神干渉の痕跡。非侵襲のものをすべて」
「承知いたしました」
「少し待ってください」
伊織は二人を交互に見た。
「患者は四葉さんです。なぜ私が検査を受ける話になっているんです」
「四葉の非公開情報を、入手経路不明のまま口にした方を、そのまま帰宅させる方が不自然ではなくて?」
「もっともですが、検査を受けるかどうかは私が決めます」
「検査を拒否する権利はあります」
「では、拒否したら帰れますか」
「それとこれとは別の問題です」
自由意思という言葉が、急に難しくなった。
「拒否なさるの?」
「検査内容と危険性を確認してから判断します」
「御自分が検査される側になっても、同じことをおっしゃるのね」
「立場で変えたら、先ほどあなたにした説明が全部嘘になります」
真夜はしばらく伊織を見つめた。
「葉山。精神干渉魔法は使用しないように」
「よろしいのですか」
「精神情報へ直接手を加えれば、混入した情報まで変質するおそれがあります。原因が分かるまで、証拠を壊してはなりません」
葉山は一拍の間を置いた。
「かしこまりました」
伊織の心を守ったのではない。事件現場として、現状のまま保存することにしたのだ。
患者から検体へ昇格したらしい。まったく嬉しくなかったし、診察室の外には今も六人以上の護衛がいる。自由意思について深く考え始めると、今夜は眠れなくなりそうだった。
「検査を受けます」
「賢明な御判断です」
葉山の言葉が、選択肢は最初から一つだったと告げているように聞こえた。
その葉山が、いつ用意したのか、一枚の書類を差し出した。
表題は《任意検査同意書》だった。
「任意という二文字が、これほど頼りなく見えたのは初めてです」
「書式の変更を御希望でしょうか」
「状況の変更を希望しています」
「そちらは致しかねます」
伊織は同意書に記載された検査内容、所要時間、予想される身体的負担を一つずつ確認した。精神へ直接干渉する処置も、薬剤の投与も含まれていない。
そのうえで、せめて同意書だけは最後まで読んでから署名した。
患者に付き添われて検査室へ向かう医師は、この病院でも珍しいだろう。少なくとも、伊織は初めてだった。
七階東棟のさらに奥。普段は施錠されている区画へ入るため、葉山が壁面の認証装置へ手をかざした。
「葉山忠教。奥様の御指示により、解錠を申請いたします」
認証項目には掌紋、静脈、声紋、想子波形が表示されている。
四種類すべてが一致し、ようやく白い扉が左右へ開いた。
「病院にこんな区画があるとは知りませんでした」
「榊原先生には必要のない場所でしたので」
「今日から必要になったということですか」
「左様でございます」
知りたくなかった必要性だった。
区画内には三つの検査室と、小さな処置室、観察用の個室が並んでいた。窓はなく、壁材も一般病棟とは違う。外部電波だけでなく、想子波の伝播まで抑制する構造になっているらしい。
伊織は神経走査装置の寝台へ横たわった。
「力を抜いてください」
検査担当医の男が言った。
「そう言われて抜ける状況に見えますか」
「お気持ちは分かります」
言葉とは裏腹に、検査担当医の顔には何の感情も浮かんでいなかった。
天井から走査装置が降りてくる。
視界を覆う白い板。
その瞬間、伊織の呼吸が止まった。
白い天井。
消毒薬。
手首を締めつける金属。
「榊原先生?」
検査担当医の声に、伊織は大きく息を吸った。
「固定具を外してください」
「ですが、走査中に動かれますと」
「別の方法で固定を。手首はやめてください」
自分の声が思ったより低く、硬かった。
検査担当医は葉山へ視線を向けた。
許可を求めている。
「患者の希望に従ってください」
答えたのは真夜だった。
彼女は検査室の隅に用意された椅子へ腰を下ろし、静かにこちらを見ている。
「四葉さんは、なぜ中にいるんです」
「付き添いです」
「……先ほどから、少し楽しんでいませんか」
「少し」
真夜は否定しなかった。
「患者側へ回った先生が、御自分に対しても同じ原則を守れるのか、興味があります」
「診察ではなく、採用試験の続きでしたか」
「兼ねられるものは兼ねた方が効率的でしょう?」
「四葉家の効率化に、私の検査を使わないでください」
「検査を受ける本人が退室を希望しています」
「まあ」
「患者の権利を尊重してくださるんですよね」
