ロザリオを返されて、最初の二日ぐらいは自分が何をしていたのかさえ記憶にないほど、放心していたけれど。お姉さまに叱咤激励されて、祥子や千尋にも支えられて、徐々に心にあいた穴に慣れていく自分がいた。
慣れるだけ。空洞は埋まらない。
由乃がいないと、自分はこんなにも弱くなってしまうのかと、もはや諦めにも近い境地に達していた。
「ロザリオを返した意味を考えなさい」
お姉さまは、これは姉妹で乗り越えるものだと一切の助言はしなかった。そんな黄薔薇様を厳しい人だとか淡白な人だと言う人もいる。けれど、そんなことはない。振り向けばいつだってお姉さまは見ていて下さる。手を出さないのは信じてくれているから。遠くからいつものような悪戯っ子のような笑みを浮かべて見守っている。
(でも、わからないんです)
ただ自分が何かを間違えてしまったことだけはわかった。でも、肝心の何を間違えてしまったのかは思いつかなかった。
「こちらにいらっしゃったんですね。」
息をきらせた祐巳ちゃんがはいってきた。
彼女は最近祥子の妹になった由乃の同級生。白薔薇様いわく百面相の持ち主で、コロコロ変わる表情や騙されやすい純情なところなど見ていて飽きない子だ。由乃も興味を持っていて薔薇の館で一緒に過ごすのが楽しみだと語っていた。
祐巳ちゃんは由乃からの伝言を伝えにきてくれた。それは私の剣道の試合と同じ日に手術をするという内容だった。
「と、いうわけで『応援にいけませんけれど、試合頑張ってください。』以上です。」
由乃が、入院していた?
しかも、今週の試合の日に手術をする?
「叔父さんも叔母さんも、最近何処かよそよそしいと思っていたけれど。どこの病院?かかりつけの?」
頭が真っ白になった。
「、、、昔から診てもらっている病院だそうですけれど。」
すぐに由乃のところにいかないと、と温室を飛びだそうとした私を祐巳ちゃんが引き留めた。
「行ってどうするんです?」
「どうするって。」
「何のために由乃さんが今まで隠していたと思うんです。」
幼い子供に言い聞かせるような祐巳ちゃん。
またか。
「どうして由乃さんが、わざわざ令様の試合の日に手術をしようって決めたのか。令様ぜんぜんわかっていない。」
また間違えるところだった、らしい。
「らしい」というのは、今度の間違いの理由も私にはピンとこなかったからだ。
「、、、わからないよ。わかるはずないじゃない。」
ずっと一緒に手をつないできた。倒れそうになったら支えてやって、ときには手をひっぱって。なのに、理由も告げられず手を振り払われた。由乃のことならなんでもわかると思っていたのに。今は全くわからない。
「由乃さ。ずっと手術嫌がっていたのよ。」
「はい。でも、それでも手術をしようとした。その気持ちを汲んでください。」
令の手を祐巳ちゃんの温かい手がつつんだ。
「試合、がんばってください。それが由乃さんの願いなんですから。」
そう言って祐巳ちゃんは教室に戻った。
由乃の願い、それはなんだろう。
私の願いは決まっている。もう一度、由乃をこの手で抱きしめたい。やわらかい笑顔に、この心をとろかせたい。そのためだったら、なんだってできる。
——けれど、
「どうしたの。支倉さん。」
武道館で合間の休憩時間すらおしくて、素振りをしていると先生が声をかけてきた。
「気合がはいっているのはいいけれど、入りすぎているのも考えものね。」
令は先生に促されて外にでた。
由乃とのことは職員室にだって広まっているはずだった。祥子と祐巳ちゃんのことだって、早い段階から情報を入手していたということだし。