真夜は可笑しそうに目を細めた。
「仕方ありませんね。結果はあとで拝見します」
「私の同意なしに?」
「病院の機密管理責任者として」
「今度、利益相反という言葉についてお話ししましょう」
「次回の診察が楽しみです」
真夜は立ち上がり、葉山とともに検査室を出た。
扉が閉まる直前、微笑を浮かべた横顔が見えた。
患者を一人退室させただけで、ひどく消耗した。
そして今度は、自分が寝台へ固定される番だった。
胸部と両脚を幅広の帯で押さえられ、額、こめかみ、首筋へ次々と端子を貼られていく。名称も用途も、安全基準まで説明できる機器ばかりだ。自分が説明する側なら、迷わず「危険はありません」と言っただろう。
だが、逃げられない姿勢で説明を受ける側になると、話は別だった。
――本当に、勘弁してくれ。
口にすれば、あの無表情な検査担当医から「お気持ちは分かります」と返されるだけだろう。
伊織は検査が終わり次第、患者向けの説明書を全面改訂することにした。今日得られた最初の臨床的知見がそれだと思うと、少し情けなかった。
二時間後に得られたのは、「異常なし」と「正常では説明できない」という、ひどく相性の悪い二つの結果だった。
神経系にも血中にも異常はなく、外部から精神干渉魔法を受けた明確な痕跡もない。それにもかかわらず、伊織の身体は強い恐怖を経験した直後と同じ反応を示していた。血中のストレス反応、心拍変動、筋緊張、記憶を再生したときの脳活動。そのすべてが、あの一瞬を現実の体験として処理している。
そして想子波形には、ごく短時間だけ、伊織自身のものではない周期が混入していた。
「混入した周期が、四葉さんのものか比較できますか」
伊織が訊ねると、検査担当医は首を横へ振った。
「奥様の想子波形は比較用データベースに登録されておりません」
「先ほど検査結果を御覧になるとおっしゃっていましたが」
「奥様が閲覧されることと、我々が奥様の情報を保持することは別です」
「徹底していますね」
「必要ですので」
四葉家当主の健康情報だけでなく、個人を識別できる想子波形さえ、雇われた技師には残さない。
この病院にあるのは、医療設備だけではない。
秘密を保存しないための設備も、同じくらい充実しているらしい。
「一時的な幻覚の可能性は?」
「否定できません。ただ、患者との接触直後に起きた点と、未知の想子周期が混入した点は無視できないかと」
「精神干渉ではないのに、精神情報が入ってきた」
「現段階では、それ以上のことは申し上げられません」
分からないものを、分かったふりで説明しない。
医師としては正しい。
だが患者側で聞くと、その正しさは腹立たしいほど頼りなかった。
検査後、伊織は観察用個室へ移された。
ベッド、机、椅子、洗面設備。一般病棟の特別室よりも快適だが、窓はない。
扉は外側から施錠されていた。
葉山が壁際に控えるなか、検査担当者と入れ替わりに入ってきた看護師が、患者識別帯を伊織へ差し出した。
「待ってください。私はここの医師です」
「存じております。本日の登録区分は患者です」
「職員番号では駄目ですか」
「患者番号とは用途が異なりますので」
差し出された識別帯は柔らかな樹脂製で、手首を締めつけるようなものではない。それでも留め具が閉じる寸前、伊織の指がわずかに止まった。
看護師は急かさず、ただ待っている。
伊織は自分で識別帯を巻いた。できれば、患者心理に関するこれ以上の実地研修は遠慮したかった。
「夕食は白身魚と鶏肉、どちらになさいますか」
「帰宅を希望します」
「お食事の選択肢にはございません」
「では白身魚で」
この病院では、退室の自由はなくても献立の自由は保障されているらしい。
看護師は端末へ希望を入力し、一礼して出ていった。
「これは入院ですか。それとも拘束ですか」
「経過観察でございます」
葉山は当然のように答えた。
「鍵が掛かっています」
「精神情報体に未知の異常が確認された方を、院外へお出しするわけには参りませんので」
「経過観察と拘束は両立するんですね」
「安全のためでございます」
「誰の?」
葉山は答えなかった。
伊織の安全か。
真夜の安全か。
それとも四葉家の秘密を守るためか。
おそらく、すべてだった。
「一晩、こちらでお休みください。明朝、再検査を行います」