「支倉さんさ。島津さんがいないと駄目なわけ?」
「駄目ではない、といいきれません。由乃がいなくなるなんて、ロザリオを返されて初めて考えました。」
だから、由乃に戻ってきてもらえるように次の試合に勝たないといけない。
「島津さんの存在が支倉さんを鼓舞している分には問題ないのだけれど、彼女を理由にするのはおかしくない?」
「おかしい?」
「あなたたちは従姉妹で、家が隣同士で、学校も同じで、一緒にいることが当たり前だったかもしれない。でも、いつかは離れ離れになる。そのとき、あなたはどうなる?」
「どうなるって。」
「島津さんが怒った理由はそこにある。」
今を大事にする令と違い、由乃は先を見据えていたのだろうか。いつか訪れる別れのために、一人で歩く準備を始めたのか。でも、それなら何故今だったのか。
「過保護な私が重荷だったのでしょうか?。」
涙が流れてきた。
由乃が去ってから一度も泣いたことがなかったのに。先生は突然泣き出した令にギョっとしたものの、リリアンのOGとしてお姉さんらしく「さあね。」と側にいてくれた。
「私、ずっと間違えてばかりなんです。何もかもわからなくて。由乃に愛想を尽かされても仕方ないんです。」
「真面目なところはあなたの長所だけど。もっと気楽に考えなさい。間違いだと気づけて、正しい方向に進む努力をしているのならきっと大丈夫。だってあなた達はいくらでも話すことができるんですもの。」
先生も学生のころに姉妹と喧嘩をしたことがあったのだろうか。ふと、そんなことを思った。それだけ先生の言葉は令の心にしみた。
「それにね。島津さんもいい方へ修正しようと努力をしているのなら。絶対いい結果に落ち着くわ。」
「はい。」
ポンポンと肩を叩いて、お説教終わりって感じで先生は武道館に入るべく先に歩いて行った。
「あ、そうだ。一年生に示しがつかないから、そこで素振り100回やってから帰っておいで。」
「はい。」
「試合頑張ろうね。大将。」
こんなに情けない姿をさらしたのに、先生はまだ信頼してくれている。令は大きく深呼吸をすると竹刀を前に構えた。なぜだろう。頭の芯が冴えているような気がする。身体のおくから滾々と力がわいてくるような感じがする。
父は言っていた。
真っすぐな剣がお前の持ち味だと。
剣を振り下ろした先に見えるものは何だろう。
勝利の先にあるものとは。
「まずは一本。」
何事もそれからだ。
週末の土曜日。
4時間目が終わった足で山百合会のメンバーは令さんの試合会場に向かった。
今日の地域の交流試合は、市内で四強と呼ばれている女子剣道部が勢ぞろいしているらしくて、公式戦ではないけれどどの学校も応援に熱がはいっている。
14時の開始を前に、会場はかなり埋まっていた。他の学校の応援団に紛れて、馴染みのからす色の制服もちらほらみかける。なので、黄薔薇様と紅薔薇様、祥子さんと祐巳さん、白薔薇ファミリーの2.2.3にわかれて座ることになった。
「はい。祐巳ちゃん。」
「なんですか。白薔薇様?」
別れる前に白薔薇様は箱にはいったサンドイッチと紙パックのジュースを渡していた。何か手提げ袋を持っているなと思ったけれど、まさかお弁当とは。さすが、白薔薇様だ。
「腹が減っては戦ができぬってね。」
「ありがとうございます!」
祐巳さんがお財布を出そうとすると、代わりに祥子さんが白薔薇様の手にお札をのせた。
「白薔薇様に奢っていただく理由ありませんもの。私も、祐巳も。」
「かたいなぁ。でも、ま、祐巳ちゃんにお姉さまらしいことをしたいみたいだから、ここは引くか。」
白薔薇様も空気を読んだのかそれ以上は絡まず、お釣りを渡すと私と志摩子さんのほうに戻ってきた。
「はい、二人にも。」
そう言って、お姉さまは私と志摩子にも紅薔薇の蕾姉妹にあげたものと同じ軽食を渡した。
「二人は奢られてくれるよね。」
「ごちそうさまです。志摩子さんのぶんまでありがとうございます。」
「白薔薇様、私までありがとうございます。」
「いいのよ。こうして三人揃うのもなかなかないからね。」
私達が会うのは薔薇の館が多い。それか何かの連絡で教室を訪ねるときぐらいだ。他の姉妹に比べると関係が薄いとよく言われる。三人並びの席をみつけて、白薔薇様、志摩子さん、千尋の順で座った。
サンドイッチの箱を開いて志摩子さんに差し出す。
「ほら、志摩子さんからとって。」
「お姉さまからどうぞ。」
「わかった。」
茶色いパンと白いパンの二種類が入っていたから、白いほうをとった。サンドイッチはミックスサンドだった。おそらく、これは大学の購買で買ったものだろう。いつ買いにいったのやら。白薔薇様は自分用のサンドイッチを食べている。
「美味しいですね。このサンドイッチ。」
「でしょ?私のお気に入りなんだよね。」
白薔薇様は自分が褒められたかのように得意げに笑った。
(始まって五時間か)
祐巳さんの話によると、由乃さんの手術は午前9時から始まっているらしい。
ことのあらましは祐巳さんから聞いている。儚げな印象とは違って豪胆な子だと思った。かわら版の誤植が全部だったと聞いて納得したけれど。
サンドイッチの箱を潰していると、もうリリアン女学園の予選が始まるところだった。対戦相手の月見ヶ丘高校は私立の共学で、歓声の中に野太い声も混じっていて面白い。
「令のやつ、気合入っているねー。」
「それはそうですよ。由乃さんも頑張っているんですから。ここで負けたら姉として立つ瀬がなくなるでしょう。」
まだ破局中だけど。
試合は今のところ、2対2.大将戦で勝敗が決まる。
面をつけた令さんが試合場に進み出た。
試合の流れは令さん優勢で進んでいった。離れていてもはっきり聞こえるほどバシバシ音が聞こえる。
「綺麗な小手。」
隣で志摩子さんが呟いた。千尋には早すぎて何が起きたのかさっぱりわからなかった。
「志摩子、剣道がわかるの?」
「やったことはありませんが。父の付き合いで。」
「ああ、納得。私にはわからないわ。」
聖様も千尋と同じで、剣道に疎いほうらしい。
令さんが勝利したことでリリアン女学園は次の強豪太仲との試合に進んだ。
「そういえば、太仲の大将って令より段位が上らしいよ。」
「え、令さんが二段だから三段ですか。」
「そう。だから、リリアンの一年の子たちには頑張ってもらわないとね。」
志摩子さんが補足してくれたのだけど、リリアン女学園が勝つためには三勝して大将戦に持ち込むのが理想らしい。休憩を挟まずに決勝戦が始まった。
「あちゃー。」
白薔薇様が顔を覆う。
試合は二勝一敗一分という結果で大将戦にはいった。
「ちなみに、ここで令さんが負けるとどうなるの?」
「本数が多い方が勝ちなので、もし令様が一本とられて負けたら代表者戦になります。」
「負けた相手にまたすぐ挑む形になるのか。」
それって精神的にかなりきついんじゃないだろうか。両手を握ってがんばれと念じるも、やっぱり一段の差は大きいのだろうか。つばぜり合いの後に相手の胴が決まった。
面をとって汗をぬぐうのもそこそこに、対象同士の代表者戦にはいる。
(あれ?)