「明日の診療予定があります」
「既に調整しております」
「私の代診を?」
「先ほど、佐久間院長から各患者へ連絡を入れていただきました」
伊織が検査を受けている二時間の間に、翌日の予定まで処理されている。
仕事が早い。
本人の意思確認より先に進める点を除けば、非常に優秀だった。
「それから、榊原先生」
「まだ何か」
「奥様との接触で御覧になったものについて、関係者から事情を伺いたいという意見が出ております」
「関係者とは?」
「精神干渉を専門とする者です」
「私の精神を読むつもりですか」
「必要ならば」
「拒否します」
「そうお答えになると思っておりました」
「では、なぜ訊いたんです」
「手順ですので」
葉山は上着の内ポケットから一枚の書類を取り出した。
精神干渉検査に対する同意書だった。
既に伊織の氏名と患者識別番号が印刷されている。
「用意がいいですね」
「お褒めにあずかり、恐縮です」
「褒めていません」
「なお、奥様から、先生の同意がない限り精神干渉を禁ずるとの御指示をいただいております」
伊織は同意書から顔を上げた。
「四葉さんが?」
「はい。精神情報体を現状のまま保全するようにと」
「私を気遣ったわけではないんですね」
「奥様の御心を、私から申し上げることはできません」
「証拠保全だと言われました」
「でしたら、先生には既に理由がお分かりかと」
医療上の保護ではなく、やはり証拠保全だった。少なくとも、理由だけは明快である。
伊織がその意味を考えている間に、葉山は同意書を机へ置いた。
「御気持ちが変わりましたら、お知らせください」
「変わらなければ?」
「ほかの方法を検討いたします」
強制するとは言わない代わりに、帰宅させるとも言わない。四葉家は、本人の同意を尊重しながら、同意するまで安全な場所で保護できるらしい。
前世で学んだ人権という概念が、急にひどく頼りないものに思えてきた。
「葉山さん」
「何でしょう」
「この病院に、職員向けの相談窓口はありますか」
「私が承っております」
「では相談です。帰宅させてください」
「そちらは患者としての御要望ですので、患者相談窓口へお願いいたします」
「担当は?」
「私でございます」
「結構です」
期待した自分が間違っていた。
葉山が退室してから三十分ほど経った頃、再び扉が開いた。
入ってきたのは看護師ではなく、黒い上着と手袋を身につけたままの真夜だった。一歩後ろには葉山が続き、見覚えのない女性が扉の脇へ立つ。服装こそ病院職員だが、重心の置き方は護衛のそれである。
誰も退室しなかった。
「お加減はいかが、先生」
「患者へする質問ですよ、それは」
「今は先生が患者でしょう?」
否定できなかった。
「夕食は白身魚を選んだそうね」
「鶏肉の方が良かったんですか」
「評判は、そちらの方が上ですね」
「今から変更を」
「医学的な理由は?」
「患者本人が希望しています」
「検査結果だけでなく、患者の訴えを尊重すべきでしたね」
「教えた相手に使われるとは思いませんでした」
「では、明日の夕食は鶏肉に」
「今日の話をしていますが?」
「明日も同じ患者でしょう?」
「…………そこから確認が必要です」
真夜は答えず、わずかに目を細めた。
どうやら退院より先に、明日の献立が決まったらしい。
その笑みを収めると、真夜はベッドから二歩離れた椅子へ腰を下ろした。室内には壁際の椅子もあったが、彼女が選んだのはそこだった。
初診では、同じ二歩の間に診察机があった。今は何もない。もっとも、真夜の背後には葉山が立ち、扉の脇には女性護衛が控えている。
机がなくなっても、警戒まで解かれたわけではなかった。
「葉山から、検査結果を聞きました」
「やはり御覧になったんですね」
「ええ。未知の想子周期が混ざっていたとか」
「あなたのものかもしれません」
「比較すれば分かるでしょうね」
「検査を受けていただけますか」
「必要性は認めます。ただし、検査方法と記録の保管先はこちらで指定します」
「患者の生体情報ですから、それで構いません。比較結果だけは診療記録へ残してください」
「検討しましょう」
真夜らしい保留だった。医療上の必要性さえ、一度四葉の機密管理へ通さなければ、同意にも拒絶にもならない。