千尋は令の素面をみて、目を瞬かせた。すでに一回負けているのに冷静にみえる。例えるなら青い炎。身体に気迫が漲っているのに遠目からでも気づいた。
千尋は親友の勇姿にみとれていた。
試合終了後に由乃さんのお父様が手術の結果を伝えにきた。目を真っ赤にして現れたときは心臓に悪かったけれど、結果は大成功。由乃さんの容体も安定しているらしい。
「よかったわ。」
そう言った黄薔薇様はとても穏やかな顔をされていた。
翌週の月曜日の昼休み。
薔薇の館では白薔薇さまがまるで喫茶店のサラリーマンのように珈琲を飲みながら、かわら版を読んでいた。
「由乃ちゃんも令も、かえって仲が良くなったみたいでよかった、よかった。」
「はい、他の姉妹たちも復縁したと聞いています。」
白薔薇様は満足そうに笑った。一面には大きく「姉妹復活」と書かれた見出し。
由乃さんが復帰したころは「黄薔薇革命」なんて話題はほとんど忘れ去られていた。
しかし、また由乃さんがやってくれたのだ。今度はなんと令さんをマリア像の前に呼び出して、「妹にしてください」と頭を下げたのだ。下級生が上級生をフッて、また申し込むなんて。ここまでくると「由乃さま」と呼びたくなる。
当然、皆、大騒ぎ。
でも、よかったこともあった。
蕾姉妹の破局に影響されてロザリオを返した下級生が、また元のお姉さまに復縁をお願いしにいくようになったそうだ。
「千尋もロザリオを返したくなった?」
白薔薇様が笑いながら千尋のタイのあたりを指さした。
「また、それですか?」
「だってクリスチャンではないからとつけてくれないのだもの。確認ぐらいさせてよ。」
これは白薔薇姉妹の周知の秘密。
千尋は聖さまからいただいたロザリオを首にかけていない。階段を登ってくる足音がないことを確認して自分の胸を指して言う。
「私の周りには何故か信仰心の厚い人が集まるみたいで。自然とロザリオを気軽につけずらくなったんですよ。」
「ふうん。」
聖さまにはクリスチャンではないからと言っているけれど、それだけが理由ではない。千尋にとってはロザリオをつけないことは、遠くへいった親友への義理だった。
「千尋は本当に真面目ね。」
白薔薇さまは笑うと「おかわり」と2杯目の珈琲を頼んだ
朝ごはんを一緒に食べる人って特別な人なんだと思う。家族なら当たり前の光景なのかもしれないけれど、学校の知り合いと朝ごはんを食べたことなんて修学旅行ぐらいしかない。
「なに、令ちゃん。私の顔になにかついてる?」
トーストを食べていた由乃が首をかしげる。
「マーマレードがついてる。」
「え、嘘。」
自分の口の端をトントンと叩くと、由乃はテーブルの端にあったティッシュとって、口元を拭いた。
令が由乃に会えたのは試合の三日後の夕方のことだった。
本当はすぐにでも会いに行きたかったけれど、我慢した。つらかったのは私だけではない。由乃だって戦っていたのだから。
「久しぶり。」
不思議な感覚だった。
時間で言えば、2週間ぶりぐらい。学校の長期休みよりも短い日数。どうして長く感じたのだろうと考えて、由乃と離れたことがあるのは学校の修学旅行ぐらいだったことに思い当たった。
「令ちゃん。試合はどうだった?」
「勝ったよ。」
ベットの上で体を起こした由乃は、今朝まで色んな管につながれていたとは思えないほど元気そうだった。
「さすが令ちゃんね。」
由乃は満面の笑みを浮かべて喜んでくれた。
「令ちゃん?」
伝えたいことは色々あった。聞きたいことだってたくさんある。けれど、由乃が生きて私に笑いかけている。それだけで胸がいっぱいになって何も言えなくて、私はただ黙って由乃を見つめていた。
「どうして泣いているの?」
「え?」
驚いて頬に手をあてると、自分でも気づかないうちに涙を流していた。
「ごめんね。私はいつも令ちゃんのことを振り回してばかりね。」
神妙な顔をして、由乃は語った。
「私ね。令ちゃんの隣を歩きたかったの。一方的に守られるのではなくて、自分の足で、肩を並べて歩きたかったの。」
初めて聞く由乃の本心。
べったりとくっついていたころは、こんなに冷静な気持で聴くことはできなかっただろう。近すぎて、正面から受け止めることなんて厳しかったかもしれない。
「由乃。」
昔から変わらない長い髪にそっと触れる。
「ロザリオを返されたときは、由乃に嫌われたからかと思っていた。」
「そんなことないわ。私は今でも令ちゃんが好きよ。」
私の手に由乃の手が重なる。
「信じて。」
「うん。信じてる。」
この世界の誰よりも、神様よりも、由乃ことを愛している。だから、由乃のことなら信じられる。
「ねえ、ジャムとれた?」
目の前で由乃が顔を突き出すように問いかける。
「うん。とれたよ。」
お互いの母たちのように、ずっとこの先も一緒にいると思っていた。漠然と、幼い時の思い込みそのままに。でも、今は違う。
例え離れても、由乃は由乃。令は令。
いつか来る別れをこわがらなくてもいいと思えるようになった。三つ子の魂百までというように、変わらないものはある。