「ただし、比較から推定できるのは、混入した想子周期があなたに由来する可能性までです」
「それ以上は分からないの?」
「なぜ精神情報が私の中で体験として再構成されたのかまでは、機械では測れません」
「それを判断するのが先生?」
「今のところは、そういうことになります」
「お姉さんについて、伺っても?」
「診察ではないのに?」
「今起きていることを理解するためです」
「では、医師として?」
「そうです」
「この場で知ったことは、すべて最高機密として扱われます」
「医師の守秘義務は、分類される前からあります」
「四葉の最高機密は、守秘義務だけでは済みません」
具体的に何が追加されるのかは、訊かない方がよさそうだった。
「承知しました」
真夜は膝の上で指を重ねた。
「姉の深夜は、人の精神構造を認識し、作り替える魔法を持っています。私が十二歳のとき、姉はその魔法で私の記憶を変えました」
「初診では、そこまで伺っていません」
「ええ。あの時点で、先生に教える必要はありませんでしたから」
あまりに当然のように言われ、伊織は一拍遅れて息を吐いた。
「私は何があったのか知っています。どこへ連れていかれ、そこで何をされたのかも。けれど、思い出すことはできませんし、その必要もないのです。既に知っているのだから」
真夜の声には、痛みも憎悪もなかった。
「知識と経験は違います」
「先生は、そうお考えになるのね」
「医師としては」
「では、一人の人間としては?」
答えに詰まった。
真夜は自分の過去を、他人から聞かされた事件のように語っている。
だが伊織は先ほど、その一部を自分自身の恐怖として感じた。
どちらが彼女の記憶なのか。
事実を正確に知ることか。
事実は曖昧でも、そこで何を感じたかを覚えていることか。
「まだ分かりません」
「そう」
真夜は責めなかった。
むしろ、その答えを気に入ったように見えた。
「あなたは、私が見たものを知っていたんですか」
「いいえ。白い天井も、手首の拘束具も知りません」
「では、私が見たものは」
「私が経験した可能性はあります。けれど、同じ形の記憶はもう私の中にはない」
「本当に、なくなったのでしょうか」
真夜の目が、わずかに細められた。
「どういう意味?」
「お姉さんの魔法が経験記憶を知識へ変えたのなら、元の記憶がそのまま封印されているとは考えにくい。ただ、精神構造を大規模に書き換えれば、変換前との差分や身体反応の痕跡まで完全に消えるとは限りません」
「私の中に、昔の私が隠れていると?」
「いいえ。十二歳のあなたが、そのまま眠っているという意味ではありません」
伊織は慎重に言葉を選んだ。
「傷が治ったあとにも瘢痕が残るように、書き換えられた精神構造には“以前そこに何があったか”を示す痕跡が残ることがあります。私が受け取ったのは記憶そのものではなく、その痕跡を私の脳が経験として再構成したものかもしれない」
「その再構成を行ったのが、先生?」
口にした真夜の表情は動かなかった。
「単なる通り道というより、再生装置に近いでしょう。そうだと決まったわけではありませんが」
「では、その仮説を検証なさい」
最初の診察と同じように言われた。
伊織は額を押さえたくなった。
「仕事の範囲が、診察のたびに拡大している気がします」
「先生を選んだ判断は、間違っていなかったようね」
「何を見て選んだんです」
「論文、治療実績、精神干渉系魔法師としての適性。それから、圧力を掛けられたときにどこまで医師でいられるか」
伊織は葉山を見た。
初診の翌朝に届けられた資料。診療情報を出さなければ担当を辞退すると告げたとき、怒るどころか要求を真夜へ持ち帰った葉山。
あれも査定だったのだ。
「治療の前から、採用試験を受けていたんですか」
「診察を受ける医師について調べるのは当然でしょう」
「それは、目眩が始まってからですか」
真夜は答えなかった。
その沈黙に、半年前に届いた都合のよすぎる求人が重なった。
「経営者が言うと、まったく嬉しくありませんね」
真夜は返事をせず、静かに尋ねた。
「痛かった?」
「……はい」
「怖かった?」
「はい」
「そう」
「随分と遠慮なく訊きますね」
「診察では、模範的な答えを選ぶなと先生がおっしゃったでしょう」
「質問する側にも適用されるとは知りませんでした」
「あなたがどう感じたのか、私は知りたいと思っています」
冗談めかした声音ではなかった。
真夜は、それ以上を言葉にしない。代わりに自分の手首へ視線を落とした。
黒い袖に覆われたそこには、当然、拘束された痕など残っていない。
「私は、痛かったという事実を知っています」
淡々とした声だった。
「怖がったという記録も。でも、それがどんなものだったかは分からない」
伊織は何も言えなかった。
「先生は、分かったのね」
「ほんの一瞬です」
「一瞬でも」
真夜は顔を上げた。悲しみも、怒りも、安堵もない。ただ、理解できないものを前にした静かな好奇心だけが、その目に宿っていた。
「先生は今、私よりも私の痛みを覚えているのね」
伊織は答えられず、自分の手首を見た。
何の傷もない。
それでも金属に締めつけられていた感覚は、まだ皮膚の下に残っている。
「四葉さん」
「何でしょう」
「次回の診察まで、接触を伴う検査は禁止します」
「その指示は不要です。以後、私への接触検査は原則として禁止します」
「患者としての拒否ですか」
「安全管理上の決定です。先ほど先生が私の手首を掴んだとき、私は反射的にあなたの腕を壊そうとしました」
伊織の前腕には、まだ薄い指の痕が残っている。
「覚えています」
「次も止められる保証はありません」
「では、接触を必要としない方法だけを検討します」
「そうなさい」
真夜は立ち上がった。
「今夜はゆっくりお休みください、先生」
「扉の鍵を開けてもらえれば、自宅で休みます」
「経過観察が終わってからになさい」
「拒否権は?」
「あります。ただし、退室の許可とは別です」
淀みのない返答だった。
四葉家における同意とは、扉の鍵に影響を与えない概念らしい。
扉の前まで進んだ真夜が、ふと足を止めた。
「榊原先生」
「はい」
「先ほど、私に触れたあとから、目眩が消えています」
「それを最初におっしゃってください」
「先入観のない状態で、先生の所見を聞きたかったのです」
伊織は顔を上げた。
「完全に?」
「ええ。視界が、これまでより鮮明なくらい」
「因果関係はまだ分かりません。私に同じ症状も出ていない」
「では、目眩そのものが移ったわけではないのね」
「現時点では、そう判断します。ただし接触と症状消失に関係がある可能性は否定できません」
「私の目眩が消え、先生には私のものかもしれない体験が残った」
「同じ現象の両側かもしれない、というだけです」
「十分です」
真夜が視線を向けると、葉山が扉を開いた。
「原因が分かるまで、先生を病院の外へ出してはなりません」
「本人の前で隔離を決定しないでください」
「では、お休みなさい。榊原先生」
真夜は返答を待たず、葉山と護衛を伴って病室を出ていった。
扉が閉まる。
電子錠の作動音がした。
静かになった個室で、伊織はもう一度、自分の手首を見た。
傷はない。
痣もない。
目眩は起きていない。
視界は傾かず、吐き気もない。真夜の症状を肩代わりした兆候は、どこにもなかった。
伊織は小さく息を吐く。
その直後、天井の照明から輪郭だけが消えた。
白い光は点いたままなのに、それを生み出している器具が見えない。換気口も、火災報知器も、天井を区切る継ぎ目も、一つずつ白い平面へ呑み込まれていった。
消毒薬の臭いが濃くなる。
空調の音に、知らない男たちの声が重なる。
意味は聞き取れない。
なのに、その声を聞けば次に何をされるのか、身体だけが知っていた。
逃げなければならない。
深夜を呼ばなければならない。
伊織が起き上がろうとした瞬間、存在しない金属の輪が両手首へ食い込んだ。
ベッドへ押しつけられた自分の腕が、ひどく細い。
大人の男の腕ではない。
助けを呼ぼうとして、喉から出たのは伊織のものではない、幼い少女の声だった。
「姉さん――っ」
そこで、病室が戻った。
天井には照明がある。換気口も、火災報知器もある。
伊織は上体を起こしたまま、荒い呼吸を繰り返していた。
時計を見る。
真夜が退室してから、まだ十秒も経っていない。
目眩ではない。
幻覚と呼ぶには、痛みも、臭いも、恐怖も鮮明すぎた。
真夜の症状が移ってきたのではない。
深夜の魔法によって形を失ったはずの痕跡が、伊織の中で一人分の体験へ組み直され、彼の現在を内側から塗り替え始めている。伊織には、そうとしか思えなかった。